2019年11月13日水曜日

永留さんのこと

11月7日、友人の永留純一さんが亡くなった。

永留さんには、来る11月22−23日に開催する「石蔵アカデミアwith Tech Garden Salon」というイベントで、「歩けば増える、好きな建物・まち並み」という演題で講演をお願いしていた。だが、その講演は永遠に聞けなくなった。

【参考】11月22日−23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!|“石蔵アカデミア with Tech Garden Salon”
https://so1ch1ro.wixsite.com/ishigura-bookcafe/post/11月22日-23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!

永留 純一 (LEAP編集部)
「歩けば増える、好きな建物・まち並み」
誰に会う用事も無く、一人でまちを歩く時間が大好きです。自宅や会社の近くでも、有名な観光地でも、予備知識なしに初めて訪れる有名ではないまちでも。ちょっとしたコツは、お笑いのセンスのようなもの。まちや通りの何気ない建物や看板などが、今日もあなたからの「ツッコミ」を待っています。

そもそも、このイベントの最初の構想を抱いたときから、講演をお願いする人のリストの筆頭にあったのが永留さんだ。

永留さんは、街なかの気になる建築の写真をよくFacebookに載せていた。取り上げられているのは、決して立派な、オシャレな、意匠を凝らした建築ではない。むしろまち並みに埋もれた、地味で、こぢんまりした建物が多かった。でもその建物は、どこか普通の建物とは違う面影があるのだ。なんだか変わったリズムで窓がついていたり、昭和のタイル張りがやたらと自己主張していり、変な方向に傾(かし)いでいたり…。永留さんは、設計した人、住んでいる人の、平凡な中に潜んだ「こだわり」や人間性が、チラっと表れたような、そんな建物の面影を切り取っていた。

私は、そういう永留さんの建築センスが大好きだった。

そこには、まち並みの中に生きる建築と、それを作った人、利用している人への温かい眼差しがあった。でもそこにちょっとしたツッコミをくわえて、クスっと笑っている感じが永留流の建築観賞術なのだ。

私は、この永留流の建築観賞術を多くの人に知ってもらいたかった。平凡なまち並みが、こんなにも面白い鑑賞対象になりうるということを、教えて欲しかった。

永留さんに講演をお願いしたのはそれだけではない。永留さんはそうした見方の背景となる理論的な部分もしっかりしていた。大学時代の話は伺ったことがないが、大阪芸術大学の大学院まで出られていたようである。その上、建設現場の仕事にも(かなり泥臭い部分の仕事にも)携わった経験があるそうだ。永留さんは、建築理論から建物を作る職人さんたちに至るまでの幅広い視野を持っていた。しかも永留さんは、建築のことばかりでなく、様々なことに好奇心を持ち、貪欲に学ぶ人だった。しばしば、意外なところで永留さんから教えられることがあった。

でも、永留さんとは、実は腰を据えて話をしたことがなかった。だから、私が永留さんに講演をお願いしたのは、その建築観賞術をみんなに知って欲しいというだけでなく、他ならぬ私自身が、永留さんの話をじっくり聞いてみたかったのだ。

ところが講演をお願いした時に、永留さんは条件を出した。もしかしたら、突然講演ができなくなるかもしれない、と。

なぜなら、末期の肺がんに冒されているから——。

これが今年の6月のこと。当時のメールを見返してみると、永留さんからは「生きていたらよろしくお願いします!」と書いてある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、永留さんは講演をOKしてくれた。私は「当日ドタキャンでも構いません」と答えた。この際、そんなことはどうでもよくなった。

永留さんは、あまり人前に出て話をするタイプの人ではなかった。今まで、鹿児島国際大学でジェフリー・アイリッシュさんに呼ばれてヒトコマ講義を受け持ったのと、砂田光紀さんに呼ばれて串木野の留学生記念館で話したことがあったくらいだったようだ。だから永留さんは、自分なりの建築観について一度話したいという希望を持っていたみたいだ。「話したいことというか、まとめたいことは色々とあります」と永留さんは語った。そしてそれだけでなく闘病の励みとして、講演があるなら少なくとも11月まで生きないと!という気持ちになるんだと言ってくれた。

