2015年12月26日土曜日

「天成り果」と窒素過多

一昨年から、柑橘の肥料をものすごく減らした。

販売する時に「無農薬・無化学肥料」を謳っている通り、化学肥料はもちろん使っていないし、それどころか実は有機肥料も入れていない。ということで今のところほぼ無肥料である。

「ほぼ」と言っているのは、堆肥の中に肥料成分が含まれているからだが、栽培基準に比べると10分の1以下の肥料だと思う。

それで、ほぼ無肥料にして気づいたことがある。無肥料にすると、「天成り果」が出来ない。

「天成り果」というのは、樹冠付近の上向き枝の先端に、上向きにつく果実のこと。これは肌がゴツゴツしていて大きく、ジューシーさがなくパサパサしていて甘みも弱く美味しくない。こういう天成り果は商品価値が低いため、通常は摘果(収穫しないで早く取って捨ててしまうこと)してしまうのだ。

だが、無肥料にすると樹冠付近の上向き枝の先端に果実がついても、「天成り果」にならない!

写真のように、だんだん枝がしなってきて、下向き果実になるのである。ちなみに、柑橘の場合、こういう葉裏(葉に隠れる)の下向き果実というのが一番味がのっていて美味しい果実といわれている。肥料をやっていたら摘果しなくてはならなかった果実が、無肥料にすることで一番美味しいタイプの果実になるのである。

ちなみに、「天成り果」はなぜ品質がよくないのか、というと、植物のホルモンの働きによると思われる。植物の成長ホルモンは上へ上へと流れていく性質があり、上向きの枝の先端には成長ホルモンが集まっている。すると、そこになった果実には過剰に成長ホルモンが与えられ、ホルモンバランスが崩れて変な果実になるというわけである。

だから「天成り果」は避けられない自然現象だと思っていたのだが、無肥料にするとこの現象が見られないことを考えると、どうやらそれは窒素過剰を表す植物からのサインだったようだ。

農業において、窒素は非常に重要な成分であるが、やりすぎると弊害が起こることが多い。窒素が多すぎると病虫害に弱くなり、そのおかげで農薬を多用しなくてはならない羽目になる。私が柑橘に農薬をかけなくてもさほど虫害が起こっていないのは、たぶん無肥料にしている効果が半分くらいあると思う。野菜なども肥料をごく少なくすれば、無農薬でもひどく虫に食われるというような悲惨なことは自然と避けられる(もちろん種類による)。

ただ、残念なことに窒素分が少ないと収量は確実に減る。

ポンカンの場合、基準通りに肥料をやるのと比べて収量はたぶん7割以下になると思う。そう考えると、生産原価において肥料の値段などたいしたことはないから、窒素肥料を多用して収量を増加させるのは、通常の農業経営において当然の判断だと思う。

しかしその判断が全世界的にやられているので、世界的な窒素過多はとんでもないことになっている。およそ100年前にハーバー=ボッシュ法が開発されてから、 地球上に供給される窒素はうなぎ登りに上がった。特に1960年代からの上昇はすごい。

ハーバー=ボッシュ法以前、農業生産の限界のひとつを定めていたのは窒素肥料であった。しかしこの革命的な方法により、窒素が人為的に供給できるようになり窒素肥料を多用するようになると、反収(単位当たり収穫量)の方もうなぎ登りに上がった。お陰で、農地をしゃかりきに増やさなくても、今のところ食糧危機が起こらずに済んでいる。

こうして窒素の大量生産が進められた結果、全発電量の1%以上がハーバー=ボッシュ法での窒素生産に費やされているといわれるほどで、現在、地球上の窒素固定量の半分が人為起源であるとの推計もある。微生物などによって自然に窒素固定はなされるが、そうやって自然が固定する窒素化合物と同量のそれを人間がつくりだしているというわけで、窒素の過剰放出は自然の物質循環に深刻な影響を及ぼしている。

しかも先述の通り、窒素肥料には功罪両面があり、使いすぎると「罪」の方の性格が強くなっていく。といっても肥料を減らすと収量も減ってしまうので、ただでさえ厳しい農業経営において肥料を減らす選択肢はなかなか取りづらい。

それに、私個人の農業経営としては、無肥料にする選択はさほど悩ましいものではないとしても、それを世界規模でしようとすると深刻な食糧危機を将来する可能性がある。タダでさえ人口が増え、新興国の生活水準がどんどん上がっていく局面であり、近い将来、穀物の不足が懸念されてもいる。そんな中で、窒素を減らすという決断は、非人道的なものですらあるかもしれない。

しかし、無肥料にすると天成り果ができないというメリットがあるように、窒素を減らすことには意外な効用もあるように思う。反収が減るのは確かだとしても、それを補う利点もあるかもしれない。科学もこの100年でずいぶん進んだのだから、そろそろ「減窒素の農学」が出来てもいい頃だ。

【参考文献】
地球環境に附加される自然起源と人為起源の窒素化合物」2010年、佐竹 研一

2015年12月22日火曜日

今年の5冊

年末なので、いろいろなところで、「今年読んだ本ベスト10」のようなことをやっている。私はこれまでそういうランキング(?)をやったことはなかったが、最近「本との関わり方を変える」ということを密かなテーマにしているので、今年はあえてその顰みに倣ってみようと思う。

というわけで、私の「今年読んだ本ベスト5」は次の5冊。といっても、1年で40冊くらいしか読んでいないので、ずいぶん選考基準の甘いベスト5だが。(ちなみに↓のリンク先は私の読書メモブログ)

『イスラーム思想史』井筒 俊彦 著
『チベット旅行記』河口 慧海 著
『無縁声声 新版―日本資本主義残酷史』平井 正治 著
『犬と鬼—知られざる日本の肖像』アレックス・カー 著
『麵の文化史』石毛 直道 著

『イスラーム思想史』は、たぶんこの一年で一番知力を使って読んだ本。この本のお陰で西洋哲学に比べてどうしても縁遠かったイスラーム思想が朧気ながらに見えてきた。近代キリスト教思想が発展する遙か昔に、イスラーム思想はその先蹤となっていた。その知的水準はほとんどデカルトやスピノザに到達している。

…ということは理屈として知ってはいたが、それをキンディー、ファーラビー、ガザーリーといったこれまで馴染みがなかった個人名で辿る思想史として理解できたのは大きな収穫だった。しかし、その知的水準はデカルトに到達しながら、イスラーム思想は遂に新プラトン的アリストテリスム、すなわちスコラ哲学を乗り越えることができなかった。イスラーム世界はほとんど近代科学への扉を開いていたが、スコラ哲学を破壊する前に文明そのものが衰退してしまったのが悲劇だったのかもしれない。

『チベット旅行記』はエンターテインメントとしてめっぽう面白い。読み始めたら簡単には止められないほど面白く、トイレの中でも本を読んだのは久しぶりだった。

ちなみにどうしてこの本を手に取ったのかというと、ジョージ・サートンという人の『古代中世 科学文化史』という本を読んでいたら、チベット文明が科学史において意外と大きな存在感があることに気づいて、チベットは今でこそ世界の辺境みたいなところだが、かつては文明の先進地の一つであったということに興味を抱き、近代以前の面影がある河口慧海の頃(明治時代)のチベットはどうだったのだろうと本書をめくった。

探検文学というものは、基本的には未開の地に足を踏み入れるという、ある意味で近代人の傲慢があるものだが、河口慧海の場合は仏教の原典を学ぶために鎖国状態にあったチベットへと秘密裏に入国したわけで、未開の地としてのチベットではなく、近代以前の文明の先進地への尊敬を持ってチベットへと赴いた(実際に河口慧海はチベットで大学へ入学)。その点が、本書を並の探検文学とは全然違うものにしている背景だと思う。というわけで、科学史のことはすっかり忘れて、エンターテインメントとして読んでしまったくらい面白い本である。

『無縁声々』は大阪釜ヶ崎(ドヤ街)の伝説的人物、平井 正治の主著である。恥ずかしながら、偶然、書店で本書を手に取るまで、この度外れた人物のことを知らなかった。日雇い労働者として苦役に従事しながら、最底辺の人間が生きてきた世界のこまごまとした出来事を記録し、さらには労働争議の先頭に立って戦うという、労働者であり、学者であり、活動家でもある人物である。

東京オリンピックという「国の威信」がかかった巨大事業が動き出している今年、この本を読んだことには大きな意味があった。そうした「国の威信」の裏に、どれだけの労働者の犠牲があるのかという平井の糾弾に、今こそ耳を傾けるべきだ。「国の威信」のために無理な工期が組まれ、そのために安全対策が疎かになり、いざ施設が完成すれば労働者は不要になる。使い捨ての労働者の存在を前提とした、こうした巨大公共事業こそドヤ街(≒スラム街)の産みの親なのだ。

『犬と鬼』は、日本に住んでいると当たり前すぎて気づかない日本のダメな点について激しく指摘してくれる、日本への愛のムチのような本。ただ「日本のここがダメだあそこがダメだ」とダメだしをするだけの本ではなく、日本にある素晴らしい潜在的な魅力を認識しながら、そこを台無しにしてきた日本人の鑑識眼のなさと、マネジメント能力の欠如を嘆く。

本書は最初英語で書かれ、それが著者の監修の元で日本語訳された。こういう本が、日本人向けに書かれたのではなく、英語世界に対して日本の真の姿を伝えるものとして書かれたことにも意味がある。本書はやや学術的なスタンスで書かれているので、論旨に関心があるが手軽に済ませたい向きには、本書のエッセンスを凝縮させて、写真を充実させた同著者の『ニッポン景観論』がオススメ。皮肉が効いた痛快な文章は苦笑の連続。

『麺の文化史』は本来ベスト5に入るような類の本ではないが、なにしろ私は麺好きなので、あえて入れてみた。「鉄の胃袋」の異名を持つ、石毛 直道氏による麺を訪ねるフィールドワークは麺好きでなくとも面白い(はず)。学術的な考察はもちろん大事だが、食品の研究はともかく食べるということがなくては始まらないわけで、どんなにお腹いっぱいでも土地の食べ物は食べておくという著者の姿勢はすばらしいと思う。

この5冊の他に、選外として『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修を挙げておこう。この2冊は、私自身は非常に興味深く読んだが、どちらも本としての完成度はいまいち(前者は若書きな感じで、後者は本というより事典のような感じ)なので5冊に入らなかった。でもこの分野に関心がある人ならとても面白い本だと思う。

来年もたくさんの良書との出会いがあらんことを!

2015年12月15日火曜日

「四元もち屋」と謙抑のデザイン

(前回からのつづき)

枕崎の路地裏に、「四元もち屋」という店がある。 この店、鹿児島市からもわざわざ買いに来る人がいるほどの知る人ぞ知る店で、特に一番人気の大福は午前中には売り切れてしまう。この前初めて大福を買いに行ったのだが、昼過ぎに行ったらやはり大福は売り切れていて、その大福を未だに食べられないでいる。しょうがないので二番人気(たぶん)の「かからん団子」(鹿児島の郷土菓子)を買って帰った。

この店の風貌は、今風の経営学とは対極にある。看板らしい看板もなく、知っている人しかその存在に気づかない。失礼な言い方だが薄汚れたような店内、というか店内というほどのスペースもなく、古ぼけたショーケースに「かからん団子」と「唐芋団子」が並んでいるだけ。しかも、値札どころか商品名の表示もなく、それはぶっきらぼうに置かれていて、「展示」されているわけでもない。

この店はおじいさんが一人で切り盛りしているらしい。長々と働いてきたことが一目でわかる、そんなゴツゴツした手をしている老店主である。

「かからん団子を四つ」と注文したら、その手で薄い緑色の紙に団子を4つおもむろに包んでくれた。この包み方がまた素朴でよい。確か4つで250円くらいだったような…。注文して初めて1つ60〜70円であることがわかる。倍くらい買っておけばよかった。

家に帰って食べてみたら、すごく美味しい。よもぎ団子の味が濃厚で、しかも口当たりがやわらかい。子どもたちも手をべたべたにしながら喜んで食べた。だけど「かからん団子」としては奇を衒わないごく普通の美味しさで、他の店では食べられないような、特別な美味というわけではない。では、どうしてこの店はわざわざ遠方からお客が訪れるような店なんだろうか。

一つには、 口コミということがある。「四元もち屋」を検索するとブログの記事がたくさん見つかる。一度評判が確立するとそれによってお客さんが寄ってきて、口コミによってまた新たな顧客を呼び寄せる。だけど内実が伴っていなければ、それも一過性のもので終わるだろう。長く人気を保つには、やはりその店の魅力がちゃんとなければならない。

では「四元もち屋」の魅力はなんだろう。商品の美味しさはもちろんだが、それと同時に、この朴訥な店構えというのが、やはり大きな魅力であるような気がする。大福そのものだけなら、他にも美味しい店がたくさんあるだろう(私はまだここの大福を食べていないので想像だが)。でも、この路地裏で密やかに、朴訥に作られている大福は、それだけで価値があるように思う。ここの店でおもちを買うのは、なんだか特別な感じがするのである。

その「特別な感じ」を、これまでの経営学では真似することができない。「商品のコンセプトを定め、マーケティングを行い、商品のターゲットを明確にして、試作を繰り返し、その上でコンセプトを見直し、それに沿ったパッケージと内容のデザインを行う」という「鹿児島の食とデザイン」のやり方は、教科書的には非の打ち所がないものだが、それではどうやっても「四元もち屋」に到達することはできないのである。というより、そういう教科書的なやり方では到達できないことが直観的に分かるから、「四元もち屋」は特別なのだ。

もちろん、だからといって教科書的なやり方を否定はしない。セオリー通りのやり方ですら満足にできないローカル企業はたくさんある。これからの時代、堅実な経営をしていくためには教科書を紐解くのも必要だ。しかし、「鹿児島の食とデザイン」の元々の発想は、「鹿児島の食品をもっと外(都会)に売っていこう」というところにあるはずだ。その時に、都会には既に溢れている「教科書的に優れた商品」を創り出すことは目的に適っているのか、ということが私の疑問である。

洒落たお土産商品も確かに求められてはいる。でも、そういうものよりもずっと、「四元もち屋」的なるものを都会の人は田舎に求めているものではないだろうか。消費社会の中で「消費」されていく「商品」ではなく、老店主が朴訥とつくる美味だが平凡な食べものの方が、都会の人にとっての贅沢ではないだろうか。そういうものこそ、都会では手に入らないものだからである。

「四元もち屋」は一見貧乏風の鄙びたお店だが、贅沢の発展段階で言う「精神的なもの」に位置するような、最高度の贅沢が味わえる店かもしれない。つまりここのお菓子は、利休が好ましいと思った「柚味噌」的なるものだ。都会の消費者にものを売っていくためには、教科書的に優れている「質的」「外面的」なものよりも、そういう「精神的なもの」までも見据えなくてはならないのではないだろうか。

鹿児島県民はアピール下手だとよく言われる。確かに鹿児島の人は売り込みが得意でない。鹿児島にはステキなものがたくさんあると思うが、そうしたものがほとんど取り上げられることのないまま、対外的には「西郷、焼酎、桜島」だけの県だと思われている。残念なことだ。「鹿児島の食とデザイン」はそういう鹿児島県民に、もう少し「お客様目線」を身につけさせて、鹿児島の食を売り込ませていく取り組みでもあるのだろう。これはこれで必要なことである。

しかし、鹿児島にある最良の部分をよく見てみると、そのアピール下手はむしろ強みなのかもしれないと思えてくる。朴訥で、地味で、声高に訴えないからこそ生まれる価値がそこにある。静かに存在しているという鄙びた店の方が、ずっと都会の人に価値を提供できると思う。別にそれが、侘び茶人たちのように高尚な哲学に基づいて侘びているのでなかったとしてもだ。というより、侘び茶人たちが追い求めた「侘び」は結局は作られた「侘び」でしかなかった。鹿児島の田舎なら、自然体で侘びることが出来る。

今の時代、「アピール」はあふれかえっている。どこもかしこも自画自賛だらけだ。他社の商品と比べて何が優れているか、それをわかりやすく伝えることがデザインの一つの役割かもしれない。そして「お客様」の気を引くためにも、いろいろな工夫が施されている。でも「四元もち屋」の商品はどうだろう。商品開発において最重要項目とされる「商品名」すら掲示されていない。パッケージもない。なぜそれに人は惹かれるのか。

アピールはもうたくさんだ、そういう気持ちがどこかにあるような気がする。消費させられることに疲れている部分があるような気がする。今の時代に必要なのは、アピールではなくむしろ「謙抑(けんよく)」ではないのか? そう考えれば、鹿児島県民のアピール下手は、克服すべき弱点ではない。大事にするべき平凡で静かな暮らしを、安売りすることなく守ってきた美徳ではないのか。

そういう観点で、これからの「鹿児島の食とデザイン」を考えてみたらどうなるだろう。アピールではなく謙抑のデザインを。「こんなものしかなくてすいません」という気持ちで人様にお出しできるような、そういう控えめな気持ちで出せるデザインを。おしゃれな「商品」ではなく、暮らしの中に生きているもののデザインを。「デザイン」をしないデザインを!

