2012年9月29日土曜日

地方と首都圏の図書館格差

ある稀少な本をどうしても参照したくなって、国立国会図書館の本を取り寄せた。

あまり知られていないが、図書館間には「相互貸借」という制度があって、図書館同士で本を貸し借りすることができる。この制度を使うと、地元の小さな図書館を窓口にして、(理論的には)全国の図書館の本を借りられるのである。

というわけで、地元の大浦図書館で「国会図書館の本を借りたいんですが…」と気軽に申し込んだら、これがなかなか大変な事態を招いた。国会図書館の本の取り寄せは南さつま市で初めてのことらしく、まず国会図書館から相互貸借の承認を得るところからスタートしなくてはならない。

国会図書館の本は基本的に個人が持ち出すことは出来ないので、館内での閲覧になるのだが、そのためには館内の環境が整備されている必要がある。具体的には、専任職員の監視の目が行き届いていることや、施設設備が要件に合致していることなどが求められる。図書館の方は、それらの要件を満たしていることを証明するため、図書館の図面まで国会図書館に提出したらしい。大変なご迷惑をかけたと思う。

結果として、加世田の中央図書館が相互貸借の承認を受け、私はめでたく資料を閲覧することができた(大浦図書館は常時監視の専任職員がいないのでダメだった)。申し込んでから約3ヶ月もかかったのには正直辟易した部分もあったが、市役所の方々の努力には本当に感謝したい。

ところで、鹿児島の図書館は蔵書、管理、サービス全ての面で貧弱だ。そもそも国会図書館所蔵の本を求めたのも、鹿児島の図書館にあまりに本がないので仕方なくしたことだ。首都圏の図書館が充実しすぎているということもあるかもしれないが、地方と首都圏との図書館格差は非常に大きい。どれくらいの格差があるかというと、鹿児島県立図書館は、首都圏における小さめの区立図書館くらいの規模しかないのである。これは、移住してきて受けた(数少ない)カルチャーショックの一つだ。

田舎の人は都会の人に比べて本を読まないということはあるので、ある程度の格差はしょうがない。都会では長い電車通勤の暇つぶしのために本が消費されている面があるが、車社会の田舎では意識して時間を作らないと読書ができないから本はどうしても縁遠い存在になる。それに、あまり図書館を充実させてしまうと、ただでさえ経営が苦しい地方の零細書店を圧迫する可能性もあるのだろう。そして、いい意味でも悪い意味でも悠久の時間が流れる農村では、本からの知識は役に立たないことも多い。

しかし、やはり本は重要な情報源だと思うし、図書館で読む本とお金を出して買う本は性質が異なると思うので、田舎であっても図書館は充実させるべきだと思う。都市と地方の情報格差を図書館が拡大しているようでは仕方ない。情報の少ない田舎だからこそ、図書館を充実させて新しい情報をどんどん取り入れるべきだ。これには、予算も比較的かからない。

蛇足だが、鹿児島で一番大きな図書館である鹿児島大学の図書館からも、先日ある本を取り寄せた。これも南さつま市で初めてのことだったらしいが、鹿児島大学から郵送料をなんと960円も取られた。郵送料が必要とは事前に聞いていたが、せいぜい300円くらいのものかと思っていた。鹿児島大学図書館は、第一義的には学生のためのものとはいえ、鹿児島県民の最後の砦となる図書館なのだから、もう少し利用しやすくなってもらいたいと思う。

2012年9月26日水曜日

島津家と修験道——大浦の宇留島家

宇留島家の看経所
我が家から歩いて2分もしないところに、(今は空き屋だが)宇留島(うるしま)家という家があり、そこは久志地権現と言われ、看経所(かんきんじょ)が残っている。

この宇留島家というのは、この大浦の地で代々島津家に仕えた修験者(山伏)の家であった。鹿児島はかつて修験道が盛んであり、特に南薩は金峰山を中心に修験の文化が色濃かったと考えられる。

鹿児島で修験道が盛んだった理由の一つに、藩主である島津家が山伏を重く用いたことがある。戦国期の島津家では政策や軍事の戦略を立てるのにクジ(御鬮)を使っていたが、クジを引くのは偶然に任せるのではなく神慮を得るためであり、宗教的な力が必要だった。そこでクジを引いたのが、その作法を心得ていた山伏だった。

戦の進退をクジで決めるというと、現代的観点からは非合理的に見えるが、私はそうでもないと思う。最適な戦略・戦術は事後的にしかわからないし、戦において冷静な判断は元より難しい。ましてや撤退の決定は非常に困難だ。また異論の出やすい戦場において、神慮の判断ならば反対派も黙らざるを得ない。そう考えると、重要な判断をクジに任すというのは、一見迷信的に見えて実は理に適っているのかもしれない。

しかも、山伏を軍事に活用するというのには実利もあっただろう。というのも、修験者は山林を跋渉して各国を渡っていたので、他国の事情にも詳しく人脈もあり、いわば一種のスパイとして活躍していたらしい。戦国期の関所とは国境であって、普通の人は自由に往来できなかったが、山伏はこれを自由に通行できた。『勧進帳』で源義経が山伏に偽装するのも、山伏は関所を通行できるという特権があったからである。しかも山伏は山中の行者道によって人知れず他国に移動することが可能で、密書一つ届けるにしても圧倒的に有利だ。

島津家が山伏を家老や老中として迎えたのは、戦勝祈願の霊験を得るためということ以上に、そういう山伏の持つネットワークを活用するためだったのではないかという気がする。宇留島家も土着の人間ではなく、千葉から南薩まで下向してきたらしい。

宇留島家は特に島津忠良(日新斎)の頃に重く用いられたが、それもある戦を契機としてのように思われる。忠良が1538年に加世田の別府城を攻めた際、宇留島十代東福坊重綱は山中で「三洛の秘法」とよばれる祈祷を行い、また忠良自身も久志地権現に籠もって戦勝を祈願した。その甲斐あってか別府城は落城。この戦いで加世田は島津家の支配に入り、同時にここ大浦も島津家の領地に組み込まれたようだ。この祈願の功により、東福坊は久志地権現、磯間権現等の別当職に任じられるとともに神田八町と宝物を下賜されている。

