2023年5月5日金曜日

戦没者の墓と平和憲法

うちの集落墓地に、院号のついた戒名の墓石がまとまっている場所がある。

院号とは、例えば「明浄院釈栄徳」の「明浄院」の部分にあたり、戒名を立派にする機能を持つものである。

この集落墓地は、昭和40年代(だったと思う)に墓地整理を行い、いくつかを残して墓は納骨堂にまとめた。だから墓石自体がわずかしか残っていないのだが、残っている墓石のほとんどが、院号を持った墓なのだ。

パッと見ただけなら、このお墓は院号だからこそ残ったと思うだろう。

なにしろ、戒名に院号を付けられるのはごくわずかの人だけだ。宗派・寺院により違いはあるが、院号をつけるには今でも100万円くらいかかるらしい。また、お寺の役(総代など)をこなすとか、生前に積極的な寄付をするといった、いわゆる「大檀那」と呼ばれるような人しか院号をつけてもらえなかった時代もある。

江戸時代までさかのぼると、これに身分が関係し、院号がついているのはほぼ高位な武士に限られる。

現代では「戒名なんていりません」という人も多いが、かつては相当のステータスを持ち、憧れられていたのが院号なのだ。

では、ここに残された院号の墓は、この土地の名士、大檀那たちだったのだろうか?

実は、それが全然違うのである。なんと、この院号墓は、全員が従軍し戦死した人のものなのだ。

墓石の横には、「海軍伍長 〇〇で戦死」などと彫ってある。階級は、はっきり言って高くなく、例外的に尉官が一人いるものの、ほとんどは下っ端である。つまりこの人たちが院号をもらっているのは、お金でも生前の地位でもなく、軍隊で戦死したことへの褒章なのである。

このあたりの地域は、戦前は浄土真宗しかなかったので、これらの戒名は全て浄土真宗本願寺派(西本願寺)のものである。西本願寺は戦争に積極的に協力していた。西本願寺は海外布教の思惑もあって戦争は信仰と矛盾しないと位置づけ、門徒を戦地に送り出した。本来は戦いを戒めるべき宗教者が、戦争での殺人は罪にならない、というようなことを言うなんておかしな時代だった。

それでも、西本願寺が従軍し戦死した人に全員院号を与えていたという話は聞かない。もしかしたら、この院号は鹿児島独特のものかもしれない。あるいは、大浦のお寺(西福寺)が独自につけていた可能性もゼロではない。

それに、「従軍し戦死した人の魂は靖国神社で神になる」というのが、当時の日本政府の公式見解だった。さらには遺骨もない場合が多かった。その意味では郷里につくられる墓石やそこに刻まれる戒名は、気持ちの上だけのもので実態を伴ったものではなかったから、西本願寺としてどのように扱ったのかわからない。

しかし一方で、そのようなことを行ったのが全国でここだけだった、というのもありそうにないことだ。何しろここは保守的な田舎である。独断で院号を与えるような大それた真似ができたとも思えない。全国でやったかどうかはともかく、それなりに先行事例があったと考えるのが妥当だろう。

少なくともこの院号墓は、宗教すらも国家の片棒を担ぎ、お国のために死ぬことが名誉であるとした、間違った時代の名残であるのは間違いない。

最近、自民党は憲法改正しようと前のめりになっている。すでに戦争放棄の憲法解釈は変更され、実質的に9条は形無しになってしまった。

私は今の憲法を絶対に変えていけないとは思わない。時代の変化に合わせて変えていってもいいと思う。しかし今の自民党にはこれを変えて欲しくない。あからさまに政府の権限を強化し、個人の自由を制限する方向で改正案をつくり、また様々な問題で政治不信を招いている今の政府には、憲法を変えてほしくないのである。

平和憲法なんて「お花畑」だ、と考えている人は多い。だが、今の日本国憲法を作った人たちは、少なくとも戦争の惨禍を見てきた人たちだった。戦没者の墓も、今よりもずっと身近なものだった。それは、靖国神社に眠る「英霊」のような抽象的なものではなく、墓地に建てられた一つひとつのお墓だった。

私はこれらの院号墓は、歴とした「戦争遺産」であると思う。墓地整理した際に、これをあえて残した人たちは見識があった。しかし多くの地域で、戦没者の墓も整理されている現状がある。その多くが無縁仏となり、管理する人がいなくなったからである。

このまま平和憲法も、戦没者の墓のように片付けられてしまうのだろうか。私はそうならないことを祈る。終戦記念日には、靖国神社ではなく、地域の戦没者の墓地に行ってみてほしい。それがきっと、平和憲法を作った人たちが見ていた風景なのだ。

8 件のコメント:

  1. 私の大叔父もそうですが、戦没者への院号授与は珍しくないとい思います。こちらは神道で祀る為の墓?というより奥津院に近いのかな。だから納骨堂にまとめられなかったのかも。
    いずれにせよ、平和への誓い新たにする場所ですね。

    返信削除
    返信
    1. 奥津院ではなく奥津城ですね。失礼しました。

      削除
    2. コメントありがとうございます。やはり院号授与してるんですね。それにしても、戒名は仏教的なものなので、「靖国で神になる」と相いれないような気がするんですよね。西本願寺でどのように整理されていたんでしょうね。

      削除
    3. 昭和12年に各宗派から軍人院号に関する通達が出されているので、政府から何かしらの指示があったのでしょうね。
      特に浄土真宗は昭和15年に不拝読と言われる通達も出していますので、奥津城に院号で国家神道に沿った物にしたのではないでしょうか?

      削除
    4. ご教示ありがとうございます。詳しいですねー! 軍人院号に関する通達なんて知りませんでした。

      削除
  2. 私は憲法記念日に生まれています。時折、憲法を読みます。前文は、何回読んでもいい。何百万人の死者と焦土と化した街に、目の当たりにした先人の真心と智慧、懺悔を感じます、

    返信削除
    返信
    1. コメントありがとうございます。前文は本当に素晴らしい理想が謳い上げられていますよね。しかもその理想は、単なる理想ではなくて、戦争の惨禍という深刻な現実を前につくったものですからね。(※なぜかログインができないので匿名でコメントしていますがブログ主です)

      削除
  3. X(旧Twitter)から⇒こちらのblogへ飛んできました
    興味深い記事をありがとうございます
    お墓の院号の説明も深く納得しました
    "象徴として英霊が眠る靖国神社"に、日本を建て直す誓いをする女性ジャーナリストの動画を先日みた際。。
    今の日本人の不安や焦燥感と愛国心を揺さぶることで、改憲をうながしたい思惑が働いてる?そう感じた私の心が、汚れてるのかと思いました

    返信削除