たぶん、そういうものは素晴らしくステキだが、でもきっと売り上げは少ない。やっぱり、声高に優れた点を叫ぶ商品の方が、売れるのが現実である。積極的に営業をかける商品の方が、売れるのは当たり前だ。それが健全な企業努力の成果である。でも、少ない売り上げでもやっていける、というのが田舎のいいところでもある。目先の売り上げのことはさておき、少しゆったりとした気持ちで鹿児島の「売らないデザイン」を創っていくのも悪くないと思う。そしてそれが、これから都会の人に本当に求められるものになるんだと私は思っている。

2015年12月3日木曜日

侘び茶と「鹿児島の食とデザイン」

鹿児島の食とデザイン」という鹿児島県がやっているプロジェクトがある。平たく言えば「鹿児島の加工食品は美味しくてもデザインがダサいものが多いから、もっとしゃれたデザインにしていきましょう」というもので、セミナーとか講座とか、様々なプログラムによって構成されている。

確かに鹿児島の製品は、食品に限らずあか抜けないものが多い。先日このプロジェクトを企画した県の人の話を直接伺う機会があり、正直いうと最初はちょっと眉唾で聞いていたのだが、全く仰る通りな内容であった。ごく簡単に紹介すると、
  • 鹿児島のこれまでの加工食品は、作れば売れるという安易な発想で作られたものが多かった。これまではそれでもある程度売れた。
  • でもこれからは人口減少等で食品消費が落ち込んでいくので、これまで買ってくれていた(主に高齢の)消費者をアテにしていては危うい。都会の消費者に向けた商品が必要である。
  • 今後の商品開発においては、商品のコンセプトを定め、マーケティングを行い、商品のターゲットを明確にして、試作を繰り返し、その上でコンセプトを見直し、それに沿ったパッケージと内容のデザインを行い、粘り強く営業をしていく必要がある。
  • しかもその各段階において、社内だけで検討するのではなく、プロの力を借りたりモニターの意見を聞いたりするべきである。
  • 内容を変えずパッケージだけを新しくする場合も、ただお洒落にしようということではなく、誰を新しい消費者と考えてそれを販売していくのか考え、消費者の目線でデザインを再考すること。
ということである。至極真っ当なことを仰っている。

例えば、鹿児島の昔ながらのお菓子「げたんは」(九州の各県でいうところの「黒棒」)はもはや鹿児島の若い世代ではあまり食べられていない。その理由は、ベタベタしていて味が今っぽくない(甘すぎる)ということもあるし、一袋に食べきれないくらい入っていてしかも一つが大きいということもある。もちろんパッケージもあか抜けない。要するに消費者のことを余り考えていないように見える(ごめんなさい南海堂さん!)。

こういうちょっと残念な商品を見ると、経営を学んだような人は、「昔ながらの郷土菓子という知名度とブランドがあるのだから、食べやすい形態にして内容量を少なくして若者向けのデザインに変え、都会の人にアピールすればきっと売り上げが伸びるはずだ!」と考えるのも無理はないと思う。いや、私自身が真っ先にそういうことを言いそうなキャラである。

でもそう言いたくなるところをぐっと我慢して、敢えて「鹿児島の食とデザイン」の思想にささやかながら異議を申し立ててみようと思う。私はこう見えて天の邪鬼(あまのじゃく)なのだ。

・・・・・・さて、話が随分飛ぶが、元禄時代に書かれた『茶話指月集』という本に、千利休の逸話が載せられている。こういうものだ。
森口(京都と大阪の間)というところに一人の佗び茶人があると聞きつけて、利休はいつか伺いますと約束していた。
ある冬の夜更け、利休は用事で京都に行くついでにその人を突然訪問した。亭主は喜んで利休を出迎え、利休もその侘びた佇まいに好感を持った。主人は(急な訪問だから十分なものがないからということで)庭にあった柚を取ってきて柚味噌をしつらえた。
利休はこの「侘びのもてなし」を大層喜んで、共に酒を傾けたが、次に主人は「大阪から取り寄せました」と言って上等なカマボコを出したので、利休は「さては誰かが私が来ると知らせて準備していたのだろう。ということは先ほどの対応はわざとだったか」と興ざめて、主人が引き留めるのも聞かずさっさと帰ってしまった。
この話は「されば、侘びては、有り合わせたりとも、にげなき物は出さぬがよきなり(
侘び茶においては、有り合わせはよいが、似つかわしくないものは出さない方がよい)」と結ばれている。 確かに侘び茶の世界に「上等なカマボコ」は似合わない。でもなぜ似合わないんだろうか?

「侘び茶」というのは、元来の意味は「社会的地位が低い、貧乏茶人の茶の湯」ということだったらしく、次第に「世俗的な世界から抜け出し、清浄な境地で楽しむ簡素で精神的な茶の湯」というような意味になってきた。でも私なりに言えば、「侘び」というのは「侘びる」という言葉があるように、「こんなものしかなくてすいません」という申し訳なく思う心を表すもので、それに対して客が「いえいえ、贅沢なものよりも、心ばかりの持てなしが一番有り難いんですよ」と応えるものが「侘び茶」であると思う。

それなのに、「これは大阪から取り寄せた高級カマボコです! どうでしょう、美味いですよね!」みたいな態度が出たから、利休は興ざめて帰ってしまったんだと思う。それは全然「侘び」ていないのである。

贅沢というものは、量的なものから質的なものへ、外面的なものから精神的なものへとだんだん発展していくものである。「侘び茶」はこの贅沢の最終段階に位置していて、一見簡素で貧乏風の茶の湯であるが、その内実は最高度に贅を尽くしたものである。高級カマボコよりも、その場でしつらえた柚味噌の方が実は遙かに有り難いものだという認識がここにある。

利休自身は大・大・大金持ちで、秀吉に取り立てられ社会的な身分も非常に高かった。そういう人が、「こんなものしかなくてすいません」という境地に至るためには、自然とお金では手に入れられない価値を至高のものとして追求する姿勢にならざるを得ない。使う道具一つとっても、吟味に吟味を重ね、そこに金では買えない精神性があるか——、というギリギリの美意識の勝負になる。そうでなくては、大金持ちが「こんなものしかなくてすいません」といってもまるっきり嘘っぱちになる。そういう利休だったから、亭主が出したカマボコ、というよりカマボコを出す亭主の態度には我慢がならなかった。

話を戻して鹿児島の郷土菓子というものは、先ほどの贅沢の発展段階でいえばまだ「量的なもの」の段階に位置しており、「げたんは」などは「大きければ大きい方がよい。甘ければ甘い方がよい」みたいな部分がある。「鹿児島の食とデザイン」は、これを「質的なものへ(味を洗練させよう)」「外面的なものへ(パッケージをおしゃれに)」という方向へ導くものだと言えよう。当然の流れである。

しかし、私自身、最近作られたしゃれた加工品を見ると、あまり触手が伸びないことが多い。もちろん、おしゃれなパッケージは好ましいし、興味も湧く。新しい取組をしていること自体に好感も持つ。というより、「南薩の田舎暮らし」自身がそういう方向性で商品を作っている。でもなぜか、桜井製菓の「アイスキャンデー」(冒頭写真)とか、とも屋の「マドレーヌ」とか、そういうちょっとあか抜けない商品の方に心が惹かれる自分がいる。

そして、「こんなものしかなくてすいません」という気持ちでお客に出すのなら、今のままで十分に魅力的なものが田舎には溢れている。大浦ふるさとくじら館で売っているふくれ菓子の「福麗女房(フクレカカ)」なんか、田んぼのあぜ道で食べるものとしては最高に美味しい。 鹿児島の各地で売ってる「かからん団子」なんか私は大好きである。でもそういうものを、都会から来たお客に「鹿児島の郷土菓子は美味しいでしょう!?」という自慢げな態度で出したらやっぱり興ざめするような気がする。こういうものは「こんなものしかなくてすいません」という調子で出されると、「意外と美味しいじゃん!」となるものだ。そんなもの態度の問題じゃないか、と思うかもしれないが、そこにものの価値の本質があると私は思う。

そして一方で、都市部には既におしゃれで機能的な製品が溢れている。消費者のことをよく考えた、練りに練られた商品がよりどりみどりである。「鹿児島の食とデザイン」は、鹿児島ローカルな食品企業もこうした商品と同じ土俵で勝負して行きなさいという叱咤激励でもあるだろう。

でも本当に、そういうものと同じ土俵で勝負していいんだろうか? ここはせっかく日本の端っこなのに、都市部と同じ「消費社会」の論理で動いて「商品」を作っていいんだろうか? 私はそれが、利休が嫌悪した「上等なカマボコ」を作る方向に行くのではないかと危惧する。ここにはせっかく最高級の贅沢である「柚味噌」を作る環境があるというのに。

利休が「上等なカマボコ」で興ざめたのは、本質的には「上等なカマボコ」が金さえ出せば手に入るものだからだろう。一方、庭に生えていた柚子で作る柚味噌は、柚子のシーズンにしか出来ないもので、季節外れだったら千金を積んでも作ることはできない。そういう「その場、その時」でないとできないもてなしだったから、利休は最初それに喜んだ。それが消費社会における「商品」ではなかったから、最高級の贅沢になりえたのである。

私が「鹿児島の食とデザイン」に僅かに危惧するのは、それが都会の消費社会に迎合するものだからである。だいたい、田舎で売られている魅力ある商品というものは、そもそも消費社会とは違う論理で作られた部分にその良さがあるのではないかと思う。デザインだけに限っても、何十年も変わらない、今風でないちょっとネジが緩んだようなパッケージなんかを見ると、ほっこりした気分になるのは私だけではないはずだ。そういうのこそ、都会では既に絶滅してしまってもう目にすることができない貴重なデザインで、それを今風デザインに変えることは、短期的には売り上げが伸びるかもしれないが、そのかけがえのない部分を自ら捨て去ってしまうことになりそうな気がする。

でもだからといって、ローカル企業はこれまで通りやっていればよいわけでもない。 事実郷土菓子の売り上げが落ちているとするなら、それで生きている企業はやはり何らかの手を打たなければならないからだ。問題は、売り上げを挽回させようとするとき、消費社会の論理で動くMBA(経営学修士号)式のやり方で、本当に田舎ならではの価値を生み出せるのかということだ。

(つづく)

2015年12月1日火曜日

「積ん読ナイト」に参加して

先日、「積ん読ナイト」という催しに参加した。

積ん読している本について語り合おうという変わった会である。「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」にも出店いただいた「つばめ文庫」の店主さんに誘われて二つ返事でOKし、この前夜中に天文館の某所に行ってきた。

これが、読んだ本について語り合う会だったら、もしかしたら行っていなかったのではないかと思う。私にとって、読んだ本をオススメし合う会よりも、読んでない本について語る会の方がよほどクールなものだ。

会では「買ったけど難しくて挫折した」といったような真面目な理由で積ん読されている本が多かったようだが、 私はそもそも、買った本は読むべきもの、とは思っていない。もちろん買ったのなら読むに越したことはないが、それは冷蔵庫の野菜は使い切った方がよいというレベルの話であり、無駄はない方がよいということに過ぎない。

でも、無駄はない方がよい、ということを考えるなら、そもそも読書自体が無駄であって、本なんか読まない方がよほどスマートである。「本はためになる」「本で勉強できる」「本は感動する」「本で心が豊かになる」といったたくさんの反論が予想されるが、これまでの経験で言うと、読書家に「知識が豊富で心が豊かな人」が多いかというとそうでもない。

もちろんほとんど読書をしないで知識が豊富な人というのはかなり珍しいので、知識を求めるなら読書は有用であるが、大抵、読書によって仕入れる知識のほとんどはそもそも無駄である。そして、ついでに言うと読書によって仕入れる知識はとても危険であり、本当は賢くなっていないのに、なんだか賢くなった気がするという読書の逆効用を常に気をつけていないといけない。本当に知識が欲しいなら、かなり心して体系的な読書を心がけないと、生兵法は怪我の元で、読まない方がマシだったということになりかねない。

そして、もっと心してかかるべきなのは、読書は知性を彫琢するという思い込みである。読書家には知的な人が多い。これは確かである。だからと言って誤解してはならないのは、人はなかなか読書だけでは知的になることはできないということだ。それどころか、読書は時として人を高慢にし、悟ったような気持ちにさせ、中庸を見失いがちになり、その割に人を怯懦にさえさせる。このあたりは、中島 敦が『山月記』に余すところなく描いている通りである。もちろんあの話は読書に限った話ではないが、読書には李徴を虎に変身させたのと同じ力が秘められている。

本当に知識が欲しいなら、読書よりも誰かについて勉強するほうが確かだし、知性を陶冶したいなら読書はむしろ危険でさえある。人を真の意味で知的にするものは行動と経験だけで、読書はそれに添えられたスパイス的な働きをするに過ぎない。要するに、知的なものを求めて行う読書というのはあまり意味がない。私は、長く「読書など知識人にとってのパチンコである」と思っていた。パチンコは低俗なもので、読書は高尚なものだ、というのは思い込みである。

だからといって私が読書を敵視しているかというと、もちろんそんなことはない。それどころか、読書はすごく好きである。いや、正直に言えば、本がない生活というのは、(今までそんなことがなかったので想像だが)耐えられない。

でも、「読書って素晴らしいよね!」という屈託ない思いで読書に向き合うことができないというのが私のような中途半端な知識人の悲しいところで、いつも「本なんか読んですいません」という気持ちで読書している。それあたかも、こっそりとパチンコに行くオヤジさんのような気持ちである。 読書なんて無駄な活動をして申し訳ない! ほとんど収入もないというのに!

それはさておき、そういう考えでいくと、積ん読は無駄でもなんでもない。むしろ読書に費やされたかもしれない時間で何か他の活動をしているわけだから、無駄の削減でさえある。だいたい超人的な博覧強記でもない限り、読書内容の99.9%は忘れる。しばしばその本を読んだのかどうかさえ忘れる。積ん読は、そういう99.9%を削減する素晴らしい方策である。…というのはジョークだが、積ん読を悪びれる必要は全然ないのだ。

それに、どの本を購入するかということを、自分の取捨選択だと考えているうちはまだ読書の高慢さに捕らわれていると思った方がよい。本当のところは、本の方があなたを選ぶのである。例えば、それは捨て猫に出会ってやむなくそれを家に連れて帰るようなもので、実際には購入者の方には選択肢があんまりない。その本と目があってしまったら、それはその本があなたを選んだということで、その本を読みたいかどうかということはさておいて、とりあえず家の本棚という居心地のよいところで、その本を休ませてあげなくてはならない。撫でたり眺めたりした後で、読みたくなったら読めばよいし、そうでもなかったら遠慮なく積ん読しておいたらよい。あなたは今やその本の保護者である。

本が溢れている現在はそういう気持ちでいる人が少ないが、本が超貴重品だった前近代社会においては、本は所有するものでなく保護するものだったと私は思う。でも今でも、本というものはちゃんと保護していないと意外とすぐに死に絶えてしまうもので、本は常に絶滅危惧種である。特にいい本こそ生命力は弱いので、見かけた時に買っておかないと、次はない、という場合だって一度や二度ではないのである。

読む暇も 知力もなくても よい本は、積ん読してでも 家に置くべし(短歌)。

ということなのだ。そういう考えの私であるから、「積ん読ナイト」は大変興味深いイベントだった。といっても、もちろんそれは「積ん読最高!」というようなひねたイベントではなく、その中身はごく健全なもので、私のような毒気がある人もおらず(たぶん)、私自身が読書に対して改めて清新な考えで向き合うきっかけになったと思う。

思えば、ド田舎に移住してきてから、私の読書に対するスタンスも少しずつ変わってきた気がする。

「読書など知識人にとってのパチンコである」というのも、未だにそういう思いはあるが、それは、そもそも読書の主体に「知識人」しか想定していない狭量な考えであったと反省する。読書は万人に開かれたものであるし、読書は単なるエンタメに過ぎないとしても、その楽しみを追求することに罪悪感を覚える必要はないのだろう。

そういう心境の変化があって、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」にも古本屋を呼ぶことになったと(今になってみれば)思うし、このタイミングで「積ん読ナイト」という本のイベントに参加できたことはよかった。これから少し、本についても前向きに人生に取り込んでいこうと思う。

蛇足。ちなみに私が持参したとっておきの積ん読本3冊は次の通り。なぜこれらが積ん読になっているのかは秘密です。

2015年11月26日木曜日

アーモンドは無様に失敗中

実験的にアーモンドを栽培しているが、それを報告した記事「アーモンドはじめました」に結構反響があって、応援して下さる方が多い。

が、そういう方々には大変申し訳なく、残念な報告をしなくてはならない。というのは、これまでのところ、アーモンド栽培は失敗中である。

私が育てているアーモンドは、スペインから取り寄せた「マルコナ」という品種で、別名「アーモンドの女王」という高貴な通り名がついているが、女王らしく、かなり気むずかしい品種のようである。約50本植えて、今残っているのがたった10本ちょっとしかない。

失敗の要因は、なんといっても雨である。ここはスペインに比べて雨量が桁外れに多いから、やはりその性質に合っていないのだと思う。去年は梅雨時期もそれほど痛まなかったが、今年の暴力的なまでにすさまじい梅雨にはだいぶ参ったようだ。

しかも、この品種はカタツムリへの耐性がほとんどない。梅雨時期は頻繁にカタツムリ取りに出かけたが、今年の梅雨は本当に途切れることなく雨が降ったので、カタツムリがどんどんどんどん湧いてきて、全く追いつかなかった。カタツムリを駆除する農薬も使用したがそれでも被害が大きかった。だいたい、薬剤は雨の時はあまり効果を発揮しないもので、カタツムリ用の農薬もそうである。雨の中農薬を散布した意味があったのかなかったのか、よくわからない。

柑橘の苗木なんかもカタツムリが大きな被害を及ぼすことがあるが、柑橘の場合はどこからともなくマイマイカブリというカタツムリの天敵が現れて、カタツムリを食べてくれる。だから苗木の根元はカタツムリの殻がたくさん落ちていることが多い。でもこのアーモンドの場合、カタツムリはたくさんいるのにマイマイカブリは不思議と全然見なかった。

スペイン料理では「カラコレス」といってカタツムリを煮込み料理にして食べる(私も食べたことがある。もちろん日本のスペイン料理屋さんで)から、スペインにもカタツムリはたくさんいるはずなのに、カタツムリへの耐性がないのは不思議だ。スペインのカタツムリと日本のカタツムリはかなり違うんだろうか。

失敗の要因は、他にも、スペインには存在しない台風とか、イノシシとか、そういうこともあるが、やっぱり一番は雨とそれに付随するカタツムリである。以前「ケッパー」を栽培してみたいと思って調べた時も、雨量が違いすぎてうまくいかなそうだと断念したが、南欧と南薩では、雨が決定的に違うので同じようにはいかないということを今回も痛感した次第である。

でもこれで諦めたらかっこ悪い、というか悔しいので、もう少し工夫をしてみようと思っている。例えば、台木の性質でも相当変わりそうなので、台木を変えてみるといった対策があるのではないか。

というわけで、アーモンドは無様(ぶざま)に失敗中であるが、私のやっている農業はほとんどが無様に失敗しているものだらけで、今のところバッチリうまくいっているものというのもないので、まあそんなもんだと達観したフリをして、ごまかしごまかしやっていこうと思う。

2015年11月24日火曜日

景観をテーマにした講演会@マルヤガーデンズ

Tech Garden Salonというイベントのご案内。

私は東京工業大学、というごつい名前の(鹿児島では)無名の大学を卒業していて、その大学の同窓会が「蔵前工業会」というこれまたごつい名前なのだが、その同窓会活動の一環で今回マルヤガーデンズで12月5日に講演会を行う。

これは、「科学技術がテーマの講演会だとどうしても聴衆にオヤジが多いので、少し砕けた感じにして女性にも聞いてもらえるようなイベントを開こう」ということで始まったもので(あくまでも私の理解です)、今年で2回目である。

今年のテーマは「まちづくりと景観:心地よい景観とともに暮らす」で、講師は東工大の卒業生で鹿児島大学名誉教授の井上佳朗先生。

井上先生は大学時代は機械系だったが心理学の研究室が近かったことから心理学の方に興味を惹かれ、大学院で社会開発工学を専攻、鹿児島大学に赴任して法文学部の教授になったという面白い経歴の人である。

工業大学になぜ心理学の研究室があったのかというと、昔、東工大は随分人文教育に力を入れていて、心理学の宮城音弥とか文学の伊藤 整江藤 淳、文化人類学の川喜田二郎といった独特な人たちが教授を務めていた。ある意味では人文社会学と科学技術を融和させようとする風土があったから、井上先生も機械系から心理学へ移行するキャリアを積むことが出来たのである。

井上先生の専門は(たぶん)都市計画・開発工学における心理的側面で、要するに街が形成されていく時に、その構造や景観によってどのように居住者の心理が影響されるのかということである。例えば、鹿児島市はJRの線路によって東西が分断されているが、そういうことが住民の気持ちやコミュニティの形成にどう影響を及ぼすのかというようなことなんじゃないかと思う。

井上先生は鹿児島市の景観審議会の会長も務めていて、実務面でも学術面でも鹿児島の景観学をリードする方なのではと私は思っているが、その井上先生から「景観」をテーマにした講義を聞けるということで私もすごく楽しみにしている。

私も景観というものは人の心を考える上ですごく重要な要素だと思っていて、これまでブログでもいくつか景観に関わる記事を書いた。でも正直に言うと、まだ景観の意味を摑みきれないでいる。例えば、いくら景観が重要なものだといっても、景観の価値はどれくらいあるんだろうか?