戦国期が終わり江戸時代に入ると、戦がなくなり島津家と修験者との関わりは希薄になっていく。宇留島家も島津家のために祈祷することはなくなるが、戦国期に得た八町(8ha)という広大な水田を経済力の源泉として、大浦でも有数の郷士となった。そして宇留島家は山伏として修行を続け、田畑の除虫祈祷や伊勢講の指導などを行い、庶民のための山伏としての性格を強めていった。

今ではこの地域に修験道の残映は感じることができないが、戦国から江戸期にかけて、修験道文化が色濃かったことは間違いない。修験の山である磯間嶽に向かい、かつて山伏が百姓を指導していたのかと思うと興味深い。

そういえば先日地域の古老から面白い話を聞いた。電話もなかった数十年前、うちの集落では地域の人への伝達事項がある時、合図として区長さん(集落のとりまとめ役)が法螺貝を吹いて知らせたのだそうだ。 これは、山伏がこの地域をまとめていたことの名残なのかもしれない。というのも、東福坊が下賜された神田八町の一部は、うちの集落の水田のようなのである。

【参考文献】
『さつま山伏 —山と湖の民俗と歴史—』 1996年、森田清美
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2012年9月15日土曜日

西欧近代農学小史

化学肥料も農薬も、トラクターもなかった頃の農業はどんなだっただろう? そして、現代農学の原型となっている西欧近代農学の成立はどんなだったのだろう? という興味から、『西欧古典農学の研究』(岩片 磯雄 著)という本を読んだ(※1)。

その内容はかなりマニアックだが、他では得られない情報をたくさん含んでいたので、備忘も兼ねて、ポイントをまとめてみたい。

さて、本書の対象となるのは18世紀初めから19世紀半ばのイギリスとドイツの農学であるが、その頃の農業先進国はなんといってもオランダであった。オランダでは既に低地の干拓を大規模に行っており、当時の新作物であったクローバーを導入した集約的な農業が行われていた。しかし海運の商業的成功による富のおかげで穀物は輸入に頼っており、農業がより集約性の高い畜産(チーズ作りなど)にシフトしていく趨勢もあった。そうした中で新興の農業国として勇躍するのがイギリスである。

イギリスの農民的地主であったジェスロ・タル(Jethro Tull)は、病気の治療のため訪れたヨーロッパ大陸において先進的農業を見、その経験に基づいて一連の農機を発明するとともに、イギリスで農業の新体系を構築した。タルの新農法の普及によってイギリスは農業生産性の飛躍的向上、つまり「農業革命」を成し遂げ、それによる人口増は産業革命の一因となったともいう。タルはしばしば「農業の発展に最も大きな影響を与えた人物」「近代農業の父」と言われる。

タルの新農法のポイントは、作付体系から休閑をなくしたことと、条播中耕、そしてそのための機械化である。

その頃のヨーロッパでは中世以来の三圃制が行われていた。三圃制とは、圃場を3つに分け冬穀物−夏穀物−休閑のローテーションで耕作を行う体系であるが、これだと耕地の1/3は耕作をしないということで効率が悪い。そこで、この休閑をなくせないか? というのが西欧農学の発展の一つの軸になっていく。

では休閑をなぜ行うのだろうか? 歴史の教科書などには、「休耕地に放牧することで家畜の糞尿が肥料となり土地の力を回復させる」などと書いているが、これは正確ではない。元々の休閑とは、地力の回復ももちろんだが、同時に除草のためのものであった。当然除草剤などない時代なので、雑草は凄いことになっていたと思われる。しかも、当時は条播ではなく、散播(つまり畑に種をばらまく)であったため、人力による除草もしていなかったらしい。

となると、数年耕作すると雑草だらけになってしまいほとんど何も収穫できなくなってしまう。これを防ぐのが休閑の重要な目的なのだった。では休閑によってどのように除草するかというと、まず畑を放っておく。すると土中にある雑草の種が発芽し、やがて雑草が繁茂する。そこで乾燥した日などに草を刈ったり、棃耕(馬に棃を引かせて耕す)したりすると、雑草が枯れる。だが土中にはまだ発芽していない雑草の種があるので、また畑を放置し、雑草を敢えて生やしてから絶やし、棃耕する。これを何度か繰り返すとだんだん土中に含まれる雑草の種は減っていくわけだ。少なくとも4回、理想的には7回ほどこうしたことを繰り返すことで、雑草の種が含まれない清浄な畑になるらしいが、こうして穀作に備えたのが本来の休閑である。

つまり、本来の休閑とは何もしないのではなく、数次にわたる棃耕が必要な重労働なのだった。これをなんとかなくせないかと考えるのは当然だ。しかも、やがて人口増等によって家畜飼料等が足りなくなり、休閑地への放牧等が始まっていく。そうなると、当然棃耕も十分に行われなくなり、雑草の種が完全に排除されなくなる。この変容した休閑では本来の目的が達成できないので、その意味でも三圃制の変革が求められていたのだった。

これへのタルの解決策は、条播と中耕である。条播とは、線状に一定間隔で種を播くことで、中耕とは種を播いてからその周りを耕すことである。中世以来の散播を辞め、条播にしたことで播種後も圃場に入れるようにして中耕することで除草し、また(タルの理屈では)土を耕すことで地力を回復させた。またタルは休閑をなくすだけでなく、カブなどの根菜類やクローバーなどを導入し、冬穀物−カブ−夏穀物−クローバーというような休閑のない輪栽農法を確立させた。さらにこの農法のための畜力条播機中耕機を発明し、農業全体を新しいものにつくりあげた。

またこの際、タルは植物の生理、栄養、土壌などの理論を反省して、いろいろな実験や観察を行い、総合的理論の上にこの農法を確立したのだが、それは「近代農学の父」と呼ぶにふさわしい。何より、数百年間無批判に行われてきた在来農法である三圃制を打ち破ったことは、タルの不朽の功績と言える。

