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2024年4月4日木曜日

奄美に行ってきました(その2)

前回からのつづき)

今回の旅の目的地(の一つ)は、奄美の西南部の端にある瀬戸内町古仁屋だ。

古仁屋の港には、瀬戸内町のコミュニティFM「せとうちラジオ放送(せとラジ)」の放送局がある。その事務局長、「さとぴー」こと長井聡子さんの案内で、奄美をご案内いただくというのが今回の番組だ。

【参考】せとうちラジオ放送
https://setoradi768.themedia.jp/

番組についてはテレビで見ていただくとして(放送は5月とのことですが、日程は不明です)、瀬戸内町について説明したい。

さて、奄美大島の経済の中心は、島の北西の方にある奄美市だ。人口は3万人ほど。一方、瀬戸内町は、島の南東に位置し、奄美市からは車で1時間ちょっと。しかもぐねぐね山道をゆくので1時間よりかなり遠く感じる(私があんまり車移動が好きではないのもある)。瀬戸内町の人口は8千人くらいである。

私の実家がある旧吉田町の人口が9千人くらいだから、ほぼ一緒だ。そして、漁港を中心としてぎゅっと町がまとまっている感じは、枕崎市によく似ている。

さとぴーさんの案内で、この町を少しだけ歩いた。

強く感じたのは、8千人の町にしては、小商いの店がとても多いことだ。古仁屋には、食料品店や雑貨屋(オシャレな雑貨屋ではなく、トイレットペーパーとか洗剤とかを売っている雑貨屋のこと)、パン屋、酒屋、種苗店といった小さな店が散在している。飲食店や飲み屋が多いのは観光地だから当たり前とも思うが、明らかに地元利用が中心の店が多い気がする。喫茶店も何店もあった。人口8千人の町にライブハウスまであったのにはビックリした。町営の火葬場まであるそうである。もちろん小学校から高校まで揃っている。

そもそも、人口がたった8千人の町にラジオ放送局まであるってすごくないか。

要するに、古仁屋はなんだか豊かなのだ。

それは奄振(あましん)のおかげだろう、という人もいるかもしれない(奄振=奄美群島振興開発関係予算)。だが地元の小さな餅屋「大城もち屋」に、若い後継者が帰ってきた、というような豊かさは、奄振だけでは説明がつかない。

【参考】大城もち屋 ←ここでお土産に「りゆび餅」を買った。
https://r.goope.jp/amami-ooshiro/

なぜ古仁屋は豊かなのか。その大きな理由は、逆説的であるが、奄美市から車で1時間ちょっとという「不便さ」にあると思われた。

というのは、県本土では車で1時間ならたいしたことはないが、ぐねぐね山道を1時間以上だとなかなか気軽に行き来するものではない。結果的に、瀬戸内町の人はたいがいの用事を古仁屋で済ますことになる。さとぴーさん曰く「なんでも古仁屋で揃う。奄美まで行く必要はない」のである。話を聞いてみたところ、ないものは産婦人科とタクシーくらいだという。

これを経済の面からいえば、瀬戸内町では地域内でお金が循環している、ということだ。

私の家から、宇宿のイオンまで車で約1時間半であるが、休日にイオンに行くと地元の知り合いにバッタリ会うことは多い。わざわざ1時間半かけて、田舎からイオンにお金を落としに行っているわけだ(笑)

これが古仁屋の場合は、イオンに行かずに地元でお金を使っている。だから小商いが多いのだろう。そしてこれは、若者が小さな店を始めるのにもいい環境だと思った。人口8千人の町に大きな需要は見込めないが、地元の人が来てくれるというのが、小さな店にとっては(特にはじめたばかりは)一番大事なことなのだ。古仁屋には、大きなチャンスはないかもしれないが、小さなチャンスはたくさん転がっている。

よく「これからは、不便な地域が残る」と言われるのは、こういうことだろう。

例えば、宮崎県の椎葉村。椎葉村の場合も、延岡市まで車で2時間。独立した経済圏を構築せざるを得なかった場所である。こういうところが、かえって存続しているのだ。

もちろん、古仁屋も椎葉村も、ただ不便だから残っている、というわけではないだろう。両方、地元の人の努力があったからこそなのはいうまでもない。でも、古仁屋が奄美市まで車で30分の位置にあったとしたら、きっと今のように小商いの店がたくさんある町にはなっていなかったのではないかと思う。

私の実家の旧吉田町は、人口規模は似たようなものだが、小商いの店はそれほど多くないことがそれを例証している。旧吉田町の人は、いつでも吉野に買い物に行けるからだ。薩摩吉田インターが近くにあるため、鹿児島市内や姶良イオンにもすぐ行ける。こういう場所では地域内でお金が循環することはない。

町にとって不便さは、一般的にはマイナスだ。だが古仁屋の場合は、それがプラスの面ももたらしている。植林をしていなかったのがかえって奄美にとってよかったように、田舎では近代化のセオリー(常識)と逆の方がよい結果をもたらすことは多い。

そもそも、田舎は「近代化」から取り残されたから田舎なのだ。もちろん、田舎の人間だってスマホを使い、キャッシュレス決済をし、ハイブリッド自動車に乗る。「近代化」は田舎にだって必要だ。

だが、そこでは都市とはちょっと違った「近代化」が必要だ、ということなんだろう。

人口8千人の町にラジオ局を作ることは、効率から考えたら無駄だ。だが、そういうことが町の豊かさを作る。そういう無駄を許容する「近代化」、合理性一辺倒とは違う「近代化」が、田舎には求められている。

2023年10月20日金曜日

後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない

すったもんだの末、鹿児島県の新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)は、ドルフィンポート(DP)跡地に作られることになった。

「あれは何だったんだ?」と思ったのは、今年の2月~4月に募集された「本港区利活用エリアのアイディア募集」。これには234件もの応募があり、うち7件はプレゼンまで行われた。

【参考】鹿児島港本港区エリアの利活用に係る検討委員会 > 第4回検討委員会(プレゼン資料が掲載されています)
https://www.pref.kagoshima.jp/ah15/kentouiinkai4.html

この集まったアイディアはどう活用されるのだろうか、と思っていたら、一応ゾーニングの素案に生かされたことになってはいるが、本港区エリアの利活用について大きな影響を与えることはなかった、と思う。まあ、「今後の参考」との位置づけだ。

プレゼンされたアイデアには、かなりの手間をかけて練った構想も見受けられた。プレゼンの当事者も、こんなに軽い扱いになるとはびっくりだったのではないだろうか。とはいえ、県がアイディアを軽くあしらったわけではなく、わざわざ検討委員会に幹事会を設けていろいろと議論してはいる。

しかしながら、結局のところ、このアイディア募集は遅すぎた。なにしろ、ドルフィンポート跡地に新体育館を造ることを決定した後で行ったものだからだ。むしろ、この段階ではアイディア募集などしないほうがよかった、と私は思っている。なぜなら、意見やプレゼンは、せいぜい「いいとこどり(委員のコメント)」されるのが関の山だったからだ。

当然に、この意見募集やプレゼンの後の県の対応は評判が悪く、「何のためにわざわざ意見募集したんだよ」という声がたくさん聞かれた。鹿児島市のスタジアム構想(アイディア募集後、いろいろあってDP跡地へのスタジアム建設は事実上断念した)との齟齬もあり、「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」といった、塩田県政への批判も惹起した。

とはいえ、これではちょっと塩田知事が可哀想な気もする。というのは、これまでの新体育館の検討が混乱し収拾がつかなくなっていたのは、歴代の鹿児島県知事が「新体育館をどこに造るかは俺が決める」みたいな態度であったことが大きな原因で、塩田知事の場合は同じ轍を踏まぬようかなり気を付けてきた(ように見える)。

新体育館の建設場所の検討を始める際にも、「場所ありきではない」ことが強調され、新体育館に必要な機能、規模・構成等をまず議論した上で決めようとした。そしてその検討委員会(総合体育館基本構想検討委員会)も、公開の下で行われ、これまでの鹿児島の密室政治とは一線を画した。

塩田知事はこうした検討が行われている中でも、「自分としてはここがいいと思う」みたいな軽はずみな発言は一切せず、「検討委員会の出した結論を尊重する」との態度を貫いてきた。検討委員会で本当に自由闊達な議論が行われたかどうかは疑問だが(傍聴した人の話ではいわゆる「シャンシャン委員会」だったそうだが私は見ていない)、それでも形式的には民主的な議論の結果、最終的には点数方式でDP跡地が選ばれた。

その後、整備の基本構想が取りまとめられ、パブリックコメントを経て、県議会は新体育館の整備を了承した。鹿児島県が作る箱モノで、ここまで民主的な手順を踏んで建設を決定したのは初めてのことで、画期的なことだと思う。

こうして新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の立地は決定した。だから、いくら「本港区利活用エリアのアイディア」にいいものがあったとしても、それに応じて基本構想が揺らぐはずもない。というか、揺らいだら民主制の否定になる。

「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」という批判の裏には、知事は県民の意見を聞いて、それまでの議論をひっくり返してほしい、というそこはかとない願望があると思う。もし、塩田知事が今になって「やっぱりDP跡地に建てるのは辞めます!」と言ったら、一部の人は「リーダーシップを発揮した!」と喝采するに違いないが、民主的手続きによって行われた決定を知事の一存で白紙にするのは、民主的というより実際には独裁的だ。

そもそも、民主制は非常に手間がかかる。手順を追って物事を決定しなければならないし、その手順を踏んでいる間に社会の事情が変わってきても、「状況が変わったのでやっぱり変えます」とは言いにくい。要するにスピード感に欠ける。それに、代議制民主制の場合は利害団体の意見が強く反映されるという特徴があって、一般市民の感覚とは乖離しがちなことも短所である。

だから民主制の社会に生きる一般市民は、つい独裁的なものを望んでしまうことになる。独裁者は、なんでもスパッと決定し、一般市民の気持ちを代弁してくれる(ように感じる)からだ。今、維新の会が急速に国政での存在感を増しているのは、はっきりと独裁的な性格を持っているからだと私には思われる。

第2次世界大戦の前に、ナチスドイツが全権委任法によって一党独裁になっていったのは、完全に民主的な手続きによるものだった。彼らは、「ユダヤ人は気に食わない」という「一般市民」の気持ちに寄り添うことで独裁的権力を得た。ところがひとたび独裁制が確立してしまえば、およそ民主的な社会ではありえないような決定が下された。

話が逸れたが、新体育館のことで塩田知事がリーダーシップを発揮せず、何を考えているのかわからないような対応に終始しているのは、民主的な手続きを尊重するという態度の裏返しだろう(ただし、塩田知事は万事がこの調子なので、物足りないのは確かだ)。

そして、はっきり言えば、新体育館の立地についていまさら意見を言っても遅い。これまでに書いた通り民主的な手続きによって決定したことだからだ。「じゃあ、いつ意見を言えばよかったんだよ?」と人はいうだろう。私は、総合体育館基本構想検討委員会が、点数方式での立地比較を行うことを検討・決定した2021年11月あたりが山場だったと思う。

というのは、この比較項目に、当初からDP跡について懸念されていた「景観」が全く入っていなかったのである。これは意図的に外したとしか思えないが、不思議と誰も問題視しなかった。

【参考】第5回総合体育館基本構想検討委員会(2021年11月16日開催)
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/dai5kaihaihusiryou.html

そして、実はこの時あたりまで、新体育館の県民の関心は極めて低かった。もしかしたら「検討委員会がよか風にまとめてくれるに違いない」という安心感があったのかもしれない。結局、さほど議論はないままに、点数方式での立地比較によってDP跡に決定した。

2022年1月12日付の南日本新聞の記事「ドルフィン跡決定」の記事でも、検討委員の一人が「県民の関心が少ない感じ」と述べている。

県ではDP跡に決定する直前の2021年12月17日からスポーツ・コンベンションセンターに係る意見募集を行っていたが、これにもほとんど意見が寄せられていなかった(確か新聞報道では、20人が意見提出と伝えられた)。

ところが、この決定後に潮目が変わる。

このあたりを境に、いろんな人が、急にDP跡では問題があるとSNS等で発言するようになったような気がする。やっぱり一番大きかったのは景観の問題で、憩いの場であるウォーターフロントパークの芝生を残してほしいといった要望も多かった。突如県民の声が高まったことを受け、県では当初1月14日までとしていた意見募集の期間を1週間延長。これによって最終的には234人が意見を提出した。

私の見るところ、新体育館に関して民主的な手続きを軽視していたのはこの意見募集の一点である。というのは、意見募集している最中に委員会がDP跡に立地を決定したからである。意見募集の結果を反映した上で決定すべきであったのに、あろうことか意見募集中に決定をしてしまった。これでは何のために意見募集したのかわからない。アリバイ的な意見募集といわれても仕方ないと思う。新体育館の検討において、ここが最大の瑕疵である。

とはいえ、それ以外の点においては、それなりに民主的な手続きが踏まれた。こうして新体育館のDP跡への建設が決まっていったのである。

話が急に変わるようだが、太平洋戦争の記録を読んでいると「いつの間にか戦争が始まっていた」という記述に出くわすことがある。これはちょっと無責任な言葉のようにも思えるが、新体育館の建設についても、多くの県民にとって「いつの間にか決まっていた」ように感じられるのではないか。

先ほども書いたように、民主制は手間がかかり、一度民主的な手続きによって決定したことは権力者といえども簡単には覆せない。逆に言えば、一般市民の総意とはかかわりなく、その手続きが踏まれていくとすれば、いつの間にか引き返せないところまで進んでしまう。仮に多くの人が反対したとしても、もう遅い、という状況は容易に想像される。

新体育館についても、県民が2021年11月頃に声を挙げていれば、違った結論になっていただろうと私は思う。もちろんこれは後知恵だ。それに、その後に沸き起こった県民の声も決して無駄なものではなく、新体育館や本港区の将来によい影響を与えたと思う。だが、多くの声があったにも関わらず決定が覆らなかったのも事実だ(それに業界団体は概ねDP跡を支持していた)。

少し空恐ろしく感じるのは、そういう、後戻りできなくなる決定が、いろんなところで、今この瞬間にも行われているかもしれないという可能性についてである。いや、今この瞬間どころか、ずいぶん前に我々は後戻りできない道を選んでいるのかもしれない。そういう状況を避けるためには、国民が社会について関心を持ち続けること以外にはないだろうと私は思う。

「国民の関心が少ない感じ」と言われて重要な決定がなされ、威勢のいい独裁者に権力を与え、「いつの間にか戦争が始まっていた」とならないようにしたい。もうその時には、いくら反対を叫んでも遅いのだ。「民主的」に決定した事項は、簡単には覆らないのだから。


※現在、「鹿児島港本港区エリア景観形成ガイドライン(素案)」に関するパブリック・コメントが行われています(2023年10月6日~11月6日)。DP跡からの桜島の景観が気になる方は意見を出されたらよいと思います。
https://www.pref.kagoshima.jp/ah09/keikandezainkaigi/keikandezainkaigi1.html


2023年3月19日日曜日

公立高校の合格発表からのスケジュールがキツキツな問題について

鹿児島では、3月16日に公立高校の合否発表があった。うちでは受験生はいないが、これに関してちょっと思うことがあるので書いておきたい。

さて、鹿児島県での公立高校の合格発表がどのように行われるか知らない人向けに、最初に流れを書いておく。

1.公立高校の合格発表の前日に中学校の卒業式がある。
2.発表当日、受験生とその親(保護者)は自宅で待機する。不合格の場合、中学校の先生から午前中に電話で連絡がある。(合格の場合は電話はない)
3.不合格の場合、その日のうちに三者面談が行われて今後どうするか決める(私立高校に2校受かっている場合はどちらに行くか決めるなど。場合によっては浪人する)。
4.合格の場合、保護者とともに後日(通常翌日)行われる入学説明会に出て手続きを行う。