ヨーロッパの諸都市では、景観をそれこそ共同体の顔や体というくらいに思っていて、第二次大戦で街が灰燼に帰した後も、戦後の金がない時なのにそっくりそのまま(というのは言い過ぎかもしれないがほとんど元通りに)街を古風な景観の通りに再建したほどである。 つまり、欧州諸都市の人間にとって、景観はなけなしの金を出しても惜しくないほど価値があるものだった。

一方日本ではどうか。日本人はほとんど景観に気を掛けないことはよく知られたことで、街を覆う電線、無秩序な看板とネオンサイン、「消費税完納推進の街」みたいな無意味な横断幕、統一感のない街並み、貧弱な街路樹、「立ち入り禁止」「ゴミを捨てるな」といった過剰にうるさい標識といったものが景観を乱しに乱していて、都市と言うよりも街全体が工場のようである。

でも日本人が景観に全く注意を払わないかというとそうではなく、日本人の観光の中心はバカンスとかショッピングよりも「美しい風景を見る」ということに傾いているようで、普段の生活で適わない「美しい風景」を求めて観光地へゆくという面があるような気がする。つまり貴重な時間やお金を使う価値が、風景にはあるわけだ。なのに、普段生活する都市の景観には無頓着であるのは謎の一つで、このあたりから私の思索はこんがらがっていく。

日本人にとって、景観とはどんな価値があるんだろうか? ヨーロッパやアメリカの諸都市とは違った意味づけを日本人はしてきたのだろうか? そして、景観の価値というものがあるなら、それをどうやって計測可能なものにできるのだろうか? そういうことは、素晴らしい風景に囲まれて暮らしている私にとって、最近非常にホットな問題提起なのだ。

たぶん、今回の講演会はこうした理念的な疑問に答えるものというよりは、もっと具体的なテーマを扱うのではないかと思うが、私にとっても風景学のよい入り口になるのではないかと期待している。

ちなみにイベントの当日は、(もちろん有料だけど)ちょっとした飲み物も注文できて、ほんの少しだけサロン的な雰囲気にもなる予定である。東京工業大学同窓会主催のイベントというと随分堅そうで関係者ばっかりというイメージがあると思うが、そのコンセプトは
私たちの日常に当り前にある様々なモノの裏には多くの知恵と技術が隠れています。それを知れば世の中の見方さえ変わってしまうかも。アートやカルチャーを楽しむように、今宵はテクノロジーの世界を気軽に楽しんでみませんか。
というもので、部外者歓迎というか、むしろごくごく一般の人のために開催するものなので、ぜひお越し下さい。申込不要です。ちなみに、私も当日は一番の下っ端として雑務をする予定。

【情報】
 Tech Garden Salon
講演テーマ「まちづくりと景観:心地よい景観とともに暮らす」
講師:鹿児島大学名誉教授(生活環境論、社会開発論) 井上佳朗
日時 2015年12月5日(土)15:30-17:00(15:00開場)
場所 マルヤガーデンズ 7F 入場無料(定員50名)

→詳しくはこちら

2015年11月22日日曜日

「場の活性化」の秘訣

前回の記事で、私は「地域活性化をするよりも、自分がやりたいことをやった方が結果的に地域活性化になる」ということを述べた。

でもこれにはいろいろ反論があるだろう。自分のやりたいことといっても、読書や映画鑑賞のようなものもあるし、極端に言えばぐうたら寝ていたいというのだってあるわけだ。そういうことをやっても、地域活性化に繋がるのか? と。私はそういうものであっても、それをのびのびとできるなら結果的には地域活性化になると信じるが、ちょっと迂遠な感じがするのは否めない。さびれた商店街を何とかしたい、というようなことを考えている人たちにとって、「自分がやりたいことをやりましょう」というのはあまりに悠長なアドバイスだ。また、「私のやりたいことは、まさに地域活性化なんだよ!」というアツい人もいると思う。こういう場合どうしたらよいのか。

時々、地域活性化講座みたいなものがあって、こういう熱心な人たちにいろいろアドバイスしているが、どうも私から見ると正鵠を射ていないものが多い。地域資源を発掘して、それを売り込んでいくためのマーケティングをして戦略を作るとか、そういう軽薄なアドバイスは特に最悪である。

断言するが、地域活性化に「マーケティング」も「戦略」もいらない。

鹿児島市役所のそばに「レトロフト チトセ」という古いビルがある。ここは古本屋やカフェ、気軽なレストランなどがあって私のお気に入りの場所である。遠目に見ると灰色の古いビルだが、中は随分と活気があり、いつも様々な新しい企みがなされていて楽しい。

でもこのビルは、数年前まで文字通り古い雑居ビルで、特にどうということもない場所だったようだ。今のように活気ある場所になったいきさつは詳しくは知らないが、最初から、こういう戦略や青写真があってレトロフトは今のような場所になったんだろうか。どうもそうではないように見える。

これは「戦略」に基づいて場の活性化がなされたというより、リフォームを行ったことを契機として、面白いことを考える人たちがどんどん集まってきて新しい企画が実現し、それに惹かれてやってきた人たちがまた新しい風を入れるという具合に、「人とアイデアの好循環」が生まれた結果ではないか。私が最初にここを訪れたのは2013年で、それからの動きを横目に見ているとそのように感じる。

もちろん、オーナー夫妻の感性も活性化にはすごく重要だったろう。でもそれだけでは、この数年で急にビルに活気が出てきたことの説明が難しい。 やはり運営上の変化があったと考えるべきで、それはリフォームによる外面的な変化もあるが、むしろ人とアイデアを受け入れる「開かれた態度」になったことではなかっただろうか。

場の活性化に成功している他の例を見ても、このことは共通している。その「場」には「人とアイデア」を受け入れる「余白」と「開かれた態度」がまず準備される。すると面白い人が集まってきてやいのやいの騒ぎ出す。楽しい企画が実現し、それに惹かれてまた人が集まってくる。これが活性化のいつものパターンである。そこに場をまとめるためのリーダーシップやセンスは必ずしもいらない。ただし、そういうものがあれば、その活動が長続きし、また高水準の成果を生みやすいということは言える。

そして、こういう活性化が起こるためには、「戦略」はほとんど役立たない。「戦略」に沿って物事を進めるよりも、思いもよらないアイデアをドンドン受け入れていくことこそ必要で、そういう態度であり続けようとするなら、結局「戦略」は無意味になっていく。というより、最初に思い描いていた「戦略」から離れていくことが活性化の証左ともいうべきで、それは人生のドラマのように、私たちを予定調和よりももっと面白い展開へと連れて行ってくれる。

ローカルな事例で申し訳ないが、大浦にある「有木青年隊」もこういう活動の成功例である。有木青年隊は、集落の普通の青年団のように「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではなく、やりたい若者が(もちろん女性でも)誰でも入れる。そこに集落の限定もなく、今では集落外に住んでいるメンバーの方が多いくらいじゃないかと思う。

有木青年隊の沿革もよく知らないが、十五夜祭りを盛り上げる活動の一つとして緩く始まり、飲ん方(ノンカタ=宴会)をしているうちに「こうしてみよう、ああしてみよう」と盛り上がり、十五夜祭りから飛び出して、「大浦 “ZIRA ZIRA“ FES」という一大イベントを実行するようにもなった。今では大浦町の顔の一つだ。

この活動も最初から青写真があったというより、若者に自由にやらせようという集落の「開かれた態度」があり、そこにうまく若者たちが集結し「人とアイデアの好循環」が起こった結果に見える。ついでにいうと、「はっちゃける」ことを肯定して、若者のエネルギーの発散を「黙認」ではなく「承認」された行動にしたことも大きい。

一方で、有木青年隊は「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではないから、やりたい人がいなければ消滅してしまう。人によっては、そんなんじゃ継続性がない! と不満に思う人もいるだろう。やっぱり婦人会とか青年団とかカッチリした枠組みで継続性がある活動をするほうが確実だ、という意見である。でもつまらない活動が長続きするより、いっときでも面白いことが起こる方がずっといい

行政による地域活性化の支援などでも「継続性」が条件になっていることが多いが、私からすると継続性などと言ってる時点でつまらないことをしている自覚があるというもので、面白かったら自然に続くし、逆にやってみて面白くなかったらさっさと辞めた方がいい。最初から継続することを条件にするのは愚策である。

ともかく、地域活性化——よりも、私は「場の活性化」と言うべきだと思っているが——をしたいなら、そのための「戦略」を練って何をすべきか考えるよりも、若者のエネルギーを形にできるような「余白」と「開かれた態度」を持つべきである。レトロフトの素晴らしいところは、リフォームの際にこのことを十分にわきまえていたことで(想像です)、たった4㎡のテナントを作って、気軽に小さなビジネスを始められる場を設けたり、人の行き来が活発になるように動線を綿密に計算している点である。

若者は、常に自分の魂が承認される場所を求めている。行き場のないエネルギーを抱えている。そのエネルギーが肯定され、思い描いたことを実現できるフィールドを欲しがっている。場の活性化をしたいなら、まず彼・彼女が存在できる「余白」を設けよう。そして若者がそこに入りやすいように、「開かれた態度」を身につけよう。そうすれば、人は自然と集まってくる。なぜなら、そういう場所は常に不足しているからだ。そんな場ができれば、自然と「人とアイデアの好循環」が起こり、もうそうなったら仕掛け人その人でさえコントロールできないようなステキな物語がたくさん生まれてくるのである。

こういう活性化なら、私は大歓迎である。

2015年11月18日水曜日

「地域活性化」はやるべきではありません

先日、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催しました。来ていただいた方、本当にありがとうございました!

当日の模様については「南薩の田舎暮らし ブログ」の方に書きましたのでよかったらご覧ください。

【南薩の田舎暮らし ブログ】「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」ありがとうございました!

ところで、こういうイベントをしていると、「地域活性化してくれてありがとう!」とか言われることがある。また、新聞記者さんにも「南薩の田舎暮らしは、地域活性化団体とかじゃないんですか?(そうでないと記事に紹介しにくいなあ、みたいなニュアンスで)」と聞かれたりする。

でも、実を言うと私は「地域活性化」には取り組んでいないし、「南薩の田舎暮らし」も商業活動をするときのただの屋号である。ただ、「珈琲を飲む会」とか、先日やった「公民館 de 夜カフェ」なんかは、収益を目的としておらず(というかカンパがなかったら赤字)、気持ちの上では地域貢献活動としてやっているのは確かである。

でも地域貢献は目的の中心ではない。目的の中心は、「自分が楽しいからやりたい」という私のエゴである。美味しいコーヒーを、眺めのよいところで飲んだら美味しい、それを他の人とも共有したい! そういう私のエゴでやっているのが「珈琲を飲む会」である。いわば自分による自分のためのイベントである。地域活性化とか、そういう「高尚な目的」は全然ない。

そもそも、私は「地域活性化」や「地域おこし」はやらない方がいいと思っている。

そういうことに興味があったり、いろいろな取組をしている人と知り合ったりする機会が多いのだが、その現状を見聞きしても、「地域活性化」の内容には問題があることが多い。

そういう取組の最大の問題は、「地域活性化」が一体何を目的としているのか曖昧なことである。「地域」というボンヤリとしたものを相手にしているから、それがどういう状態になったらそれが「活性化」だと言えるのか、あまり考えていない。なので、「とりあえず人の集まるイベントを開いてみよう!」というだけの活動になることが多い。

そうは言っても例えば「地域のお年寄りが喜んでくれたんだからいいじゃないか」みたいに反論する人がいるだろう。でも、最初から「地域のお年寄りを喜ばす」ことが目的なら、その目的に沿って活動を設計すべきであり、「地域活性化」みたいな抽象的な題目ではなく、お年寄りは何を喜ぶのか、という具体的なところから出発するべきである。だが、現実には「結果的に」喜んでくれた、というのが成果として捉えられており、そこに手段と目的と成果の齟齬がある。

これは観光振興なんかでも同じである。「地域活性化」の一つとして、観光振興が注目を集めているが、誰のための観光振興なのか、が曖昧であることが多い。というかほとんどそうである。観光で潤うのは、第1に交通(バス会社とか)と宿泊業、第2に飲食業、第3に物産販売業であるが、こうしたメインのステークホルダーが不在のまま、勝手連的な活動として観光振興が取り組まれることが多い。

我が南さつま市の観光協会の場合どうなのかは知らないが、交通と宿泊業の人はあまり中心的な役割を果たしていないように見える。観光振興というのは、結局はこうした業種の利益を伸ばしていくということが目的なので、まずはこうした業種の企業からプロジェクト毎に協賛金の形でお金を集めて、その範囲でちゃんと利益に繋がる活動をしていくのがよい方法であると思う。

だが、これまで観光地でなかったところは、「観光客が増えるとなんか嬉しいよね!」というようなふわっとした目的の下、観光業には直接関係のない人たちが、良くも悪くも利益を度外視してボランティアで活動しがちである。それは一種のロータリークラブのようなものだから、社会貢献活動をやるフレームワークとしては機能するし、別に悪いことはない。でも長い目で見れば、観光は社会貢献活動ではなく商業活動として成立しなければ意味がない。

だから結局は「○○旅館の売り上げを増やす」というような具体的な成果を見据えていなければ、そういう活動はやりたがり屋の人たちの生きがいづくりの場になってしまう。具体的な成果が想定されていないなら、何かをやったことそれ自体が成果になるからだ。でもそれでは、その活動によって誰が喜ぶのだろうか? この活動を横目に見ている地域の宿泊施設は、実は収益の柱がスポーツ合宿で、観光客なんか全然期待していないのかもしれないのだ。せっかくの「観光振興」なのに、それで喜ぶ業界関係者があまりいなかったら、何のためにやっているのかよくわからない。

つまり何かの活動をする時は、「それによって誰が喜ぶのか」が明確でないといけないと私は思う。 別に、「自分が楽しいから」でも全然問題ない。私は実際、「珈琲を飲む会」は自分が楽しいからしている。また、目的が誰か特定の人を喜ばすことだったらそれももちろんいい。でもよくないのは、「地域の人を喜ばす」とか、「観光客を喜ばす」とか、そういう誰かもわからない人を喜ばそうとすることである。それが「地域活性化」という題目のよくないことだ。

こうなると、「地域活性化」は中身のない「大義」になる。そして「大義」は腐敗の温床であり、その活動に協力的でない人を非難するようになる。「こっちは地域活性化のために頑張ってるのに、あの人は全然協力しない」とか。 でもそれは本当にみんなが参加するべき活動なんだろうか? 実際はやりたい人だけがやればいい活動なのではないだろうか?

というより、「地域活性化」のために「みんなが参加するべき活動」なんてものがあるとすれば、それはもはや「地域活性化」でもなんでもない。参加したくもないものに参加させられるとすれば、地域の活力はなおさら失われるはずだからだ。ただでさえ自分の時間がないなかで、抽象的な「地域活性化」とやらにボランティアで参加しろといわれるなら、そんな地域には住んでいたくない。

だから「やりたい人がやればよい」という活動でない限り、「地域活性化」にはならないと私は思う。一方で、活動の中で、地域のみんなが顔を揃えて話し合いをするとか、そういうことは必要だろうし、自治会などの組織で取り組む場合は、なるだけ多くの人を巻き込む工夫も必須である。正直、全員参加が望ましい活動はある。でも「これに参加することは義務だ」となれば、人心が離れていくのも現実である。この種の活動は、このあたりのバランスがすごく難しい。

結局、「地域活性化」なるものが中身のない理念だからこういう難しい事態が生じるのだろう。だから私は「地域活性化」なんてやめた方がいいと思うのだ。それよりも、個人が、自分がやりたい活動を思い切りやる方が本当の地域活性化になるはずだ。自分の趣味にひたすら没頭するのでもいいし、「地域に花を植えたい」というような活動でもやりたい人でやったらいい。それで喜ぶのが、あくまで「自分」あるいは「自分の知っている人」であるならその活動は健全なものだ。

そして、本当の地域活性化とは、そうした「自分がやりたいこと」をやりやすいように、さまざまなことの心理的・社会的・経済的ハードルを下げることであると思う。私が笠沙美術館を借り切ってイベントをしたことで、「自分も笠沙美術館を借り切ってイベントしてみたい」と思う人が出てきたら、イベントの副次的効果として本当に嬉しい。美術館を借り切ることの心理的ハードルが下がったということだからだ。

「地域活性化」に取り組む人の悪い癖は、「みんな地域資源に気づいていない。地域の魅力を分かっていない。やる気がない」といったように、地域が衰退していくことを不特定多数の人の責任に転嫁しがちなことである。でも地域が衰退していくことは人口動態や経済構造で決まることで、「地域の魅力に無頓着な人」の責任は全くない。

というより、私は「地域の魅力」なんか住民に理解されていなくても、住民一人ひとりがめいめいにやりたいことをしている地域の方がよっぽどいいと思う。むしろ、「地域の魅力」などというものは分かっていない方がいいくらいで、「うちの地域はなんもなくてすいません」というくらいの気持ちでいる方が可愛げがある。

「地域活性化」などという「高尚な目的」よりも、個人の生活の幸せを追求する方が、ずっと大事なことである。

2015年11月5日木曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催します

11月15日(日)、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催します!