タルはこれらを『新農法論』としてまとめ公刊するが、所詮は農民である彼の発案はそのままでは世の中に広まらなかった。その流布のきっかけとなったのがアーサー・ヤング(Arthur Young)による紹介である。ヤングはいわゆるジャーナリストだったが、農園を買って農業もやっていた。だが彼自身は農業では成功せず、3度も農園を変えて破産状態だったという。しかし農業に関する著作が売れたことで農学史に名を残すことになる。

彼はタルの農法を無批判に紹介したわけではなく、例えば条播や中耕の意義は認めなかったし、さらに一連の機械化に関しても批判的だった。ヤングとしては、昔ながらの散播なら種まき後は農民は何もやることがなく暇なのに、条播・中耕作業は大変だということ、さらに複雑な機械である条播機、中耕機の維持管理は無学な農民には不可能だ、というような考えだったようだ。にもかかわらず、ヤングは大規模経営の優越を説いているなど矛盾した部分があり、彼の言説は個人的にはあまり賛同できない部分が多いが、タルを始めとしたイギリス農民の叡智を体系化し、ヨーロッパ大陸に紹介・導入の契機となった功績は大きい。

そのヤングの著作を通して学び、近代的農業を確立したのがドイツのアルブレヒト・テーア(Albrecht Thaer)だ。医者だったテーアはイギリスの新農法に学び、それを科学的観点から批判検証し、単なる農法のみならず、いかにして農業経営において最高の収益を生み出せるかを考察した。その結果まとめられたのが大著『合理的農業の原理』(全4巻(※2))だ。

特にテーアの業績として重要なのが地力の源泉を土中の有機物に求めたことで、実はこれがタルとの決定的違いになる。タルは地力は耕すことによって増すと考え、休閑・放牧によって家畜糞尿を投入しなくても中耕によって地力は維持しうると考えたのだが、テーアは畑に有機物を投入することが重要であると説いた。これは、後にリービッヒにより窒素・リン酸・カリの肥料の3要素説で一応否定されることになるが、むしろ現代に至って有機物の重要性が再認識されており、ここに近代的な土壌学が開始されたと言える。

これ以外にも、テーアは近代農業を成立させるための様々な前提について考察した。例えば、土地の私有権、賦役労働の禁止、生産物販売の流通、農業経営のための固定資本と流動資本、農業経営への簿記の導入などだ。テーアの考察は非常に現代的であり、約200年前の著作であるにもかかわらず、現代においてもその意義は色褪せていない。「農業と工業の間には本質的に区別されるべきなんらの相違もない」といった彼の言葉は色褪せないどころか、現代においても十分に過激である。またテーアはプロシアの農政改革に参与し、ドイツの農業を封建的農業から資本主義的農業への転換を成し遂げた立役者でもある。

なお、これまで触れていなかったが、タルから続く西欧の農業の革命の背景には、地主−小作人という封建的関係の解消と近代資本主義の成立がある。ちょうどタルの頃、封建領主による閉鎖的かつ分散的な農業社会が解体し、囲い込みなどによって農地が集約化され、共同地が解消されて私有地に分割されるといった社会の激変があった。また、次第に土地所有と経営の分離が起こり、農業の目的が地代収入ではなく、収益の最大化へと変化していく。それに伴って、かつての農書は地主が小作人管理のために読むものだったが、次第に耕作者本人が読むものへと変化していく。地主に隷属した小作人から、独立した農業経営者が出現、同時に封建的地主からは資本家が出現するのである。それが、タルから続く農学の発展の原動力ともなっている。

最後に、テーアに対する論理的批判者として現れるのがヨハン・ハインリヒ・チューネン(Johann Heinrich von Thünen)である。彼は経済学者・地理学者であったが、自ら農園を経営し、詳細な経営記録をつけた結果、テーアの理論と相違が出てくる部分があったのでそれを理論化するとともに経済学的分析を行い、『孤立国』という本にまとめて公刊した。その批判点や主張はあまりに学問的なのでここでは触れないが、これにより農業が経済学に組み込まれて分析されることになった功績は大きい。

化学肥料・農薬の登場前夜であるこの時代の農学史を通して思うのは、これらの農業改革において病害虫の被害への対応の観点がほぼ全くと言っていいほどないことだ。アイルランドのジャガイモ飢饉は1845年からで彼らの活躍した時代より少しだけ後になるが、それまでも作物の大規模な病害虫被害はあったのだと思う。ただ、それに対処する方法がなかったから彼らは考察のしようがなかったのかもしれない。

20世紀に入って、化学肥料と農薬の開発、そしてトラクター等の燃料機械の開発で農業は抜本的に変わっていく。それまでは病害虫の忌避は基本的に輪作体系によって行われていたらしいが、土壌燻蒸剤の開発によって連作が可能になり、肥料の大量投入と除草剤の使用によって休閑も必要なくなった。しかし、農学の基礎は19世紀に確立しており、それを学ぶことは現代的な意義もある。別に取り立てて化学肥料や農薬を敵視するわけではないが、それ以前の農業の基本がこの時代の農学にはあるように思う。

こうなってくると俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。だが一書一書を読むような好事家ではないので、何かいい参考資料を探したいと思っている。


※1 Amazonで検索すると古本で1万円以上する高価な本。近所の図書館の廃棄処分に出ていたのをタダでもらってきた。
※2 日本語版だと3冊になっているが、原著は4巻本。

2012年9月14日金曜日

農業の技術と知識をどのように身につけるか

先日の研修旅行で、ある農家から言われた言葉が引っかかっている。

「引退するまで、あと何回植え付けて収穫ができるか考えないといけないよ。30年あっても30回しかできないんだから。」それは、向上の機会は限られているという意味なんだろうと思う。 だから、1年1年の作付けをしっかりしろというメッセージだと受け取った。

ただ、それは他の仕事でも同じことだ。例えば「概算要求」は役人の(役所的に)最も重要な仕事の一つで年に1回限りだ(補正予算は除く)。しかし「役人人生であと何回概算要求できるか考えないといけない」なんて言葉はついぞ聞いたことがない。どうしてだろう? その答えは簡単で、長い役所の歴史を通じて「概算要求のやり方」が確立しているからである(それがいいか悪いかは別として。というか多分悪いやり方が確立しているのだが)。