私はこの合格発表とその後の手続きの流れは、とにかく時間の余裕がなさ過ぎてよくないと思う。

ハッキリ言えば、「1週間、合格発表の日程を前倒しすることもできるでしょ!」と思う(卒業式も1週間早めたらよい。この時期の授業はどうせ形ばかりのもののことが多いし)。公立高校入試の日程に先んじて私立高校の入試が順次行われるので、単に1週間ずらすのは難しいかもしれない。それでも入試日程全体を1週間前倒しにするのは不可能ではないだろう。

なぜ1週間前倒しした方がいいかというと、合格発表から入学までの準備期間が少なく、手続きがすごく忙しいのである。例えば、公立高校合格の場合、普通は発表翌日に入学説明会があり、その日の午後に制服の採寸が行われる。鹿児島市内の高校の場合は山形屋などが会場になり何日間かかけて採寸する。これ自体慌ただしいが、制服を納品する方はもっと慌ただしいと思う。見込で製造しているだろうから、採寸してイチから造るわけではないと思うがそれにしても入学式前に間に合わせるのは綱渡り的だと思う。

それはともかく、逆に公立高校が不合格だった場合は、私立高校への入学金の振込があり、やはり入学説明会出席、制服採寸…となる。入学式までの短い間に手続きが詰め込まれているのだ。合格発表の翌日に入学説明会を行うという強行日程になっているのも、とにかく大急ぎであらゆる手続きをする必要があるためだ。

それでも、まだ親が専業主婦・主夫などで時間の融通がきく場合はいい。しかし共働きの場合は、少なくとも合格発表の日と、入学説明会の日の2日は保護者が休みを取る必要がある(卒業式も含めれば3日になる)。これは鹿児島では必要な休みとみなされているため、この休みに難色を示す職場は少ないと思われるが、それでも近接して2、3日休みを取るのは気が引ける。

さらに大変なのは保護者も人事異動で引っ越す場合である(単身赴任などで)。特に県職員(教職員含む)の場合は人事異動の告示が合格発表の数日後となっている。こうなると、子どもの入学手続き一切をしつつ、引っ越しの手配と準備に追われることになる。スケジュール帳は毎日To Doで埋め尽くされ、一つでも用事がバッティングすると調整が大変だ。

もし、合格発表の日程が1週間早まって、諸手続に数日間の余裕ができれば、保護者の負担はかなり軽減されはずだ。しかもそれは多くの県立高校にとってそれほど困難なことではない。特に鹿児島市以外の高校の場合、受験者数があまり多くないから、実際の採点は数日で終わっている(らしい)。入試の日程をずらさなくても、合格発表の日を前倒しにするのは容易なことだ。

では、なぜその容易なことができないのか。一番大きい理由は、これが人生で何度もあることではないから、保護者からの「日程がきつすぎる!」との声があんまり大きくないためだ。でもそれにしても、こういうキツキツの日程で苦労している人は結構多いのだ。そして学校側も、そういう事情は十分に理解していると思われる。なぜなら、高校の教職員にもわが子の高校入試を経験している人は多いからだ。

それなのに、こういう無理なスケジュールがいつまでもまかり通っているのは何故か。

結局のところ、それは県教育委員会(事務局)に人の心がないからだ、と私は思う。人の心があれば、「こういうスケジュールを組んだら苦労する人がいるだろうな」と思うだろうし、そう思えば少しでも楽できるように工夫するだろう。合格発表の日程だけでなく、教職員の人事異動も次年度の直前まで勤務地が明らかにされないことは多い。それどころか非常勤の場合は新年度3日前まで雇用が継続されるのか自体が不確定だったりする。こういうのも人の心があれば到底できないことだろう。

「人の心がない」なんて大げさな言い方かもしれない。だが少なくとも、現状のやり方を見る限り、県教委は、末端の人々の負担については気にも留めていないことは確かだ。気安く仕事を休めるような人、時間の自由がきくような人には別に問題なくても、休みが自由にとれない人、やるべきことで追われているような人にとって、合格発表の日程はほとんど「試練」なのだ。こういう弱い立場の人々に寄り添わないで、何が教育行政か、と思う。

鹿児島県の教育行政の筆頭に掲げられているのが、「お互いの人格を尊重し、豊かな心と健やかな体を育む教育の推進」である。であれば、合格発表からの手続きで忙殺される人の人格も尊重してしかるべきだ。

もちろん、教育行政には早急に取り組むべきもっと重要な課題は多い。しかしこういうところを変えようとする姿勢を見せることそのものが、未だに遅れた社会の仕組みが温存されている鹿児島に生きる若者に対する、最良の教育になるのではないかと思っている。

2023年1月25日水曜日

鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか

ボロクソに否定した会議のメンバーに。「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」という記事でお知らせしたように、私は鹿児島県文化協会の「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」に参加している。これまでに2回会合があった。

その会合では、鹿児島県文化協会を今後どうしていくか、どうあるべきかということを話し合うのだが、多くの委員から「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という発言があった。

これはなかなか特徴的なことで、その構成員自らが「我々って本当に必要なの?」と疑義を突き付ける組織はそうそうない。

しかしこうした問いかけがあるたびに、「やっぱり必要だよね」という論調に返っていくのもこの会議の特徴かもしれない。その理由は「交流や連携のためには広域組織が必要だから」と集約できる。しかし本当にそうなんだろうか。私が文化協会のメンバーではないからか、どうもここが腑に落ちない。

以下、前回の記事と重なる点もあるが改めて考えてみたい。

まず、市町村の文化協会(以下これを「単位文化協会」と呼ぶことにする)は、そもそも何のためにあるのかというと、最大の存在理由は地域の「文化祭」の開催である。

例えば、南さつま市の加世田では「加世田地域文化祭」が文化の日付近に開催される。単位文化協会の構成メンバーは、短歌の会、演劇団体、コーラスグループ、お茶やお花のグループ、伝統芸能継承グループ、日本舞踊の会などなどであるが、こうしたグループは単独での発表会を行って多くの観客を集めるのは難しいため、合同発表会として「文化祭」を開催するのである。

しかしここでポイントなのは、この「文化祭」は必ずしも単位文化協会の構成メンバーのみが出演するのではない、ということだ。例えば「加世田地域文化祭」では、地域の高校の書道部や吹奏楽部も出演する。また本部は地域外にある文化団体でも、参加を希望すればそれが受け入れられることが普通だ。単位文化協会は「文化祭」の実行委員会である、と考えたらいいかもしれない。

こうした単位文化協会が集まってできているのが、鹿児島県文化協会である。ただしここでも一つ注意が必要である。鹿児島県の各市町村に単位文化協会があるが、鹿児島市には単位文化協会は存在しない、ということだ(ただし合併前の旧町域にはある。吉田と郡山)。

なぜ鹿児島市にはないのか。私にはよくわからない。だが鹿児島市の場合は、同種の団体が割合に多いので、わざわざ異分野の文化団体と合同発表会を行う必要があまりなかった、ということなのかもしれない。発表会をしたいなら、異分野ではなく同分野でまとまればよいからだ。

例えば各地にあるコーラスサークルや少年少女コーラスのグループは「鹿児島県合唱連盟」を構成していて、年に一度宝山ホールで合同の「合唱祭」がある。鹿児島市の場合はこういう「文化団体連盟」の行う発表会が、他の市町村で単位文化協会が行う「文化祭」の代わりになっているのだろう。

なお、鹿児島市にも年に一度の「鹿児島市民文化祭」があるが、これは単一のイベントではなくていろいろな団体がそれぞれに行う発表(日程・場所もバラバラ)を便宜的に「鹿児島市民文化祭」と呼んでいるだけである。

さて、鹿児島市以外の市町村の文化団体は「文化団体連盟」に加入していないかというとそうでもなく、宝山ホールでの「合唱祭」には南さつま市少年少女合唱団も出演している。つまり鹿児島市以外の市町村の文化団体は、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入しているということになる。もちろん、どちらにも加入している団体、どちらかにしか加入していいない団体、そしてどちらにも加入せずに活動している団体もある。

そしてこの「文化団体連盟」も、鹿児島県文化協会の構成メンバーなのだ。県文化協会は、単位文化協会と文化団体連盟による連携協力のための互助組織である、といえる。

さらには、これらとは別に、単一の文化団体も若干ではあるが県文化協会に加入している。例えば、劇団「夢飛行プロジェクト」、郷土芸能中之町鉦踊り保存会、田の神を守る会といったものだ。

ややこしくなったのでこの状況を図示すると次の通りである。ただしこの図では、文化団体連盟・単位文化協会に加入している団体のみを描いているが、実際には加入していない団体は多い。

これまでの話をまとめると次のようになる。

<鹿児島県文化協会のメンバー>

  • 鹿児島県文化協会は(1)単位文化協会と(2)文化団体連盟(3)単一文化団体の3種のメンバーで構成されている。
  • 「単位文化協会」は各市町村の文化団体で構成されるが、鹿児島市にはない(旧町域を除く)。
  • 鹿児島市以外の市町村の文化団体では、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入している場合がある。

そして、県文化協会の主要な事業は何かというと、「県民文化フェスタ」の主催と、会誌「文化かごしま」の発行の2つ。「県民文化フェスタ」は県内全域を対象とした文化祭(場所は持ち回り)であり、「文化かごしま」は情報共有のための機関紙である。

なお、念のためいうが県文化協会は公的機関ではなく、県からのわずかな補助は受けているものの、基本的には互助団体である。

こうした状況を踏まえて、「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という質問を再考してみると、その答えは明らかである。それは「県文化協会は、加盟団体、つまり単位文化協会と文化団体連盟のために存在しており、それらが必要と思えば必要なのだ」ということになる。

「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」のメンバーは、基本的に加盟団体の代表で構成されている(私のような例外もいる)。よってその代表たちが必要と思うなら必要なんだろう。

が! では彼らはなぜ「県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という疑問を抱いたのだろか。その点をちょっと考えてみたい。

前回も書いたように、県文化協会は様々な課題を抱えている。加盟団体の減少、それに伴う収支の悪化、役員の高齢化といったことだ。しかしこうした課題があったとしても、加盟団体が必要と思うならば、「県文化協会を存続させていくためにどうすればいいのか」という議論になるはずで、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」という論調にはならないはずだ。

そのような発言が出るということは、結局は加盟団体自身が「県文化協会の存在意義がない」と感じていると思わざるをえない。それはおそらく、現在の県文化協会の実態が、会則に掲げられた「県民文化の振興に寄与することを目的とする」との理想と乖離しているためだ。

辛辣な言い方になるが、今の県文化協会は、高齢化した加盟団体の「生きがいづくり」のために存在しているようなところがあり、交流や連携というのもごく一部の関係者間にとどまる。これで県民文化の振興に寄与できているのか、そこが会議のメンバーが突き付けた本当の問いではないか。

とはいっても先述のように、組織の成り立ちから考えれば、県文化協会は広く社会にサービスを提供しなければならない団体ではなく、極端に言えばメンバーが満足すればそれでよい互助団体だ。

しかしこれまでは加盟団体も多く、活動がそれなりに盛り上がって社会になんらかの価値を提供できていた実感があったのだろう。それが、団体数の減少や高齢化によって活動が自己目的化し、何のためにやっているのかわからなくなってきた……といったところかと思う。いくら「県民文化の振興のため」といっても、自分たちの活動が実感として文化振興につながっていると思えなければ、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と思うようになってもしょうがない。

そしてその実感のなさの理由をさらに突き詰めていけば、単位文化協会はなんのためにあるのか、というところにまで行きつかざるを得ない。もちろん単位文化協会はたくさんあり、そのおかれた状況は様々だ。我が大浦町の文化協会が2021年、加盟団体数の減少から解散したように解散間際のところもあれば、市町村合併で大きくなり新たな活動を開始しているようなところもある。しかし総じていえば、やはり加盟団体数の減少、役員・メンバーの高齢化、収支の悪化、といったことが共通の課題となっており、活動が低調になっているのが現状だ。

では、単位文化協会の衰退によって県民文化は退潮にあるのだろうか? 

これは簡単に判断ができるようなことではないが、私の実感としては「県民文化」すなわち県民の文化的な活動は、郷土芸能を除いて決して退潮にはない。

というのは、今はインターネットを通じて文化的な活動をしている人がとてもたくさんいるからだ。YouTubeによってかつてないほど学びの敷居は低くなり、特に楽器の練習は容易となった(うまくなるかは別として)。文芸(短歌・俳句・詩・小説・エッセイ)は気軽に発表できるようになったし、発表というほどでなくても、絵・写真・書道などの作品をFacebookなどで見せている人は多い。手芸についても、アクセサリーや小物づくりなどは今多くの人がプロ並みのものを作り、Instagramを使って集客するマルシェなどで盛んに販売されている。そして生涯学習の面でも、多くの人が通信講座やインターネットを介した勉強で資格試験に果敢にトライし、キャリアアップにつなげている。

一方、単位文化協会を構成する団体は、かつての公民館講座を母体にしたものが多く、書道・華道・茶道・陶芸・踊り・伝統文芸など「旧来型の文化」に属するものがほとんどだ。こういう「旧来型の文化」が退潮にあるからといって、県民の文化活動自体が低調だとはとうてい言えない。

むしろ、県民の文化活動の中心とずれたところに単位文化協会があるから、自然と衰退していった、というのが本当のところではないだろうか。結論的にいうならば、単位文化協会はもはや県民文化を支える存在ではないのである。

そもそも、先ほど述べたように鹿児島市には単位文化協会は最初から存在しない。それでも、鹿児島市民が文化活動をするのに苦労しているという話は聞いたことがない。それだけでも、単位文化協会の存在価値に疑義を抱かせるのに十分だろう。もちろん地域の「文化祭」の実施は大切であるが、逆にいえば「文化祭」の実行委員会の機能さえあればよい。単位文化協会はなくてもいいのである。

だからこそ、その互助団体である県文化協会が「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と疑問を突き付けられるのだろう。県民文化を支えているわけでもないのに、自分たちは何のためにやっているのか、と感じてしまうのではないのか。

今回の会議=「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」は、あくまでも県文化協会の今後を考えるもので、単位文化協会をどうする、ということを話し合うためのものではない。しかし県文化協会の在り方を考えていくと、単位文化協会の在り方にまで踏み込んでいかざるを得ないと私は思う。この意見に対して、おそらく会議のメンバーは「そんなことを議論すると収拾がつかなくなる」というだろう。しかし課題の根幹はそこにあるのではないか。

私は、単位文化協会などなくしてしまえ! と言いたいわけではない。彼らも互助団体なのだから、私のような外野がとやかくいう権利はない。だが彼ら自身から存在意義の根幹にかかわる疑問が提出されている以上、「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」はそれに真正面から向き合うべきだと思うのだ。

根幹に触れずに価値ある議論ができるのか、私には疑問である。

(つづく)

2022年5月29日日曜日

鹿児島の郷土作家、名越 護さん

拙著『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が遂に手元に届いた。

公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。

【南薩の田舎暮らし】『明治維新と神代三陵:廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(1870円(定価販売)、送料無料)

そしてこの度、拙著に名越 護(なごし・まもる)さんから推薦コメントをいただいた。

本書をすすめる

なぜ神代三陵が鹿児島県内に比定されたのか、天皇を中心とする明治政府は、国家神道をめざして廃仏毀釈を蛮行したが、なぜ鹿児島だけが率先して決定的な「寺こわし」を徹底したか。そして彼らが目指した「国家神道」で、なぜ各地の人々の身近にあった多くの産土神を、すべて記紀に記された神々と合祀していったか——。政治が宗教までも抹殺して庶民の心まで奪い、一方的に天皇制を強化していった姿を、史料類を詳細に調べて明治維新の“負の部分”を明らかにした好書である。
           名越 護(鹿児島民俗学会員)  