【チラシ】海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2

昨年の11月23日、vol.1をやって、思いの外多くの人に来ていただいた。ただ眺めのよいところでコーヒーを飲む、というだけのイベントだったが(主観的に)大好評をいただいて、2回目もしようとその場で決めた。

ただ、vol.1の時は振る舞いコーヒーにしたので、私自身がコーヒーを淹れてばかりでそれ以外のことがほとんどできなかった。せっかく遠方から来ていただいた方とロクにお話しすることもできなくて本当に申し訳なかったと思う。

あと、さすがに遠方から来てコーヒー一杯だけというのも、なんかこちらも申し訳ない気分になったので、地元の人以外を呼ぶならやはりそれなりにコンテンツを準備すべきだったとも思った。

そこで、今回はコンテンツを充実させつつ、自分の役割は極力なくして開催することにした。というわけで、少しだけコンテンツのご紹介。

珈琲:天文館の七味小路にある「古本喫茶 泡沫(うたかた)」さんによる出張販売。昨年はふるまいコーヒーだったので無料だったが、今年は普通に販売になる。でも1杯200円くらいと言っていたから格安だ。ちなみに、「泡沫」さんに出張販売を打診したとき「うち、自家焙煎とかじゃないけどいいんですか?」というのが第一声で、それにすごく好感を持った。そして、それに対して私は、「景色がいいから大丈夫です」と答えた。

写真: 小湊在住のプロの写真家・松元省平さんの全面協力(丸投げとも言う)をいただいて、松元省平写真展「今夜も庭に、星が降る」を開催。これは松元さんが自宅の庭や近所で撮った星空写真の展示会である。昨年はせっかくの展示なのに1日だけだったが、今回は6日間の会期(11月11日〜16日)。やはり美術館でイベントを開催する以上、芸術的な要素もないと寂しい。当日11時からは松元さんに「私の星空散歩」と題してギャラリートークもしていただく予定。

【参考】松元省平 写真展「今夜も庭に、星が降る」を開催します!

古本: 今回一番悩んだのはここで、コーヒーと芸術(写真)と景色、だけでもイベントとして成立すると思うが、やっぱり本に関することもやりたい、ということで武岡の「つばめ文庫」さんにお願いして古本の出張販売をしてもらうことにした。何しろ、古本といえばコーヒー、コーヒーといえば古本、だと私は思っている。

【参考】「つばめ文庫」の出張販売も楽しみ!

そして、当日14時からは店主の小村勇一さんに「困ったときの本頼み! ー生き方に迷っても」の題でちょっとした講演もしてもらう。小村さん自身が、生き方に迷って古本屋になったような面白い人なので私自身も講演がすごく楽しみである。

本との出会いというのは、内容以前に、どこでどうやって出会ったのかというのが大事だと思う。雄大な景色の中で、もしこのイベントに参加していなかったら一生手に取らなかった本を手にとってもらえたらすごく嬉しい。

プチマルシェ:笠沙美術館の周りは山と海で手近なお食事処がないので、坊津の「食堂勝八」さんにお願いして出張販売していただくことにした。名物「双剣鯖ピザ」と「双剣鯖バーガー」がオススメとのこと。実は「バーガー」の方はまだ食べたことがないので、私もすごく楽しみである。その他、昨年、店主の負傷により参加できなかった知る人ぞ知る「ZAKCAR」さんも出店。もちろん「南薩の田舎暮らし」も出店します。

このイベントは、一種のオフ会(インターネットで知り合った人と実際に会う場、というような意味です)にもなっているので、このブログをよく読んで下さっている方には、特に来ていただきたいと思っている。実は、私はネット上の人格と、実際の人格が大きく乖離しているみたいなので、期待されるような会話はできないと思うが、せめてご高覧の御礼を申し上げたい。

というわけで、当日天気が良ければぜひ笠沙美術館にお越しいただき、壮大な景色の中で、コーヒー片手に写真や古本を物色していただければ幸いです(天気が悪かったらイベントの意味があんまりないのでそっとしておいて下さい)。よろしくお願いします。

【情報】海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2
日時:2015年11月15日(日) 10:00〜17:00
参加費:100円(子ども無料、+カンパ)
場所:笠沙美術館


2015年10月26日月曜日

南さつまの観光政策への放言

前回の記事にも書いたように、南さつま市観光協会のメンバーになった。というわけで、今のうちに南さつま市の観光政策について思うことを書いておきたい。

というのは、私自身観光業に携わっていなくても、観光協会のメンバーとしていろいろな活動に関与していけば、ブログで好き放題論評するというわけにもいかなくなりそうなので、まだ何も役目をいただいていないうちに、観光政策の問題点についてつれづれなるままに放言しておこうという次第である(関係者の皆さんは気分を悪くされると思うので読まないで下さい。すいません)。

まず第1に、インターネットでの情報発信がヘタすぎる。

例えば、本市の最大のウリだと私が思っている「南さつま海道八景」だが、市役所のWEBページには写真だけしか載っておらず、「海道」といいながら全く道について触れられていない。これだけだと、海道八景がどこにあるのかすら分からないという有様。

観光協会のWEBページには、若干の説明があるが、この説明がマウスオーバーで現れる(マウスが写真の上にあるときだけ説明が読める)といういただけない仕様になっている。HTMLをいじるのが面白いとついこういう仕掛けをやってしまうものだが、シンプルに写真とテキストが書いてあった方がよい。なぜなら、実際に観光に来る人が、このページを印刷する可能性があるからで、マウスオーバーテキストだとそれが印刷できない(その上リンク先があるかどうかわかりにくい)。しかも、なんと観光協会のWEBサイトにも「南さつま海道八景」がどこにあるのか、その説明が全くない! せめて国道226号線沿いだというだけでも説明しないと、このページだけでは観光に行きたい人に役立たない。

「南さつま海道八景」については、それなりにちゃんとしたパンフレットを作っているので、パンフレットをそのまま掲載するくらいはしたらよいと思う。

でももしかしたら、「南さつま海道八景」を「本市最大のウリ」だと思っているのは私だけなのかもしれない。「砂の祭典」こそ最大のウリでは? と思う人もいるだろう。しかし、市役所のWEBページを見ても、観光協会のWEBページを見ても「砂の祭典」が本市の一大イベントであるとは全然わからない。観光協会のWEBページなんか、公式ページへのリンクもなく(なぜ?)、随分あっさりした書きぶりになっている。数万人を動員する「砂の祭典」からしてこうだから、他は推して知るべしで、必要な情報、必要なリンク先が全く出てこないというのを強く感じる。

要するに、市役所も観光協会も、インターネットで「南さつま市へ観光に来たい人」に対して必要な情報をほとんど提供していない。何が書いてあるかというと「南さつま市にはこんな観光スポットがあるんですよ!」というアピールである。

しかもそのアピールもヘタクソで、アピールである以上、「押し」や「ウリ」といったものが明確に分からなくてはならないのに、それがなくてあらゆる情報が並列的に載っている。要するに、何かのついでがあれば観たらいいよ、という「田の神」のようなものと、南さつまに来たら是非観るべき、という「南さつま海道八景」のようなものがほぼ同列に並んでいる。これではアピールにならない。

観光というのは、「あれも行きたいこれも行きたい」といってどこかへ行くわけではなく、目的地は大抵一つである。例えば群馬県の水上温泉に行きたい、というときは、まず温泉を調べる。そして温泉だけだと子どもたちが楽しめないから他にないか、といってロープウェイなど近場のレジャー情報を調べ、さらに何か美味しいものが食べられないか、といってグルメ情報を調べる。この場合最も重要なのは「温泉」の情報で、それ以外は「温泉」に付随しているに過ぎない(温泉がなかったら調べなかった情報だということ)。だからアピールするなら、観光地の核となる情報を発信し、それ以外の観光情報はその下に付随する形にしているべきだ。要するに観光情報の階層化が必要なのだ。もっと簡単に言えば、「そのためだけに南さつま市に来る価値がある所」はどこかをしっかり見極めて、アピールはそこだけに注力したらよいと思う。

なお余談ながら、私の考えでは、それは「南さつま海道八景」「亀ヶ丘」「吹上浜(京田海岸)」の3つである。

しかし、実のところを言えば、こうした公の機関は、インターネットで観光スポットをアピールする必要は全然ない。なぜなら、こうしたサイトを訪問している以上、そのページを見ている人は既に何かのきっかけで「南さつま市に行きたいな〜」と思っているはずで、その人は、どの季節に訪問するのがよく、どこをどう巡ったら楽しいか、という具体的な情報を欲しているからである。

そもそも観光協会も市役所も、どこかにアピールポイントを置いた公報というのは苦手である。役所が作った「南さつま海道」のプロモーションビデオにも、金峰町の人から「金峰が入ってない」という意見があったそうだから、役所でこういうのを作るのは本当に難しいと思う。だからやりにくいアピールをやるよりも、既に南さつまに行きたいと思っている人に対して、そういう人が必要とする情報を愚直に出して行く方がよいと思う。

具体的には、観光マップをしっかり作るべきだ。観光協会のWEBサイトは、情報はいろいろあるのに肝心な観光マップがないのが最大の問題だと思う。市役所のWEBサイトも、一応観光マップと銘打っているものはあるが、全く使えないもので残念である。「ちゃんとパンフレットでは観光マップを用意しています。来て頂ければお渡しできます」と考えているとしたらそれは傲慢である。あるならばそれをインターネットに載せるくらいのことはするべきだ。

ついでに言うと、インターネットでの発信はぜひ英語でもすべきだと思う。英語で発信したって見る人はいないでしょ、と思うのは間違いで、日本の観光情報は外国の人にとって常に不足しているので需要はある。他の自治体がなかなか英語での発信ができていない中、南さつま市が英語発信に積極的に取り組めばすぐに頭一つ抜け出ることができるはずだ。

第2に、今あるものを大事にしよう・活用しようという考えが希薄で、イベント的な一過性の取組が多すぎる。

南さつま市は他の観光地に比べて、景観はかなり勝れていると思う。だがその肝心の景観を大事にしようという考えが希薄である。といっても、これは日本の観光地一般に言えることであって、実は南さつま市だけではない。歴史ある京都の街並みでも電柱の埋設が進んでいないし、品のない看板が多い。京都駅の駅舎は街並みとは異質なデザインだし、京都タワーは景観を乱していて本当にない方がいいと思う。京都の人は景観をどう考えているのだろうか。

 「南さつま海道八景」も、道脇の草がボウボウである、朽ちた看板がある(しかも内容が「海や川をきれいにしましょう」みたいなものだったりする。看板自身が景観を乱しているというのに)、人工物が邪魔している(ガードレールや電線や廃屋)、といったことで非常に惜しい状況である。

海道八景沿いだけでも、「老朽化した看板の撤去」「新たに設置する看板への規制」「道路清掃作業の頻繁化(国道なので市がやれる範囲で)」「景観を乱す人工物を目立たなくする(例えばガードレールを周囲の環境と調和したものに)」「景観の邪魔になる木の伐採」といった景観の向上への取組が必要だと思う。

他にも、例えば「笠沙美術館」は素晴らしい立地の美術館で、ここだけでも観光の目的地になりうる場所だと思うが、観光に全く役立っていない。私は個人的にここがすごく気に入っているので「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を今年も企画しているが、市役所も積極的に使ったらよい。しかしここも、建設以降ほとんど改修が行われていないので各所の扉がさび付いて開けなくなっており、施設を適正に使うことができない。

また、非常につまらないことと思うかもしれないが、公共施設のトイレを清潔に保ったり、現代的に改修したり、入りやすいようにするといったこともすごく大事である。田舎に越してきてつくづく思うことは、トイレに関しては鹿児島は東京に20年遅れているということである。

行く先のトイレにおむつ替えシートがあるかどうかというようなことが、子連れでどこか行くときにすごく重要だし、それ以前に利用したいと思うトイレであることが大事で、「できれば入りたくない」というようなトイレが存在していること自体が(実際に入らなくても)観光客にとっては負担である。

「南さつま海道八景」沿いだけでも、今一度公共トイレの施設設備や清掃体制をチェックすべきだ。例えばトイレが県の施設で管理できないという場合は、県から施設を譲渡・購入して市が管理できるようにし、ストレスなく使えるトイレに変えていったらよい。そして、インターネットやチラシでどこにどのようなトイレがあるかちゃんと発信したらよい。こういう地味なことをするのが本当の観光政策だと私は思う。

しゃかりきになってイベントを企画しなくても、こうした今ある施設や観光スポットをちゃんと維持管理・整備し、ポテンシャルを引き出すことが十分に魅力づくりになるのではないだろうか。

第3に、観光の拠点となる場所がよく分からない。

鹿児島の北の方に蒲生(かもう)という町があって、そこは「蒲生の大クス」という日本一大きなクスノキがあるのが最大のウリなのだが、大クスがある蒲生八幡神社の入り口に蒲生観光交流センターがある。ちょっとしたお土産品とか、観光パンフとかが置いてあって、そのもの自体はどうということはない所だが、こういう施設が最大の観光スポットに付随しているのはうまいと思う。

というのは、まだまだ日本ではインターネットの情報は現実の後追いであることが多く、紙のパンフレットなどの方が情報豊富で正確である。だからパンフレットを各所で配布することは重要なのだが、観光客は律儀に市役所に寄ったりしないし、それ以上に土日は市役所が閉まっている。だから観光協会での配布が重要になるが、南さつま市の観光協会は加世田の市街地にあって観光スポットとは縁がなく、観光ルートと離れている。というより、今の観光協会のオフィスは(リアルの)情報発信の拠点と位置づけられていないから、WEBサイトに開館日や開館時間すら書いていないので観光客には全く使えない。

南さつま市で唯一観光ルート上にあるそういう施設は、坊津の観光案内所だがここも有効に活用されているとは言えない。

私としては、「南さつま海道八景」のちょうど入り口に立地している物産館「大浦ふるさとくじら館」の一部を観光案内所と位置づけて、観光協会が間借りし、そこを情報発信の拠点にしたらよいと思う。物産館は年末・正月を除いてほぼ年中無休なので今の観光協会のように人が居ない日があるという問題も回避できる。そもそも「大浦ふるさとくじら館」は、合併前の大浦町時代に観光案内所的な意味合いもあって作ったものだと聞く。それがいつの間にか物産館だけの施設になっているので、もう一度原点に返るべきだ。これは第2に述べた「今あるものの活用」という話とも繋がる。

観光客というものは、意外と無計画に観光地へとやってくるものなので(私も観光に行くときは大概そうしている)、観光の拠点へと自然と足が延びるというのは大事である。南さつま市の場合、そういう場所がどこなのか私自身判然としないので、わかりやすい観光の拠点を作って、そこを中心としてリアルでの情報発信をしていくのがいいと思う。

第4に、観光の基盤となる歴史と文化に対し、ほとんど関心が払われていない。

多くの観光客は、美しい風景や気持ちの良い温泉、美味しい料理があれば満足すると思われているがそれは大きな間違いで、確かにそういうことは観光の中心ではあるがそれが全てではない。旅行というのは、ただ上質なサービスを受けるためだけに行くのではない。もの凄く美味しい料理を食べたいなら東京の一流レストランに行く方が間違いないし、圧倒的な絶景を観たいなら手つかずの自然が残る外国に行く方がいい。じゃあ、あまりお金をかけないで行く国内旅行が貧乏人のための次善のものかというと実はそうではない。

旅行というものは、自分の生きる土地と違う風土に触れて、暮らしやなりわいの多様性を体験するということも重要な目的だから、国内旅行だって十分に贅沢なのである。つまり風景や温泉や料理そのものも重要だが、それが自分とは異質な風土の元に営まれていることに一層の価値がある。

そして風土というのは、気候や地勢ももちろんだが、それ以上に独自の歴史と文化が重要な構成要素である。歴史とか文化とかは一部の好事家のためのもので、多くの観光客には無縁と考えるのは早計で、そうしたものを是非学びたいと言う人は少数派でも、旅先で聞く風変わりな(歴史の教科書に出てこない)歴史話は多くの人が耳を傾けて「へ〜」と頷くものだ。なぜならそれは「自分は今、違う文化圏に来ているんだ」と確認できることだからである。

そういう意味で、土地の神社仏閣は言うに及ばず、博物館や埋蔵文化財センターといった地味な施設も実は観光にすごく重要な意義を有している。それは直接観光客が訪れる所ではないかもしれないが、観光に深みを与え、ただの街歩きを歴史の重みを感じる散策に変える基盤を提供するものだからである。

南さつま市には、そういう施設として「歴史交流館 金峰」「坊津歴史資料センター 輝津館」「笠沙恵比寿(の展示室)」があるが、最も博物館として充実している「輝津館」ですらWEBサイトを持っていないのが残念だ。「輝津館」は学芸員も擁しているし、企画展も意欲的に開催しているので、その情報を実直に発信していけば南さつまの観光にもっと寄与すると思う。

さらに言えば、こうしたものの裾野を成す各地の「史談会」なんかも意外と重要で、観光ガイドの質は「史談会」を抜きにしては語れないと私は思う。これまでの行政は「史談会」を良くて文化活動、ひょっとすると年寄りの暇つぶしと見ていた節があるが、公益的な価値があるものとして取り上げ、史談会誌の発行を助成するなどの支援をしたらいい。

ともかく、今の南さつま市は「どんな歴史や文化を持っているのか?」という観光客の疑問に対してぴったりとした答えを持っていないように感じる。鑑真が上陸したとか、島津日新公の拠点であったとか、断片的なことしか語られていない。市制施行10周年でもあることだし、簡単でもよいから「南さつま市の歴史と文化」についてまとめたらよいと思う。