では、なぜ農業では1年1年の作付けを向上の機会として、工夫しなくてはならないのか。別の言葉で言えば、なぜ農業には常道が確立していないのか? 数千年続いている事業なのにもかかわらず、その知識と技術はどうして普遍化しないのだろう? 地域ごとに気候が様々だから、水利や土地利用は地域ごとに違うから、毎年新しい機械や肥料や農薬が出て日進月歩だから。そういう理由は当然あると思う。

しかし最も大きな理由は、 農業が家系的に担われていたからではなかろうか。技術の継承がほとんど家系的にしか行われず、せいぜい地域内での共有に基づいているため、技術と知識は体系化・普遍化しづらく、またその必要もなかったのだろう。

だが時代は変わり、農業の担い手の確保が問題になっている。新規就農にあたってのハードルはたくさんあるが、農業の技術と知識をどのように身につけるかもその一つだ。私は他分野については本から学ぶことが多いが、農業のハウツー本にはほとんどまともな説明がない。まず、どのような道具を揃えるのかという記載がないことが多く、「○月に播種する」「○月に中耕する」といったことが羅列されるだけで、その作業をどのように行うのかに言及されていないこともよくある。つまりは、実践的ではない。同じ播種でもやり方次第でいろいろな結果になると思うのだが。

だが一番の問題は、それが基本的なやり方を教えるだけで、応用は読者に委ねられていることだ。気候や条件は様々なので、農業は基本的に全てが応用だが、そのノウハウは本には書いておらず、経験者の頭の中にしかないのである。

これは何も新規就農の時だけの話ではなく、新しい農機、種苗、農薬の導入などにあたっては各農家が頭を悩まされているところだと思う。

そこでふと思ったのだが、「Yahoo! 知恵袋」とか「OKWave」のようなQ&Aサイトで、農家同士が質問・回答し合うような仕組みはできないものだろうか。いわば同業他社にあたる他の農家にわざわざノウハウを開陳するような農家がいるかどうかはよくわからないが、例えば回答すればポイントが溜まるようにして、ポイントに特典が付くようにすれば協力してくれるかもしれない。運営費用は農機メーカーや資材メーカーからの広告費等でまかなえばよい。

新しい種類の農機なども、開発されてもすぐには普及しないことが多い。周りの農家が実際に使っている様子を見て購入を検討する、というのが一般的だと思うが、こうしたサイトがあればその農機を使った人の声を聞くことができ購入の参考となるから、農機メーカーとしても有り難いのではないだろうか。

なお、以前OKWaveは「教えて!農業」というこのようなサイトを運営していたが、今年6月に閉鎖している(理由は不明)。

農業と同様に個人で活動することが多いITエンジニアの場合、ノウハウを教え合うことが普通であり、こうした教え合いサイトも多い。だから、「教えて!農業」は成功しなかったようだが、農業も工夫すれば技術と知識の普遍化をしていくことが出来ると思うし、そうすれば新規参入のハードルを一つ取り除くことになる。そしてそれ以上に、農業を形式知化することによって、さらなる効率化と農家全体の技術の向上が図られるはずだ。

なんでも本やインターネットで学べるようになるわけはないが、農業が本当に日進月歩なら、農家のネットワークによって技術と知識を向上させていくことが必要なのではないかと感じた次第である。

2012年9月13日木曜日

笠沙野間池の定置網観光

先輩農家のKさんのはからいで、ある農機メーカーの社員+協力農家の研修旅行に同伴させていただいた。

一行は福岡からいらっしゃったが、巡るのは南薩の地元だから私たちにとっては旅行という感じではないけれども、大変貴重な経験をさせていただいたと思う。ベテラン農家の方々ともう少し意見交換できればという不完全燃焼感はあったし、やはり圃場を実際に見てみないとよくわからないことが多かったように思うが、それでも他地域の専業農家の雰囲気を掴むのにはよかった。

ところで、この研修旅行では笠沙の野間池にある網元が経営する舟宿「のま池」に泊まったが、ここでは定置網観光ができる。要は定置網漁に同行できてその様子を見ることができるのだが、今回それを体験させていただいた(追加料金を払えば定置網にかかった魚も購入できる)。

舟には、かごしま水族館の方も乗船していた。定期的に漁船に乗せてもらい、どのような魚がどれくらい獲れているかを記録して、また水族館として欲しい魚が獲れれば譲ってもらうということなのだそうだ。

ちなみに、葛西臨海公園を始めとして、全国の多くの水族館が笠沙漁協から展示飼育用の魚を調達している。時には外国の水族館にも提供するらしい。その理由としては、第1に黒潮に乗って遠方の海からもたくさんの魚が集まり、年間500種もの魚が水揚げされるという笠沙の海の多様性が挙げられる。そして第2に、笠沙漁協は水族館の活動に対して理解があり、水族館へ魚を提供したり調査員を受け入れたりする体制が整っているということもあるのだそうだ。確かに、漁協の協力が得られなくては傷のない元気な魚を調達するのは困難だ。

出航は朝5時45分。海は凪ぎ。天候は快晴。漁船で野間半島を巡って定置網のポイントへ行き、漁師が網をたぐり寄せて網中の魚を追い込み、最後はタモで掬う。約1mくらいのバショウカジキが1匹、サワラが幾ばくか、大量のトビウオ、そしてアオウミガメが2匹 etc.。それが今回の成果(釣果?)だった。ちなみに、ウミガメは調査用のタグをつけて海に戻す。

この「のま池」の定置網はなんと明治のころから設置されており、百年以上の歴史があるのだそうだ。もちろん網自体は定期的に交換しているわけだし、そのやり方も機械化に伴ってどんどん変わってきたのだろうが、作業を見ると極めて合理化されていて、船員の動きには全く無駄がなく、軽々と作業しているように見えた。長い歴史に裏打ちされた作業という感じがする。流れ作業的になってしまって工夫の余地がなくなってしまうと面白くないのかもしれないけれど、仕事は、こういう風にこなしたいものだと思った。