名越護さんは、鹿児島の徹底的な廃仏毀釈についてまとめた『鹿児島藩の廃仏毀釈』の著者で、存命中では、質・量ともに一番の郷土作家。鹿児島ではファンの多い名越さんに推薦コメントをいただけたことはとても心強い。

しかし名越さんは、あまり人前に出ていくタイプではないし、新聞やテレビでコメントするようなことも少ないので、鹿児島でも知らない人は多いかも知れない。まだ誰も「名越護」についてまとめた人がいないようなので、僭越ながら少し名越さんについて語ってみる。

名越さんは、昭和17年(1942)奄美大島宇検村生まれ。立命館大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社して記者になった。記者になって10年ほどたった昭和50年(1975)頃、鹿児島の民俗学者・小野重朗さんの『かごしま民俗散歩』を読んで民俗学に興味を持ち、民俗学を学んだ。

そのため、祭りや伝統行事を伝える新聞記事も、名越さんの手にかかると一種の民俗学のフィールドワークの面持ちがあり、今の新聞記事にはない深みがあった。

名越さんは、南日本新聞社加世田支局(現南さつま支局)に昭和50年代後半に赴任。そこで「ふるさと流域紀行 万之瀬川」というとんでもない連載記事を書いた。これは万之瀬川の流域(主に今の南さつま市、南九州市)の自然や文化、神話や伝説、産業や人々の暮らしについて地域の特色を描いたもので、昭和57年(1982)3月から7月までに60回に渡り連載された。1回の記事は1500字程度。綿密な取材を行った上で、地域の様々な事柄について自分なりに考察した部分も多く、民俗学的視点が発揮されている。

この連載記事は、内容もすごいがそれ以上に驚かされるのは、たった3ヶ月半程度の間に60回もの記事が発表されている、ということだ。記事は毎日あるいは1日おきくらいで掲載された。この濃密な連載をとんでもないスピードで書いていたことは驚愕以外の何物でもない。しかも、もちろんこの他に通常の記者としての記事も書いているのである。

この連載記事は、郷土を知るための恰好の地域誌となっており、今は失われた祭りや民俗の記録ともなっていて資料的価値も非常に高いため、南さつま市観光協会が2019年にまとめて翻刻している(非売品だが協会に行けばもらえる)。

この大仕事を終えて後、名越さんは南日本新聞社文化部に在籍。ここでは鹿児島県全域が取材対象となる。そこで連載「かごしま母と子の四季」を自ら企画し、昭和60年(1985)、週一回一年間連載した(53回)。これは県内各地を巡って、祭りや伝統行事を女性や子どもに注目して取材しまとめた「民俗ルポルタージュ」。祭りというと、どうしても男性がやる派手な所作などに注目が集まるが、この連載では団子を作る女性や、時として神の代わりとなる子どもたちを取り上げたことが新鮮だ。取材においては、小野重朗さんもいろいろと指導をしたらしい。

さらに翌61年(1986)には、週二回の年間連載「かごしま民俗ごよみ」を95回連載した。これは祭りや伝統行事だけでなく、民俗信仰まで含めて県内各地を取材し改めてまとめたもの。2年連続で手間のかかる企画連載記事を手がけたことは、この時期の名越さんの気力体力がいかに充実していたかを物語る。

そして、これらの記事を見ると、民俗学の視点や伝説や言い伝えの考察といった名越さんならではの深みは当然のことながら、取材の丁寧さや文字の多さだけ見ても今の新聞記事とは隔世の感がある。今の新聞の悪口を言ってもしょうがないが、昨今は写真ばかりが大きくなり(しかも記者本人が撮っているためおざなりなものが多い。当時の写真はカメラマンが同行し、ちゃんと現像した写真だ。写真にかける力が違う)、文章は必要以上に削られて、ほとんど紋切り型の説明しかできなくなっている。

だからきっと、今の南日本新聞にこれだけの力量がある記者がいたとしても、宝の持ち腐れになるだろう。昔の力作記事を見ると、どうしても今の新聞の凋落を感じてしまう。

それはともかく、名越さんは南日本新聞で精力的に記事を書いた。日々の取材の記事だけでなく、民俗学の視点から主体的に鹿児島を切り取っていった。そして2003年で定年退職し、執筆活動に入る。主要な作品を書き出してみると、こんな感じだ。

  • 『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』(2002年、南日本新聞開発センター)
  • 『薩摩漂流奇譚』(2004年、南方新社)
  • 『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(2006年、南方新社)
  • 『鹿児島藩の廃仏毀釈』(2011年、南方新社)
  • 『自由人西行』(2014年、南方新社)
  • 『田代安定 : 南島植物学、民俗学の泰斗』(2017年、南方新社)
    ※南日本出版文化賞受賞
  • 『クルーソーを超えた男たち』(2019年、南方新社) 
  • 『ふるさと流域紀行 万之瀬川』(2019年、(一社)南さつま市観光協会)
    ※私事ながら、本書の刊行には私自身も関わった。
  • 『鹿児島 野の民族誌——母と子の四季』(2020年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま母と子の四季」
  • 『鹿児島民俗ごよみ』(2021年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま民俗ごよみ」

さらにこうした作品を執筆する傍ら、鹿児島民俗学会会員として、学会誌『鹿児島民俗』に数々の論文も発表してきた。私自身はこれらのうち一部しか目を通していないが、書名だけを並べても、名越さんでなければ書けない、しかも誰かは書かなくてはならなかった重要なテーマにずっと取り組んできたことが明白である。

特に『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は薩摩藩の植民地だった奄美において、黒糖製造業の犠牲となった債務奴隷ヤンチュの実態を明らかにした名著であり価値が高い。

そして徹底的に行われた鹿児島の廃仏毀釈を、各市町村郷土史をベースに現地取材して描いた『鹿児島藩の廃仏毀釈』は、「南方新社史上、最も売れた本」と言われている名作である。もちろん、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の執筆においても大いに参考にさせてもらった。

そんな名越さんは、2022年5月、自身「最後の著作」と位置づける『新南島雑話の世界』を南方新社から上梓された。 15冊目の本だそうである。これは、幕末に奄美に島流しにされながらも、奄美の文化や自然について克明な記録を残した名越左源太(なごや・さげんた)の「南島雑話」を読み解くものである。旧作『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』が祭事を中心としていたのに対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心に現在の奄美の情報も付け加えたもの。奄美生まれの名越さんの「奄美愛」が詰め込まれているように思う。

このように名越さんは、新聞記者時代には生きた鹿児島の民俗を記録し、退職後は独自の視点で郷土史研究を行い、これまたとんでもないペースで本を書いてきた。名越さんが第一級の郷土作家であることが、これでおわかりいただけたと思う。

そして私事ながら、名越さんには著作の上で多くの示唆を受けただけでなく、直接にもいろいろとお世話になっている。すごい人なのに、いつも控えめでにこやかに微笑んで下さる方である。この度拙著への推薦コメントも、お願いしたら快く引き受けて下さり、数日後にはコメントを手紙で受け取った。

名越さん、いつもありがとうございます!!


2017年5月10日水曜日

「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」

鹿児島の皆さんは、「KagoshimaniaX(カゴシマニアックス)」をご存じだろうか?(画像はイメージキャラクター)

「鹿児島をアツくユルく紹介するWEBメディア」、まあ平たく言えば、気軽なノリの地元情報ブログである。

実は、このカゴシマニアックスが、密かに「砂の祭典」とコラボしていたのでここにお知らせしたい(後日、砂の祭典公式HPにも出てくると思います)。

せっかく「砂の祭典」に遠方から来てもらっても、祭典会場を見るだけでとんぼ返りしてしまっては地元民としては少し寂しい。せっかくだからついでにどこかに寄ってもらうとか、別にお金を使わなくてもいいからドライブだけでもして帰ってもらいたいと思う。そもそも、「砂の祭典」はそういう地域への波及効果を目的としてやっているイベントだ。

だから、「砂の祭典」の公式ホームページで南さつまのオススメスポットなんかを紹介していってもよかったのだが、それだとどうも面白味がない。「南さつま海道八景」なんか確かに素晴らしいけれども、そういう定番スポットをいつも通り宣伝するのではなくて、若い人に向けて違った案内ができないか?

そういうことから、鹿児島のナウなヤングに絶大な支持を誇るカゴシマニアックスとコラボして、「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」をやってもらおうと思ったのである。

勘違いして欲しくないのは、コラボと言っても、「ここを紹介してくださいね」というような、いわゆる提灯記事は一本もないということだ。カゴシマニアックスの管理人・僕氏こと中園さんの案内は私が買って出たが、私がオススメするスポットをゴリ押ししたわけでもない。それどころか天気にも嫌われて、案内したいところに全然案内できなかった…。基本的には、その場のノリと先方の希望に沿ってユルく案内したわけである。

それでできた記事がこちら!
南さつま市加世田の幻のパン「田中ベーカリー」を知っているか
世界の大迫勇也が愛する味!南さつま市の「萬来ラーメン」
京うどんの名店、南さつま市「彌蔵」で伝説のマンガに出会ったハナシ。
南さつま市「くじらの眠る丘」で伝統の味「こめ飴」に出会った。
南さつま市に伝わる「内山田七不思議」に挑戦してきた結果・・・!
フリーダムな南さつま市の物産販売所「にいななまる」には家づくりに重要なアレが売ってた。
南さつま市加世田のオシャレカフェ「伊太利亜」でパニーニとカツカレーを食べたハナシ。
※加世田の和洋菓子屋「清月堂」の記事もあったはずだかなぜか見つけられず。
この中で一番感心したのは最初の「田中ベーカリー」の記事。私の知ってる範囲では反響も一番大きかった。加世田育ちの人には、なんとも懐かしく、いろんな思い出を引き出すキーになるようなパンが「田中ベーカリー」だと思うが、別に私から何も言ってないのにそれを最初に書いたのにはビックリした。中園さん、ぼーっとしているように見えて(笑)そういう嗅覚が鋭い。実は、私も「田中ベーカリー」についてはブログで紹介しようと思っていたので先を越された「しまった!」感もある。

そして、 一応の趣旨は「地域への波及効果」なのにも関わらず、「砂の祭典」のついでには誰も行かなそうな「内山田七不思議」を巡ったのも、よかった。ヤラセっぽくなくていい。というより、ヤラセは一切なしである。ちなみに、この「七不思議」の取材は体力も時間も使って一番大変だったと思う…。

また、カゴシマニアックスのFacebookページでは、過去記事の中から南さつま関係のものを改めてピックアップしてくださった(「万世ストア」の鳥刺しは必見)。
南さつま市加世田「万世ストア」の鳥刺しは他とはちょと違う激ウマ。加世田までそれだけの目的で走っていいレベル。
南さつま市の阿久根商店のうどんそば自販機でちょっとマニアックなうどんそばが食えるよ。
南さつま市加世田のPico、からあげが有名なんだけど・・・アレが棒状になってた。
さらに、もちろん実際に会場にも行って、現場レポもしてくださった!
砂像!おしゃれカフェ!花火!「吹上浜砂の祭典」はインスタグラマーのパラダイスだ! 

「砂の祭典」のメインイベント期間はGW中だが、5月中は「セカンドステージ」として入場料が半額で入れる。花火や飲食ブースはないが、砂像の鑑賞という意味ではこっちの方がゆっくり見られるし、土日にはいろんな催しもある。ただ、一日ずっと「砂の祭典」の会場で遊ぶというわけにもいかないので(会場内に飲食があまりない)、ぜひカゴシマニアックスの記事を参考に、南さつま周遊の小旅行を楽しんでいただきたい。

※ちなみに、5月27-28日に行われる「HANAVILLA MARKET-ハナビラ マーケット-」には「南薩の田舎暮らし」も出店します。同日はビーチステージという音楽イベントもありますよ!

【参考】セカンドステージ イベント情報(砂の祭典公式ホームページ)

「砂の祭典」とのコラボ記事に限らず、カゴシマニアックスの発信を見ていて思うのは、「街は自分なりに楽しんだらいい」ということだ。もちろん観光パンフ片手に巡るのでもいい。路地裏ばかりうろついてみるのもいい。史跡を訪ねる、グルメを楽しむ、ドライブする、なんでも楽しければいいのである。

「南さつまに来たらぜひここに行ったらいいよ!」という場所も地元民的にはある。例えば大浦の「亀ヶ丘」。「亀ヶ丘」に来てもらったら地元民的には嬉しい。でも来てくれた人が、南さつまの魅力を自分なりに発見してくれたらもっと嬉しい。カゴシマニアックスとのコラボは、そのための一つのケーススタディかもしれない。

2015年8月11日火曜日

川内原発再稼働に想う

川内原発が再稼働した。大変難しい問題で、これについてはブログなどでは語らない方がいいような気がする。でも大きな問題でもあるので、県民の一人として洞ヶ峠を決め込むというわけにもいかないという気持ちである。

最初に言っておくと、これを表明するのはたいへん勇気がいるが、私は脱原発派ではない。

震災後にこちらへ移住してきているので、当然私を脱原発派だろうと思っている人が多いだろうし、職業も「百姓」を名乗っているくらいなので、地球環境に負荷を掛ける原発には反対だろうとみなさん想像されると思う。

だが原発推進派というわけでもない。福島であのような事故(そしてその後の情けない対応!)が起こってしまった以上、我々日本人には(少なくとも今は)原発のような難しいものをマネジメントしていく能力がないことが明らかになってしまったので、経産省の言うように原発が「重要なベース電力」を担っていくことなんかできないんじゃないか、とは思っている。20年くらいかけて現在ある原発は順次廃炉にしていくべきではないかと思う。

しかし、それと即時廃炉・脱原発、というのとはちょっと距離がある。

といっても、即時廃炉派の人の意見も分かる部分はある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人のことだから、今のタイミングで脱原発できなければ、ズルズルと元に戻っていくのではないか」という危惧が即時廃炉派の人にはあるのではないか。確かに日本人は物事をジワジワと地道に変えていくのが不得意である。変えるときは一気に変えるのが性に合っている気もする。

川内には直接の友人はいないので、川内の人が原発をどう思っているのかはよくわからない。でも伝え聞くところによれば反応は複雑だ。原発推進や反原発といったわかりやすい主義主張の対立というより、その中間の大きなグレーゾーンの中で人々は落ち着かない日々を過ごしているように感じる。

元々川内原発は(他の原発も似たようなものではないかと思うが)地元の熱烈な誘致によって出来たものである。これといった産業がなかった川内の活性化のために原発を呼び込んだのである。当然、その際には原発の危険性などは地元住民には十分に伝わっていなかったし、原発誘致をした当人ではない現在の川内の住民たちに責任はないが、設立の経緯からすると川内に原発が立地していることの責任は九電のみにあるわけではない。

そして、川内という地方都市は、原発があることを前提に発展してきた。もちろん事故は怖いわけで、ないならないに越したことはない。でも経済の基盤をいきなり失うのも怖い。今は暫定処置として稼働していない原発(が立地する自治体)にも交付金が出るようになっているが、そんな制度は長続きしないだろうし、何より原発が稼働しなければそこに働く多くの人が失業することにもなる。地元住民としては、脱原発するにしても次の経済基盤を作るのが先決、という気持ちではないだろうか。

政府及び九電は、法律によって必要な手続きではなかったにも関わらず、再稼働には事実上地元自治体の同意が必須だとして、議会へ意見を求めた。そして薩摩川内市の市議会、また鹿児島県議会でも再稼働に同意する議決が出ている。今回の再稼働は民意を無視しているという人もいるが、手続き的には民意に添っている。直接恩恵を受けるわけではない周辺自治体の人たち(私もその一人)の意をあまり汲んでいないという批判はあるにしても、まるきり政府や九電の独走というわけではない。

もちろん、薩摩川内市の市議会、そして県議会が市民や県民の真の代表たり得ているか、ということは一考を要する。ちょっと産業寄りすぎるきらいはある。でも私の実感として、市民や県民の複雑で割り切れない思いを議会はそれなりに共有していたように思う。