・・・というわけで、とりあえず4点述べたが、真面目に考えたらもっとたくさん出そうな気がする。でも最初に「関係者の方は読まないで下さい」と書いたように、私としては「この意見を採り上げろ」とは全然思っていない(というかブログの記事なんか現実的に影響力が全然ないので)。


でも間違えて関係者の方が読んでしまった場合、何かの参考になれば幸いである。

2015年10月23日金曜日

「すべての人が楽しめるよう創られた旅行セミナー in 南さつま」へ参加

ほとんど観光に関する活動はしていないが南さつま市観光協会のメンバーになった。

それで先日、「すべての人が楽しめるよう創られた旅行セミナー in 南さつま」という講演会に参加してきた。

正直、このセミナータイトルがなんだか胡散臭い感じで、あんまり期待はしていなかったのだが、意外と面白かったので内容を紹介したい。

講師は日本バリアフリー観光推進機構の理事長であり、また「水族館プロデューサー」でもある中村 元さん。中村さんは「バリアフリー観光」の日本での提唱者であるらしい。「僕がバリアフリー観光が大事だと言ってるのは、集客のためです!」という身も蓋もない話からスタート。中村さんは福祉系の人たちとはかなり違う風貌で、良くも悪くも「プロデューサー」らしい怪しげな雰囲気がある。

「バリアフリー観光」なるものの発端は15年ほど前に遡る。当時、三重県の北川知事が「伊勢志摩への集客のためにイベントばっかりやってるけど全然成果ない。これまでと違った考えで観光推進やってみよう」ということで若手を集めて議論させた。その時集められた一人が、当時鳥羽水族館の副館長をしていた中村さんである。

中村さんはひょんなことから海外のリゾート地で「バリアフリー観光」が行われていることを知り、これを伊勢志摩への集客に使えないかと考えた。だがメンバーは大反対。障害者への偏見なども強い時代(その後『五体不満足』でだいぶ変わったという)で、「障害者から金取らないとやっていけないくらい伊勢志摩は落ちぶれたのかっ!」という意見まで出たという。

そのため中村さんは水族館のお客さんのデータをとって障害者の市場がどれくらいあるのか推定してみた。結果、水族館の入館者数に占める障害者の割合は0.5%に過ぎないが、介助者と一緒に来るため障害者には4人連れが多く、結果0.5%×4人=2%が障害者に関係するお客さんだということがわかった。

一方、全日本人に占める障害者の割合は3%なので、水族館に来る障害者もこの割合にまで上がったとして、やはり介助者と一緒に4人組で入館すると仮定すれば、この2%は3%×4人=12%まで増やすことができる。こうなると集客の可能性としてはかなり大きい。

しかも障害者に優しい施設は、高齢者にも優しい。特に後期高齢者は歩行や排便に障害者と同じような困難を抱えている場合がある(和式便器は使えないとか)ので、なかなか外に出たがらないということがある。後期高齢者が人口に占める割合は12%もあるので、この人たちがお客さんになってくれるとすればマーケットとしてはかなり有望だ。

そういうことで中村さんはメンバーを説得し、伊勢志摩で「バリアフリー観光」に取り組むこととなったのであった。

中村さんはまずバリアフリーマップを作ることにしたが、障害を持つ友人から「バリアフリーマップなんか信用できない!」と言われた。その理由は、バリアフリーマップは障害者が作っていないから、実際にはバリアフリーでないのに「バリアフリートイレ」があるというだけでバリアフリーと表示されていたり(トイレ自体はバリアフリーなのだが、トイレに行くまでに障害があるとか)、バリアフリーを謳うとトラブルを誘発するということで実際にはバリアフリーの部屋があるホテルがそう書いていなかったり(何か問題があったときに「バリアフリーって書いてるのに対応してないじゃないか!」みたいなクレームがある)、 要するに全然使えないというわけである。

ということで、中村さんはちゃんと障害者と一緒に実地で見て回ってマップを作ることとし、しかもバリアフリーかバリアフリーでないか、という2項対立ではなく、どこにどの程度のバリア(障壁=段差の高さ、傾斜の角度、などなど)があるのかというマップを作った。要するに、「バリアフリー観光」を謳ってはいるが「バリアフリー」という概念はここにはなく、人は何をバリア(障壁)と思うのかはそれぞれ違うのだから、全てのバリア(になりうるもの)を網羅して調査したのである。

しかもそれをマップ化するだけでなく、そこで収集した情報を集積させて、障害の程度に応じてどの施設・観光地が利用可能かをアドバイスする拠点「伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」をつくった。マップを作るところまではある意味では誰でも思いつく話だが、このセンターを作ったのが中村さんのイノベーションであると思う。

というのは、全てのバリアを網羅するというような野心的な情報収集になってくると、「ここに10cmの段差、その次に5cmの段差・・・」というような内容になって、とてもじゃないがマップどころかWEBサイトでもこれをわかりやすく案内することはできない。どうしても、そこに人が介在して「あなたの障害の程度ならここなら大丈夫」というような案内が必要になる。そしてそれ以上に、ホテルは旅館業法で宿泊客を拒否することは事実上できないから、実際には対応できない障害者を泊めてしまうというトラブルを防ぐため、こうしたセンターが必要なのである。

しかしこのセンターの真の価値は、障害の程度や介助者の状況によって利用可能な施設を差配する、ということにあるわけではない! そうではなく、その障害を持ったお客さんの、こんな観光をしたい、という気持ちを叶えることを中心に考えていることがこのセンターのすごいところである。例えば、温泉に入りたいというお客さんならば、「ここの温泉宿は段差があって介助者が2人必要だけど、段差を乗り越えれば露天風呂の家族湯に入れる」というような案内をする。ただ施設が整っていて、「バリアフリー」なホテルを案内するだけでない、というところがミソだ。

そもそも、「バリアフリー」なところを巡るだけだったらそれは福祉施設の視察みたいなもので観光とはいえない。観光にはバリアはつきもので、旅から全てのバリアを取り除こうとする方がおかしい。というより、ある程度のバリア=障壁がなかったら、美しい風景も残っていないわけで、観光の醍醐味はそのバリアを乗り越えて、美しい景色とか温泉とかにたどり着くところにある。そういう意味では「バリアフリー観光」は自己矛盾な言葉で、観光は全行程がバリアフリーであったら成り立たないのである。

だったら「バリアフリー観光」は何がバリアフリーなのか? ということである。歩道の段差をなくし、トイレをユニバーサルトイレにし、 エレベーターを設置する、それはもちろんバリアフリー化ではあるが、バリアフリーの本体ではない。バリアフリーの本体は、そうした情報を発信し、旅行の計画段階で、どこそこにバリアがあって、それを自分なら超えられるかどうか事前に検討できる、という状態を作ったことである。人間、行ったら困るかもしれない場所には行きたくないものだ。だが、それがどのくらいの困難さなのか事前に分かっていたら、介助者の準備も出来るし、少なくとも行けるかどうかの検討ができる。

つまり、障害者にとっての真のバリアとは、段差とかトイレとかいうことよりも、そうしたことが事前にわからないという「情報不足」だったのである。

そして、障害者が行きやすい場所は、「障害者が行けるんなら自分達も大丈夫だろう」ということで後期高齢者も行きやすい。そして多くの人が行く場所は、もっと多くの人を呼び寄せる。このようにして、伊勢志摩では非常なる集客増を成し遂げたのである。

中村さんは、施設をバリアフリーに改修するコンサル的な仕事も請け負っており、その際のアドバイスもちゃんと障害者の人たちの意見を聞いて行っている。というか多分、中村さんは人の意見を聞き出すのが上手で、「バリアフリー観光」がうまくいったのも、そのコンセプトがどうこうというより、中村さんの人の意見を聞き出す力に依っている部分が大きいような気がした。

例えば、最初のコンサルの仕事を請け負った時、ホテルの一室をバリアフリーに改装するにはどうするか、というのを障害者同士のワークショップ形式で議論してもらったそうだが、そこで出た最初の意見が「テレビは大きい方がいい」だったという。 「車イスだと一度部屋に入ると出るのが億劫、だからテレビを見ていることが多いが、そのテレビが家のテレビより小さかったらイヤだから」というのがその意見。私は、この意見が最初に出たということを聞いてナルホドと唸った。

というのは、こういう話し合いをすると、最初はどうしても優等生的な意見が出がちである。「段差をなくす」など真面目で当たり障りのない意見が出てから、そういう意見が尽きたときに「ところで、テレビは大きい方がいいんだけどね」みたいに冗談めかしていう意見が「本当の意見」であることが多い。そして、大抵そういう「本当の意見」は笑い話として処理され黙殺される。私は行政が住民の意見を聞く会議、みたいなものに結構参加している方だと思うが、そういう場面は何度も見て来た。

だがこの場合、「テレビは大きい方がいい」という個人の欲望に基づいた「本当の意見」がまず最初に出てきているわけで、それは中村さんの人柄によるのか、雰囲気作りのうまさによるのか分からないが、とにかくすごい。しかもこの意見は即採用された。こうなると「本当の意見」はドンドン出てくる。

人の意見を聞いてプロジェクトを動かして行くというのは簡単そうに見えて実に難しいことで、油断していると真面目で形式的な意見しか出ないつまらない場になったり、逆に「そうだよねー」「それもいいね〜」みたいに出た意見が全肯定される馴れ合いの場になったりする。 こうなるといくら「意見を聞く場」を設定しても「本当の意見」が出てこない。様々な場面において、障害者の「本当の意見」を聞いて、それに基づいてバリアフリー観光を進めたことが成功の秘訣だったのではないかと思う。

そして、中村さんのプロジェクトの核には、障害者の意見であったり、実地で調べたバリアの情報であったり、実直な情報収集があるということも重要だ。観光政策というと、すぐに「アピールが足りない!」とかいう人が出てきて、イベントをしたりゆるキャラを作ったり、要するに「露出度競争」に勝たないといけないと考える人が多いが、これは全くの愚策だと思う。もちろんアピールは大切だが観光地がやる自己アピールは往々にして自画自賛のオンパレードになりがちであり、一般の観光客に対してさほど価値を提供しない。

それよりも、観光地の情報を実直に収集してわかりやすく発信し、それを集積する拠点を設けるという地味な仕事の方に価値がある。中村さんの話も、「バリアフリー観光」というコンセプトに騙されて、「いやー南さつまにはまだバリアフリーは早い」みたいに誤解する人がいないか心配だ。バリアフリー云々は全く重要ではなく、大事なのは、「来て欲しい人がちゃんとこちらまで来やすいように、その人たちの意見をちゃんと聞いた上で時間と手間をかけて情報収集し、整理・発信し、対話し続けていく体制を整えること」なのである。つまり中村さんは、観光政策におけるごくごく当たり前のことを実直にやるべしと言っているだけなのだ。

しかし、その当たり前のことが出来ていない自治体のなんと多いことか! イベント、ゆるキャラ、B級グルメ。「起死回生のグッドアイデア」を探して手近な成果を求める観光地は多い。そしてその多くが一過性の成果しか得られないのは当然だ。こんな自治体ばかりの中で、地味でも実直な観光政策の王道を行けば、きっと道は開けるはずだ。王道こそ往き易し。妙案など何もなくても、南さつま市へと足を運んでくれる人はきっと増えるだろう。

2015年10月12日月曜日

人口減少の中で「地域の活力」を維持するために(パブコメ募集中)

現在、南さつま市では、まち・ひと・しごと創生総合戦略「光りが織り成す協奏プラン」のパブコメを行っている。

これについては、策定にあたって市民からの意見募集を行っており、私も以前ブログに書いたとおりいろいろ考えて8件ほど意見を送った。

【参考】送った意見の元になったブログ記事
ざっと見たところ、私の送った意見はひとつも採用されていないようで正直ガッカリしているが、めげてもいられないので、パブコメにもまた違った角度から意見を提出してみようと思っている。

もう一度この「まち・ひと・しごと創生総合戦略」について説明すると、要するに「これから人口減少や高齢化が激しくなるわけだけど、どうする?」という方向性を定めるものである。

私は、人口減少や高齢化によって失われるものは「地域の活力」だと思う。よって、地域の活力を高める施策が必要だ。そして「地域の活力」というのは結局は一人ひとりの活動量に起因するのだから、人口減少の中で「地域の活力」を維持するには、一人ひとりの活動量を上げていなくてはならないということになる。

それをネガティブな面で言えば、自治会の奉仕活動を今よりもっと頑張らなくてはならないとか(草払いの一人当たり面積が増えるなど)、PTA活動の負担が増えるというようなことになる。でもそんなことを今まで以上に頑張ってまで、抽象的な「地域の活力」とやらを維持したいと思う人は少数派である。

だから一人ひとりの活動量を上げるには、みんなが自分の好きなことに取り組む必要がある。好きなことならたくさんやっても負担にならない。だから、人口減少の中で「地域の活力」を維持するためには、誰もが「好きなことに思いきり取り組める」ようになるような環境整備が必要だというのが私の考えだ。

一方で、高齢化によって現役世代の負担が増えることも間違いない。特に介護が必要な老齢の両親を抱えた人なんかは、「好きなことに思いきり取り組める」わけもなく、自分を犠牲にしている現状がある。施設に入れるにしても家計的に厳しかったり、希望の施設に入れなかったりして困っている人も多い。

それに、「好きなことに思いきり取り組む」にも先立つものがいる。 私自身が経済的には底辺の生活をしていて、ある程度のお金がないと趣味もへったくれもできない。それなのにただでさえ少ない収入が社会保障費に取られていくとすれば、どんどん社会は萎縮してしまうだろう。

だから煎じ詰めれば、人口減少や高齢化への対応策として最も必要なことは、若者(現役世代)の労働生産性を上げて所得を向上させること、に尽きるのではないか。所得が増えれば好きなこともできるし、所得が増えなくても自由に使える時間を増やせる。それにお金があれば高齢者の介護もそれほど負担なくできる。

そして、これは私の持論でかつ極論だが、日本の労働生産性の上昇を阻んでいるのは50代以上の人たちの存在である。
上の図でわかるように日本の人口ピラミッドには65歳くらいを中心にして団塊世代があり、この世代が日本の社会を長期低迷に陥れている主要な要因であると私は思う。もちろん、この世代の人一人ひとりに大きな問題があるというわけではない。そうではなくて問題はこの人口構成そのものである。

こういう図が出ると、メディアではすぐに「社会保障費の負担が〜」という即物的な話題になって、それはそれで大きな問題だがそれよりもっと大きな問題がある。それは心理的な問題で、「元気な高齢者」が多すぎる社会は、若い人の考えが通りづらい社会になってしまうということだ(50代はまだ「高齢者」ではないですが)。

こういう社会では、企業や団体での議論が時代遅れなものばかりとなり、若い人の真っ当な意見が通らなくなる。それにより、様々な活動が世界の潮流から乗り遅れて、ますます経済力・活力がなくなり時代遅れが横行する。いや、すでに日本社会はそういう悪循環に陥っていると思う。

一方、戦後すぐの1950年の人口ピラミッドを見てみるとどうか。この社会は随分と活気があったはずだ。事実若い人が中心になって、どんどん新しいことに取り組んでいた。無様な失敗も多かったが、今のように間違いを恐れて萎縮するようなこともなかった。もちろん戦争の傷跡の残る時代であり、ものも金もなく、人々の生活は苦しかった。この頃は「好きなことに思いきり取り組める」ような社会ではなかった。

だが若者の労働生産性を上げるためには、こういう社会を目指す必要がある。つまり、若者が中心になって物事を動かして行く社会に。引いては、今の時代にあった効率的な働き方、暮らし方へと変えていく必要がある。

話を戻して、南さつま市のまち・ひと・しごと創生総合戦略(案)を見てみると、このような視点はほとんどないと言わざるを得ない。この戦略の主要な目標値(2020年に向けたもの)は、
  • 新たな産業の事業化 5件
  • 延入込客数 200万人
  • 企業誘致や就業支援等による新たな雇用 100人
  • 市民の産業関連施策に関する満足度 10%増
  • 安心して暮らせるまちと感じる人の割合 10%増
  • 少子化関連施策に関する満足度 10%増
の6件なのである。私なら、基本目標に「生産年齢の平均所得を10%上昇」を掲げたいところだ(※)。その10%を何で稼ぐかは別に考えなくてはならないにしても、これくらい実現できなくては人口減少の中で「地域の活力」を維持していくことなんて出来るはずがない。

人口減少社会への対応策は、「一億総活躍」などというものではなく、平成版「所得倍増計画」でなくてはならないと思う。

【情報】
パブリックコメント まち・ひと・しごと創生人口ビジョン・総合戦略(案)について
→10月19日までなので期間がありませんが、ご関心があるところだけでも見て意見を出してみて下さい。最初に南さつま市の人口動態に関する説明、市民へのアンケート結果があって、36ページからが戦略の本体です。

パブリックコメント 「第2次南さつま市行政改革大綱(案)」に対する意見募集について
こっちはついでですが、行政改革大綱についても10月25日までパブコメしています。

※正確に言えば、労働生産性を上げることが必要であり、所得は上昇しなくてもいいと思う。というのは、労働時間を短くしてもよいのであって、究極的にいえば暮らしの「ゆとり」が増えればよいのである。でも行政が掲げる目標である以上、計測不能な「ゆとり」よりも「所得」くらい味気ない目標の方がいいと思う。

2015年10月9日金曜日

状態のよい廃校校舎が、利用されるのを待っています

今年の4月に閉校した南さつま市の久木野小学校。廃校になったその校舎が、新たなアイデアで活用されるのを待っている!

南さつま市は現在、この廃校の校舎について「地域と共存しながら、活力ある地域振興に資するような事業者等を募集」している。4月に廃校になってからまだ半年ほど、このようなスピード感で事業者募集がなされていることに敬意を表したい。

というのも、廃校校舎の利用・活用についてはどうしても後手の対応になりがちである。その最大の原因は所管が教育委員会であることで、ただでさえ合併や閉校に伴う事務処理に追われる中、別に急ぐ必要もない廃校利用の検討なんかは自然と後回しにされるからだ。

その検討も、地域住民の意向を聞いたり、「とりあえず公民館(地域住民の活動拠点施設という意味で)にしておきましょうか」みたいな暫定的な処置をしているうちに建物のメンテナンスが必要になってきたりして、結局活用できずに取り壊すしかなくなる、なんてことも多い。また学校の校舎の場合、文教施設整備補助金という国のお金を使って建設することから、教育に関係する施設以外に勝手に転用できないという規制もあった(最近緩和されて、この転用は随分簡単になった)。

そういう全体的な傾向を考えると、この旧・久木野小学校の校舎はかなり状態がいい!

