2015年11月26日木曜日

アーモンドは無様に失敗中

実験的にアーモンドを栽培しているが、それを報告した記事「アーモンドはじめました」に結構反響があって、応援して下さる方が多い。

が、そういう方々には大変申し訳なく、残念な報告をしなくてはならない。というのは、これまでのところ、アーモンド栽培は失敗中である。

私が育てているアーモンドは、スペインから取り寄せた「マルコナ」という品種で、別名「アーモンドの女王」という高貴な通り名がついているが、女王らしく、かなり気むずかしい品種のようである。約50本植えて、今残っているのがたった10本ちょっとしかない。

失敗の要因は、なんといっても雨である。ここはスペインに比べて雨量が桁外れに多いから、やはりその性質に合っていないのだと思う。去年は梅雨時期もそれほど痛まなかったが、今年の暴力的なまでにすさまじい梅雨にはだいぶ参ったようだ。

しかも、この品種はカタツムリへの耐性がほとんどない。梅雨時期は頻繁にカタツムリ取りに出かけたが、今年の梅雨は本当に途切れることなく雨が降ったので、カタツムリがどんどんどんどん湧いてきて、全く追いつかなかった。カタツムリを駆除する農薬も使用したがそれでも被害が大きかった。だいたい、薬剤は雨の時はあまり効果を発揮しないもので、カタツムリ用の農薬もそうである。雨の中農薬を散布した意味があったのかなかったのか、よくわからない。

柑橘の苗木なんかもカタツムリが大きな被害を及ぼすことがあるが、柑橘の場合はどこからともなくマイマイカブリというカタツムリの天敵が現れて、カタツムリを食べてくれる。だから苗木の根元はカタツムリの殻がたくさん落ちていることが多い。でもこのアーモンドの場合、カタツムリはたくさんいるのにマイマイカブリは不思議と全然見なかった。

スペイン料理では「カラコレス」といってカタツムリを煮込み料理にして食べる(私も食べたことがある。もちろん日本のスペイン料理屋さんで)から、スペインにもカタツムリはたくさんいるはずなのに、カタツムリへの耐性がないのは不思議だ。スペインのカタツムリと日本のカタツムリはかなり違うんだろうか。

失敗の要因は、他にも、スペインには存在しない台風とか、イノシシとか、そういうこともあるが、やっぱり一番は雨とそれに付随するカタツムリである。以前「ケッパー」を栽培してみたいと思って調べた時も、雨量が違いすぎてうまくいかなそうだと断念したが、南欧と南薩では、雨が決定的に違うので同じようにはいかないということを今回も痛感した次第である。

でもこれで諦めたらかっこ悪い、というか悔しいので、もう少し工夫をしてみようと思っている。例えば、台木の性質でも相当変わりそうなので、台木を変えてみるといった対策があるのではないか。

というわけで、アーモンドは無様(ぶざま)に失敗中であるが、私のやっている農業はほとんどが無様に失敗しているものだらけで、今のところバッチリうまくいっているものというのもないので、まあそんなもんだと達観したフリをして、ごまかしごまかしやっていこうと思う。

2015年11月24日火曜日

景観をテーマにした講演会@マルヤガーデンズ

Tech Garden Salonというイベントのご案内。

私は東京工業大学、というごつい名前の(鹿児島では)無名の大学を卒業していて、その大学の同窓会が「蔵前工業会」というこれまたごつい名前なのだが、その同窓会活動の一環で今回マルヤガーデンズで12月5日に講演会を行う。

これは、「科学技術がテーマの講演会だとどうしても聴衆にオヤジが多いので、少し砕けた感じにして女性にも聞いてもらえるようなイベントを開こう」ということで始まったもので(あくまでも私の理解です)、今年で2回目である。

今年のテーマは「まちづくりと景観:心地よい景観とともに暮らす」で、講師は東工大の卒業生で鹿児島大学名誉教授の井上佳朗先生。

井上先生は大学時代は機械系だったが心理学の研究室が近かったことから心理学の方に興味を惹かれ、大学院で社会開発工学を専攻、鹿児島大学に赴任して法文学部の教授になったという面白い経歴の人である。

工業大学になぜ心理学の研究室があったのかというと、昔、東工大は随分人文教育に力を入れていて、心理学の宮城音弥とか文学の伊藤 整江藤 淳、文化人類学の川喜田二郎といった独特な人たちが教授を務めていた。ある意味では人文社会学と科学技術を融和させようとする風土があったから、井上先生も機械系から心理学へ移行するキャリアを積むことが出来たのである。