2012年9月10日月曜日

一品種のスーパーマーケット:四角豆

ようやく四角豆が収穫できるようになった。

四角豆は、本土ではあまりなじみがないが、沖縄料理では「うりずん」とか「シカクマーミー」と言われて親しみのある食材。切り口が四角なので四角豆の呼び名がある。

原産はニューギニアで、耐暑性に優れ赤道直下の気候でもよく育つ上、大豆と同様タンパク質やビタミンが豊富で栄養素に富むことから、熱帯の国々ではメジャーな食材らしい。さらに、害虫や病気も深刻な被害を及ぼすことはなく、無農薬での栽培が容易だ。

しかも、英語で俗に「one species supermarket(一品種のスーパーマーケット)」というように、豆のみならず、根、葉、花など茎を除く植物体全てが可食で、いろいろな利用が可能である。特に根はイモ状になり、ジャガイモに似た味がして豆よりうまいらしい。葉は熱帯植物としては最高レベルのビタミンAを有するし、種を乾燥させるとコーヒーのような飲み物になるということだ。

豆は、若いサヤを食べるのだが、味を楽しむというよりパキッとした歯ごたえを楽しむ野菜で、あっさりとしていて味付けしやすいので、サラダなどにはちょうどいいと思う。一番美味しいのは天ぷらで、パキッとした四角豆をカリッと揚げれば最高だ。

栽培は容易と聞いていたが、今年は雨が異常に多かったせいか開花・着果が悪く、本来7月末には収穫可能になる予定が9月までずれ込み、さらに着果量も想定より少なく当てが大きく外れているが、例によって「大浦ふるさと館」で多少売ってみたい。

ちなみに、インターネットで検索すると、四角豆のレシピとしてカレーがけっこう多く出てきた(英語)。まだカレーにして食べてみたことはないが、イケるのだろうか。ちなみに、スライスした四角豆を茹でて冷やして冷やし中華に入れてみたが、麺に絡めて食べるとうまかった。

2012年9月8日土曜日

南さつま市定住化促進検討委員会(その2)

南さつま市定住化促進検討委員会の第2回が開催された。

前回の議論に基づき、市役所の企画課の方が対象者(若者世代、子育て世代、高齢者世代)ごとの定住化促進施策案を作ってきてくれ、それに基づいて議論することとなった。

が、市役所の方も仰っていたとおり、その案がどうも平凡で他の自治体と変わりばえがなく、仮にその全てを実施してもあまり効果がないような感じだった。そこで以前ブログに書いたように「対象を起業家に絞ってはどうか?」という意見を表明したところ、ある程度賛同が得られたのか、委員からは「テーマ性を持って移住定住を勧めるべき」「南さつまの売りを明確にした施策が必要」といった意見が出されたが、事務局(市役所)の反応が悪い。

どうも、「中心となる施策はあるべきだが、まず全体的に移住定住促進のための施策群を検討してから、それをまとめて売り出せばよい」ということのようで、私がいうのもなんだが役所的な考え方で残念だ。

確かに、ここで「南さつまは海がきれいだから、ダイバーにターゲットを絞った施策を考えよう!」とすると、「なんで山じゃないのか?」とかいろいろ異論は出てくる。あまりにも異論が出るような絞り方はしない方がいいのは当たり前だ。だが、他の自治体もやっているような施策ばかりでは、効果がないのも自明であり、異論もないが効果がないのでは税金の無駄遣いになる。

そもそも「南さつまの売りを明確にした施策を」という当然の意見に対しても、市役所においては「南さつま市の売り」がなんなのか明確ではないようだ。加世田時代は「砂丘と自転車の街」というキャッチコピーがあったようだが、合併して南さつま市になってこれが使えなくなり、どうも「南さつま市の売り」はまだ真面目に検討されていないように見える。

金峰山と米どころの神話の里「金峰」、広い平野と武家屋敷が残る中心地「加世田」、亀ヶ丘からの眺望と干拓の「大浦」、素晴らしい海と絶景の「笠沙」、歴史ある港町「坊津」。それぞれの良さや特色はあるが、「南さつま」全体として見た時、どのような魅力があるのか未だ明確でない。

役所的にまとめれば、各地域に配慮した無難なキャッチコピーはできるのだろうが、それでは面白くない。「これなら南さつま市が日本一」というような売り込み方をしてもらいたいと思う。そして、これは市の広報全ての話ではなくて、「移住・定住希望者に何を売り込むか」という話なのだから、過度に各地域・産業に配慮したものである必要はないと思う。

鹿児島に移住してきて笠沙に海来館をオープンさせた委員のI氏が「ワクワクするような施策を!」と言っていたが、まさにその通りで、住民がワクワクしないような施策であれば、部外者がワクワクするわけはなく、移住など進むはずがないと思うのである。無難にまとめるのではなく、「何か新しいことが始まるぞ」という期待感を持てるような方向になってもらいたい。

枇杷茶をつくってみました

庭にあるビワを思い切ってかなり剪定したので、それで出たビワの葉を使って枇杷茶を作ってみた。無農薬のビワだからお茶にするには最適だ。

枇杷茶は古くからの健康飲料で、癌の予防を始め、ダイエット効果や疲労回復効果などがあると言われており、医療関係者にも愛飲している人が多いと聞く。それに健康茶にありがちなえぐみや臭みなどは全くなく、あっさりとしていてクセがない上品な味がする。

普通の枇杷茶は、ビワの葉をただ乾燥させるだけだが、せっかくなので本格的に作ろうと思い、発酵もさせてみた。といってもビニール袋に入れて生暖かい場所に置いておくだけで、本当に「発酵」(つまり乳酸菌等の繁殖)なのかどうかは不明。というか多分違う(※)。ただ、発酵中はビワの葉からまさにビワの果実の芳醇な香りがしてきて、葉っぱしか入っていないのが信じられないくらいだった。それでどれくらい味が向上しているのかはわからないが…。

ところで、鹿児島では「ねじめびわ茶」というのが有名で、けっこう高く売られている。50gで800円くらいだろうか。根占では枇杷茶用にビワを栽培していて、葉に栄養を集中させるために敢えて実を付けない栽培も行っているらしく、果実の副産物ではないからこの価格になるのだろう。