ただ、再稼働同意ということが最終的な民意か、というとそれは違う。割り切れないグレーゾーンの人たちが、暫定的に選んだのがそれであって、川内はこれからも原発の街でやっていく! という結論が出たわけではない。その意味では、まだまだ議論すべきことはたくさん残っていて、私としては、ようやくこれから落ちついて議論ができるようになったのではないかとも思っている。

ここですごく心配なことがある。原発再稼働そのものよりももっと心配だと言ってもいい。それは、脱原発派、原発推進派、そしてその間のグレーゾーンの人たちの間で、全く対話が成り立たないことである。

脱原発派の人たちは、原発推進派の人たちを政府の狗か経済至上主義者の愚昧な輩と思っているし、一方原発推進派の人たちは、脱原発派の人たちを現実を見ないお花畑だと思っている。互いに互いをバカにしていて、「バカだからあっちの派閥なんだろう」と互いに思う始末である。

こういう調子だから全然対話が成り立たない。お互いに見ているものが違いすぎて言葉が通じない。互いに軽蔑し切っているから、対話するための最低限の条件、いやたった一つの条件である「互いを尊重する」ということができない。今こそ対話が必要な時なのに、対話どころか挨拶すらできないような状況になっているのは残念だ。

そしてもっと気になるのはその間のグレーゾーンの人たち。脱原発派と原発推進派がいがみあっているものだから、どうしてもそこから距離を取ってしまう。普通の人の普通の意見が表明しづらくなって、元より割り切れない意見がさらに曖昧なものになる。この人たちはその考えの深さの度合いはともかくとして、対話や議論の先に現実的な解決策を見つけなければならないと感じている人たちだと思う。それが議論の輪の中に入ろうとしない、それが最も危険なことのように感じる。極端な意見だけが取り上げられて、それが対立を更に煽り、普通の人がどんどんそこから遠のいていく。

もちろん、過激な意見も時に必要である。水俣病の時には過激な意見がなければ住民は見殺しされていただろう。国家権力に逆らって正しいことを成し遂げるには時に住民をも置き去りにするような過激さが必要だ。しかし今の場合はちょっと違う(と私は思っている)。鹿児島県民は、落ちついてどうすべきか考える時ではないか。

こういう時には、モデレーターがいる。つまり調停者である(皮肉なことに、原子炉の減速材という意味もある)。異なる立場にある人の間を取り持って、少なくとも対話が成立するようにする人だ。いがみ合うのではなく、より大きな立場で(極端に言えば人類全体くらいの視野をもって)共通の土台に立って共に前進できるように取りはからう人だ。

今はアクティビスト(活動家)には事欠かないがモデレーターはどこにもいないようだ。このように対立が深い問題なので、これを調停してやろうと思うような人はいないのだろうし、双方が、そのような対話路線を取ることは愚かなことだと思っているのかもしれない。

私にもう少し力があれば、こういう時に、政府・九電や産業界と脱原発派の間で少しでもよいから対話できる機会を作ってみたいと夢想する。地元の、本当に地元の普通の人と、政府の下っ端の役人や九電の中間管理職と、脱原発でユルく活動している人に、同じ席に座ってもらって、「いやー、最近本当に暑いですねー」みたいな挨拶程度の、中身のない話をする場を設けてみたい。それで何かを変えるのじゃなくて、みんな同じ人間なんだということを確認したい。

どこかに絶対の真理があるのではなく、一寸先は闇の中を手探りしながら人間は先へ進んでいく。手探りするならその手は多い方がよい。脱原発派も原発推進派も、そしてその間の人も、未来へ向かって手探りするのに手を貸して下さい。

2014年2月6日木曜日

森田寿香と吉峯次右衛門の協力——鹿児島本願寺小史(5)

明治初期、鹿児島に真宗が急速に広まった大きな要因は、自葬禁止の布告だったのであるが、それは他の仏教諸派にとっても追い風だったはずである。

真宗以外は廃仏毀釈等の政策で痛手を蒙っていたにしても、人々に馴染みが深かった禅宗や真言宗は少数ながら鹿児島に僧侶を派遣していたようであるし、東本願寺(真宗大谷派)も数名の僧侶を派遣し、西南戦争のゴタゴタに巻き込まれながら布教活動を行っていた。

そんな中で、西本願寺(真宗本願寺派)が圧倒的な存在感を持つに至ったのはなぜだろうか? これまでも触れたように、それには明治政府高官との人脈が影響してもいるが、もっと重要なことにその資金力がある。

何しろ、布教活動には金が必要だった。交通費や宿泊費はもちろんだが、それ以上に重要だったのは政官界への対策費用である。西南戦争の敗北で大分痛めつけられていたとはいえ、当時、鹿児島の政官界は士族に牛耳られていた。士族には目の敵にされていた真宗であるから、なんとかこれを懐柔し、地方政府の公認を得なくては布教活動をスムーズに進めることができなかった。

そのために、西本願寺は鹿児島県に対する積極的な寄附を行うのである。例えば、明治10年12月には西南の役の罹災救済費として1万円を、明治11年には学校奨励費として2000円を本山が県に寄附している。その後も、
  • 明治13年、本山より産業奨励費として1万5000円。
  • 明治15年、大谷家より病院附属建物を寄附。
  • 明治16年、殖産奨励費として1万5000円(後の県立興業館の費用)。
  • 明治17年、鹿児島別院より興業館における勧業博覧会へ1000円。
  • 明治17年、鹿児島別院より宮崎監獄教誨所設置費へ600円。
といったように、猛烈な寄附が続いている。当時の1円は現在の価値にすると約2万円であるから、ここに挙げただけでも、現在の価値にして9億円ほどを寄附していたことになる。鹿児島での布教活動は、度外れて金のかかる事業だったのである。

この膨大な資金の源は、最初は京都の本山であったが、次第に本山は拠金をしなくなっていく。そもそも、布教活動の費用は獲得した信者からの寄附によって現地でまかなうのが基本であって、布教活動は金銭的に自立することが求められていた。むしろ本来は、逆に地方から本山へ年間3000円余りの冥加金(上納)を納めることになっていたくらいで、鹿児島の場合のように、本山が地方の布教事業のために大枚をはたくというのは異例なことであった。

しかし、西南戦争直後、鹿児島の市街地は焼け野が原になっていたから、仮に信者を獲得することができたとしても、信者からの寄附が望めないのは当然である。そこに生活していた人は何もかも失った状態から、まずは日々の暮らしを再建しなくてはならなかった。だから資金面において、西本願寺の開教史たちはすぐに苦境に陥ったのである。

であるから、自然のなりゆきで西南戦争の被害を受けていなかった南薩地域が資金源として重要になってくるのである。そして、西本願寺の布教活動を語るには、その活動を資金面で大きく支えた南薩の豪商カネシチ」と「丁子屋」の存在を欠かすことができない。そこで、この2つの商家と西本願寺の関わりを少し詳しく見ていくことにしたい。

この2つの商家が本拠地としていたのは、南薩の万世という街である。旧加世田市にあり、当時の地名では大崎と言う。ここは古くより商港を持ち、貿易によって栄えた南薩の商業の中心地だった。この街で江戸時代中頃から勃興したのがカネシチと丁子屋の二大廻船問屋である。その商売は重なるところもあったが、概ねカネシチは呉服など衣料品、丁子屋は食料品を中心とした商いをしていたようである。両商家は数代にわたる婚姻関係で結ばれた親戚でもあり、共同して莫大な富を築き上げた。特にカネシチの邸宅は宏壮であり、京都から呼び寄せた庭師による優美で広大な庭園があったという。

明治のこの頃、カネシチの当主を森田寿香といい、丁子屋の当主を吉峯次右衛門といった。森田寿香は、紳士録などの公的記録では森田七左衛門とされていることもある。カネシチでは、代々「七左衛門」の名を受け継いで行くのが習いだったからだ。

信教自由の布達があった明治9年の頃、森田寿香はいち早く真宗に帰依したようだ。早くも明治11年には、万世に説教所が開設されていることからもそれはわかる。これは今も街に残る顕証寺の濫觴となるもので、県内でも最も早くに開設した説教所の一つである。信徒総代は、森田寿香と吉峯次右衛門が共同で務めた。本堂と庫裡の建設に要した費用はほとんど全てこの2人でまかなったようである。どうやら、森田が最初に真宗に帰依し、弟分だった吉峯を引き入れる形で真宗の布教活動の支援が始まったらしい。

どうして森田寿香、おって吉峯次右衛門がいち早く真宗に帰依したのか、ということの真相は不明であるが、どうもこの両家には信教自由の前から真宗への信仰があったように思われる。というのも、鹿児島では真宗は禁教とされていたけれども、廻船問屋を営んでいる関係上、彼らは藩政時代より日本全国を廻っていたわけで、江戸や大坂(大阪)で真宗に触れていないわけがない。伝説では、丁子屋には、真宗への禁遏が激しくなったとき仏像を持って船に乗り、そのまま返ってこなかった祖先がいるそうである。

さて、森田寿香の名前が真宗布教活動の表舞台に出てくるのは、西本願寺鹿児島別院の本格的な本堂建築にあたって建築総裁に就任したとき、明治11年の秋が最初である。森田は総裁就任にあたって、さっそく500円を寄附してもいる。森田を建築総裁、つまり別院建築の責任者という重役に起用したのは、彼の指導力や経験を買ってのことであることはもちろん、豊富な財力も期待してのことであったろう。記録には残っていないが、おそらく、これに先立ってかなりの寄附をしていたに違いない。

別院建築は当初本堂3000円、書院3120円の予算であったが、建築のうちにいろいろと追加され、途中資金が足りなくなった。そこで、『鹿児島本願寺開教百年史』の記述によれば、「急遽、加世田まで岸大悟(※出納係)が出向いて、カネシチと丁子屋より1000円を用立てて」もらったそうである。この記述を読む限り、「カネシチと丁子屋にいけば、確実に金を貸してもらえる」という確信があったのだろう。金を貸すといっても、当然返すアテもなく、「お金を下さい」とは言いづらいから形式上貸借のカタチにしているだけで、その実態は寄附であった。

その後、明治12年に連枝(宗主明如の実弟)日野澤依が鹿児島巡教をした折にも、加世田に立ち寄った際はカネシチと丁子屋に泊まっており、両家は御召馬一匹を献上し、それに対して、日野は宗主の一行物、自身の額字を下付している。当時の馬といえば、今で言う5トントラックのような存在であるから、どのくらいの価値があるものかわかるだろう。

なお、明治15年に別院拡張の工事を計画した際も、金策にあたった伊勢田雲嶺は「早速加世田の森田寿香より800円を[…]借用」している。この「早速」という表現を見るにつけ、少しイジワルな言い方だが、別院が財政面で安易に森田を頼り、金を無心していた様子が窺える。

こうした調子で、西本願寺がことある事にカネシチ、丁子屋から寄附を受け、またそれを期待していたのは、公式記録を眺めるだけでありありと分かる。財政面でこのような影響力をもった存在は他にない。一体両家が累積でどれくらいの寄附をしていたのか今となってはわからないが、(顕証寺に宛てたものは別にして)おそらく2万円は下らないだろうというのが私の感覚である。現在の貨幣価値にして、4億円くらいだ。カネシチと丁子屋は、そういうお金を出すことができた豪商だったし、自分たちの生活を質素なものにしてでも、お寺の発展を願った敬虔な門徒だった。

この頃に両豪商からの支援を受けられたことは、西本願寺にとって随分大きなことだったと思う。おそらく、彼らからの支援なくしては、鹿児島の布教事業は20年は遅れたに違いない。現在鹿児島で真宗本願寺派が非常なる興隆を見せていることの理由の一つが、この両家の財政支援にあるといってもよいだろう。

しかし、西本願寺の活動における両家の存在感は次第に薄くなっていった。その理由としては、第1に、西南戦争からの復興が進んで鹿児島市街地の商業が盛んになり、南薩の重要性が相対的に減じてきたこと。第2に、明治30年に西本願寺の法主・大谷光瑞が鹿児島に下向し、島津氏との交誼を開いたことが挙げられる。これにより士族間にあった反真宗の敵愾心は随分柔らぎ、士族間へも真宗が浸透していった。

そして第3に、商業都市としての万世の凋落も挙げなくてはならない。海運の時代から鉄道を中心とする陸運の時代になり、商港を擁する意味が低下したことが大きい。さらに、時代は下るが支那事変が勃発すると、多くの物資が統制されて当たり前の商売は営めなくなっていった。特に呉服が中心的商材であったカネシチの場合はこれが致命的な打撃になった。呉服は切符制の配給品となって組合が扱う品となり、南薩の呉服を一手に引き受けていたというカネシチの販路が取り上げられたのであった。

一方で、「真俗二諦」を掲げて政府に迎合した真宗は、次第に戦争協力へとひた走っていく。軍人への布教はもちろん、他を圧する従軍布教僧を戦地に送り、国家への忠心は念仏と一体であるとし、多くの兵士が「南無阿弥陀仏」と唱えながら天皇に命を捧げたのであった。実は、カネシチの跡取りも満州で戦死している。そのために、この歴史ある大商家は遂に断絶することになった。今では、カネシチ(森田家)の邸宅があった場所は、電器店がある他は寂しい空き地と変じてしまっている。今も残る万世の丁子屋の、右隣の土地である。

そして今では、カネシチの森田寿香と丁子屋の吉峯次右衛門が、鹿児島の西本願寺の興隆にどれだけ大きな貢献をしたか知っている人はほとんどいない。京都の本山にある、親鸞聖人の墓がある大谷墓地、まさにその親鸞聖人の墓のほど近くに、鹿児島からはたったの3家のみが墓を持っていて、それが森田家、吉峯家、そしてこれまで説明していなかったが海江田家なのだという。それだけが唯一、明治の昔に真宗布教に邁進した人物の記憶を留める遺産である。

ちなみに、この3家は西本願寺鹿児島別院の初代勘定役(財務担当)であって、海江田家も「カネヒラ」という屋号で廻船問屋を営んでいた市来の豪商である。実に、鹿児島の真宗本願寺派というものは、藩政時代からの豪商を味方につけたことで大きくなった教団なのである。

しかし、今では西本願寺鹿児島別院自身が、そういった歴史には無頓着なようである。寄附というのは物質的な見返りを期待してやるものではないから、それもしょうがないことだろう。しかし、報恩(仏恩に報いよ)ということを重視する真宗であるから、たまには俗世の恩義も思い出したらよい。石碑を建てるとか、ことさらに顕彰する必要はないし、地元の人もそんなことは求めていない。

ただ、今南薩の経済は元気がない。特に万世などは、鉄道網から外れたことをきっかけに、かつての賑わいの片鱗すらも感じられない有様である。今では高齢化と人口減少に喘いでいる。こうした状況を打破するのは、人々の努力と創意工夫しかないが、それに別院も少しだけ力を貸してくれてもよいのではないだろうか。例えば、顕証寺を使って法話を行うでもよい。それに私は、お寺というのは田舎の重要なインフラだと思っている。なぜなら、帰省する人々の窓口にもなっているからだ。お寺を情報発信の場やイベント会場として使うこともできよう。

今こそ、真宗は真俗二諦を掲げるべき時である。真諦=念仏による往生と、俗諦=地域経済の発展は矛盾しないというべきだ。私も、形式上ではあるが、門徒の末席を汚すものである。お寺という財産を、未来のために活かす時が来ていると思っている。

【謝辞】
本稿を書くにあたって、丁子屋さん(吉峯家)に取材させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

【参考資料】
『本願寺開教五十年史』1925年、本願寺鹿児島別院 編
『鹿児島本願寺開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明香)
『市来町郷土誌』1982年、市来町郷土誌編纂委員会 編

2014年1月28日火曜日

鹿児島の真宗が墓参りに熱心なわけ——鹿児島本願寺小史(4)

これまで見たように、西本願寺による鹿児島の布教活動には数々の困難が伴っており、およそ成功するような事業ではなかった。乱暴にまとめてしまうと、当時の鹿児島には、真宗の教えを受け入れる素地がなかったのである。

しかし実際には、西本願寺による布教活動は大成功することになる。明治期に建立された寺院のほとんどは真宗のものであったし、それは現代でもさほど変わらない。鹿児島県は真宗率の最も高い県の一つになったのである。それはなぜだろうか?