当時のメールには「中くらいの未来に人参を下げて、だましだましやっていこうと思います!」とある。

こうして、永留さんに依頼した講演は特別な意味を持つようになった。今回の講演はただの講演じゃない。大げさに言えば、永留さんの建築人生の集大成となるものなのだ。そこまで大それたものじゃなくても、最初にしておそらくは最後の、永留さんの一人舞台なのだ。私は、永留さんの講演を文字起こしして講演録にする計画を立てた。

私と永留さんの仲は、そんなに親しいものだったとはいえない。5年くらいの付き合いしかないし、実は一度もゆっくり二人で話したことはない。でも、いわゆる波長が合う、というか、多くを語らずともスッと言葉が通じる感じがあった。別段示し合わせていないのに、同じイベントで顔を合わせるといった機会も一再ならずあった。ほぼ同世代の、通じ合える友人だと私は思っていた。だから、友人へのプレゼントとして、一世一代の講演録を贈りたかったのである。棺桶の中に入れるプレゼントになるかもしれないとしても。

永留さんは、情報誌『LEAP』の編集部で働いていた。私も永留さんのお陰で、何度か『LEAP』に主催のイベントを取り上げてもらった。2019年11−12月号の『LEAP』でも、来る「石蔵アカデミア」を取り上げてくれた。こんな記事だ。

11月22日「石蔵アカデミア」に 建築に関する講座が登場 
南さつま市万世『丁子屋』で、石蔵アカデミアという講座が行われている。11月後半は出張版として、会場を南九州市市民交流センターひまわり館に移して、2日にわたり4種の講座が開かれる。建築ファン向けには11月22日午後からの「歩けば増える、好きな建物・まちなみ」。講師は筆者が務める。また、ほか3講座は各ジャンルの一流講師ぞろいなので、建物好きでなくとも文化の秋を感じてみて。

これは『LEAP』で永留さんが担当していた「建物ルーペ、まちのツボ」というコーナーでの紹介なのだが、「講師は筆者が務める」と書きながらその名前がどこにも書いていないのが、いかにも控えめな永留さんらしい。

この調整をしたのが9月の末。詳しいことは分からないが、この頃、永留さんは入院しながらできる範囲で仕事を続けていたのではないかと思う。講演まであと2ヶ月弱の時である。仕事を続けられているくらいなら、講演もなんとかできそうだ、と私は思っていた。いや、永留さん自身も、「講師は筆者が務める」と自分で書いているくらいだから、少なくとも8割方は講演可能だと思っていただろう。

だが、病魔は非情であった。それから約1ヶ月で、永留さんは帰らぬ人となった。享年45歳。早すぎる旅立ちだった。

永留さんは、鹿児島の文化を支える人の一人だった。永留さんは鹿児島の近現代建築を公開するイベントである「オープンハウス カゴシマ」の開催にも携わっていたが、このイベントにもその力が大きく与っていたのではないかと思う。決して表に出て華々しく活動するような人ではなかったけれど、欠くべからざる1ピースのような人が永留さんだった。

【参考】オープンハウス カゴシマ
http://openhousekagoshima.org/ 

私は永留さんの、少しはにかんだような、優しい笑顔が大好きだった。

お通夜でその永留さんと対面した。そこには壮絶な闘病の跡があった。こんな時期に講演をお願いするなんていうことは、本当はやらない方がよかったのかもしれない。少なくともご家族の方には、ご心配をかけたと思う。永留さん自身は「闘病の励み」とは言っていたが、心理的には負担だっただろう。正直、申し訳なかったと思う。

でも私は、この講演があったことで、永留さんの最後の半年が未来へ進むものになったんじゃないかと信じたい。それには価値があったんだと。

今はとても、「謹んでご冥福をお祈りします」なんて型どおりの言葉は出てこない。これを書き終えたら、永留さんとの思い出が過去のことになってしまうようで、書き終えるのが辛い気さえする。

お通夜から帰ってきたら、顎のあたりがズキズキと痛くなっていた。帰りの車中、ずっと歯を強く食いしばっていたのだ。

今も、これを書きながら涙が止まらない。