それに、作ってみて思ったが、最初は膨大にあると思われたビワの葉も、虫食いや病気の葉を取り除いたり、発酵・乾燥させるうちにどんどん嵩が減っていって、最終的に茶葉になったのはたったの600gしかなかった。枇杷茶は作るのに手間のかからないお茶と思われているが、真面目にやろうとすると実は効率が悪いようだ。

ちなみに、せっかく作ったので、ラベルも作り袋に入れて、「大浦ふるさと館」に置かせてもらうことにした。50gで200円。ちなみに、私自身は「健康になるから飲もう!」というアピールは好きではなく、あくまで美味しいから飲むというのが王道だと思うので、ラベルには「健康飲料」の文字は入れなかった。ねじめびわ茶も美味しいと思うが、先日ペットボトルのねじめびわ茶を飲んでみたら、それよりはうちの枇杷茶をちゃんと淹れて飲んだ方が美味しいと思ったのでお試しあれ。


緑茶の製作工程でも「発酵」という言葉が使われるが、これは業界用語で「発酵」と言っているだけで本当の「発酵」ではない。乳酸菌や酵母は緑茶の製造には関与していない。では科学的にはなんなのかというと、実は「酸化」なのだ。緑茶には「酸化酵素」というのがあって、これが茶葉を酸化させて味が変わるのである。でも「酸化」というとどうしてもマイナスのイメージがあることと、昔からの慣例で、「発酵」という言葉が使われている。

2012年9月6日木曜日

有機農業の是非を検証する

新規就農するというと、いろいろな人から「やっぱり野菜は有機栽培で作りたいよね」というようなことを言われる。私も、高付加価値商品を作る観点から有機農業に惹かれる部分はあるが、一方で、無批判に「有機農業はよい」というイメージだけが先行しているようにも感じている。

極端な話だが、有機農業というと「有機栽培の野菜を食べてアトピーが治った!」とか「元気で明るくなった!」とか宗教まがいの喧伝がされることも多い。実際、有機農業と宗教との関係は近く、養鶏を中心とした有機農業を発展させて人の生き方まで規定するに至った山岸巳代蔵は、農事組合法人でありながら宗教組織である「幸福会ヤマギシ会」を作ったし、酵素肥料なる(今ではインチキと考えられているが)ボカシ肥の元祖みたいなものを作った柴田欣志は祈祷師だった。有機農業による穀菜食を提唱している食品会社の三育フーズは、セブンズデー・アドベンチスト教団という米国のキリスト教系信仰宗教の一部門が運営している。こうした話を聞くたび、「有機農業は、科学的に考えて実際どうなのだろう?」という疑問が湧く。

そこで、少しマニアックな話になるが、有機農業の是非について考えてみたい。

まず、有機農法とは何か、ということを正確に定義しておこう。普通、有機農業とは「化学肥料と農薬を使わない農業」と思われているがこれは物事の一面でしかない。化学肥料や農薬を使わないというのは、手段であって目的ではないからだ。IFOAM(有機農業運動国際連盟)という団体が有機農業の詳細な定義を作っているが、それをまとめると有機農業の目的は「農業生態系と農村の物質循環を重視し、地力を維持・増進させて生産力を長期的に維持し、外部への環境負荷を防止して自然と調和しながら、十分な量の食料を生産し、農業者の満足感と所得を保障すること」である(※)。

要するに、有機農業の主要目的は、環境負荷を低減しつつ経済的にも自立可能な「持続可能な農業」をすることであり、こうした目的の下に行われる農業が有機農業なのだ。これは、近年喧しい「安心安全な農産物の生産」や「作物本来の美味しさ」などは全く関係がない。

この目的を達成するため、有機農業では農業生態系(圃場とその近辺)の外からの資材投入は出来るだけ少ない方がよいとされており、化学肥料のように外国で精製された物質はもちろん、堆肥であっても外部の畜産農家から仕入れるのではなく自家生産することが奨励されている。すなわち、物質循環をできるだけ農業生態系内で完結させることが求められているのである。

この理念を厳密に実行するのは日本では難しく、有畜農業が普通のヨーロッパにおいてすら簡単ではない。

また環境負荷を低減するため、化学農薬を基本的に使用しないのであるが、これは私には疑問だ。例えば、除草剤を使用しないために、有機農業ではマルチングの使用が必須となるが、なぜ石油合成製品であるビニールマルチはよくて、除草剤はダメなのか。また、2週間で自然分解される除草剤を使って草を枯らすのと、数時間ガソリンを使って草払いするのとどちらが環境負荷が軽いと言えるのか。そのほか、害虫の防除にも農薬が使えないことから天敵となる昆虫を大量に放すなどするが、これも一種の生態系の攪乱である。どのような手段が最も環境負荷が小さいかは科学的検証によって判明することであって、頭ごなしに「農薬はダメ」というのは科学的態度ではない。

なお重要なことだが、農薬を使用しないのは、決して「安全安心」のためではなくて環境負荷を低減し、農業生態系の中で物質循環させるためである。日本だけでなく世界で「有機農業による生産物は安全・安心だ」という思い込みがあるが、これは間違いとは言えないまでも正確ではない。

というのは、「有機農産物=安全・安心」は「慣行農業農産物=危険・不安」の裏返しなのだが、野放図に農薬を使っていた数十年前はともかく、現行の農薬規制は非常に厳しく作ってあり、普通の農産物が危険・不安というのは科学的態度ではない。農薬規制は「その農産物を一生食べ続けても影響がない」レベルになるよう調整されており、有機農産物をことさら「安全・安心」と喧伝することは、暗に慣行農業の農産物への危険を煽る不誠実な行為と言える。ただし、農薬に未知のリスク(長期使用による蓄積や複合的な影響)がある可能性はゼロではないのは事実だ。

といっても、農薬を使っていないから安全・安心というのは安直な考えで、農薬による防除を行わずに虫食いや病害などが起こったとすれば、植物はこれに対抗するために自ら毒性物質を生産するといった手段を講じる。これによって植物体の中に植物毒が蓄えられることもあり、農薬を使わない=毒性物質がない、ではない。

