2019年7月26日金曜日

「プレゼン」への杞憂

最近、「プレゼン」が表現方法として浸透してきた。

ここでいう「プレゼン」とは、多くの場合プロジェクタでスライドを使いながら聴衆に向かって話す、あれである。元々の「プレゼンテーション」はもっと広い概念で、「人に主張を理解してもらうための弁論」というくらいのものだと思うが、とりあえずここでは狭い意味で使う。

プレゼン的なものはずっと前から重要だったが、最近PCスキルが普遍化してきたことやプロジェクタがかなり普及したことで、スライドを使うプレゼンが一般化し、また上手なプレゼンが多くなってきた。

もちろんこれはいいことだ。スライドを見ながら説明すれば複雑なことでもわかりやすく伝えられるし、いろんな情報を盛り込める。弁舌だけで人を熱中させるのは難しいが、写真や図や動画を一緒に使えば話はずっと生き生きする。 私は前から選挙演説を「プレゼン化」して欲しいと思っていて、あれこそプロジェクタを使って図やグラフを用いてやるべきだと思う。

ちょっと前(といってももう数年も前か)、サンデル先生の政治哲学の授業が流行ったことがあったが、あれもプレゼン的な授業だった。サンデル先生はそれほどスライドを使わなかったけれど、黒板ではなくてスライドをメインにして授業をするというのが大学の講義として新しかったと思う(あくまでも当時の日本の常識から見て)。その後TEDが世界中の優れた人たちのとびきりのプレゼンを配信するようになり、日本でもどんどんプレゼンの技術は高まっていった。

プレゼンには、人にうまく考えを伝えるためのノウハウがいっぱいあって、素晴らしいプレゼンは人を昂揚させ、楽しませ、感動させ、インスピレーションを与える。そういうプレゼンが出来る人は、ビジネスでも社会活動でも重宝される。私もプレゼンがもっとうまくなりたいと常々思っている。

が…、何かこの、「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」とでも言わんばかりの雰囲気には違和感がある。

いや、上手なプレゼンはいいものだと思っている。問題は、それを聞く聴衆の姿勢の方である。

というのは、うまい話をするよりも、人の話を聞く方がずっと大事なことだと私は思っているからだ。そして、本当に大事なことは、ほとんどの場合、端正なプレゼンによって表明されるのではなく、遠慮がちに、ささやくような声で、むしろ呻きに似た形でしか表に出されないという現実があるからだ。いや、それどころか、人々の心の中にある一番大事な主張は、ずっと胸の奥にしまったままで、一生に一度も外に出されることはない、ということだってよくあることなのである。

そんな馬鹿な! と人は言うかもしれない。「言わなきゃわかんないだろ!」と。黙っていたら誰にも相手されないのだから。しかしそういう人達は、まさにそれが一番大事な主張だからこそ、それが非難され、黙殺され、蹂躙され、なかったことにされるのが怖ろしくて、黙っていたのである。

例えば、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」といったような主張がそれだ。これまで人間並みに扱われなかった多くの人々——奴隷、女性、被差別階級といったような——は、そういうたった一つの重要な主張を、一生なしえないでいた。

それは過去の話ではある。でもこれは、現代でもそっくりそのまま当てはまるのだ。確かに奴隷はおおっぴらには存在しない。男女平等の世の中になった。少なくとも名目上は差別は撤廃された。それはそうである。しかし最も儲かる商売が「人を搾取すること」である以上、人を人間以下に貶めることで成り立つ社会構造は温存されているのである。

また、個人の内面の話だって、大事なことほど打ち明けられないのは誰しも経験があることだろう。誰にも理解してもらえない悩みや苦しみを抱えながら、表面的にはにこやかに、幸せそうに暮らしている人を私は何人も知っている。本当は、誰かに分かって欲しいと心の底で願いながら。

そういう人達の一番大事な主張は 、これからも端正なプレゼンで表明されることはないだろう。もちろん例外はあった。キング牧師の「私には夢がある」の演説はそのひとつだ。だがキング牧師の前に、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」と主張して撲殺された人達がたくさんいたことを忘れてはならない。その死屍累々があったから、キング牧師が演説できたのである。人として当然の主張を行うにも「名演説」を必要としたのだ、ということは心に留めておかなくてはならない。

話がプレゼンから逸れたようだが、私には何か、プレゼンみたいにわかりやすい、人を魅了する、面白くてためになる、そんな話に慣れてしまうと、人間にとって本当に必要な、虐げられた人々の幽かな声を聞くための力、言葉を奪われた人々の言葉にならない声を聞く力が失われてしまうような、そんな気がして怖ろしいのである。

それは私の杞憂かもしれない。プレゼンは多くの社会的課題に目を向けさせ、貧困や環境問題の克服のためのアイデアを広めている。志も能力も高い人たちが、そのアイデアを世の中に広めるために、今日も聴衆を前に心を摑むプレゼンを行っている。プレゼンは目を背けたい現実を直視させるための手法にもなっている。

もちろん素晴らしいプレゼンを聞いても、その場で「へー!」と思うだけで何も変わらない人もいるだろう。でも聞かないよりはマシである。素晴らしいプレゼンのお陰で、世界は少しずつ良くなっていくと私は信じたい。

でも「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」と考えて、なんであれ主張を行うには多くの人の共感を得られるようにスマートにまとめなくてはならない、という風潮になっていくとしたら問題だ。今はまだ、そこまではないとしても。

私たちは、時にはたどたどしい主張にも耳を傾けるべきである。いや、そういうものこそ、意識して聞かなくてはならない。まさか「プレゼンがヘタだ」ということで、主張そのものに聞く価値がないと判断するような社会にしてはいけないと思う。