今年の3月まで使っていたから当然だが普通に使う分には改装はいらないし、何より平成15年に大規模改修が行われていてキレイかつ耐震面も万全。この素晴らしい施設を何と無償貸与してもらえるという募集である!(ただし土地の貸付は有償だそうです)

このような条件のよい案件なので、ぜひ多くの積極的な事業者にご検討いただきたいと、他人事ながら願っている次第である。というのも、このことは市役所のWEBサイトでひっそりと告知されているだけで、こういう案件を探している都市部の事業者のアンテナに引っかからないのではないかと心配だ。

ちなみにあんまり(というかほとんど)知られていないが、文科省はこういう廃校の活用募集の情報をまとめているので、めざとい事業者はこういうのを逐次チェックして優良物件を探しているのかもしれないが…。

ところで、南さつま市の久志中学校の校舎も同様の提案を募集していて、こちらはちょっと校舎の状態が良くない(でも景観はこっちの方が勝れているかも)。閉校になったのも5年前のことだし、どうせ募集をするならもっと早くにすればよかったのに…、というのが実感だ。だがこういう経験があって、久木野小学校の場合はスピーディに提案募集に踏み切ったと思うので市政は前進しているとも思う。

とはいっても、極端に言えば募集するだけなら誰でもできる。この情報を本当に求めている人・事業者のところに届けるところまで含めて一連の仕事だろう。都市部で説明会を開いたり、その筋の人(廃校の利活用を進めている団体とかがあります)と顔を繋いだりするなど、今後の積極的な広報と働きかけを期待したいところである。

というわけで、このブログをご覧のみなさんも、「あの人、この校舎を使いたいと思うのでは?」という心当たりがありましたらぜひ情報をシェアして下さい。募集に期限は切られておりませんが、逆に言うと早い者勝ちみたいなのでご検討はお早めに!

【情報】
旧久木野小学校校舎活用の募集について 
旧久志中学校校舎活用の募集について

~未来につなごう~「みんなの廃校」プロジェクト ←文部科学省がやってる廃校活用を進める取り組み

2015年10月6日火曜日

世界の多様性——棚田を巡る旅(その5)

エドワード・O・ウィルソンという学者がいる。「社会生物学」という学問を開拓した人の一人で、アリの世界的権威だ。その学者が、環境保護についてこんなことを言っている。我々は自然のことが本能的に好きであり、特に多様な生物が生きている状態が好きである。だから環境保護をすることは、人間の本性に適っているのだ、と。

これは要するに「人間は多様な自然が好きだから環境保護するのは適切だ」ということに近いわけで、最初に読んだときは(私は当時社会生物学を勉強していてウィルソンの本を熱心に読んでいたので)「社会生物学についてはもの凄い炯眼なのに、随分浅はかなことを言うものだ」とガッカリしたものだ。環境保護は、人間の自然に対する責任から説明すべきことであって、自然が好きとか嫌いとか、そういう好みの問題ではないはずだ。

しかしそれから暫く経ち、よくよく考えてみると、このウィルソンの考え方はそれほど的まずれではないような気がしてきた。それどころか、浅はかだったのは私の方だったのかもしれないと思うようになった。

ものごとの価値、というものは、絶対的な何か(例えば神)によって決まっているものではない(無神論的には)。全ての価値は、あくまで人間にとっての価値でしかない。もし仮に人間が絶滅してしまえば、ベートーヴェンの交響曲のスコアも、ツタンカーメンの黄金のマスクも、何の価値もない。いや、「価値」ということを考えることすらできない。

保護すべき「自然の価値」というのも同じである。我々が考えることが出来るのは、あくまで「人間にとっての自然の価値」でしかないわけだ。だとしたら、それは具体的にそれは何なのか。キレイな空気や水、素晴らしい景観、朝の鳥のさえずり、そういうものが与えてくれる、物質的・精神的な心地よさ、それが「人間にとっての自然の価値」なんだろうか。

でもそうだとすれば、我々が環境保護をしたいと思うのは、あくまでも自分たちの周辺だけのはずだ。自分たちに物質的・精神的な心地よさを与えてくれるのは、近場の自然だけだからである。でも実際には、自分から遙かに遠く離れた場所のことであっても「絶滅の危機にある生物」のことを知れば、ちゃんと保護してあげないと! と思うのが人間だ。

しかし、その「絶滅の危機にある生物」が実際に絶滅したからと言って自分が不利益を蒙ることは一つもない。身の回りの自然さえ心地よければ、自分の心地よさが減ずることはないからだ。でもやはり普通の人は、できればどんな種類の生物だって絶滅しない方がいいと思っている。ということは、「人間にとっての自然の価値」は、決して自分が直接的に感じる物質的・精神的な心地よさ、だけではないのだ。

ウィルソンは、人間は本能的に自然を好むと考え、「バイオフィリア仮説」という風変わりな仮説を提示した。「バイオフィリア仮説」とは、人間と生物システム(生物全体やその環境)との間には本能的な結びつきがあるのだ、とするもので、人間が生物多様性を好むのもこの性向に由来するのだという。乱暴に言うと、我々は、仮に自分が直接触れたり見たりできなくても、多様な生物が生きている世界にいる(と感じる)のが本能的に好きなのだという。

ということは、「人間にとっての自然の価値」は、直接的に受ける何かの便益というより、「我々人類は生命に溢れた星に生きているんだ」と実感できるところにある。確かに我々は、その理由はうまく説明できなくても、小惑星の衝突によって生物の大部分が絶滅した状態の地球よりも、多様な生物が繁栄し生命に溢れた地球の方が好きである。それが仮に、人間がいない世界だったとしても。人間は、自分が自然とどのような関わりをしていようとも、問答無用で「命溢れる星」が好きなのだと思う。

それだけではない。生物多様性が好きなのと同じで、我々は世界そのものの多様性も好きである(これをウィルソンが言っているか忘れたが)。

例えば、数千の言語が消滅の危機にあるというが、どうして弱小言語を保護しなければならないのだろうか。多くの言語は、言語学的な意味を除いては、世界にほとんど何の便益も提供しない。要するに、消滅しても誰も困る人がいない。なくなってしまったらもう二度と甦らせることはできないということで、博物学的な価値はあるかもしれないが、普通の人には関係のないことだ。それでも、言語が一つ消滅するという場面を知れば、多くの人は哀惜の念を抱くものだ。最後の話者が話す、もうその人以外は誰も理解できなくなってしまった言葉を愛おしく思う。

消えゆく伝統工芸だって同じことだ。伝統の技が消えつつあると知れば、どうにかして存続させられないものか、と思う。もはやその技は、誰にも必要とされていないものなのに(だから消滅しかかっている)。物事が、経済的にまたは文化的に、役目を終えて消えていくのは自然なことだ。でもそれを無理に延命させようとするのが人間だ。なぜか。

我々は、きっと世界の多様性そのものを愛しているのだ、本能的に。

自分とは無関係でも、奇妙な言語を話す人たちが存在していて欲しいし、自分は絶対に買わなくても、伝統工芸品がいつまでもどこかで作られていて欲しい。これは一面ではエゴである。伝統工芸品がいつまでも作られていて欲しいなら、本来ならそれを買うべきだ。買って作り手を応援することこそ、消費社会の中での正しい選択だ。だが多くの人は、別にその伝統工芸品が欲しいから、その技が消えるのを惜しむのではない。そうではなくて、自分が絶対買わないような製品でも、とにかくどこかにはそれが売られている、という豊かな世界が好きなのである。

我々は、どんな遠くまで出かけていっても、まだその先に知らない世界がある、というようなワンダーランドが好みらしい。理屈ではなく本能的に。それは実際に遠くに出かけるからではない。遠くに出かけて知らないものを知るのが好きなのではなくて、「仮に」出かけたら面白いものが見られるはずの世界で生きている、という感覚でいたいのだ。

……随分議論が遠回りしてきたが、棚田の価値、というものをぐるぐる考えていたら、結局ここに行き着いた。

棚田の価値は、作っている人自身にとってはいろいろある。集落の象徴的な景観を維持することとか、集落活性化の中心にするとか。でも外の人にとっての価値は何なのかというのが疑問だった。景観とか活性化とかが価値の中身なら、それはあくまで内輪の価値に過ぎない。棚田は、その地域の人たちがやりたいなら勝手にやればいい、というようなものだということになる。だが棚田の保全には多くの人が興味を持っており、確かに何らかの価値を感じている。

「棚田は日本の原風景だから保全すべき」という人もいる。でも棚田が日本の原風景なのかもちょっと疑問だし(意外と新しいものが多い)、原風景だったら保全すべきだ、というのも論理に飛躍がある。ボットン便所(木の桶がただおいているだけの便所)だって日本の農村の原風景だったと思うが、誰も実際に使うべきと主張している人はいない。

棚田を保全することの価値はきっと、棚田そのものがどうこうということではない。それは、消滅しつつある言語とか、消えゆく伝統工芸の技へ哀惜の念を抱くのと同じことなんじゃないだろうか。つまり、我々は棚田のような「役目を終えたもの」でも、存続している多様性のある世界に住みたいのである。効率や合理性を追求した通り一辺倒の「農業」だけじゃなくて、非効率で非合理的な、棚田の耕作のような「マツリゴト」も行われている世界に住みたいのである。棚田そのものに価値を感じているというより、棚田のようなものでも捨て去りはしない「世界」を愛しているのではないか。

もちろん、多様性があればなんでもいいというものではない。世界には紛争が溢れ、児童労働や人身売買が横行している。そういうものがいくら多様であっても、人間はそれに価値は感じない。百の不幸があるよりは、一つの幸福があった方がよい。多様性よりは人類の福祉が優先される。それがたぶん、ボットン便所を保全すべきという声が上がらない理由だと思う。でも逆に言えば、そういうデメリットがない限り、明確なメリット(価値や便益)を何も提供しなくても、我々はいろんなものが世界に存在していて欲しいと願う「生まれながらの多様性愛好者」である。

きっとそれは、環境の変化に備えた生き残り戦略なんだろう。環境が変化したとき、これまでゴミだったものが生き残りの鍵になるかもしれない。現代の社会では、棚田の耕作は趣味的なもので、あってもなくても産業的にはどうでもいいが、ひょっとすると何らかの環境変化によって、棚田耕作の技術が日本の農業を救うことならないとも限らない。世界は多様であった方が、誰かが生き残る確率は高くなる。みんなが同じ方向を向いていれば、みんなが破滅してしまうかもしれない。世界の多様性は、ただの好みの問題ではなくて、人類が生き残るための切実な要請である

私が考える棚田の価値はそういうことだ。棚田の耕作そのものに価値があるのかどうかわからない。だが、棚田のような割に合わない営みが確かに行われているこの世界には、価値がある。

効率や合理性だけでない、豊かな世界をつくるピースの一つ、それが私にとっての棚田の価値である。

2015年10月1日木曜日

(私がパッケージデザインした)狩集農園の「おうちでたべているお米」がA-Zかわなべで販売中

ちょっと宣伝。

今日から、A-Zかわなべに狩集農園の「おうちでたべているお米」が並んでいるので、南薩にお住まいの方は是非チェックして欲しい。

以前もブログに書いたが、このお米のパッケージは私がデザインさせてもらったもの。特にこれは、A-Zかわなべで店頭販売することを考えてデザインしたものだったから、こうして無事店頭に並んで嬉しい。郵便局の通信販売(ふるさと小包)とか物産館での販売では、パッケージの良し悪しは売れ行きにはあんまり関係ないと思うが、こういう多くの人が訪れるお店ではやっぱり商品の顔というのは大事だ。

A-Zは、ちょっと見境がないくらいアイテム数を充実させているお店なので、お米だけでもものすごくたくさんの種類がある。たぶん40種類以上はあると思う。その中で、このパッケージはそれなりに独自性があって目立つと思う(自画自賛)から、ちょっとはこのデザインがお役に立てるのではないだろうか。

というか、本当にお米だけでもすごい種類が置かれているから、訳が分からないくらいだ。一般の消費者はこのたくさんの商品の中からどうやって選んでいるんだろう。

しかも、似たようなものばかり、…といったら失礼かもしれないが、本当に大同小異なものがたくさんある。お米はあまり差別化できない商材だとしても、パッケージのデザインからそこに書いてあることまで似ているから、消費者としてはどれを選んでいいのか分からない。

でも値段はいろいろで、5kg入りで比べると、最安値は990円、最高値は2690円だった。この値段の差が何に起因するのか、商品説明だけではよくわからない。複数原料米であるとか、昨年の米であるとか、極端な安値商品には理由があるだろうが、中心価格帯である1300円のお米と1800円のお米の違いはパッケージを見てもはっきりとは分からない。もちろん食べたら違いがあるのかもしれないが…。

こういう、大同小異の商品がたくさん置かれているというのは、野菜とか肉みたいな原材料食品の陳列棚としては異例なことで、米が特別である。野菜は、小売りの常識として、通常一店舗には一種類の商品しか置かない。例えば、ニンジンを売るなら、鹿児島県産ニンジン200円、○○県産ニンジン250円、○×ブランドニンジン350円、みたいに並べて売ることは普通ない。ニンジンならニンジンで、普通は1種類しかないものだ。

どうしてかというと、野菜のようにいつも買う商品では、「どれにしようかなー」と考えるのが消費者としては面倒で、このように数種類ある場合は迷ってしまって買い物のリズムが崩れる。何も考えずにニンジンを買い物かごに入れる方が、消費者としても余計なことを考えずに済むし、お店の方としても商品管理がしやすい。要するに、野菜はわざわざ選んで買うようなものではないのだ。

肉の場合はちょっと違って、いくつかのグレードを用意するのが普通だ。安い肉、普通の肉、ちょっと高い肉、銘柄肉、といったように。しかしそれにしても、大同小異の肉が並ぶということは普通はありえない。グレードごとには1種類が基本である。

だが米は違う。米はなぜか大同小異の商品がたくさん並べられていることが多い。これは私にとって謎である。その方が売れ行き(利益)がいいのだろうか。多くの消費者が、様々な銘柄や産地の米を食べ比べたり、いくつかの商品をローテーションで買っているということはなさそうだが…。

こういう陳列棚は、原材料食品というより嗜好品のそれに近い。米の陳列棚に似ているのは、ワインの陳列棚だ。ワインの棚も、値段的にも内容的にも大同小異の(なんてことを言ったらワイン通に叱られるが)ワインがたくさん並んでいる。でも嗜好品の場合、大同小異というのは悪いことではなくて、微妙な差異を楽しむものだからこれはよく分かる。だが米の場合、 消費者が微妙な差異を楽しんでいるようにも思えない。

というのは、ワインはスペック(?)が細かく表現されるが(酸味がどうだとかフルーティだとか) 、お米についてはそういうのはあまり聞かない。大同小異なものを売っていく場合、大抵細かい違いを強調する方向でマーケティングされていくことが多いが(例えば大衆車がそんな感じ)、お米では細かい違いが強調されるなんてこともない。どれもこれも、「キレイな水」とか、「こだわりの」とか、「愛情たっぷり」とかそういうことが書いてある。これでどうやってみんなお米を選んでいるのか本当に不思議だ。

というわけで、A-Zかわなべではみなさんさぞお米選びに苦労しているのではないかと思う。でも今なら、何も考えずに狩集農園の「おうちでたべているお米」を手にとっていただければ大丈夫。比較考量する必要がなくて楽です! ちなみに、価格はこのたくさんのお米の中で2番目に高く、2390円(ちなみに最高値2690円のお米は京都丹波のお米だった)。でも(あまりアピールされていないが)無農薬のお米だから安いくらい。どうぞよろしくお願いいたします。

2015年9月29日火曜日

不屈の松尾集落——棚田を巡る旅(その4)

旅は最終目的地、熊本県あさぎり町須恵の松尾集落へ。

ここの集落には棚田はない。棚田の研修なのに最後に見るのは棚田ではなく、鳥獣害の防除についてだ。

この松尾集落もまたすごいところにある。市街地からの距離はさほどでもないが、つづら折りの坂道をぐぐっと登ったところにあり、急傾斜地ばかりで集落内に平地が少ない。傾斜の激しいところには栗、やや緩やかなところは茶や梨、そして耕作が困難なところにはワラビが栽培(勝手に生えているのを収穫しているだけかも?)されている。村を見下ろす山一つが集落の農地、という感じで意外にも農地は多く計17ヘクタールもあるという。

松尾集落の取組で注目されているのは、これらの農地を守る鳥獣害防止の電牧柵の設置である。

近年鳥獣害がどこでもひどくなってきて、柵の設置やその共同化などは多くの地域でやられている。松尾集落もシカ、イノシシ、サルの被害を防ぐために柵を設置していたが思うように被害が軽減しない。そこで集落でよく話し合って効果的な設置方法に変え、見事鳥獣害を激減させることに成功したのである。こうして書くと普通の話なのだが、松尾集落は検討から設置に至るまでの作業を非常に合理的かつ実直にやっていて、そこが他の地域と少し違うところだ。

具体的には、まず被害状況を詳細に調べた。どこからイノシシやシカが入りやすいか。どうして柵を設置しているのにそれが破られるか。それをマッピングして専門家にも意見を仰ぎ、どのような防除が効果的か調査した。そして守るべき農地の優先順位を決め、農地の団地化を行った。それまではなるだけ広い範囲を柵で囲うことを考えていたが、むしろ狭く囲った団地を何カ所もつくることにした。こうすることで、柵が破られた場合もどこが破られたか特定しやすくし、また団地ごとに責任者を定めることで管理の手を届きやすくしたのである。

柵は全額補助で手に入れた。つまり集落の負担はゼロ円。だが設置は自分たちでしなければならない。柵は現物支給で、年度末までに設置検査があるので短期間で設置する必要がある。そこで学生ボランティアなども動員して作業は一気に行い、2015年までの3年間で総延長6キロもの柵を設置した。このような取組で鳥獣害をほとんど防止することに成功したのである。

さて、この松尾集落のすごさは、集落民がたった4戸9人しかいない中でこうした取組をしているところである。そのうち半数はお年寄りで戦力外なので、実質5人(!)くらいでやっているわけだ。まず、たった4戸で集落機能が維持されていること自体がすごい。