少し話が脱線するが、俗に言われる「農薬を使わず自然に育てた野菜が美味しい」とか自然農法に代表される「植物のありのままの力を活かすと美味しくなる」といった言説は、私には自然への冒瀆とすら感じる。「自然=美味しい」という図式がどうして成立したのかわからないが、自然の植物の多くは虫害・鳥害・病害などからその身を守るために植物毒を持っており、その毒性はしばしば極めて強力である。自然は荒々しいものであり、人間が気軽に利用できるような簡便なものではない。多くの栽培植物も、その起源においては毒性があったり利用しにくい性質を持っていたりしたが、少しでも美味しい株、利用しやすい株を増やすという数千年にわたる品種改良の結果、今の作物が生まれているわけで、「自然=美味しい」などという認識は、自然をなめきったものであると同時に、人類の農耕史をも貶める見方であると思う。

でも、「事実、有機農業の野菜は美味しいじゃないか!」という反論があるかもしれない。確かにこれは事実と思う。しかしそれは因果関係に飛躍がある。先ほどの目的からすると、有機農業を真面目に実施しようと思えば、大規模生産が難しいことは自明だ。そこで、有機生産農家は高付加価値商品の少量生産を行わざるを得ない。そのため、適切な施肥設計、作付計画、高品位な種苗の選択といったことが行われた結果、美味しい作物が収穫できるのであって、有機農業だから美味しいわけではない。当然、慣行農法の農家であってもそのような適切な管理を行う農家はいて、そういう農家が生産した作物は、有機農法による作物と同じように美味しいだろう。

つまり、「有機農業だから安全・安心で美味しい」は幻想に過ぎない。慣行農業においても安全・安心で美味しい農産物は得られる。ということは、有機農業の農産物を(通常の農産物より高い価格で)購入する消費者は、何に対してお金を払っているのだろうか? なんとなくよいもの、なんとなく高級なもの、というイメージにお金を払っているのだろうか?

ここでもう一度有機農業の目的を見直してみるとこの答えは明白だ。有機農業というのは、要は環境に配慮した農業なのだから、消費者は環境の保全のためにお金を払っているのである。しかし有機農業の農産物を買って割高なお金を払うのは一部の人である一方、環境が保全されてその利益を享受するのは共同体全員だ。そのため、ヨーロッパ各国では環境保全の意味合いから有機農業を行う農家に補助金を出している。有機農業は消費者のニーズに応えるために行うものではないから、政府がその費用の一部を支出しているのである。

そもそも有機農業がヨーロッパで広まった背景には、1980年代の食料の過剰生産がある。この頃、ヨーロッパでは農業の機械化・集約化によって生産力が高まって食料が余り、また農薬・肥料の過剰投入によって環境が汚染された。これを受け、日本風に言えば減反政策が実施されるのだが、その中の一つが有機農業の振興だったのである。つまり、大規模農業の代わりに少量生産の有機農業を広めることにより、減反と環境保全を両方達成しようとしたのであった。補助金がなければやっていけない農業は真の意味で「持続可能な農業」ではない、という批判もあるが、私はこの政策は合理的であったと思う。

翻って日本を見ると、減反と環境保全という有機農業の理念が正確に理解されているとは言い難い。日本においては食料生産レベルをさらに上げることが課題であり、農地の集約化・機械化による大規模化は長年の懸案だ。有機農業の振興は、ただでさえ小規模分散・手作業の多い日本農業を立ち遅らせることにならないか。また、有機農業の目的が環境保全にあることを理解している消費者も少なく、「安全・安心」のような漠然としたイメージに踊らされている面がある。本来なら、環境に配慮した農業という理念に共鳴し、環境保全のために高いお金を払うという認識になるのが正しいあり方だと思う。

しかも、有機農業は日本とは気候も環境も農業文化も違うヨーロッパから輸入された概念・手法になってしまっており、本当にIFOAMが定める「有機農業」が日本に合っているのかは一考を要する。有畜農業が基本になっているだけでも、畜産農家と作物農家が分かれている日本には相容れないものがあるし、作物体系も違う。日本での「持続可能な農業」は一体どんなものなのか、その解は出ておらず、真面目に検討されているとも言い難い。日本ならではの「有機農業」を形作っていく必要があると思う。

こうして有機農業の特質を検討してみた結果をまとめると次のようになる。
  • 環境保全、持続可能な農業という有機農業の理念はよい。
  • しかし、現行の化学肥料・農薬不使用というのは科学的なのかどうか不明。
  • 消費者に有機農業の意味が正確に理解されておらずイメージだけが先行している。
  • そもそもヨーロッパ基準の「有機農業」が日本に合致しているか不明。

結論としては、「有機農業は理念はよいが現行の手法が最適なのかは一考の余地があり、日本ならではのやり方を確立すべき」、つまり「今の有機農業はいろいろな意味で未熟」ということになると思う。

しかし、未熟であるからこそ将来性もあるだろうし、化学肥料や燃料、化学合成の資材をふんだんに使える環境になったのは、つい最近のことに過ぎず、これが将来どうなるかは不透明だ。大量生産・大量消費の文明がどこまで続くかわからないが、これを支えている条件が崩れれば、人類はこうした便利な資材を使う農業を続けて行くことはできない。そうでなくても、近い将来にリン酸肥料の枯渇が予見されるなど、人口増に対応した肥料増産が今後可能かどうかわからない。人口増と新興国の生活レベルの向上によって食料生産が逼迫してきた時、今までのような農業を日本が続けていけるのか心もとない。

そうなった時の答えが有機農業なのかはよくわからないけれども、農業が変わって行かざるを得ないのは間違いない。その意味で有機農業の一つの利点は、「慣行農業に対して疑問を抱く」というスタンスにもある。主流派の動向を懐疑的に見る勢力が私は好きだ。いろいろ批判的なことを書いたけれども、自分なりに有機農業をやってみたいとは思っている。