実は、当時彼らの布教活動を強力に後押しした明治政府の政策があった。それは、鹿児島での信教自由に先立つこと4年前、明治5年に出された「自葬禁止」の太政官布告であった。

それまでは、葬式といえば庶民は共同体で営むものであり、神官や僧侶は必ずしも同席していなかった。そこで政府は神官・僧侶が執り行わない葬儀を禁止し、彼らに葬式を管理させることにしたのである。死者を勝手に葬ることはできなくなったのだ。

どうして葬儀を神官・僧侶に管理させる必要があったのか、ということは少しく説明を要する。 明治4年は、全国的にも信教自由の前で、神道が国教化されていた時代である。明治政府は人心を神道により収攬することを企図し、神仏分離を始めとして様々な宗教政策を実施していたが、その要諦は、全ての宗教を国家の管理下に置き、宗教活動の中心を「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」に組み替え、もって愛国と服従を教え込むことにあったと言える。

真宗が「真俗二諦」を打ち出したのもそのためだ。「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」という、阿弥陀仏への信仰とは異なる考え方を教義上で正当化するため、真諦=真宗の元々の教え、俗諦=国家の教え、というように一応区分し、それが矛盾しないことを説明しなくてはならなかったのである。

ここで注意しなくてはならないのは、「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」は一見別のものに見えてその内容は密接に関連しているということである。明治政府が肇国の聖典とした記紀神話は、各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるが、これは言葉を換えて言えば「遙かな過去に遡れば、誰でも天皇家と親戚関係・主従関係になる」ということで ある。

であるから、明治政府は各自の祖先を敬うことがひいては皇祖=神を敬うことになると整理し、そのために神社整理の際は記紀に位置づけられない土着の神社を廃したり改名して、記紀神話に基づいた神社を創建したのである。こうして、「皇祖・敬神」という、庶民にとってはとても理解しがたい、抽象的な信仰が、それぞれの祖先を敬うという具体的なレベルの行動に落とし込まれたのであった。

というわけで、明治政府にとって祖霊祭祀というのは、ただ祖先を大事にしましょう、という倫理以上の重要性を持っていた。皇祖崇拝の根源を祖霊祭祀に置いていたので、これを徹底することは国家の祭祀に関わることだったのである。そして、祖霊祭祀の具体的活動はとりもなおさず「葬式」であるから、これを国家の管理の下に置こうとするのは当然だ。そこで「自葬禁止」の布告がなされることになったのだ。

また、民衆的レベルにおいては、葬式はあらゆる宗教活動の中で最も重要なものである。「自葬禁止」の布告には、未完成・未徹底だった国家宗教としての神道の完成のために、葬式を手中に収め、これを管理することにより民衆の教化の入り口にしようという目論見があったに違いない。

ところで、「自葬禁止」の布告には、国家神道の観点から見ると不徹底な部分が一つある。それは、葬式の執行者を神官(神道)だけでなく僧侶(仏教)も含めた ことだ。これは、当時仏教諸派も国家の管理下に置かれていたために、祖霊祭祀や皇祖崇拝を仏教側も民衆に教える(教えなくてはならない)ということから含まれているのである。

仏教側には、この自葬禁止という政策にはいろいろと思うところがあったらしい。しかし、国家神道を推し進めるためのこの政策が、西本願寺による鹿児島への布教活動にあたっては、皮肉にも強力な追い風になったのである。

なにしろ、当時の鹿児島は苛烈な廃仏毀釈後であるから寺院が全くない、つまり僧侶がいない。神官はいたが、当時の神官は公務員であるためその数が限られており、とても民衆の葬式をまかなう人数がいなかった。だが人は、そんなことはお構いなしに死んでいく。かといって勝手に葬れば取り締まられる。さて困った。 と、そういう状況でやってきたのが西本願寺の僧侶たちなのである。鹿児島の民衆にとって、ようやく葬儀を任すことができる人が現れたのであった。渡りに船とはこのことであろう。乗らないわけがないのである。

この状況は、西本願寺側もよくわかっていた。島地黙雷はこれをチャンスと見たし、西南戦争後の明治11年には、西本願寺の鹿児島出張所(現・西本願寺鹿児島別院)は県庁の指導に従い「葬儀を懇ろにせよ」という達書を県内で活動する僧侶たちに送っている。

こうして、鹿児島の民衆にとって、真宗は「葬式仏教」として入ってきたのである。西南戦争や隠れ念仏、そして言葉の問題など本願寺にとっては逆風だらけの中、布教事業が非常なる成功を収めたのは、ひとえに明治5年の「自葬禁止」の布告のおかげであるといっても過言ではない

「葬式仏教」などというと、形式化した現代の仏教を揶揄する言葉であるが、明治の頃の「葬式仏教」としての真宗をあながち批判することはできない。葬式は、言うまでもなく死者の魂を安らげ、残されたものの心を整理する重要なイベントである。現代においても、心のこもった葬儀というのは、一人の人間の死を悼むだけでなく、それぞれの来し方行く末を顧みる機会にもなり、これまで受けてきた有形無形の慈しみに感謝する場でもある。西本願寺の僧侶たちが葬式を「懇ろに」執り行ってくれたことは、当時の人々にとってどれだけ慰めになったことだろう。

さらに、当時の鹿児島の民衆というものは蒙昧で野蛮な状態に置かれていたのだ、ということをもう一度考えなくてはならない。一方で、鹿児島へ布教活動に来ていた僧侶たちは、当時の西本願寺の中でもエース級の人物たちで ある。そういう、教養も徳も高い僧侶が、「猿の如き」と言われていた野卑な民衆の葬儀を執り行ったのである。しかも、それは偶然ではない。「お念仏の下には、人々はみな平等である」という真宗の教えに基づいて、野卑な庶民にも高徳の僧侶が念仏をしたのであった。難しい話など聞く機会など全くなかったであろう鹿児島の庶民が、始めて触れた高邁な話は、おそらく真宗僧侶の説教(法話)だったのではないだろうか。

なお、鹿児島の民衆と真宗の出会いが「葬式仏教」だったことは、鹿児島の真宗文化に強力な影響をもたらした。

例えば、鹿児島では墓参りが盛んなことに他県の人が驚くことがある。また、盆正月などでなくても、いつもお墓に立派な仏花が飾られていることは、鹿児島の一種の風物詩であり、そのおかげで鹿児島県民の切り花消費量は日本一なのだ。ここでの問題は、真宗率の高い鹿児島で、どうしてこのように祖霊祭祀が盛んなのかということである。

なぜなら、真宗は元来、祖霊祭祀には熱心ではない。 親鸞の元々の教えには祖霊祭祀の要素が非常に希薄であって、祖先の霊を敬うことよりも、ひとえに阿弥陀仏におすがりすることを強調している。それに、念仏 を唱えて亡くなった人は貴賤の別なく阿弥陀の浄土へ往くことができるので、追善供養(死後に読経や布施などをして極楽へ往生できるように願うこと)をする必要もなかった。真宗の教義では、お盆にも祖霊が現世へと返ってくることはなく、死者は浄土にいて永遠の安楽を楽しむことができるとされている。

こういう教義であるから、祖先の墓に頻繁に墓参りをするとか、仏花を献げるとかいうことに、真宗では宗教的な意味づけがあまりなかったのである。事実、古くからの真宗地帯である北陸などでは、祖霊祭祀を行わず、ひとえに念仏に勤しむことを村の誉れとするようなケースもあったと聞く。今でも、北陸には墓がない地域がある。そんな真宗を多くが信仰する鹿児島で、どうして墓参りや献花が盛んなのか。その答えは、この明治期の真宗の受容の仕方にあったのではないか。

先述の通り、この頃の真宗は国家の指導の下、元々の教義にはかなり希薄であった「祖霊崇拝」を積極的に勧奨したし、しかのみならず、「真俗二諦」の旗印の下、皇祖崇拝と天皇への恭順も指導した。この頃の真宗には、元々の教義を枉げていた部分が確かにあった。そしてそれは、既に述べたように西本願寺自身が認めて反省していることである。鹿児島の民衆に篤く墓参りをするよう指導したのは、ほかでもない西本願寺ではなかったか。鹿児島でこれほど墓参りなどの祖霊祭祀が盛んであるのは、この頃の真宗の教化以外に説明がつかない。

ちなみに、墓参りが盛んな理由を「元々鹿児島の人は祖先を敬う気持ちが強いから」などと説明されることもあるがこれは大きな間違いである。「伊勢講」とか「庚申講」といった、近世以前の民衆の宗教活動の中心である各種の「」を見ても、祖霊祭祀の要素はほとんど見当たらないことからもそれは明らかであり、控えめに言っても、かつて鹿児島で祖霊祭祀が盛んだったという証拠はない。

ただ、元々の教義に希薄な要素を新たに導入するのは別に悪いことではない。仏教では、元来「方便」という考え方があり、これは「真理に近づくための方法は様々でよい」というような意味を含む。結果的に鹿児島の人たちを救うのに役立ったのであれば、葬式仏教で何の悪いことがあろうか。

それに、元来の教えに則ったものこそ正しく、後に付け加えられたものは間違いである、という立場に立つと、浄土真宗自体を否定することになる。歴史的人物としての釈尊は阿弥陀仏の教えを説いていないわけで、その立場だと信じられるものは初期仏典のごく一部に限られる。そういう態度を否定はしないが、宗教というのは、土着の信仰や習俗と習合して内容が豊かになっていくものだから、たとえ祖霊祭祀が国家に勧奨されて導入されたものだったとしても、ただちに価値が低いということにはならない。

だが一方で、このために鹿児島の真宗信仰に、本来の親鸞の教えとは少し違う部分がもたらされたことも事実である。他県に出てみると分かるが、鹿児島の真宗文化は他地域のそれと少し変わっている。そしてその差異の淵源が、明治時代にあることはほとんど知られていない。鹿児島の西本願寺も、それを広く説明したことはないようだ。明治維新から150年以上経っているので、そろそろ自らの姿を正しく見つめる機会を持つべきではないだろうか。

【補足】2/3アップデート
最後から2番目の段落を追加した。

【参考資料】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会 代表 槇藤 明哲

2014年1月22日水曜日

「隠れ念仏」の徒の失望——鹿児島本願寺派小史(3)

西南戦争は薩軍の敗北で終結した。

そして、西本願寺の鹿児島開教事業が本格的に始まることになる。だが、連枝(明如の実弟)日野澤依を宗主代理として派遣するなど、西本願寺は大変力を入れて開教事業に邁進したものの、ことはそう順調には進まなかった。「隠れ念仏」の盛んだった鹿児島だったから、真宗は歓迎されたのでは、と思っていたが調べてみるとそうでもないらしい

話が急に変わるようだが、カヤカベ教というのをご存じだろうか? カヤカベ教は、隠れ念仏から派生した秘密宗教の一派で、霧島あたりに信者が多かった。このカヤカベ教は、なんと明治9年の信教自由の布達後も約100年間にわたってその秘密を守り通し、独自の信仰を貫いたのである。どうして彼らがその信仰を秘密にしていたのかというと、隠れ念仏時代からの「決して外部のものに信仰を明かしてはいけない」という教義があったからだ。もちろん、これは念仏が厳しく禁じられた藩政時代の政策に対応するものだったが、この教義を昭和に至るまで守っていたのである。カヤカベ教は、浄土真宗の教えから生まれたものだったが、神道と集合した上、独自のタブーを設けるなど元の教えからは大分異なったものになっていた。

このように、隠れ念仏のような秘密の信仰というものは、(悪い言葉で言えば)カルト化しやすく、また主流派の教義から離れていきがちになる。宗教の教義は全てが絶対不変ではなく、時代によって考え方が移ろいゆくものである。宗派における人心の統一を図ることは現代でも難しい。ましてや、薩摩藩のように真宗が禁じられている中で、旅の真宗僧侶が断片的に伝えた教えを、住民が口伝えによって信仰する場合には、その内容が正しく継承されていかないのはやむを得ぬことである。

さらには、禁教下であるから、鹿児島に入ってきた念仏の教えは主流派のものでないことが多かったらしい。もし見つかれば厳しい罰を受けるわけで、危険を冒して主流派が組織的布教活動を行おうとしないのは当然だ。具体的には、鹿児島には西本願寺の中でも異端とされる「三業派(さんごうは)」という教えが多く入っていたと言われる。三業派の詳しい説明は省くが、おそらく西本願寺により異端認定された後で、居場所をなくした三業派の僧侶がフロンティアを求めて鹿児島に入ってきたのではと思う。

そういうわけだから、鹿児島に密やかに生きていた念仏の徒たちの信仰内容は、主流派の教えとは違ったものであることが多かったようである。明治に至って鹿児島入りした開教史(西本願寺から布教のために派遣されてきた僧侶)は、そうした「間違った信仰」を目の当たりにし、「そうではない、正しくはこうである」と住民たちを指導したことであろう。

藩の役人の目を避けながら命を賭けて「隠れ念仏」を行い守ってきた教えが、こうして開教史たちに否定され、「正しい」教えに始めて接した住民たちの思いは察するに余りある。にわかには、その教えを素直に受け入れることが出来なかっただろう。自分たちが命を賭けて守ってきた教えが間違っていたとなれば、これまでの苦労はなんだったのか、ということになる。

それに、「隠れ念仏」というのは、辛い現実生活から救ってくれる救世主として阿弥陀仏を拝み、(禁教とされていたわけだから当然だが)反国家的な力があるものと思われていた。それが今度は、「王法為本(真宗の教義は王法=政府の秩序や法令を根本とする)」とか、「真俗二諦」とかいって、国家への忠誠を求める政府的宗教として真宗が入ってきたのである。隠れ念仏の徒が、現実世界の秩序を超えさせてくれると期待した「ほんとうの念仏」は、その思いとは裏腹に現実世界の惨めな秩序を肯定するものだった。「こんなものは本当の念仏ではない!」と彼らが失望したのは当然である。

しかも、当時の西本願寺では、そうした「間違った念仏の教え」が住民を惑わせているとして、それまで鹿児島で秘密裏に活動していた念仏者を「曖昧僧(=僧であるかどうかよくわからない者)」と呼んで取り締まりをしているくらいなのである。こうした西本願寺の姿勢に、「隠れ念仏」の徒は反発したであろう。

昭和も終わり近くになって、西本願寺は命を賭けて念仏を守っていた人たちを否定していたことを反省するが、明治の当時は政府に対して「曖昧僧などが住民を惑わしているので、真俗二諦を掲げる正しい真宗の教えを広めることは大変有益である」というような趣旨を掲げて、「曖昧僧」の存在を布教活動の正当化のダシに使うくらいであった。

こういうわけで、本来ならば西本願寺にとって応援者となるべき隠れ念仏の徒は、むしろ布教にあたっての障害となっていたようである。もちろん、隠れ念仏の徒が全て西本願寺に反発したのではなく、中にはこれを歓迎した人たちもいたに違いない。しかし西本願寺自身が、地域に細々と息づいていた念仏者に(少なくとも最初は)冷淡だったことは間違いなく、隠れ念仏の徒が大きな応援団ではなかったことは確かである。