井上先生の専門は(たぶん)都市計画・開発工学における心理的側面で、要するに街が形成されていく時に、その構造や景観によってどのように居住者の心理が影響されるのかということである。例えば、鹿児島市はJRの線路によって東西が分断されているが、そういうことが住民の気持ちやコミュニティの形成にどう影響を及ぼすのかというようなことなんじゃないかと思う。

井上先生は鹿児島市の景観審議会の会長も務めていて、実務面でも学術面でも鹿児島の景観学をリードする方なのではと私は思っているが、その井上先生から「景観」をテーマにした講義を聞けるということで私もすごく楽しみにしている。

私も景観というものは人の心を考える上ですごく重要な要素だと思っていて、これまでブログでもいくつか景観に関わる記事を書いた。でも正直に言うと、まだ景観の意味を摑みきれないでいる。例えば、いくら景観が重要なものだといっても、景観の価値はどれくらいあるんだろうか?

ヨーロッパの諸都市では、景観をそれこそ共同体の顔や体というくらいに思っていて、第二次大戦で街が灰燼に帰した後も、戦後の金がない時なのにそっくりそのまま(というのは言い過ぎかもしれないがほとんど元通りに)街を古風な景観の通りに再建したほどである。 つまり、欧州諸都市の人間にとって、景観はなけなしの金を出しても惜しくないほど価値があるものだった。

一方日本ではどうか。日本人はほとんど景観に気を掛けないことはよく知られたことで、街を覆う電線、無秩序な看板とネオンサイン、「消費税完納推進の街」みたいな無意味な横断幕、統一感のない街並み、貧弱な街路樹、「立ち入り禁止」「ゴミを捨てるな」といった過剰にうるさい標識といったものが景観を乱しに乱していて、都市と言うよりも街全体が工場のようである。

でも日本人が景観に全く注意を払わないかというとそうではなく、日本人の観光の中心はバカンスとかショッピングよりも「美しい風景を見る」ということに傾いているようで、普段の生活で適わない「美しい風景」を求めて観光地へゆくという面があるような気がする。つまり貴重な時間やお金を使う価値が、風景にはあるわけだ。なのに、普段生活する都市の景観には無頓着であるのは謎の一つで、このあたりから私の思索はこんがらがっていく。

日本人にとって、景観とはどんな価値があるんだろうか? ヨーロッパやアメリカの諸都市とは違った意味づけを日本人はしてきたのだろうか? そして、景観の価値というものがあるなら、それをどうやって計測可能なものにできるのだろうか? そういうことは、素晴らしい風景に囲まれて暮らしている私にとって、最近非常にホットな問題提起なのだ。

たぶん、今回の講演会はこうした理念的な疑問に答えるものというよりは、もっと具体的なテーマを扱うのではないかと思うが、私にとっても風景学のよい入り口になるのではないかと期待している。

ちなみにイベントの当日は、(もちろん有料だけど)ちょっとした飲み物も注文できて、ほんの少しだけサロン的な雰囲気にもなる予定である。東京工業大学同窓会主催のイベントというと随分堅そうで関係者ばっかりというイメージがあると思うが、そのコンセプトは
私たちの日常に当り前にある様々なモノの裏には多くの知恵と技術が隠れています。それを知れば世の中の見方さえ変わってしまうかも。アートやカルチャーを楽しむように、今宵はテクノロジーの世界を気軽に楽しんでみませんか。
というもので、部外者歓迎というか、むしろごくごく一般の人のために開催するものなので、ぜひお越し下さい。申込不要です。ちなみに、私も当日は一番の下っ端として雑務をする予定。

【情報】
 Tech Garden Salon
講演テーマ「まちづくりと景観:心地よい景観とともに暮らす」
講師:鹿児島大学名誉教授(生活環境論、社会開発論) 井上佳朗
日時 2015年12月5日(土)15:30-17:00(15:00開場)
場所 マルヤガーデンズ 7F 入場無料(定員50名)

