ここ南さつま市大浦町は、いわゆる「限界集落」を擁する寒村である。合併で南さつま市になる前の平成17年の国勢調査では、65歳以上の人口割合=高齢化率は、2400以上(当時)ある市区町村の中で、なんと35位の46.4%。
そんなところに家族3人で移住してきたので、歓迎されるかと内心期待していたら、実際はそうでもなかった。もちろん、喜んでくれる人もたくさんいたけれど、それよりも「なんでこんな所に来たんだ?」「都会にいた方がいいのに…」「馬鹿なことをしたな」というネガティブな反応が非常に多かった。
その理由は、「農業は大変で儲からない」とか「仕事がない」とかいうことなのだが、事実この地域から都会に出て働く人間は非常に多い。お年寄りにお子さんはどうしてますかと聞くと、「大阪にいる」「全員東京だ」といった大都市圏へ出ているケースがほとんどだ。
残念なことだが、田舎の生産性は多くの人を養うほど高くなく、農業はゼロサムゲーム(限られた資源の奪い合い)の側面があるために、余剰人口は他地域に出て行くほかないのである。
これは藩政時代でも同じだった。南薩は山がちで平野が少なく、台風被害も大きいことで土地の生産性が低い。また地形的にどん詰まりにあり逃散(逃亡)もできなかったため、食い扶持にありつけない困窮者で溢れていた。そのため時の政権(島津家)は、新田の開発や困窮者救済の名目で、余剰人口の強制移住政策を実施する。
この強制移住を「人配(にんぱい)」「人配り」「人移し」などという。17世紀中頃から始まり、明治直前まで続いた。移住先は、逃散の多発で荒蕪地化した北薩、薩摩半島に比べ人が少なかった大隅、新田開発の必要性があった宮崎県南部だった。 どのくらいの人が強制移住させられたのか定かではないが、これらの地域には南薩由来の地名や集落が残っているところを見ると、数千人規模の人口移動があったのではないかと思われる。
そして明治維新を迎えても、余剰人口問題は解決しなかった。そもそも地域産業の根幹が農業である以上、土地を相続できない農家の次男三男は他地域に出て行くほかない。こうして国内の産業が未熟な中、働き口がたくさんあった海外への移住が始まるのである。
まず、明治から昭和初期にかけてはハワイを経由した米国への出稼ぎ。そして、昭和初期から戦前まではブラジル、そして戦後はカリフォルニアを中心とした米国へと移民の目的地は変わっていく。ブラジルやカリフォルニアへは出稼ぎというよりは永住目的が中心で、これらの地域では鹿児島県人の存在感は際立っていた。鹿児島から7000人以上が移民したブラジルでは最初の県人会を設立しているし、戦後米国への移民の3分の1が鹿児島県出身だったのである。帰る場所のない鹿児島の農家の次男三男は、新天地での農業に賭けたのだった。
そして、その移民の多くが南薩出身だった。鹿児島ブラジル移民の約40%が川辺郡(枕崎、坊津、加世田、知覧)と揖宿郡(頴娃)からだったし、 鹿児島カリフォルニア移民の出身は頴娃と知覧に集中している。こうした移民は政府や県によって奨励され、半ば騙されるような形で移民させられた人も多いと聞く。人配は戦後まで続いたのである。
高度経済成長期には国内産業が成熟し海外移住はほとんどなくなり、国内の大都市圏への移住や出稼ぎがメインになる。人配はなくなったが、南薩から人が流出していく構造は藩政時代から変わらない。もちろん現代において都会へ出て行く若者は、かつての人配のような悲壮感もなく、移民のような辛苦を味わうこともないだろう。閉鎖的な田舎を厭って出て行く人も多いと思われる。しかし、生まれ育った土地を離れざるを得ない地域というのは寂しいものである。
それを考えると、よそ者がこうして移住してくることにあまり好意的でないのは当然だ。とはいえ、人口が流出してばかりでは地域の活力が失われるし、よそ者の目を通して見ることによる地域の価値や魅力の再発見もあるのではないかと思う。改めて田舎の価値が見直されている現代、都市から田舎への流れが各地で出来つつある。微力ながら、そういう流れの一筋になるべく、地域の方に認められるように、そして地域発展にも役立てるように頑張りたい。
【参考文献】
『移民研究と史料 ─ 鹿児島県の場合 ─』2010年、原口邦紘
『鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民: 米国カリフォルニアへの渡航者を中心に』1985年、川崎澄雄
『平成17年国勢調査 都道府県・市区町村別統計表』2005年、総務省
とても魅力的な記事でした!!
返信削除また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
このコメントは投稿者によって削除されました。
削除送付状さま
削除わざわざコメントありがとうございました。
これからもときどきご覧いただければ幸いです!
※さっきハンドルネームが間違っていました。すみません。