そういう事情を抜きにしても、布教の事業を進めるにあたっての困難は大きかった。最も大きかったのは言葉の問題で、鹿児島弁と(西本願寺があった)京都弁の差は絶望的なまでに大きかった。例えば、開教史の一人、鎌数謙譲は「言葉は、十中の八・九は通じない」と記し、さらに続けて
泊まった民家は汚くて臭く、蝿等も多く、ほとんど、健康を害しそうである。寝る時は、垢のついた布団一枚、下は茣蓙一枚である。人々の様子は、髪は束ね髪、着ているものも、粗くて粗悪、全員裸足にて手足は猿の如く、野卑醜悪にて全体に猿の如き様子である。食事は三度三度、唐芋、たまに、粟の飯がまじるくらいである。
と述懐している。当時の惨めな生活を活写する貴重な証言なのであるが、住民を猿扱いする様子には、アフリカやカリブ海の島々で「未開」な人間を教化しようとしたキリスト教宣教師たちの姿と重なるものがあるではないか。ちなみに、当時庶民には布団が普及しておらず、茣蓙や板間の上に直に寝て掛け布団はないのが普通だったらしい(※)から、鎌数が辟易した「垢のついた布団一枚」というのも、住民からのなけなしのもてなしだった可能性が大きい。

このように、西本願寺による鹿児島での布教活動は未開で野蛮な人々を王法(政府の秩序、法令)によって教化するという、まさしく明治政府が期待したものであったが、こうした姿勢で鹿児島へ入ってきた開教史たちを、民衆が歓迎したかどうかは疑問だ。

信教自由直後の明治9年10月12日、いづろ通りにあった民家で鹿児島での最初の説教が行われた際、本願寺側の記録では「群参する人々の波は絶えず、いづろ通りは全くの交通止め状態であったという」とされるけれども、これも真宗を待ち望んだ人々による歓迎というより、せいぜい物珍しさに集まった人々の群れに過ぎなかったのではないか。人々を現実の辛い生活から救うはずだった念仏が、国家の道具となっていた有様に失望した人が多かったのではないか

後世の我々が、西本願寺のこのような姿勢を批判するのはたやすいことである。神道が国家の根本に据えられ、仏教には大変辛い時代であった明治時代においては、仏教教団が生き延びるために国家に迎合したのも仕方のないことだっただろう。実際、西本願寺が明治政府の体制内部から信教自由等に尽力しなければ、太平洋戦争にまで至る「国家神道」はもっと醜悪なものになっていた可能性すらある。私は、個人的にはこの頃の真宗の驚異的な生命力は歴史的評価に値すると思っている。

また、こうした姿勢は後に西本願寺派自身によっても自己批判され、「真俗二諦」は誤った教義であったと修正されてもいる。だがそういったことは、当時の隠れ念仏の徒には関係のないことだ。彼らの失望は想像するに余りある。真宗禁教300年を経てようやく鹿児島へ入ってきた「ほんとうの念仏」は、少なくとも「隠れ念仏」の徒にとっては全く期待はずれのものだったのである。

※ 布団はなくとも藁を被っていたという話もある。藁を被る方が衛生的で暖かかったとも言われているが、実態はよくわからない。

【参考文献】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明哲)

2014年1月18日土曜日

西南戦争と真宗布教——鹿児島本願寺派小史(2)

前回の記事で書いたように、鹿児島で西南戦争前夜に真宗が広められたのには政治的目的があった。鹿児島での信教自由を後押しした田中直哉にも、彼自身が真宗門徒であったということ以上に、真宗を政治利用しようとする思惑があった。

この頃の鹿児島というものは、新政府の言うことは聞かず、地租改正もせず(つまり税金を新政府に納めていなかった)、新政府の政策には不満を抱き、西郷隆盛が率いる「私学校」が鬱勃とした士族を多数抱えていた。一方で一般の民衆は、長い奴隷的支配の気分から抜け出すことができず、権利や義務といった現代的社会生活の枠組みを知らずにいた。乱暴に言えば、鹿児島は「士族による軍事独裁政権」の時代で、民衆は藩政時代と少しも変わらない、蒙昧な状態に置かれていたのであった。


例えば、他県では多くが民会(今で言う県議会)を設置していたが、鹿児島においては、県はもちろん市町村のあらゆるレベルでも民主的な議会が存在していなかった。民権家であった田中直哉がこうした状況を憂慮したのは当然だ。彼は新聞記者として政治の自由化を求め、その廉で投獄されたこともあった人物だ。ちょうどこの頃中央から鹿児島に帰郷し、鹿児島の民主化を図ろうと県令大山綱良に民会設置の働きかけをしたが、民度の低い鹿児島では時期尚早であるとして受け入れられない。

そこで田中は真宗による民衆の教化を発案するのである。宗教によって「智識を啓き権利義務の在る所を知らしめ」ようとし、また布教活動を通じて「軍事独裁政権」の中心であった私学校の内実を探ろうと、信教自由へ向けた建白書を大山県令に提出するのである。田中のこうした提言が、新政府からの人心の乖離や私学校の暴発を心配する大久保、そして鹿児島での布教を進めたい真宗にとって不都合な筈もなく、西本願寺は田中からの要請を受けて鹿児島に僧侶を派遣するのである。

しかし、元来が政治的使命を帯びた布教活動であるから、私学校からは疑いの目を向けられた。そうでなくても、鹿児島には約300年の真宗迫害の歴史があり、士族は真宗僧侶を軽蔑していた。田中の提言とは別に、信教自由の布達を受けて鹿児島の真宗門徒が西本願寺へ僧侶の派遣を要請したこともあり、西本願寺は数名の僧侶たちを「開教史」に任命して鹿児島へ送っていたが、なかなか布教活動は進まない。というのも、士族たちの反発が根強く、各地で説教の許可がなかなか下りず、また邪険な扱いを受けていたのである。

そんな中、田中は同行の中原尚雄らと共に私学校党に逮捕されてしまう。西郷隆盛の暗殺を企てたとの容疑であった。拷問の末に彼らは「自白」させられてしまい、私学校に挙兵する口実を与え、ここに西南戦争が勃発するのである。信教自由の布達から約半年後の明治10年2月のことであった。

こうなると、田中が糸を引いて鹿児島へ送られてきたと見られていた真宗僧たちもスパイではないかと疑われたのは無理からぬことである。事実、田中は士族たちの暴発を食い止めようと、布教活動の中で私学校の内実を探ろうともしていたわけで、全くの言いがかりでもなかった。そういうわけで、真宗僧侶は西郷暗殺の一味と同一視され次々と捕縛されていった。その端緒となったのが、本願寺から派遣された大洲鉄然(おおず・てつねん)の逮捕である。

後に赤松連城、島地黙雷と共に「本願寺の三傑」の一人とされる大洲鉄然を派遣するあたり、西本願寺の鹿児島布教への本気度が感じられるのであるが、大洲がスパイと目されたのも理由のないことではなかった。この頃の西本願寺は長州閥との関係が深く、特に大洲は長州(周防)出身で木戸孝允と懇意にしていた。私学校の暴徒たちから、大洲は大久保や木戸の密命を受けて鹿児島にやってきたと見なされたのである。大洲が戊辰戦争の頃には僧兵を率いて活躍した武闘派だったという来歴も影響していたのかもしれない。

そういうわけであるから、政治的目的を帯びた鹿児島布教の活動は、西本願寺にとっては踏んだり蹴ったりな始まりであった。彼らは被害者であるだけでなく、行きがかり上ではあるにしろ、西南戦争勃発の間接的な原因を作ってしまった部分すらある。政治に利用されるだけでなく、政治を利用しようとした西本願寺のしたたかな姿勢は、ここでは裏目に出てしまったのだった。

だが、当時の西本願寺を政治とベッタリな阿諛追従の徒であると見るのは間違いだ。例えば大洲と同郷で西本願寺の改革を担った島地黙雷(しまじ・もくらい)は、神道国教化の宗教政策を厳しく批判し、政教分離をなさしめた立役者である。西本願寺は、政府に多額の献金をし、真俗二諦の名の下に民衆の教化に邁進したが、一方では政府の行き過ぎた神道優遇には釘を刺し、信教自由化を訴えたのであった。また、廃仏毀釈という愚行が全国に広がる前に食い止められたのも、西本願寺の政府への粘り強い働きかけがあったからこそとも言える。

そもそも廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、政府の神道国教化に迎合したいくつかの藩で起こった暴動のような現象であるが、これに最も抵抗したのが真宗の各寺であった。他の宗派が時の権力に迎合して大した抵抗もせずに廃寺を行い、次々と寺がなくなっていく中、強靱な信仰と団結によりただの一寺も潰さない覚悟で耐え抜いたのはただ真宗の僧侶たちのみであった。また、やむを得ず廃寺になった場合も、廃仏政策が終熄した後に速やかに再興する場合が多かった。真宗の徒は表向きには権力に従順にしつつも、実際には信仰を守り抜き、国家を出し抜いたのである。

数多くの宗派の中で、真宗のみがそうしたしなやかな対応ができたのは、長州閥との親しい関係や膨大な献金を可能とした資金力、そして天下に輝く法主の威光があった。明治政府は実質的にクーデターで成立した政権であったため、その存立基盤にあやふやなところがあった。王政復古を旗印にしてはいたが、その当時は天皇というものは一般には馴染みない存在で、偉いのか偉くないのかもよくわからないような状態だった。鎌倉幕府以来、約900年間、国のリーダーが「将軍」であったので、「天皇」は必ずしも人心を収攬する象徴となりえなかったのである。そんな中、天皇の行幸に当時「現人神」とされた本願寺の法主が恭しく同行する様子は、人々に天皇の権威をすり込ませるに十分だっただろう。

こうしたことから、明治初年の神仏分離、そして廃仏希釈、また明治4年に実施された寺領上知(寺の領地を国家に返上させる政策)など、仏教に不利な政策が矢継ぎ早に打ち出される中で、真宗はそれらからの被害をほとんど受けなかった唯一の宗派であった。そのため、明治中期以降、まずは復興に取り組まねばならなかった他宗派をよそに、真宗は鹿児島や北海道、そして続いては台湾、満州へと、積極的な布教活動を展開することができたのである。

鹿児島への布教も、決して政治的な打算のみでない、強靱な意志を持って進められた事業であった。大洲鉄然、そして開教史の僧侶が次々と捕縛されスパイの汚名を着せられようとも、西本願寺の姿勢はいささかも揺るがなかった。開教の拠点となるはずだった一宇が、設立から僅か1ヶ月で戦火により灰燼に帰しても、鹿児島へ真宗の灯を点さんとする熱意は変わらなかったのである。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫

2014年1月14日火曜日

なぜ鹿児島では浄土真宗が多いのか——鹿児島本願寺派小史(1)

鹿児島には、浄土真宗の家がとても多いように思う。ちゃんとした統計がないので県内全域のことは分からないが、少なくとも私の行動範囲で考えると、8割以上が浄土真宗、それも西本願寺系であるように見える。

どうして、鹿児島には浄土真宗がこうも広まっているのだろうか? 真宗興隆の長い歴史を持つ北陸などと違い、鹿児島では戦国時代からの300年もの間真宗は禁教とされてきた。にも関わらず、どうして鹿児島では真宗が支配的な宗派となっているのだろうか?

私は漠然と、むしろ真宗が長い間禁じられていたからこそ、信教自由の時代になって爆発的に広まったのではと思っていた。禁じられているものは、禁じられているがゆえに一層有り難く、また力のあるものだと受け取られていただろうし、実際に鹿児島には「隠れ念仏」という史跡が多数残っており、これは役人の目を憚って念仏を行うための秘密の施設だったのである。こうして藩政時代にあっても秘密裏に真宗に帰依する人々が多かったから、その弾圧が解かれた時、真宗は一挙に広まったのではないのか。

しかし、鹿児島における真宗の歴史を調べてみると、ことはそう単純ではないことが分かってきた。むしろ非常に複雑な事情が絡んでいて、とても簡潔には説明することができないような、歴史の悪戯の結果ですらある。

というわけで、鹿児島における真宗開教の歴史を繙き、なぜ鹿児島には真宗、特に西本願寺派(※1)の家が多いのかという疑問を解いてみたい。

さて、鹿児島県民には周知のことだが、先述の通り鹿児島では藩政時代を通じて真宗(一向宗)は厳しく禁じられていた。なぜ一向宗が禁じられていたのかその理由は明らかになっていないが、主には念仏のネットワークで百姓が団結し一揆に発展するのを恐れたからということと、門徒が本願寺へ金品を上納するのを嫌ったからとされている。ともかく政治的な理由で真宗は禁じられていたのだった。

幕末になると復古神道の盛り上がりで真宗のみならず仏教全般に対する敵意が高まり、鹿児島では全国的に見ても苛烈な廃仏毀釈が行われた。驚くべきことに、千寺以上あった仏教寺院は全て廃寺とされ、僧侶も一人残らず還俗(げんぞく:僧侶でなくなること)させられたのである。明治2年のことであった。

ところが、明治9年に突如として鹿児島にも信教自由が布達されることになる。解禁の直接の原因となったのは宮崎県との合併だ。既に信教自由となっていた宮崎県と合併するにあたり、県内での整合性をとったためであった。というより、既に全国的にはキリスト教も含め信教自由の時代になっていた。だが鹿児島では長きにわたって禁教下にあったため、信教自由については慎重論も多かったのである。そんな状況の中で、自由化を後押ししたといわれるのが、鹿児島出身で真宗門徒であった田中直哉という人だ。

この人は新聞記者で「民権家」、今で言う民主的政治を求めるジャーナリストで、文筆を背景に時の県令(今で言う県知事)大山綱良や中央の当局者に「王政維新になって居るに本県のみが信教自由の恩恵に浴せぬと云うは、非文明である」と合併前に訴えていたのである。

とはいっても、もちろん個人の力だけで信教自由となったわけではない。中でも、大久保利通や西郷隆盛が宗教に関して進歩派で、信教自由を推し進める立場にあったことには注目しなくてはならない。いや、信教自由という一般論を超えて、彼らは真宗西本願寺派に対してとても親和的な態度を取っており、大久保に至っては明治9年の信教自由の布達の際、西本願寺派の法主明如(大谷光尊)に鹿児島での開教を要請しているほどである。

なぜ大久保は、鹿児島で真宗を広めるよう要請したのだろうか? 実はこの時代、真宗、特に西本願寺派は明治政府と深い関係にあり、大久保の要請は個人の信条などではなく、政治的な目的に基づくものであった。

それを理解するには、少し時間を遡り、明治維新の時からの東西の本願寺の動きを見てみる必要がある。幕末、東本願寺は徳川家と親密な関係にあったために佐幕的であり、西本願寺は逆に勤王・倒幕的であった。西本願寺は倒幕運動に協力し、僧兵の出兵、朝廷への献金を行ったのである。倒幕勢力にとって西本願寺は重要なパートナーとなり、特にその献金は彼らの重要な資金源となっていた。

やがて王政復古の大号令で勝敗が明らかとなり、かつて佐幕的であった東本願寺は、逆に新政府に対して積極的に献金を行うようになる。これは東本願寺にとって、反政府的であると見なされないための必死の生き残り策であったようだ。当初より新政府側についていた西本願寺はこの点を気にする必要はなかったが、おそらく東本願寺に対する優位性を確保したいという思惑と、新政府との関係をより強くするために、戊辰戦争においては東西本願寺の双方が僧兵の出兵や献金を盛んに行った。未だ基盤が弱かった新政府にとって、東西本願寺の持つ資金力、組織力、そして全国に広がるネットワークといったものは大きな助けになったことであろう。

こうして東西の本願寺が新政府との関係を強くしたいと願ったのは、新政府が仏教勢力にとって非常に不都合な原理を構築しつつあったからでもある。すなわち新政府は、遙かな過去に行われていたはずの、神の子孫である天皇による治世を再現しようとしていた。つまり王政復古こそが明治政府の依って立つレジティマシー(正統性)であったわけで、指導原理は当然ながら神道であり、仏教はよく言っても夾雑物扱いされざるを得ない。