そして、鳥獣害とは関係ないが、松尾集落では毎年「桜祭り」というイベントをしていて、これには3000人から5000人もの人出があるという。このお祭りは集落にある「遠山桜」という桜を大勢の人に見てもらうためにやっているもので、実行委員会形式を取っているので実施メンバーは集落民だけというわけではないものの、こんな小さな集落が5000人も集めるイベントをやるというのがビックリである。

松尾集落がこうした活動ができるのは、「中山間地直接支払制度」のお陰でもある。 「中山間地直接支払制度」というのは、大雑把に言うと、傾斜地など耕作に不利な農地をちゃんと維持していくなら面積に応じて補助金をあげます、という制度である。松尾集落はたった9人の集落でも農地は17ヘクタールもあるので、一年あたり200万円くらいの補助金が下りる。これを活動資金にして少人数でも前向きな取組ができるのである。

しかし本質的には、集落への愛情、というようなものが活動を支えている。

そもそも、松尾集落の鳥獣害対策の特色はその合理性と効率性にあるのだが、このような不利な農地で耕作を続けて行くこと自体は非合理であり非効率的である。今の時代、もう少し生産性の高い農地に移動していくことも不可能ではないし、集落に専業農家は2戸しかないので農地の維持に高いコストをかけなくてはならないわけでもなさそうだ。

どうしてここまでして、たった4戸でこの耕作に適さない農地を維持しているのか、自治会長さんに聞いてみた。

「この集落は、昭和29年に開拓入植でできた集落です」自治会長さんがそう話し始める。

発端は須恵村がやった農家の「次三男対策事業」。要するに相続する農地がない農家の次男三男を募って、近場の山を開墾させて新天地を作った。そうやって8戸の農家が入植したのが松尾集落の起源だという。今の人たちはその2世。開墾にも苦労したが、村の役所の人も随分苦労したらしい。それで2世は親たちから「俺たちの受けた恩を忘れないでくれ」とことある事に聞かされて育ったらしい。そして親たちが苦労して開拓したこの地を守っていくことがその期待に応えることだと、2世の人たちは考えているんだそうだ。

私はこの話を聞いて衝撃を受けた。こんな不利な農地を開墾させるなんて、普通なら「こんな山奥に追いやられた」と被害者意識を持ってもおかしくないくらいなのに、開拓入植1世は新天地を与えられたことを感謝し、2世はその気持ちを受け継いで、不合理・非効率な農地の維持に取り組んでいるのである。ほとんど「シーシュポスの岩」を押し上げるような取組に…。

それで、たった4戸の限界集落になっても「俺たちの代で松尾集落を終わらせるわけにはいかない」と意気込んでいる。高齢化で耕作が難しくなった農地があれば集落で共同耕作する農地としてなんとか耕作放棄地化しないようにしているし、それもできなくなればワラビ園にしている。鳥獣害防止は合理的なやり方をしているが、それ以外はほとんどド根性の世界だと思った。

この集落の様子は、日光の棚田とか、鬼の口の棚田とは随分違うように見える。棚田の維持は景観の面の価値が大きいことが多いが、松尾集落の農地はキレイな景観というわけではない。もちろん観光的な価値もほとんどない。先祖伝来の農地というわけでもなく、せいぜい親世代からの農地であって、歴史的・文化的価値もない。それでも、松尾集落の人たちはその農地を大事に思っている。

どうしてなんだろう?自分の親が苦労して切り拓いた農地だから、という説明は、何か納得できないところがある。親が苦労してつくり上げたものをすげなく捨ててしまう子どもはいくらでもいる。むしろそれが普通で、親とは違った面で発展して行こうとするところに世代交代の意味があると思う。親と同じ苦労をしたがる子どもというのはかなり変わっている。

私は、未だにその答えがよく摑めないでいる。しかし一つ言えることは、松尾集落が「開拓者精神」でつくられた強いアイデンティティを持っているということである。たった1世代の間にこの集落は、困難を切り拓いていく精神と、村を見下ろす圧倒的な立地とで、我こそ松尾集落なり、という個性を獲得したようだ。松尾集落の人たちが失いたくないのは、一つひとつの農地というより、そういう強固なアイデンティティなのではないか。もっと楽な仕事や生き方があるとしても、それをしないのが松尾集落の魂なのかもしれない。

(つづく)

2015年9月21日月曜日

一勝地の温泉宿から——棚田を巡る旅(その3)

研修の宿は、球磨川の支流のほとりにある、球磨村の一勝地温泉「かわせみ」。温泉宿自体が棚田の上にあるという、棚田の研修としては出来すぎた立地である。

ここ「一勝地(いっしょうち)」は、縁起のよい地名であることから、一勝地駅の切符が受験生のお守りになったり、駅近くにある「一勝地阿蘇神社」で勝負の験担ぎをするといったことが行われていて、一種のパワースポット的に扱われている。

しかし地元の人に聞いたところ、「一勝地」は元は「一升内」と書いたそうだ。これは鎌倉時代にこの地を治めた地頭の一升内下野守に由来するらしいが、「一枚の田んぼから一升の米しか穫れないような小さな田んぼが多い」ということが語源であると考えられている。これが縁起のよい「一勝地」に変わったのは明治の頃で、「一升内」では意味合いが悪すぎることから、敢えて縁起のよい字を選んで改めたのだそうだ。

その「一升内」の地名はダテではなく、確かにここらには狭い田んぼがすごく多い。そして温泉宿から歩いて15分くらいのところには、これも日本の棚田百選に選ばれている「鬼の口棚田」がある。

「鬼の口棚田」は研修先ではなかったので説明は聞けなかったが、後から調べたところによれば「日光の棚田」のような特別な取り組みはしておらず、地域の昔ながらの小規模耕作農家によって守られているそうである。

「特別な取り組み」はなくとも、この棚田はよく守られていて、ざっと見たところ荒れているところがない。どの田んぼもしっかりと耕作されていて、美しい。しかも、(インターネットに載っていた情報なので信憑性は低いが)ことさら棚田米とかで高級品として売られているわけでもないらしい。物産館には棚田米みたいなものは置いてあったが、少なくとも「鬼の口棚田米」を大々的に販売しているという様子ではなかった。

「日光の棚田」みたいに、活性化の取り組みによって再生した棚田ももちろん興味深いが、私はこういう地域の人々が自然体で維持してきた棚田の方にもっと関心がある。手間ばかりかかって実入りの少ない棚田を、どうして一勝地の人々は維持してきたのだろう。こんな狭い田んぼで不如意な米作りをするよりも、人吉に出て行って働いた方がよっぽど収入になるだろうに。

ただし、耕作放棄地は増えてきているそうだ。温泉宿の隣にあったゲートボール場は放棄された棚田を潰してできたものらしい。それでも、あたりにある主だった棚田にはちゃんと稲が靡いている。この地域の人にとって棚田の耕作を続ける意味はなんなのか、とても知りたくなった。

ところで、宿泊先の一勝地温泉「かわせみ」は、村営の旅館だがなかなか立派な宿である。泉質が優れているとかで遠方からの客も結構多いらしい。元は竹下内閣の地方創生事業(いわゆる一億円バラマキ)で出来た宿で、隣には「石の交流館」という石造りの立派な施設(あんまり稼働してなさそうな感じがしたが)もある。

一億円バラマキの地方創生事業は、政策効果が不明確だとか、無駄なハコモノの乱立の原因になったとか、評判がいまいちだけれども、これを奇貨として役立てた自治体には地域振興にしっかりと役立っており、今の小うるさい「地方創生」なんかよりいいんじゃないかという気がする。もちろん、バブルの頃の上げ潮の中のお金と、現在の汲々とした中でのお金は全然意味合いが違うから比較はできないが…。

そして温泉宿から不思議な工場(こうば)が見えたので何かと思って地元の人に聞いてみたら、熊本に唯一残った「椨粉(たぶこ)」の製粉工場であった。「椨粉」というのは、タブノキの樹皮などを細かく砕いて作る粉で、水を加えると粘性が大きく様々な形に成形が可能で焚いても無臭なことから、蚊取り線香などの下地材(線香粘結剤)として使われてきた。今では化学的に下地材を作れるため普通の蚊取り線香には使われておらず、高級なお香のみに使われているそうだ。

かつて熊本は、良質なタブノキがたくさん採れたことで椨粉の工場がたくさんあったらしい。山地に住んでいた人たちは、耕作地が少ないこともあり農閑期にはタブノキの枝葉を採って椨粉の製粉工場へ売りに行ったということだ。

現在では、そういうライフスタイルもなさそうだし、それ以上にタブノキ自体が輸入品になっているので椨粉の製粉工場はどんどん廃れて、熊本県にここしか製粉工場は残っていない。そしてここも、もうタブノキの枝葉を地域の人から買い入れるシステムは採っておらず、タブノキ自体は輸入品を使っているみたいである。

ちなみに多分全国で唯一だと思うが、鹿児島の大隅にある工場(実はここが経営しているところ)だけが国内のタブノキを買い入れて製粉しているということだ。私はタブノキをお香の下地材に使うということも知らなかったので、外から眺めるだけとはいえこういう工場の存在を知ったことはとても勉強になった。

こういう渓流の地というのは、今でこそ土地が狭くて耕作地が少なく、貧乏たらしく見えるが、水力がエネルギーとして重要だった頃には、意外と恵まれた土地だったとも言える。椨粉の製粉工場があったのも、渓流を利用して水車を回し、タブノキの枝葉を粉砕する大きな臼を稼働できたからである。

逆に、平地というのは広大な農地があっても動力が少なく、製粉のように大きな力を利用する産業には恵まれなかった。そこはあくまで単純な農産物生産の地であり、原材料の供給者の地位に甘んずるしかなかった。一方、球磨川は今でこそ自然がいっぱいの観光地というイメージがあるが、かつては上流で伐採した木を筏に組んで八代湾まで運ぶ林業の重要な道だったし、日本で最も早くダムが栄えて電力供給が発達したところの一つでもある。そして、豊富な森林資源と電力を使って製紙会社も栄えた立派な「産業の川」だったのである。

棚田だけでなく、急峻な山々とか渓谷とか、嶮しい自然環境というのがハンディキャップだと思うのは現代だからこそで、かつてはそれがエネルギーと資源に恵まれた「蜜の流れる土地」であった。いや、実際には、今でもそこはエネルギーと資源に恵まれているはずなのだ。とはいっても、それを活かしづらい産業システムになっているというのは事実で、椨粉を作ろうにも東南アジアからの輸入品があり、ダムはもはや撤去される時代だ。かつて球磨川が産業の川として栄えた頃とは、随分経済の仕組みが変わった。

しかし今の経済の仕組みが絶対不変のものであるわけではない。それどころか、経済の仕組みなんてものはもの凄くフラジャイルな(=壊れやすい)もので、それが健全に構築されたものであればある程どんどん変わって行く。棚田や急峻な山々が、再び「経済的に」脚光を浴びる時が来ないとも限らない。というより、既に来つつあるというような気もする。

不利な状況での遅れた農業だと思っていたものが、世の中の方が一回り逆回転して最先端の農業になってしまうことだってあるのではないか。 景観とか集落活性化だけでない、棚田の価値の転換を生きているうちに見れるかもしれない。

(つづく)

2015年9月18日金曜日

日光の棚田——棚田を巡る旅(その2)

(前回からの続き)

研修の一行を乗せたバスは球磨川を離れ、支流に分け入り、次第に山道に入っていく。ようやくバスが通れるほどの狭い道になり、バスは集落内へ。ここが目的のところか、と思ったが、バスはさらに山奥へ。

そして、バスがギリギリ曲がれるかどうか、というつづら折りの急峻な道を登り始めた。曲がるのも大変だが、登るのもエンジンの最大トルクのギリギリ。そして、そういうカーブをやっとのことで曲がったところで、案内の方がバスを止めた。「ここからはバスは進めません」

青くなるバスの運転手。こんな道をバックで戻れというのか、とどよめく車内。そこから歩いて100メートルほど登った先に、目的の日光(にちこう)集落はあった(結局、バスの運転手はカーブのところを何度も切り返してUターンできた)。

集落の様子は、日本の山奥というより、もはやマチュピチュである。 急峻な山肌にへばりついているような家々。多分、今の時代には建築許可が下りないであろう家ばかりだ(今は崖から何メートル離れるべしとかいう規制があります)。

でも家そのものは結構立派な家が多く、私の集落よりも上等な家が多いように感じた。

網野善彦がいうには、耕作地の少ない山の中だからといって経済力が低いというわけではなく、近代以前の社会においては山の中の方に交易の拠点があるなどでむしろ山手の方が豊かな場合も多いという。ここはそれを例証するような集落だ。林業景気の時に豊かになったのかもと思ったが、あるいは藩政時代から続く豊かな集落なのかもしれない。

目的の棚田は、集落からさらに標高を100メートルほど登ったところにある。全体の面積は1ヘクタールくらいで、かなり急な勾配のところに小さな石を積み上げて、本当に猫の額のような田んぼがだくさん作られている。

田んぼの耕作は、基本的に全て手作業だそうである。もちろん収穫したお米は天日干し。田植えも稲刈りも機械を使わず人の手でやる。耕耘機は使っているようだったが、もしかしたら狭い田んぼは鍬でやっているかもしれない。機械を使った方が非効率的なくらい、狭い田んぼが多い。

そしてその作業は、集落民が総出でやっているそうだ。詳しくは「日光の棚田活性会」が発信しているのでご参照ありたい。

日光の棚田は1999年に農水省によって「日本の棚田百選」の一つに認定された。が、認定後も耕作放棄地の増加は続き、遂に耕作農家は1戸のみになってしまっていた。そんな折、荒廃の様子がメディアに取り上げられ、その報道で県が慌てて活性化をてこ入れしたそうである。農林省に認定されながらそれを放置してきた無策を嗤われたくなかったのかもしれない。

その後先述の「日光の棚田活性会」が発足し、耕作放棄地になっていた田んぼの草刈りをしたり、害獣防除の柵を共同化したりして共同耕作の体制を整え、今では棚田の主な部分は田んぼ・畑になっている。

棚田で作られたお米というと高級品というイメージがあり、確かに日光でも高額で販売しているものの、売れ行きがいいとはいえず、正直赤字だという。しかし日光の方が言うには、「採算とか考えていたらやれませんね。もう農業というよりは、完全にマツリゴトです」と。

棚田で、今の時代に米を作る意味は何なのだろう、というのが私の疑問だった。これがその答えの一つかもしれない。棚田での米作りは、マツリゴト、つまり祭祀や伝統芸能みたいなものなんだと。お祭りというのは、基本的に儲かるものではない。むしろそれは消費の場であって、普段の生活でコツコツと貯めたものを一気に蕩尽することに意味がある。棚田はかつては生産の場であったが、今ではもはや消費の場なのだろうか。

でも集落内ではお祭り事として棚田の耕作をしているとしても、ただ集落が一体になって盛り上がるイベントということだけではその意味を解いたことにはならない。例えば、同じイベント事といっても、棚田の耕作は夏祭りみたいなものとはやっぱり違う。ましてや、同じイベント事なら集落で年一度の慰安旅行なんかに行く方がよほど手軽で楽しいかもしれない。どうしてそこまで苦労して棚田を耕作するのか。

やはり棚田の維持の目的は、景観の面が大きいのだとは思う。特に日光の棚田は集落の貴重な耕作の場であったわけで、きっと集落民にとって象徴的な意味がある。そこが美しく維持されていることには、情緒的なものであれ、集落民にとって大きな価値がある。「先祖が切り拓いた土地で、自分の親なんかがそこで苦労してるの知ってますから」そんな言葉も聞かれた。

でもそれならば、なぜ一度棚田は荒れたのか、ということを問わなくてはならない。農水省の棚田百選に指定されながら、荒廃が続いていったのはどうしてなのか。集落民にとって象徴的な価値がある場所なのにもかかわらず、どうして荒れるに任せていたのか。

やっぱりそれは単純なことで、単に「あえてやろうという人がいなかった」というだけのことのような気がする。象徴的な価値があるといっても、苦労は多いのに得るものは少ない仕事であり、仮に棚田再生なんかに取り組まずに荒廃したとしても、困る人も誰もいない。

「日光の棚田活性会」のリーダーは定年後に集落に戻ってきた人で、「年金で生活はできるが、何もしないというのも物足りない」というところから、このプロジェクトに力を入れているというのが実際だと話されていた。そういう、利益を度外視しても奮闘してやろうという人がいなければ棚田の再生はできなかっただろう。要するに、棚田を再生する価値とか意味があったからこのプロジェクトが動いたのではなく、動機はともあれやる気と行動力のある人がいたから動いた、というのが現実だろう。

もちろんリーダーの情念だけで集落が動くものでもない。利益を度外視してでもやりたいと多くの人が思うようなことでなければ集落全体の取組にはならないわけで、やっぱりそれだけの魅力が棚田にはあるはずだ。

一方で、利益を度外視とはいっても、ずっと赤字だったら情熱だけでは続けられない。収支が合うということでなくても、象徴的なもの以外の価値を生みださなくてはその場限りのプロジェクトに終わってしまうような気がする。

だから、棚田再生には、景観とか、祖先が切り拓いた土地への愛情とか、そういう象徴的な価値があるのはいいとして、それを何か「具体的な価値」に変換する仕組みがないとダメなんだろう。 日光の棚田の場合、その「具体的な価値」が何なのか、正直なところいまいちよく分からない。もしかしたら、この小さな集落に注目が集まるということ自体がその価値かもしれないし、棚田をきっかけにした集落の活性化がその価値かもしれない。

でも棚田があるような集落は、象徴的どころか現実的な困難にぶち当たっているところが多い。高齢化や後継者の不在、 産業の欠如、鳥獣害、空き家対策、不在地主問題などなど…。棚田のような「象徴的な」ものに取り組むよりは、もっと現実的な問題へ対処するほうがよっぽど価値が高いのではないか? 消滅の危機にあるような集落が、景観なんか気にしている余裕はあるのか?