※ 『有機栽培の基礎知識』1997年、西尾 道徳 より引用。

2012年9月3日月曜日

「日本版アグロフォレストリー」という考え方


アグロフォレストリー(Agroforestry)をご存じだろうか? 私は、鹿児島でこれを実行できたらいいなと思っている。

アグロフォレストリーとは、Agro=農とForestry=林業を組み合わせた言葉で、普通「農林複合経営」とか「混農林業」と訳される。これは環境にやさしい持続可能な農法であるとともに、森林の再生にも役立ち、かつ農家の収入の安定も図られるということで、近年、熱帯地域途上国の農業戦略として非常に注目を集めている。

具体的にどのようなものかというと、熱帯雨林を伐採(または焼畑)した跡地を利用するのだが、ここに例えばトウモロコシやコショウをまず植える。そして平行してバナナやカカオを植える。さらにマホガニーなど換金性の高い材となる樹も植える。ついでに、アサイーなどの果樹も植えておく。

するとどうなるか。1、2年目はトウモロコシが収穫できる。3年目くらいになるとコショウやバナナが収穫できる。6年くらい経つとカカオが収穫できる。カカオは高収益をもたらす樹木だが、定植からしばらく収入がないのがネックだ。このやり方だと、カカオによる収益がない間、収入を得ることができる上、日陰を好むカカオにマホガニーなどによって樹陰を提供することもできる。

アグロフォレストリーの面白いのはここからで、カカオの単一栽培が目的ではなく、アサイー(高木の果樹)が採れたり、他の果樹からの収入も細々と確保しながら農業を続け、30〜40年後にはマホガニーも伐採することができ一時的ではあるが高収入が得られる。結果として、多様な樹種が育つ森が再生することから、アグロフォレストリーは「森をつくる農業」とも言われる。

これを始めたのは、ブラジルのトメアスというところに入植した日本人、日系人である。彼らは最初、コショウの農園を経営していた。入植者の常として、必死に働いていたのだと思う。しかし、ある時コショウが病害虫の被害を受けて破産状態になってしまう。そのとき現住民の暮らしを見て思う。「なぜ、彼らは必死に働いているわけでもないのに飢えないのだろうか?」

現住民は、手近にあるいろいろな果樹を利用して、どんな気候や病害虫が発生してもなんらかの食料が確保できるように暮らしていたのであった。「これを自分たちもできないだろうか?」こうしてアグロフォレストリーが始まった、と言われる。

コショウの大規模栽培の方が収益は高いが、ひとたび病害虫が発生すれば大きな被害を受ける。つまり大規模栽培はハイリスク・ハイリターンなのだ。一方、様々な果樹を混植し、その樹陰で野菜を栽培することは効率は落ちるが、病害虫の被害を受けにくく、定常的な収益が期待できる。つまりローリスク・ローリターンだ。

しかし、単一作物大規模栽培と違って、流通が複雑になるという決定的弱点をアグロフォレストリーは持っている。いくら定常的に果樹が収穫できても、それが少量であれば、遠方まで売ることは難しく、現金収入に結びつかない。今、ブラジル政府は国を挙げてアグロフォレストリーを推進しているが、彼らがやっているのは他品種生産のジュース工場の建設だ。個別の農家の収穫は少なくても、それをジュースにしてパックすれば長く保管できるし遠方まで出荷できる。最近、東京などでは見慣れない熱帯果実のジュースを売るスタンドを見かけるが、これはアグロフォレストリーの成果でもあると思う。

アグロフォレストリーは新しい言葉だが、世界中で、特に東アジアでは古くから行われていた農法だ。日本でかつて行われていた焼畑農法も一種のアグロフォレストリーで、焼畑の後数年間はソバ、ヒエ、ダイコン、カブ、サトイモ、マメなどを育て、さらにコウゾやミツマタなどを植えて換金性の高い植物で10年くらい利用した後、スギの植林を行うというスギの造林法があった。特に土佐ではそういう造林が最近まで行われていたという。

また、単一作物の大規模栽培が世界中で進んだ結果、病害のグローバル化と深刻化の度合いは増している。植物検疫の制度は今のところなんとか機能しているが、人とモノの移動の活発化によってリスクは増大する一方だ。一方アグロフォレストリーは、作物の他品種少生産によって病害虫リスクも低減でき、ほとんど農薬を使わずにすむという。

こういうことから、アグロフォレストリーは途上国政策を行う者にとって非常に重要なツールになりつつあるが、私は、これは熱帯途上国だけに有効な手法ではないと思う。 熱帯雨林は実は土地が痩せていて、一度伐採すると森林の再生が難しいということからアグロフォレストリーの一つの存在意義がある。対して日本では耕作放棄地は勝手に森へと戻っていくので、わざわざ「森を作る農業」は必要ないのではないか、という人もいるだろう。

しかし、アグロフォレストリーは、元々森林の再生を目的として発想されたのではなくて、持続可能でローリスクな農業を目指してできたものだ。その理念や方法は日本でもあり得るのではないか。流通が複雑化するという欠点も、インターネットを通じた直販を利用すれば克服できるような気がする。

つまり私が実行してみたいのは、「日本版アグロフォレストリー」だ。日本人・日系人がブラジルで考案したアグロフォレストリーを、改めて日本でやってみたらどうか。実は、この入植者には鹿児島出身の人も多くいたのだ。熱帯雨林ではない、温帯気候の下でどんなアグロフォレストリーができるのかわからないが、賞揚されてやまない「里山」も一種のアグロフォレストリーであったわけで、きっと面白いことができると思っている。


【参考URL】
「アグロフォレストリー 森をつくる農業(1)(2)(3)」 3本立ての動画(youtube)。見るのに時間はかかるが、この動画を見るのが一番わかりやすい。冒頭の動画はこれ。 
「アグロフォレストリー」という発想。 竹の専門家でもある内村悦三氏が語ったアグロフォレストリー。
アマゾンの里山 トメアスでのアグロフォレストリーを取材した記事。
多様性保つ「森をつくる農業」アグロフォレストリーの先進地 毎日新聞の記事。
World Agroforestry Center ケニアのナイロビにあるアグロフォレストリー研究の総本山(英語)。南米で始まったアグロフォレストリーを、アフリカでも根付かせようと活動している。