実際に、明治に至ると神道は国教化され、本来分かちがたく混淆していた神道と仏教は分離させられた。これに伴って各地で廃仏の運動が起こったのである。明治5年には仏教に著しく不利な政策は改められたが、神道の国家的色彩はより強くなっていき、太平洋戦争まで突き進む近代日本の神権政治が加速していく。

仏教勢力がこうした状況に危機感を覚えたのは当然だ。特に西本願寺はこの状況に機敏に対応し、早くも明治元年には「真俗二諦(にたい)」を教義に規定している。これは、真の世界=仏の世界の真理である念仏による往生と、現実世界の真理=敬神と報国は車の両輪である、とする考え方である。本来、仏教的には天皇=神へ従うことを教義的に位置づけることはできないはずで、特に真宗においては阿弥陀仏への帰依が絶対唯一の信仰であるから「絶対的な神としての天皇」は相容れない存在だ。

しかし現実に、そうした方針の下で宗教界が大胆に再編されていく中、天皇の権威を認めなければ仏教の存在自体が危うくなる。そのため、西本願寺は真俗二諦を旗印に政権への協力姿勢を鮮明にし、積極的な献金、戦争協力、そして民衆の教化に邁進したのである。他の仏教教団も多かれ少なかれ政権の進める国家神道と妥協しなくてはならなかったが、とりわけ西本願寺が積極的に政権を支えたのは、機を見るに敏なリーダー法主広如の存在によるのであろう。

そういうわけであったから、西本願寺は政権に迎合し、その支配権の確立のため、民衆に「神を敬し、国を愛し、倫理を守り、法令に遵」うことを仏法の名の下に指導したのであった(※2)。当時の多くの人にとって、明治政府の急進的な政策はなじみのないものばかりで、特に敬神という信仰上の問題は容易に受け入れがたいものであったろうから、それに全国的ネットワークを持つ西本願寺が協力したことの意義は大きい。

事実、鹿児島は明治維新後も新政府の方針に従わない「独立国」の様相を呈し、政府の法令が及んでいなかった。特に明治6年に西郷が大久保と決裂して帰郷してからは新政府への失望と敵愾心が士族層に広がり、反政府的な雰囲気が横溢していたのである。鹿児島の反政府的な動きを憂慮した大久保が、西本願寺による民衆の馴化と慰撫を期待したのは当然であろう。鹿児島における信教自由の布達は、こうした状況の中で行われたものだった。西南戦争が起こる半年前のことである。

こうして、かつて反体制的なものとして禁じられた真宗が、今度は体制側となって鹿児島に入ってきたのである。禁じられたのも政治的理由なら、導入されたのも政治的理由だった。鹿児島にとっての真宗との出会いというのは、大変不幸なものだったのである。

※1 「西本願寺派」と書いたが現代の正式な用語は「本願寺派」である。ちなみに「東本願寺派」は「大谷派」。だが西と東の方が分かりやすいので便宜的にこう書くことにした。

※2 鹿児島に派遣された執事大洲鉄然の出張趣意書(明治9年12月)より(原文カナ、句点無し)。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道

2013年4月30日火曜日

高校時代の同級生が立ち上げた会社

南っこ
高校時代の同級生が、昨年12月に「南っこ」という変わった名前の会社を立ち上げた。彼は本名もかなり変わっていて、芋高虎男という。芸名みたいである。

この会社は、農産物などの生鮮食料品の加工・販売をやっていくということで、特に鹿児島・宮崎を中心とした南日本の農産物を中心に取り扱っていくと意気込んでいる。それで社名に「南」がついているわけだ(「っこ」が何なのかは知らない)。

ところで、この芋高氏、鹿児島県島嶼部では有名な大農園「芋高農園」のご令息なのである。これは、沖永良部島で80ヘクタール以上も耕作しているという桁外れの農園。鹿児島県でも有数の篤農家出身であるため、農業に関しては彼もスケールが桁外れで、私のような零細農からすると、少し頭のネジが吹っ飛んでいるのではないかと訝しむほどだ。

私の経営規模からすると、彼が私を相手にする必要は全然ないような感じがするが、高校時代のよしみからか私と取引をしたいともちかけてくれた。とりあえずは今作っているカボチャを取り扱ってくれるようなので、失望させることがないようにちゃんとしたものを作りたい。

この会社、まだ立ち上げたばかりで今の所は業者向けの卸しが中心のようだが、今後小売りにも注力していくとのこと。それに先立って、TwitterFacebookでの情報発信も開始しているので、気になる方は見てみて欲しい。

たびたび書いていることだが、日本の農業が抱えている最大の問題は流通であり、こうして同級生がそれに参入したことは心強い。日本の農産物流通にはまだ手つかずの沃野が広がっていると信じており、面白い取り組みがいろいろできるのではないかと思う。とはいえ、確実にペイする事業を考えると、結局月並みなものになりがちという現実もある。変わっているのは名前だけ…とならないように、農産物流通の新しいカタチをつくり上げて欲しい。

2013年3月24日日曜日

石敢當の意味と無意味

石敢當(せっかんとう)を見たことがあるだろうか?

うちの集落の突き当たりには小さな石敢當があって、誰が供えているのか(造)花が手向けられている。ここには立派なイヌマキも3本立っていて、なんだかとても雰囲気のあるところである。

この石敢當というのは、謎な存在である。辻や丁字路の突き当たりに建てる石造の魔除けなのだが、その由来は定かでない。唐代の中国に発祥したもので、中国南部や台湾に広がり、日本では沖縄に多く、鹿児島にも1000基程度あるが誰がどのように伝えたのかも不明である。中国から琉球に伝えられ、薩摩藩の琉球支配に従って鹿児島にももたらされたと考えられているが、同じく中国と交易を行っていた九州北部(博多等)には見られず、単純に交易によって伝わったわけでもないらしい。

なぜ「石敢當」と刻んだ石が魔除けになるのかも、(中国大陸での)地域によって様々な民間伝承があり、一定しない。共通しているのは、「石敢當」という名前の若者に由来するということくらいである。さらには、地域によってはどうして石敢當が魔除けになるのか、明確な説明もないことも多いようだ。道教に基づくものらしいが、民間信仰であるだけに、そこに込められた意味合いが明確に意識されないまま広がったものと思われる。

この石敢當の面白いのは、今に生きている石造文化である点だ。沖縄では新築する時に石敢當をあわせて建立する時があるし、多分沖縄からの移住者によるものだと思うが、東京でも真新しい石敢當を見ることが結構ある。現代、石敢當の文化はその範囲を広げつつあるのである。

建立者自身もその意味合いはおそらくわかっていないのに、石敢當がなんとなく広がっていっているのが面白い。合理的なもの、有用なもの、存在理由が明確なものというのは、その基盤となるものがなくなったとき、すぐに失われてしまう。しかし石敢當のように、非合理的なもの、無用なもの、存在理由が不明確なものは、なくなる理由もないため息が長い。最近、沖縄では石敢當のお土産も売られているが、なんだかわからない、一見無意味なものこそ、持続性のある強力な文化なのかもしれない。

【参考文献】
『石敢當』1999年、小玉 正任

2013年2月27日水曜日

芋焼酎は柑橘の香り

私はあまりお酒が飲めないので焼酎を飲まないが、先日面白い話題を見つけたので紹介する。

本格焼酎というと、水以外の成分はほとんどエタノールで、それ以外の成分は約0.2%しか含まれていない。 そして蒸留酒なので当たり前だが、全ての成分が揮発性のものであり、厳密な意味での(エタノール以外の)味覚成分は含まれていない

では焼酎の味は何かというと、その0.2%の中の香り成分にある。つまり、焼酎の味というのは、科学的には(舌で感じる)味ではなく香りのことなのである。これは蒸留酒一般に言えることであるが、アルコールのテイスティングを生業とする方が、実際に飲むことなく香りだけで判断することがあるのは、理に適ったことなのだ。

さて、その0.2%の成分とは具体的には何かというと、高級アルコール類、脂肪酸エステル類、有機酸、ミネラルなどだが、ここに香りを形作る微量香気成分が含まれる。焼酎の銘柄は数多いが、この0.2%の中の非常に微妙な成分の違いが銘柄の違いになるわけだ。

というわけで、焼酎の「味」を作る微量香気成分だが、例えばネロール、リナロール、α-テルピネオール、シトロネオールといったモノテルペンアルコール類、そしてβ-ダマセノンといった物質らしい。とはいっても、私自身門外漢なのでこれらの物質それぞれについて特性を知っているわけではない。

だが、ネロール等のモノテルペンアルコール類というのは、実は柑橘や花に含まれている物質なのである。柑橘特有の爽やかな香気の成分はこれらなのだが、焼酎の香りのかなりの部分がこれらの香りなのだ。少し大げさに言えば、芋焼酎は柑橘的なお酒であると言えるだろう。ちなみに焼酎の甘さを作っているのはβ-ダマセノンである(これは柑橘系ではない)。

しかしこれらの柑橘的な香気成分、どこから来たのだろうか? サツマ芋は柑橘的な香りがしないし、事実芋にはこれらの香りは含まれていない。これが面白いところだが、実はサツマ芋の中では、モノテルペンアルコール類が配糖体(つまりグルコシドと結合している)の形で存在していて不揮発性なため香りにならないのである。

これらモノテルペン配糖体が醸造の過程で分解され、揮発性のアルコール成分となることによって焼酎の香りが形作られる(※)。ということは、焼酎の香りを「芋の香り」と形容することがあるが、芋そのものの香りが焼酎の香りになるわけではなく、芋に内在していた香りの元が麹菌によって顕在化させられて焼酎の香りになるということだ。

ついでに言うとこれら香気成分はアロマテラピーなどでも使用されるものらしくリラックス効果があると言われる。鹿児島では伝統的に焼酎はお湯割りにするが、香気成分をより揮発させて味を鮮明にし、リラックスするためにそうするのかも知れない。

柑橘類はジンライムに代表されるように蒸留酒との相性がよく、焼酎も(本格焼酎ではなく甲類の方)酎ハイで柑橘系とよくアレンジされるが、元々芋焼酎の香りが柑橘系であったことは驚きである。ただ、芋焼酎で柑橘系のカクテルを作ったら合うのかと思ったら、それぞれの香りがケンカしてなかなかうまく作れないのだそうだ。

※ このことは1990年に太田剛雄によって解明された。割と最近まで焼酎の香りがどこから来るのかわかっていなかったということだ。

【参考】
「芋焼酎原料サツマイモ品種と焼酎の香気成分との関係」2013年、高峯 和則

2013年2月16日土曜日

ぽんかんすドレッシングが販売中

前にもこのブログで触れた「ぽんかんすドレッシング 薫」が発売され、南さつまの物産館で買えるようになった。さらに東京の「かごしま遊楽館」でも販売しており、2月23日(土)には販売イベント(試食)も行われる。

販売イベントでは、(たぶん)唐揚げにこのドレッシングをかけたものが振る舞われるが、唐揚げとこいつの相性は抜群なのでぜひご賞味ありたい。

ちなみに、改めてこの商品の特徴をまとめると、
荒廃するポンカン園を有効活用
荒れたポンカン園を有効活用して生産された加工用ポンカンを使用
環境に配慮した栽培
加工用のみを生産する園地に特化したことで、環境に配慮した農薬不使用の栽培が可能に。
加工専用の青採りポンカン
生食用の余り物や規格外品ではなく、加工専用のポンカンとして、爽やかな酸味と香りが強い「青採りポンカン」を特別に使用。
果汁40%の新感覚ドレッシング
果汁40%というまるでジュースのような新感覚ドレッシング。レモン汁を絞るように爽やかな酸味をプラスします。
というところで、要は「過疎の農村で、環境に配慮して作られた青採りポンカンを使った、果汁たっぷりのドレッシング」である。とはいえドレッシングというにはややあっさりしていて、どちらかというと調味料の領域と思うが、これでカルパッチョなどを作ったら本当に美味しいので是非試して欲しい。

ところで、日比谷にある「かごしま遊楽館」だが、ぱっとしない(?)外見とは裏腹に、全国のアンテナショップの中で3位の売り上げを誇るらしい。各県が予算をけちってやや奥まったところに店舗を設ける中、日比谷、有楽町の駅前という立地が効いているに違いない。

ついでに書いておくと、同じ2月23日(土)には天文館のベルク広場で、「南薩の食&農フェア」というのが開催されるらしい。とはいえ鹿児島県のWEBサイトにも「南薩地域の農林水産物や加工食品の展示即売会を開催します」とだけあってそれ以上の情報がないため行く価値があるのかどうか不明だ。せっかく開催するのだから、もう少しちゃんとお知らせをしたらいいと思う。

2012年11月18日日曜日

質素だが誠実な展示「南さつま神話の旅」

南さつま市金峰町にある歴史交流館 金峰で「南さつま神話の旅」という企画展が開催中である。

企画展自体は、十数枚程度の手作りポスターパネルと、いくばくかの土器が並べられているだけの質素な展示である。正直なところ、これを見て「面白い!」という人は少数派だろう。だが、その内容は意外によくまとまっていて、普段体系的に示されることのない南さつま市の神話の旧跡が外観でき、勉強になる。お金もかかっていないし、派手さもないが、誠実に作られた企画展である。

特にその誠実さを感じるのが冒頭の説明。要約すると、
  • 南さつま市には鹿児島県が12カ所に作った「神代聖蹟」の9つまでが集中している。
  • 「神代聖蹟」とは、皇紀2600年記念事業として作られたもので、日本神話の舞台となったところを指定する石碑。
  • 皇紀2600年は戦争中の昭和15年。「神代聖蹟」は戦争遂行のための国威発揚に日本神話を利用したものであり、つまり「昭和の遺産」。
とした上で、「市内の神話スポット・神代聖蹟をめぐるときに、神話が戦争に利用された事実にも思いを致していただければ、より多角的に歴史を理解できる好機になるのでは」と結んでいる。

日本神話が戦争の遂行に利用されたことはよく知られているが、残された史蹟が「昭和の遺産」であるとまで述べられることは少ない。多分「神代聖蹟」がそういう陰影を持つものだということを認識している人も少ないだろう。

今年は古事記編纂1300年に当たるということで、特に島根県(出雲地方)と宮崎県が観光キャンペーンに力を入れていた。この2県は首都圏の電車に車内広告を大量に打つなど、昨年来、多くの広告費用を投入して「神話のふるさと」のイメージ形成と観光促進を行った。これ自体は同じく神話のふるさとである鹿児島県も見習うべきところもあると思うが、観光という商業振興を重視するあまり、「我が県には神話にゆかりがある所がたくさんあって凄いでしょ!」というアピールだけになってしまったきらいもある。

だが実際には、先述のように日本神話は戦争に利用された負の歴史がある。島根県についてはよく知らないが、宮崎県では政府の皇紀2600年記念事業で宮崎神宮が大幅拡張されたり、日本海軍発祥の地碑(神武天皇御東遷時お舟出の地)を建立したりするなど、国威発揚の片棒を担いでいる(担がされている)。そういう歴史を反省することなしに、商業主義的に観光を推進しようというだけでは少し空疎な感じも受ける。

そういう意味では、本企画展では冒頭に誠実な説明があるだけでなく、個々のパネルの内容も割と醒めた態度で書かれていて、好感が持てた。歴史交流館の嘱託職員の方が企画・作成したらしいが、見識のある方とお見受けするので一度話を聞いてみたいものである。

ところで、商業主義的すぎるのも問題だが、鹿児島県のようにせっかくの神話資産を無視するのもいただけない。 8年後の2020年には日本書紀編纂1300年になるので、その時には鹿児島県もいろいろとやってはどうか。アピール競争をする必要はなく、他県とも連携しつつ、観光だけでなく歴史研究・教育なども振興するいい機会としてもらいたい。自分としても、南薩の神話について近々自分なりにまとめてみたいと思っている。

【参考】
古事記編纂1300年記念企画展 南さつま神話の旅
開催期間:2012年09月21日 ~ 2012年12月24日
場  所:南さつま市 歴史交流館金峰
料  金:高校生以上300円、小人150円
連絡先: TEL: 0993-58-4321

2012年10月23日火曜日

「国産紅茶終焉の地」としての枕崎

鹿児島の枕崎市に、「紅茶碑」というのがある。また、インド アッサムから導入した紅茶の原木もある。

曰く「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した。当時、枕崎町長今給黎誠吾氏は昭和6年印度アッサム種の栽培に着目してこの地に育て…」とのこと。ともかく枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」を誇っているのであるが、これは事実だろうか?

