2020年4月19日日曜日

(新)鹿児島県知事へお願いする5つのこと

前回からの続き)

私は鹿児島にとって最も大事なのは「男女共同参画」だと思っているが、それ以外の点でもこういう鹿児島県になったらいいなと思うことがあるから、新知事(候補)へ向けてこの機会に簡単に書いてみる。

鹿児島にもっと文化を!

文化はお金持ちの暇つぶしのためにあるのではなくて、人間的な生活に欠かせないものである(日本国憲法第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)。しかも、文化は「あたりまえ」の生活を違う角度から見る機会を提供する。だから文化は直接何かに役には立たなくても、経済やコミュニティや生活の向上に寄与する。しかも文化的なものが少ない地域はとびきり優秀な人達にとって魅力のないものに映る。だから文化後進地域である鹿児島は、もうちょっと真剣に文化的環境の充実に取り組まないといけない。

必要なこととしては、第1に図書館の充実。過疎地では、市町村にとって一定規模の蔵書を持つことは過大な負担だ(住民一人当たり蔵書数が大きいから)。だから人口減少時代のこれからは広域的な図書館政策が必要だと思う。鹿児島は東京から20年は遅れたところで、情報格差ももの凄いのだから(インターネットなんかではとても埋め合わせできないくらいの差がある)、図書館は地域の知の拠点であると位置づけて充実してほしい。蔵書数も増やして欲しいが、指定管理者制・司書の非正規化が進んだことの反省など制度面の見直しも必要である。

第2に、文化的活動への支援の拡充。例えば私がアーティストだったとして、鹿児島と東京のどちらが生きていけそうかと言えば、圧倒的に東京なのだ。発表の場も、理解してくれる人も、東京の方がずっと多いからである。だから、鹿児島で活動するアーティストや、文化活動に携わる多くの人には、もっと下駄を履かせてあげないと大変すぎると思う。例えば鹿児島の「アーティストバンク」に登録の人には、年間20万円の活動助成費を無条件で渡すくらいしたらどうだろうか(参考→ http://www.houzanhall.com/zaidan/project.html)。

また、鹿児島の文運を高めるため、出版助成もぜひやってほしい。今は印税で儲ける時代ではなく、もはや著者が出版社に金を出すような有様である。内容を問わず、1冊の出版あたり100万円くらいを助成するくらいやった方がいいと思う。この他、講演会への助成、文化活動の情報発信(鹿児島市には「かごしま情報センター」があるが全県的にもこういうのが必要)などを進めて欲しい。「発信する人を応援する鹿児島」をつくるのが鹿児島の文化環境の改善に役立つと思う。それから、黎明館の強化も必要だと思う。文化を高めることは、長い目で見れば質の高い観光にも寄与する。今の鹿児島の文化関連予算は僅かなので、それを2倍にしても金額的には小さいが、大きな効果が期待できる。

開かれた公共土木事業へ

鹿児島は公共土木事業に依存した経済実態がある。それの是非はさておき、いつも気になっているのは、鹿児島の公共土木事業が、なんだか密室的・ブラックボックス的であることだ。鹿児島にとって公共土木事業が大事なのであれば、それを全国的に見て一流のものにするべきだと私は思う。

だから鹿児島県庁は、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しい。ぜひ県民にとって「開かれた公共土木事業」になることを切望する。

鹿児島をSDGs先進県に!

「SDGs = Sustainable Development Goals」とは、国連で定めた「持続可能な開発目標」のことだ。だいぶ浸透してきたので今さらここで解説する必要もないだろうが、よりよい世界の実現に向け、2030年までに先進国・発展途上国の全ての国が達成すべき17のゴールと169のターゲットで構成される。SDGsは、発展が遅れた地域向けや国家的な目標も含むから、鹿児島の現状からするとピンとこない項目もあるが、その多くは鹿児島にとって非常に大事なことばかりである。


前回書いた男女共同参画の話も、「5 ジェンダー平等を実現しよう」に包摂されるものだ。この17の目標のいくつかについては、これ以外にも「鹿児島ではこうしたらいいのになあ」と思うこともあるが、あんまり細かい話になるので割愛する。この17の目標は理想の世界の実現に向けて非常に練られたものなので、大概の政党のマニフェストなんかよりずっと共感できる。にも関わらず、鹿児島県庁では今のところSDGsがほぼ黙殺されているような気がする。WEBサイトにも、通り一辺倒の説明が載っているだけだ。

【参考】SDGs(持続可能な開発目標)|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac01/kensei/keikaku/chihousousei/sdgs/index.html