ここが難しいところで、理屈で考えれば現実的な問題を一つひとつ解決していく方がもちろんいいのだが、理屈だけでは人は動かないというのもまた現実である。それに、こうした集落が直面している問題は抜本的な解決が難しいもので、一つひとつ取り組めば解決の道筋が見えるかというと、真面目に考えれば考えるほど絶望するようなものばかりである。

であれば、棚田のような「象徴的な」ものによって人々の心を動かし、集落の将来を考えて何かやってみようという最初の一歩を踏み出させるのはとても有効なことで、それには象徴的どころか、極めて具体的な、現実的な価値がある。要するに、棚田の維持・保全というのは一見「現状維持」に見えるがそうではなく、集落の「自己変革」の道具としても考えられるのかもしれない。

「マツリゴト」はお祭りという意味もあるが、本来の意味は「政」つまり政治である。何もしなければ老いて死んでしまう集落に、変革を催す政治の中心をつくるというのが、今の時代に棚田を耕作することの意味なのかもしれない。

(つづく)

2015年9月11日金曜日

荒瀬ダムと棚田——棚田を巡る旅(その1)

撤去されつつある荒瀬ダム
先日、棚田を巡る研修に行かせてもらった。

といっても、実は私は「棚田再生!」などには否定的である。棚田のように一つひとつの耕作面が小さくて道が狭く、大型の機械が入らないような田んぼは管理にとんでもない労力がかかる。要するにコストがかかりすぎる。タダでさえ農業は収入が低く、経営の効率化が叫ばれている現在、棚田のような趣味的・余暇的なことに農家が手を出す余裕はない。

この研修の主催者は、鹿児島の「土改連」すなわち「土地改良事業事業団体連合会」であり、まさに「生産性の高い農地の集積が大事だからみなさんご協力ください」みたいなことを言い続けてきた団体である。棚田みたいな狭隘で形の悪い農地を崩して整地し直し、四角くて広い、使いやすい農地に変えてきた(「基盤整備事業」と言います)のが土改連なのである。その土改連が、かつて破壊してきた棚田を今になって称揚しているのはなぜなのか。棚田には景観や村おこし以外の価値があるのか、そういう興味を持って研修に参加したのである。

結論を言ってしまうと、その疑問は氷解しなかったし、ますます謎が深まった面もある。というわけで、とりとめのない内容になるが紀行文的に棚田を巡る旅のことを語りたいと思う。

さて、旅は球磨川を遡っていくもので、最初の休憩が道の駅「さかもと」。熊本県八代市、球磨川のほとりにある物産館である。

この物産館から少し先に、その筋には有名な「荒瀬ダム」がある。荒瀬ダムは、ちょうど今、日本で初めての本格的なダム撤去工事が行われている。これは老朽化によるものというよりは、元の景観や環境を復活させようという意図で行われるもので、このような理由でダム撤去の決定がなされたことは画期的なことであった。

荒瀬ダムは、地元の電力をまかなうために1955年に出来た。当時、熊本には既に水力発電所があったそうだが、その電力は北部九州に送られており熊本県民は宮崎から電力を購入していたそうである。そこで、今風に言えばエネルギーの地産地消のために作られたのが荒瀬ダムだった。そこから約50年、水利権の更新という行政上の問題をきっかけにして撤去の声が上がったのだった。

ダム撤去の費用はかなり高額であり、逆にダムを使い続ければ毎年1億円以上の純利益が見込めていた。電力需要の面で存在価値が低下していたとはいえ、数字には換算できない「環境」や「地元住民の気持ち」が優先されたことは、経済至上主義者だらけの日本では誇ってよいことだろう。

しかも地元にかかっていた垂れ幕の内容が意外で、「荒瀬ダム55年間ありがとう」みたいなことが結構書いてある。撤去運動の時はたぶん「ダムが環境悪化の犯人だ」みたいな、ダム悪玉論が展開されていたのではないかと想像されるが、いざ撤去にあたってダムへの感謝が表明されるというのは住民の穏当な感覚を示していて好感を持った。なにしろ、ダムが地元のために作られたのは事実で、確かに球磨川流域の人々の生活を支えた存在だったのである。

こうして荒瀬ダムのことを長々と書いてきたのは、撤去されるダムがこれから見る棚田の情景と重なったからだ。 ダムも棚田も、元々は経済的に重要な存在だった。今でこそ棚田は生産性が低い困った農地であるが、東アジアの各地に棚田が存在していることから分かるように、機械耕作以前の世界においては棚田は合理的な水田耕作法である。また、米もかつては今とは比べものにならないほど重要な作物で、江戸時代には米の石高が経済力そのものを示したし、明治維新後にも何をおいても米を作ることが求められた時もあった。

しかし時は移り、ダムも棚田も時代に合わなくなった。依然として細々と続けていくことはできても、それよりももっと効率のよい方法があるわけで、敢えて維持しなくてはならない理由がなくなった。それどころか、人の手が入る前の自然に戻す方がなおよい、という考えも出てきた。

そして、ダムは撤去された。

だが逆に、棚田は今になって見直されている。

ダムと同じように考えれば、棚田も自然に戻す方がよいように思う。棚田が経済的な役割を終えたのなら、樹が生い茂る山の景観へと戻していくべき、ということにならないか。その使命を終えたものを、敢えて延命する必要はないのではないか。

荒瀬ダムの景観は、そういうことを考えさせられた。

しかし当然、ダムと棚田は違う。ダムは自然環境に負荷を掛けるが、棚田は生物多様性を高める。ダムは特定の企業の利益になるが、棚田で儲ける人は(僅かな例外を除いて)いない。でも決定的に一番違うのは、ダムは醜く、棚田は美しい、ということだ。

この問題の本質を理解するには、経済とか環境とか、そういうことは二の次で、きっと、「美」とは何か、という問題を考えなければならないのかもしれない。

(つづく)

2015年9月2日水曜日

鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか

『薩摩見聞記』より「村落女子」
先日鹿児島県の伊藤知事が「女子にサイン、コサインを教えて何になる」と発言した問題に関してちょっと思うことがある。

「鹿児島は男尊女卑の牙城だ!」と他県民から思われていて、実際にちょっと男尊女卑的な部分もある。私の祖父にもそういう面があって、奥さんや子どもには質素なご飯を食べさせながら、自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいたとかいうから、まあ男尊女卑だと言われても仕方ない。

そういう「女、子どもは黙っとれ」的な人がいるにしても、鹿児島は昔から男尊女卑の風土だから、とひとくくりにされるのもあまり気分がよいものではない。鹿児島の男女の力関係が「男尊女卑」の一言で片付けられるのには違和感がある。

男尊女卑的な実情(女性議員の数がかなり少ないとか)があるにしても、本当に鹿児島には男尊女卑の「風土」があるのか。男尊女卑の知事を生んでしまう必然性があるのか。つまり、鹿児島は歴史的に男尊女卑の「文化」があったのであろうか。

こういう時に参照できるのが『薩摩見聞記』という本である。この本は以前にもちょっとだけ紹介したが、明治中期頃の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料で、新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任した本富 安四郎という人が書いたものである。本書は、本富が「鹿児島って変わってるなあ!」と思うところを記したものであるから、他県と比べ男尊女卑が激しければ必ずその記述があるはずだ。

だが、明治の頃の鹿児島は決して男尊女卑な土地柄ではなかったらしい。それどころか、夫婦関係についてはこんな記述がある(口語に訳した。原文は文語)。
「男女間の愛情も厚い。婦人は従順でよく夫に仕え、夫もまたこれを愛す。妻が病気になると夫は妻のために親切に介抱して、もし妻が死ねば夫は日々お墓参りをして花を供える」
ここに描かれる夫婦関係は、「女は黙ってついてこい」的なものとは随分違う。また、現代の鹿児島でもお酒の席で女性に給仕させるということは当然多いのだが、当時はそうでもなかったらしくこんな記述がある。
「男性も一通りの料理の法を心得ていて、宴会などの時も女性の手を借りないことが多い」
とのことである。自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいた祖父に聞かせてやりたいものだ。でも実は、今でも鹿児島では「男子厨房に入らず」というようなことはなくて、意外に料理好きな男の人が多い印象がある。私自身も料理は結構好きだ。

ちなみに本富は鹿児島の女性を随分褒めていて、
「その容貌を見れば明眸皓歯で瀟洒な人や、豊満艶美で温厚な心持ちを持っている人が多い」
として
「とはいっても他郷の人に比べると愛嬌があるというより凛とした面持ちがあって、姿勢は正しく血色もよく、都会にいるような蒼顔柳腰(青い顔をしてなよっとした)の美人は少ない。むしろ強健でよく働き、自ら薩摩婦人という一種の気概がある」
しかも
「彼女らは男性のように乱暴や不規則(規則を守らないことを指していると思われる)はせず、また並の婦人のように家から外に出ない無職的な生活もしない。よく外に出て作業をし、相当の労働をしている」
だそうである。この頃の鹿児島の女性は、美しく気概があり、よく働くという随分デキる人が多かったようである。いや、私は今の鹿児島もそういうテキパキっとしたデキる女性が多いように思っているのだが。

このように、少なくとも明治の頃の庶民社会では、鹿児島は他県と比べて特に男尊女卑がひどいということはなかった。それどころか、女性も生き生きと働いていた様子が窺える。実は鹿児島だけでなく、かつては全国的に農村部ではかなり男女は対等な立場にあった。

というのは、農作業というものは男性だけでするものではなく、女性もその重要な部分を担っていた。例えば「早乙女(田を植える乙女)」という言葉があるように、田植えは女性が主役になる作業で、テキパキと田植えをこなす女性が、なかなか田植えが進まない男たちを「あんたらまだ終わってないの〜」とからかっていた、というような話がある。農業は力任せの作業の他にも、時にリズムが大事だったり、精密さや気遣いが大事な作業があったり、いろいろな場面があるから常に男性が優位とは限らない。

このように、女性も仕事の重要な部分を担っていたから、昔は農村部では男女は対等だったのである(「平等」ではない。役割分担はあった)。男尊女卑の価値観が遅れた農村的なものだというイメージは全くの誤りだ。

そして先ほどの『薩摩見聞記』でも女性が「相当の労働をしている」とあるように、経済的に男性に従属していなかったというのが「男女が対等であること」に大事である。逆に言えば、男尊女卑の根幹には、女性を経済的に男性に従属させる社会構造がある

さて、鹿児島の男尊女卑の風土が歴史的なものでないとしたら、いつから鹿児島は「男尊女卑の牙城」になってしまったのだろうか?

これには社会学的な考証が必要になってくるので私の手には負えないが、憶測でものを言わせてもらえばそれは日露戦争(明治37年)あたりからではないかと思う。戦争はどうしても男性が中心になり、女性は従属的な役割にならざるをえない。さらに日露戦争は勝利に終わったために、従軍帰還兵は「日本に勝利をもたらした兵隊さん」として随分チヤホヤ(?)されたらしい。地域の顔役のような人ですら、帰還兵の若者に頭が上がらなかったというような話も聞く。

また、海外どころか他県に出るということも稀だった明治時代に、海外まで派兵されたり、日本全国を軍艦で回ったりという経験をした従軍者は、外の世界への目を開かされ、土地の境界の1尺や2尺で争っているような田舎の文盲の人間が、随分遅れたものとして目に映っただろう。それに、文字通り生死の境という極限状況をくぐり抜けてきたという自負もあったはずだ。そういう帰還兵が、奥さんにとった高飛車な態度が鹿児島の男尊女卑の起源ではないか、というのが私の空想である。

もちろん、その後のサラリーマン社会化で男性が稼いで女性が家を守る、という形になっていったことの方が影響は大きく、女性が経済的に従属的な存在となっていったことで男尊女卑の社会になっていったのだろう。

ただ、それは全国的な現象なので鹿児島の特殊性を説明する材料にはならない。それよりも、日清・日露・太平洋戦争という戦争の時代が鹿児島の社会生活のあり方を大きく変えたということの方がまだ説明がつくのではないか。もちろん戦争の時代も全国的な現象であるが、どうも日露戦争というのは鹿児島が深くコミットしていて、他県と比べ鹿児島の社会にはインパクトが大きかったように見える。

例えば、バルチック艦隊を破った元帥海軍大将・東郷平八郎は鹿児島人だし、 元帥陸軍大将・大山巌も鹿児島人、他にも大幹部クラスとしては黒木為楨野津道貫川村景明らが鹿児島出身であり、日露戦争の陸海軍において鹿児島は相当の存在感がある。大幹部クラスでこうだから、そうした大幹部に憧れて入隊していった鹿児島の若者の数も相当だったはずだと思う。

鹿児島の神社には大抵「日露戦争戦没者慰霊碑」があって、これは普通のことだと思っていたが、他県でもそうなんだろうか?この「日露戦争戦没者慰霊碑」の多さは、鹿児島の社会が日露戦争で受けた大きな衝撃の証左のように思える。

それはともかく、私は鹿児島の古くからの姿はかなり変わってしまったのではないかと思っている。いや、『薩摩見聞記』を見ればわかる通り、変わっていることは間違いないし、むしろ社会や経済の仕組みが随分変わったのに鹿児島の人の価値観が変わっていなかったらそっちの方がおかしい。

でも、『薩摩見聞記』に記された鹿児島の姿はまだ残っているような気もしている。「男尊女卑の牙城」としての鹿児島より、こちらの方が鹿児島県民にしっくり来るんじゃなかろうか。「男尊女卑の牙城」とか言われると、確かに男が偉そうにしているが女性も相当やり手が多い鹿児島の実情とはちょっと違う、という気がしてならない。

明治維新からもうすぐ150年、ここらで本来の鹿児島人の姿に戻ってはどうか。

2015年8月28日金曜日

大浦町の台風被害

台風15号、ものすごい台風だった。大浦町のランドマーク、丸山島公園のてっぺんにある展望台も全壊した。この展望台、予算の関係でもう再建されないのではないかと思う。

停電は、うちの場合は2日半続いた。全然停電しなかった地域もあるようだが大体は2日間くらい停電したようだ。2日もろうそく生活をしたのは初めてかもしれない。

このブログは大浦町出身者の方が多くご覧になっているようなので、ちょっと町内の被害状況を報告したいと思う(自分の被害については「南薩の田舎暮らし」の方で述べるつもりです)。テレビや新聞では大浦のような辺鄙なところの被害などは全く出ないと思うので。

※ただし、個人住宅の被害写真を載せると問題もありそうなので、それなりに公共性のある場所のみに限っています。

まず干拓から。

干拓の中心にある恋島コンクリートの工場、上の部分が傾いている。これを最初に見た時はかなり衝撃を受けたが、よく構造を見てみるとそこまで頑強なものではなかったようだ。でもコンクリートが一番必要な復興期に恋島コンクリートが稼働しないのはちょっと残念。

大浦干拓の防風林になってる松も、ところどころねじ切れたり折れたり。お米の収穫作業が終わっていたのがせめてもの救い。

 西福寺の瓦もちょっと崩れた。もちろん、個人住宅も瓦が飛んだ家は多数。

道路標識も倒れているのが何本か。(この写真の標識は看板がついているので折れやすそうだが、標識のみのものも折れていた。狭い街なのに標識が多すぎるからこの機会に減らしたらいいと思う)

この写真はわかりにくいが、これは石垣の上にあった竹林が根こそぎ倒れた様子。竹林が根っこごと倒れるなんて聞いたことがない。

次に、上山(かしたやま)に向かう。県道272号線で久志へ向かう峠の道。大浦では、今回の台風でここが一番大きな被害を受けていると思う。

県道沿いに植林された杉のかなり多くが風でなぎ倒されていた。

電柱も折れたり倒れたりしているものが多数。しかも電線にはかなりたくさんの木が掛かった状態。でも驚くべきことにこの状態で通電している。こんな状態でも電気を復旧してくれた九電には感謝!

山自体が崩れたような(山崩れがあったわけではない)、風が山を引き裂いていったような感じ。

今回の台風は、自然の木がたくさん倒れたりねじ切れたり折れたりしているということが印象的だ。自然の木は強いという印象があったが、これほどの強い風になると自然の木も抗うことが出来ないらしい。枕崎で最大瞬間風速45m/sとの報道があったが、ここはたぶん地形的な要因でそれより強い風が吹いたのではないか。60m/sくらいないとこんな被害にならないと思う。

かなりの大径木が根こそぎ倒伏している。切られているのは、道路を塞いでいたので切断して片付けたため。

大きな杉が、3本傾いていた。しかも電線に引っかかっている。この先にも集落はあるが、このあたりで先へ進むのが怖くなって引き返した。

山の木が倒れても経済的な被害としてはさほどではないが、これを片付けるという作業は大変になるので、たぶん放置されてこのまま山が荒れるのではないかと思う。

最後に、大木場のヤマンカン(山神)こと大山祇神社。

社殿(拝殿?)の裏手にある木々がバリバリ倒れてしまった。ここは元々鬱蒼とした森になっていたが、台風後は随分明るくなって雰囲気が変わった。ただ社殿への被害はないようである。

社殿の裏手へ近づいてみるとこんな感じ。かなり太い樟(くす)もあっけなく折れている。そんなに強い風が当たるところではないようなのに不思議だ。集落を守って身代わりに折れてしまったんじゃないかと思わされた。

ここにはかなり被害がひどいところだけ写真を載せたので、市街地の方がどうなっているか心配な人も多いと思う。だが意外と人家への被害は軽微で(瓦が飛ぶ程度は多いが)、けが人も僅かだそうである。

また、大浦町には、文字通り吹けば飛びそうな古くてぼろい家(失礼な表現とは思うが本当にそんな家がたくさんある)が多いのに、そうした古い家は意外と平気だった。これも不思議である。やはり昔の家は見た目よりずっと丈夫に作ってあるんだろうか。

不思議と言えば、大浦や笠沙、坊津(直接はまだ見ていません)はかなり大きな被害が出ているのに、加世田の市街地に行くと何事もなかったかのように被害がほとんど出ていないことである。この格差はなんなのか。

加世田には丈夫なしっかりした家が多いということもあるのかもしれないし、今回の台風は進路的に南に開けたところでの被害が大きいので加世田は被害が軽かったのかもしれない。でも同じような条件に思える金峰ではけっこう被害があるらしい(これも伝聞)。そういうことを考えると、麓(ふもと:鹿児島の言葉では、武士の集落があったところ、という意味です)は災害を受けにくいところが選ばれているのかもしれないと思った。

今回の台風は、野間池ではルース台風以来とか言われているようだし、大浦でもこんな大きな被害があるのは数十年ぶり、少なくとも20〜30年ぶりだそうだ。復興にはかなりのエネルギーが必要だろうし、丸山島公園の展望台みたいに、もう二度と再建されなさそうなものも多い。歴史的な出来事、というには大げさだが、その影響はしばらく残るだろう。