→詳しくはこちら

2015年11月22日日曜日

「場の活性化」の秘訣

前回の記事で、私は「地域活性化をするよりも、自分がやりたいことをやった方が結果的に地域活性化になる」ということを述べた。

でもこれにはいろいろ反論があるだろう。自分のやりたいことといっても、読書や映画鑑賞のようなものもあるし、極端に言えばぐうたら寝ていたいというのだってあるわけだ。そういうことをやっても、地域活性化に繋がるのか? と。私はそういうものであっても、それをのびのびとできるなら結果的には地域活性化になると信じるが、ちょっと迂遠な感じがするのは否めない。さびれた商店街を何とかしたい、というようなことを考えている人たちにとって、「自分がやりたいことをやりましょう」というのはあまりに悠長なアドバイスだ。また、「私のやりたいことは、まさに地域活性化なんだよ!」というアツい人もいると思う。こういう場合どうしたらよいのか。

時々、地域活性化講座みたいなものがあって、こういう熱心な人たちにいろいろアドバイスしているが、どうも私から見ると正鵠を射ていないものが多い。地域資源を発掘して、それを売り込んでいくためのマーケティングをして戦略を作るとか、そういう軽薄なアドバイスは特に最悪である。

断言するが、地域活性化に「マーケティング」も「戦略」もいらない。

鹿児島市役所のそばに「レトロフト チトセ」という古いビルがある。ここは古本屋やカフェ、気軽なレストランなどがあって私のお気に入りの場所である。遠目に見ると灰色の古いビルだが、中は随分と活気があり、いつも様々な新しい企みがなされていて楽しい。

でもこのビルは、数年前まで文字通り古い雑居ビルで、特にどうということもない場所だったようだ。今のように活気ある場所になったいきさつは詳しくは知らないが、最初から、こういう戦略や青写真があってレトロフトは今のような場所になったんだろうか。どうもそうではないように見える。

これは「戦略」に基づいて場の活性化がなされたというより、リフォームを行ったことを契機として、面白いことを考える人たちがどんどん集まってきて新しい企画が実現し、それに惹かれてやってきた人たちがまた新しい風を入れるという具合に、「人とアイデアの好循環」が生まれた結果ではないか。私が最初にここを訪れたのは2013年で、それからの動きを横目に見ているとそのように感じる。

もちろん、オーナー夫妻の感性も活性化にはすごく重要だったろう。でもそれだけでは、この数年で急にビルに活気が出てきたことの説明が難しい。 やはり運営上の変化があったと考えるべきで、それはリフォームによる外面的な変化もあるが、むしろ人とアイデアを受け入れる「開かれた態度」になったことではなかっただろうか。

場の活性化に成功している他の例を見ても、このことは共通している。その「場」には「人とアイデア」を受け入れる「余白」と「開かれた態度」がまず準備される。すると面白い人が集まってきてやいのやいの騒ぎ出す。楽しい企画が実現し、それに惹かれてまた人が集まってくる。これが活性化のいつものパターンである。そこに場をまとめるためのリーダーシップやセンスは必ずしもいらない。ただし、そういうものがあれば、その活動が長続きし、また高水準の成果を生みやすいということは言える。

そして、こういう活性化が起こるためには、「戦略」はほとんど役立たない。「戦略」に沿って物事を進めるよりも、思いもよらないアイデアをドンドン受け入れていくことこそ必要で、そういう態度であり続けようとするなら、結局「戦略」は無意味になっていく。というより、最初に思い描いていた「戦略」から離れていくことが活性化の証左ともいうべきで、それは人生のドラマのように、私たちを予定調和よりももっと面白い展開へと連れて行ってくれる。

ローカルな事例で申し訳ないが、大浦にある「有木青年隊」もこういう活動の成功例である。有木青年隊は、集落の普通の青年団のように「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではなく、やりたい若者が(もちろん女性でも)誰でも入れる。そこに集落の限定もなく、今では集落外に住んでいるメンバーの方が多いくらいじゃないかと思う。

有木青年隊の沿革もよく知らないが、十五夜祭りを盛り上げる活動の一つとして緩く始まり、飲ん方(ノンカタ=宴会)をしているうちに「こうしてみよう、ああしてみよう」と盛り上がり、十五夜祭りから飛び出して、「大浦 “ZIRA ZIRA“ FES」という一大イベントを実行するようにもなった。今では大浦町の顔の一つだ。

この活動も最初から青写真があったというより、若者に自由にやらせようという集落の「開かれた態度」があり、そこにうまく若者たちが集結し「人とアイデアの好循環」が起こった結果に見える。ついでにいうと、「はっちゃける」ことを肯定して、若者のエネルギーの発散を「黙認」ではなく「承認」された行動にしたことも大きい。