鹿児島市では、「かごしま環境科学未来館」でSDGsについてかなり取り上げられているみたいだが、鹿児島県としての動きは聞かない。SDGsは環境保護だけでなく、人権・教育・経済成長・エネルギー問題など幅広い問題を取り扱っているので、県政の柱として活かしてほしい。今現在、これを県政の柱とまで掲げている都道府県はないようなので、鹿児島県にはSGDsに先進的に取り組み、全国をリードして欲しいと思っている。


農業技術の向上

鹿児島の基幹産業は農業である。農業生産額は全国3位だ。私自身も百姓なので、農業振興は最も身近な話題である。これまでの鹿児島県政でも、6次産業化の推進や食のブランド化、海外への農産物の輸出などいろいろ取り組まれてきた。

が、その基盤となる農業技術についてはぐらついているように感じる。例えば「普及指導員」の数がどんどん減らされているのだ。 「普及指導員」というと一般の方にはあまり馴染みがないかもしれないが、県の技術職員で農業技術の研究や農家への指導をする人である。農業は、自然のエネルギーを技術によって生産物へ変える産業である。だから、技術こそが生命線であり、その基盤を担ってきたのが「普及指導員」だったと思う。

それが、県庁の定員削減によってジワジワ減ってきている。同じく農業技術の要であった県立農業試験場(現・農業開発総合センター)は、農業大学校と共に(土地建物には)500億円以上ものお金をかけて移転・再編されたにもかかわらず、なんだか中身の方がスカスカになってきているような気がする。普及指導員の減少がものを言っているのではないか。

鹿児島はせっかくの農業県なのだから、「農業技術についてわからないことがあったら鹿児島に聞け」というくらいになって欲しい。普及指導員の定員を減らしている場合ではなく、むしろ増やすべきだ。農業技術を高めることが、農産物の品質向上や農家の所得向上をもたらすはずである。県は、食のブランディングとかマーケティングのようなことだけでなく、農業技術の向上という、行政しか取り組めないことにもっと注力すべきだと思う。

原発をどうするかは、ちゃんと議論して決めよう

原発の寿命は40年が目途というが、川内原発は2023年に建設から40年経過することになる。次の県知事の任期中には川内原発をどうするかの決断をしなくてはならない。しかし、脱原発するのか、それとも原発を使い続けるのかという知事自身の方針よりも大事なのが、県民の意志であると私は考える。

2015年に川内原発を再稼働させたときに、ちょっとだけ県民の問題意識が高まったものの、今はまた昔のように「何となく現状維持」になっていると思う。県は、薩摩川内市民には防災関係の説明会などしているが、それ以外には特に県民と議論しようという雰囲気もなく、むしろ触らぬ神に祟りなし的に、原発問題はそっとしておこうとしているようにも思われる。

だが2023年以降の川内原発をどうするのか、それを九電との密談で決めるのではなく、県民の意志を反映し、議論を積み重ね、公明正大に決断してほしい。今の鹿児島県に最も足りないのは、こういう住民参画型の合意形成のプロセスである。「原発について議論しましょう!」と言える県知事であって欲しい。


細かいことでは他にもいろいろ言いたいことはあるが、今思いついたのが上の5項目だからこのあたりで辞めることにする。この夏の県知事選、過去2回よりは政策的な議論が行われるのではないかと期待している。そして何より大事なのが「投票率」。みなさん選挙に行きましょうね!

2020年4月12日日曜日

鹿児島を理想郷にするために一番大事なこと

7月に鹿児島県知事選がある(はず、コロナウイルスの影響で延期されなければ…)。

それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。

それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。

ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。

もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。

だが私はそれは全く間違いだといいたい。

というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。

その理由をちょっと説明させて欲しい。

鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。

それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。

「データえっせい」より引用:2019年春の大学進学率
【参考】データえっせい ← ※このブログを書いている舞田さんは鹿児島県出身
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)

もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。

これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。

それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。

実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。

鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。

管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。

ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。

要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!

そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。

鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。

【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html

でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。

しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。

鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。

単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。

そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。

だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。

そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。

女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。

だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。

ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。

じゃあ具体的に何を実施すべきか?

これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。

またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。

そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。

今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。

私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。

「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。

(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))


【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html

農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
 

2020年4月7日火曜日

豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)

私の住む大浦町の西側には、亀ヶ丘という丘があって、ここから眺める東シナ海の様子は、ちょっと他ではないくらいの壮大な絶景だ。

そんな亀ヶ丘の、大浦町と反対側、東シナ海側にあるのが「秋目(あきめ)」という土地である。

ここは、天平勝宝5年(753年)に鑑真が艱難辛苦の末にやってきたところで知られる小さな港町。町を見下ろす斜面の上には、「鑑真記念館」という展示館がある。

【参考】鑑真記念館(南さつま市観光協会)
https://kanko-minamisatsuma.jp/spot/7564/

秋目は本当に猫の額のようにこぢんまりした土地で、浦を正面に見る集落の他はほとんど平地もなく急峻な山に囲まれている。明治時代までは、道らしい道も通っていなかったから、どこかへ出かけるときは船で出て行ったようなところだ。

集落は、まだかろうじて人が住んでいるが、空き家ばかりだ。既に人の住む力よりも、自然の力の方がずっと強い。亜熱帯の植物がそこかしこに繁茂し、徐々に集落に迫ってきている。このままでは自然が集落を圧倒してしまい、近い将来、ボロブドゥールやアンコールワットのように密林に覆われてしまうのではないかと思われる。

鹿児島には、こういう寂れた港町がたくさんある。お隣の久志や坊津だってそうだ。かつて栄えた港町がいかに凋落したか、そういう昔話も掃いて捨てるほどある。だが秋目は、他の港町とは違う謎がある。

これから、その謎について少し語ってみたい。

鑑真記念館のすぐ下に秋目の墓地があって、そこに藩政時代の墓石がいくつか並んでいる。謎の入り口は、この墓塔群が豪華すぎることである。

ここに並ぶ最大級の墓石は、ほとんどが山川石でできている。山川石とは、その名の通り山川(現指宿市山川地区)で採れる石材で、ノコギリで切れるほど柔らかく加工に適すと同時に風化には強いという性質の石である。これは歴代の島津家当主夫妻の墓石に用いられた高級石材で、並みの人は使うことができなかった。

また最大級の墓石でなくても、秋目の墓地には山川石製の墓石が多い。この大きな墓塔群の裏手には昔の子どもの墓塔(小さな石に地蔵菩薩が刻まれる形式が多い)が整理(廃棄?)されて大量に積まれているが、それもほとんど全て山川石でできている。山川周辺は例外として、他の地域ではこのようにふんだんに山川石の墓石が使われることはない。

秋目は、子どもの墓塔までも山川石で作ることができるほど、豊かな地域であったということだ(もちろん、かつては子どもの墓塔を建てること自体も贅沢だっただろう)。

しかしここで不思議なことがある。『坊津町郷土誌』などを読んでも、秋目が豊かであったとは一言も書いていないのである。いや、それどころか、秋目はとても貧乏だった、と述べられているのだ。

江戸時代、薩摩藩では「外城制(とじょうせい)」というのがあった。薩摩藩は異常に武士の比率が高かったから、武士を城下町にまとめて住まわせることができなかったし、また防衛上・行政管理上の理由から、藩内を100あまりの「外城」という地域に分けて、武士をそこに分散して住まわせたのである。武士が住む集落を「麓(ふもと)」という。

江戸時代の当初、秋目は最小の外城として設置される。ところがあまりに小さすぎたのか、追って久志と合併して久志秋目郷(「外城」は「郷」に改称された)となった。代わって最小になったのが山崎郷(現さつま町山崎)らしい。しかし山崎郷がどんどん開墾して石高を大きくしていったのと対照的に、久志秋目は山に囲まれて開墾の余地はなかったから、明治時代までに久志秋目郷の石高は山崎郷を下回っていた。当然のことながら秋目には石高の大きな武士(郷士)は存在せず、武士といえども貧乏暮らしに耐えなければならなかった。

事実、秋目は藩からの要請に対して、「秋目は貧乏で疲れた郷で、船大工などをしながらやっとのことで武士としての務めを果たしているような状態ですから、○○は免除してもらえるようお願いします」といったような公文書をたびたび出しているようである。

では、秋目はごく上級の武士のみが立派な墓塔を建てていただけで、ほとんどの武士は貧乏だったということなのだろうか。

ところがまた不思議なことがある。実は秋目は藩政時代、ものすごく人口が多かったのである。明治時代の統計になるが、明治17年、秋目には1328人(うち士族402人)の人が住んでいた。一方、当時の加世田の人口は3488人だったという。面積で言うと、加世田は秋目のゆうに10倍以上はあるだろう。にも関わらず、加世田の人口の4割に当たる人がこの狭い秋目に住んでいたというのだ。とんでもない人口密度である。秋目が本当に「貧乏で疲れた郷」であれば、このような人口は維持しきれなかったはずである。

このように、秋目は、墓地の様子や人口から考えると非常に豊かな地域だったと思われる。しかし、史料上では貧乏な地域として登場する。

秋目は本当は、豊かだったのか、貧乏だったのか、どちらだったのだろうか?

(つづく)

【参考資料】
『坊津町郷土誌』1969年、坊津町郷土誌編纂委員会
麓 街歩きマップ 2019』 2019年、鹿児島大学工学部 建築学科 鰺坂研究室