私はこれに違和感を感じ、いろいろと調べてみたが、結論を先に言えばこれは事実ではない。残念なことに、枕崎は国産紅茶発祥の地ではないのだ。では、国産紅茶の歴史において枕崎はどのように位置づけられるのだろうか? 非常にマニアックになるが、国産紅茶の歴史を繙き、枕崎における紅茶生産の持つ意味を探ってみたい。

日本紅茶の歴史は、殖産興業に邁進していた明治政府が「紅茶産業が有望では?」と目をつけたことに始まる。明治政府は、静岡に移住し茶栽培に取り組んでいた旧幕臣の多田元吉を役人に取り立て、中国、ついでインドに派遣し栽培・製造方法を習得させる。中国式の製造法はうまくいかなかったが、インド式の製造法で成功し、ここに日本紅茶の生産が開始する。

多田がインドから帰国したのが1877(明治10)年。同年、高知県安丸村に試験場を設けて自生茶を原料として紅茶が作られた。本当の日本紅茶発祥の地は、この高知県安丸村であると言うべきである。ただし、この紅茶はあくまで日本在来の緑茶の樹を使い、製法のみインド式紅茶にしたわけだから本格的な紅茶生産の開始ではない(緑茶の茶葉を紅茶に転用しただけ)。

ちなみに、多田元吉は「近代日本茶業の父」などと呼ばれ、日本の紅茶・緑茶産業の基礎をつくった人物である。多田はアッサムから持ち帰った紅茶の種子を自身の農場である静岡県丸子(まりこ)で栽培するとともに、各地に播種した。紅茶用茶樹の栽培に初めて成功したのはこの静岡県丸子であり、「紅茶碑」にいう「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した」というのは事実ではない。これは「紅茶碑」の昭和6年に先立つこと50年以上も前の話である。

それからの日本紅茶産業の歴史は波瀾万丈で非常に面白い。紅茶は緑茶と違いグローバル商材であるため、世界情勢に大きな影響を受け、その歴史はまさに世界(主に米国)に翻弄された歴史であった。

まず、多田帰国の翌年である1878年には政府は各地に伝習所(研修施設)を作り、技術の向上に努め、そのおかげで1883年に米国への販路が開けたところが近代紅茶産業の幕開けとなる。ちなみに、それまでは政府は三井物産に委託してロンドンへ紅茶を販売するなどしており、このおかげで三井物産は大もうけし、これは後の日東紅茶へと繋がっていく。

実は、米国は紅茶よりも遙かに多い量の緑茶も日本から輸入していたのだが、1899年、米国はスペインとの戦費調達のため茶に高額な輸入税をかけ、これが日本の緑茶・紅茶業界に打撃を与えた。これは米西戦争後すぐに撤廃されたが、続いて1911年、米国は「着色茶輸入禁止令」を制定。どうもこの頃の日本紅茶は着色料で色つけしていたらしく、これも日本の紅茶業界に衝撃を与えた。明治後半は、米国の政策により茶業界が翻弄された時代といえる。

このように重要顧客である米国への輸出が不安定だった中、1914年に第一次世界大戦が開戦、これにより日本紅茶業界は空前の好況を迎える。これは、イギリスがインド・セイロンからの紅茶輸送船を戦争に徴用して、イギリスからの米国向け紅茶輸出が激減したためであった。しかしこの期に乗じて日本は木茎混入品など低劣な紅茶を大量に輸出。これで米国消費者の不信を買い、流通が正常に戻った戦後は対米輸出はむしろ低迷することになる。折しも1920年、米国は「禁酒法」を制定。インドやセイロン、ジャワなど紅茶産地はこれを好機と見て米国で紅茶の大キャンペーンを開始するが、これに乗り遅れた日本紅茶の存在感はさらに希薄になっていく。空前の好況の後の低迷、これが大正期の日本茶業だった。

1919年、政府は国立茶業試験場を設立し、それまで不十分だった紅茶用の茶樹の育種に取り組み始める。紅茶の価格は国際情勢(というより米国の情勢)に大きく左右され、その品質を高めようというインセンティブが少なかったためか、明治後期に行われていた茶の指定試験(国費により各地の試験場で行われる試験)がこの頃は中止されていたのだった。国立茶業試験場の設立を契機として1929(昭和4)年に指定試験を再開。全国各地で紅茶の指定試験が行われたが、知覧(※1)と枕崎(※2)でもこれが行われた。昭和初期は、紅茶の品質向上が目指された時代だった。

そうした中で1933年、突如として日本の紅茶産業に空前絶後の好況が訪れる。世界恐慌で世界的に紅茶の需要が減り、在庫が激増、価格が半分ほどにまでに下落。これを受けてインド、セイロン、ジャワという紅茶の中心産地が5年間の輸出制限協定を締結し、世界的に紅茶の流通が一気に減少したのだった。そこで日本紅茶への注目が集まったというわけで、輸出量は1年でなんと20倍以上に増え、イギリスまでもが相当量の日本紅茶を買い付けたといわれる。輸出制限の最終年である1937(昭和12)年には、日本紅茶は史上最高の輸出を記録。しかし、これが日本紅茶産業の最後の仇花であった。

全国各地で行われていた紅茶の試験は、この好況の中でも徐々に廃され、1940年度には鹿児島に集約された。その理由は明確でないが、価格の浮沈が激しいだけでなく、国民所得(賃金)の増加によって世界的な競争力を失いつつあった紅茶への関心が薄れ、日本の茶業界が緑茶に収斂していった結果のようである。つまり、国内の誰もが紅茶を見捨てていく中で、鹿児島だけが細々と紅茶研究を続けていく(いかされる)ことになった。しかも、太平洋戦争によって紅茶用茶樹の品種改良は戦前にはあまり成果をあげられなかった。

戦後、高度経済成長によって国産紅茶は国際競争力を失い、国内市場でも緑茶が支配的になる中、1963(昭和38)年3月、枕崎に九州農業試験場枕崎支場が設立され、ここが紅茶栽培奨励と紅茶用品種の開発に邁進することとなる。しかしこれは、紅茶の試験場としては遅すぎる出発だったと言わざるをえない。というのも、同年2月、農林省が「国産紅茶の奨励はもう行わない」ことを決定しているのである。ちなみに、知覧に存在していた農事試験場茶業分場も枕崎支場に統合され、この枕崎支場は国内唯一にして最後の紅茶試験場であった。

なお、枕崎では昭和初期に紅茶の試験地(試験場ではない)が設置されたことから、その栽培もその頃から行われていた。日東紅茶も枕崎に直営の茶園と工場を経営していたし、昭和40年代では県内の紅茶生産量の約半分が枕崎産であった。しかし、枕崎支場が設置された時期には輸出用の紅茶は競争力を完全に失っており、枕崎の生産は国内向けだった。ところが1971年の紅茶輸入自由化で国内消費の命脈も絶たれ、同年紅茶の集荷は中止。高知県安丸村で始まった日本近代紅茶産業の歴史は、ここに枕崎でその幕を下ろしたのである。

つまり、枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」というより、「日本国産紅茶終焉の地」なのだ。これでは余りにネガティブな表現だと思われるだろうが、実はこの紅茶奨励にあたった県の職員が、「今になってみれば『何んであのようなボッチな計画を立てたのだろう。』」と当時を苦々しく述懐している。そして自分の仕事は「紅茶産業の終戦処理」だったとまで述べた上、「20数年間にわたり多額の投資をして、紅茶奨励に失敗した過去を反省し、ご迷惑をかけた生産者にお詫び申し上げ、紅茶産業奨励の思い出とする次第です」と結んでいる(※3)。どうも、枕崎の紅茶産業は、既に斜陽化していたものを引き受けさせられた形であり、輝かしい過去といえる過去がないようなのである。

しかし、しかしである。先日紹介したように、現在の枕崎では「姫ふうき」という絶品の紅茶が作られている。そしてこの「姫ふうき」を生み出している「べにふうき」という紅茶用の品種は、多田元吉がアッサムから持ち帰った紅茶の種子を品種改良することで、ようやく1995年になって遅咲きの枕崎支場において生み出されたものなのである。私は、昭和40年代に行われていた紅茶用品種の研究が、細々と続けられてきたことに驚愕した次第である。しかも、この「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種なのであるが、それだけではない。この品種に含有されるメチル化カテキンという物質が抗アレルギー作用を有していることが近年明らかになり、花粉症対策などとしてその緑茶が次々と製品化されている。

よく、「鹿児島は周回遅れのトップランナー」と言われる。 この「べにふうき」開発までの長い歴史を見ても、そう感じるのは私だけではないだろう。一度終焉を迎えた日本紅茶が最近各地で復活の兆しを見せているが、その最高峰に枕崎の「姫ふうき」があるのは面白い。残念ながら枕崎にある紅茶の原木と「べにふうき」に系統関係はないが、紆余曲折を経ながらも受け継がれた国産紅茶の歴史が、今後、枕崎でまた新たな展開を見せることを期待している。


※1 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場
※2 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場枕崎紅茶試験地
※3 参考文献に挙げた『紅茶百年史』p511 「紅茶産業奨励の思い出」(鹿児島県園芸課 池田高雄)より引用

【参考文献】
『紅茶百年史』1977年、 全日本紅茶振興会

2012年8月30日木曜日

頴娃町出身のユニークな音楽家:サカキマンゴー


鹿児島県の頴娃町出身のユニークな音楽家に、サカキマンゴーさんという人がいる。

この人は、地元の祭りで偶然聞いたアフリカ音楽に魅せられ、大学ではスワヒリ語(アフリカ東海岸で話されている言葉)を専攻、休学してアフリカ縦断の旅に出て、その後リンバ(親指ピアノ)という民俗楽器と出会う。そして、「七色の声を持つ男」と呼ばれた著名なリンバ奏者フクウェ・ザウォセ氏になんとタンザニアまで行って弟子入り。

こうして、サカキマンゴーさんは本場のアフリカ音楽を学んだが、自らが演奏するのは、リンバによる浮遊感のあるリズムを活かしながらも、それを日本でも違和感なく聞けるようにアレンジしたオリジナルソングだ。それは、日本語、スワヒリ語、鹿児島弁を自由に行き来した不思議な音楽である。

鹿児島弁で歌詞を書くミュージシャンは長渕 剛氏を筆頭に少なくないが、やはり鹿児島の人に向けて書いている場合が多いような気がする。サカキマンゴーさんの場合は、活動の拠点は東京やアフリカで、必ずしもリスナーに鹿児島県民が多いわけではないように見える(県内で特にCDが売れているとも聞かない)。むしろ、鹿児島弁の土着的な表情がアフリカ音楽に合致しているということで、鹿児島弁を使っているように思われる。

それにしても、頴娃という鹿児島でもかなりディープな(?)地方から、相当にディープなアフリカ音楽を奏でる人が出てくるというのは面白い。冒頭に貼り付けた曲が収録された『オイ!リンバ Oi!limba』というアルバムを購入して聴いてみたが、全体的ポップな感じになっているので、私としては、さらにディープな方向に突き進んでもらいたいと思う。

2012年6月27日水曜日

南薩の隠れた特産品:生のらっきょうが美味しい

少し前のことだが、先輩農家かららっきょうをいただいた。

漬け物にせずそのまま食べても旨いということだったので、家内が豆腐の薬味として使ったのだが、これが大成功。

冷や奴の上に、スライスして湯通しした(お湯をかけるだけ)らっきょう、そして枕崎産のかつお味噌を載せるとというごく簡単な料理だが、漬け物にするより美味しい。新鮮ならっきょうはそのまま食べるのが一番だということを改めて感じた。これは、ご当地グルメとして流行ってもおかしくないくらいだと思う。

そもそも、鹿児島県は全国有数のらっきょうの産地で、最近は鳥取や宮崎に水をあけられているが、ごく最近までずっと生産量日本一だったのである。そしてその中心は南さつま市、日置市吹上町などの吹上浜沿岸の南薩地域だ。ところが、このことは鹿児島でもあまり認識されていない。

その原因としては、鹿児島県のらっきょう生産は小規模零細農家に支えられてきたことが大きい。統計を見てみると、鳥取、宮崎、鹿児島の生産量はほぼ一緒(4000トン弱)だが、鹿児島の場合は出荷量がなぜか1000トン以上少ない。これは統計に表れない消費が多いからで、鹿児島県のらっきょう生産は組織的に販売しない小規模零細農家に多くを負っていることを示唆している。事実、周りを見ても小面積栽培の農家が大変多い。

また、鳥取・宮崎と著しい対照を見せるのが加工用らっきょうの出荷量だ。宮崎は約75%が、鳥取でも約50%が加工用(漬け物用)として出荷されるのに比べ、鹿児島では漬け物用の出荷はほとんどないのである。これは、鹿児島県民が(全く自覚がない人が多いが)全国的にも無類のらっきょう好きで、らっきょうは自分で漬けるのがスタンダードなため、多くが生の状態で売られるからだ。

鹿児島には、砂丘として全国一の長さを誇る吹上浜を有すのみならず、保水性がなく痩せたシラス台地が広がっている。そこで他の作物が作りにくい痩せた土壌を活かす工夫として自然発生的にらっきょう栽培が広まったらしく、鳥取や宮崎のような組織的な生産・販売の体制がほとんど構築されなかった。そのため、本来鹿児島が元祖であったはずの「砂丘らっきょう」は鳥取(JA鳥取いなば)に商標登録されるなど、近年、鹿児島県のらっきょう販売は他県に遅れをとっている感が否めない。

もちろん、鳥取のらっきょう生産は大規模農家によって担われており、らっきょう畑が集積して広がっていることからブランド化しやすかった、ということはあると思う。しかし販路拡大のための積極的な広報の他にも「鳥取砂丘らっきょう花マラソン」や「らっきょうの花フェア」の開催といった関係者の地道な努力があってブランド化に成功したのであり、こういう面は見習う必要があるだろう。

一方、鹿児島県の現状を見ると、特にらっきょうを売り出そうという気配もなく、せっかくの特産品がほとんど認識すらされていないのは残念だ。それどころか、鳥取などの生産量拡大によってらっきょうの単価が下がるなど、生産者をめぐる状況は厳しくなってきている。らっきょうは、消費に限界がある漬け物利用が中心であるため、全国での生産量が増加すれば単価が下がるのは当然だ。であればこそ、鹿児島県は生食用のらっきょう販売が他県に比べ圧倒的に多いという特色を活かして、漬け物でない生食らっきょうのご当地グルメを作るなど、全国的にほぼ未開拓である生食らっきょうの売り込みに取り組むべきだと思う。

鹿児島県のらっきょう生産は小規模零細農家が多いために、農家まかせではなかなかそういうプロモーション活動は出来ないわけで、(他力本願ではあるが)県や市、そして地域のJAに是非頑張ってもらいたい。生のらっきょうがこんなに美味しいということは全く知られていないので、その努力次第では新たな名産になるだろう。

【参考文献】
鹿児島県のらっきょう生産概況」1987年、藤井嘉儀
※ 鳥取大学の研究者が、圧倒的全国一位だった頃の鹿児島のらっきょう生産を分析したもので、”鹿児島県は小規模零細農家ばかりだから、鳥取県のらっきょう生産は勝てる!”のようなことが書いてあり、とても驚いた。虎視眈々と鹿児島の地位を狙っていたわけである…。

地域特産野菜生産状況調査」2008年、農林水産省