一方で、有木青年隊は「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではないから、やりたい人がいなければ消滅してしまう。人によっては、そんなんじゃ継続性がない! と不満に思う人もいるだろう。やっぱり婦人会とか青年団とかカッチリした枠組みで継続性がある活動をするほうが確実だ、という意見である。でもつまらない活動が長続きするより、いっときでも面白いことが起こる方がずっといい

行政による地域活性化の支援などでも「継続性」が条件になっていることが多いが、私からすると継続性などと言ってる時点でつまらないことをしている自覚があるというもので、面白かったら自然に続くし、逆にやってみて面白くなかったらさっさと辞めた方がいい。最初から継続することを条件にするのは愚策である。

ともかく、地域活性化——よりも、私は「場の活性化」と言うべきだと思っているが——をしたいなら、そのための「戦略」を練って何をすべきか考えるよりも、若者のエネルギーを形にできるような「余白」と「開かれた態度」を持つべきである。レトロフトの素晴らしいところは、リフォームの際にこのことを十分にわきまえていたことで(想像です)、たった4㎡のテナントを作って、気軽に小さなビジネスを始められる場を設けたり、人の行き来が活発になるように動線を綿密に計算している点である。

若者は、常に自分の魂が承認される場所を求めている。行き場のないエネルギーを抱えている。そのエネルギーが肯定され、思い描いたことを実現できるフィールドを欲しがっている。場の活性化をしたいなら、まず彼・彼女が存在できる「余白」を設けよう。そして若者がそこに入りやすいように、「開かれた態度」を身につけよう。そうすれば、人は自然と集まってくる。なぜなら、そういう場所は常に不足しているからだ。そんな場ができれば、自然と「人とアイデアの好循環」が起こり、もうそうなったら仕掛け人その人でさえコントロールできないようなステキな物語がたくさん生まれてくるのである。

こういう活性化なら、私は大歓迎である。

2015年11月18日水曜日

「地域活性化」はやるべきではありません

先日、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催しました。来ていただいた方、本当にありがとうございました!

当日の模様については「南薩の田舎暮らし ブログ」の方に書きましたのでよかったらご覧ください。

【南薩の田舎暮らし ブログ】「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」ありがとうございました!

ところで、こういうイベントをしていると、「地域活性化してくれてありがとう!」とか言われることがある。また、新聞記者さんにも「南薩の田舎暮らしは、地域活性化団体とかじゃないんですか?(そうでないと記事に紹介しにくいなあ、みたいなニュアンスで)」と聞かれたりする。

でも、実を言うと私は「地域活性化」には取り組んでいないし、「南薩の田舎暮らし」も商業活動をするときのただの屋号である。ただ、「珈琲を飲む会」とか、先日やった「公民館 de 夜カフェ」なんかは、収益を目的としておらず(というかカンパがなかったら赤字)、気持ちの上では地域貢献活動としてやっているのは確かである。

でも地域貢献は目的の中心ではない。目的の中心は、「自分が楽しいからやりたい」という私のエゴである。美味しいコーヒーを、眺めのよいところで飲んだら美味しい、それを他の人とも共有したい! そういう私のエゴでやっているのが「珈琲を飲む会」である。いわば自分による自分のためのイベントである。地域活性化とか、そういう「高尚な目的」は全然ない。

そもそも、私は「地域活性化」や「地域おこし」はやらない方がいいと思っている。

そういうことに興味があったり、いろいろな取組をしている人と知り合ったりする機会が多いのだが、その現状を見聞きしても、「地域活性化」の内容には問題があることが多い。

そういう取組の最大の問題は、「地域活性化」が一体何を目的としているのか曖昧なことである。「地域」というボンヤリとしたものを相手にしているから、それがどういう状態になったらそれが「活性化」だと言えるのか、あまり考えていない。なので、「とりあえず人の集まるイベントを開いてみよう!」というだけの活動になることが多い。

そうは言っても例えば「地域のお年寄りが喜んでくれたんだからいいじゃないか」みたいに反論する人がいるだろう。でも、最初から「地域のお年寄りを喜ばす」ことが目的なら、その目的に沿って活動を設計すべきであり、「地域活性化」みたいな抽象的な題目ではなく、お年寄りは何を喜ぶのか、という具体的なところから出発するべきである。だが、現実には「結果的に」喜んでくれた、というのが成果として捉えられており、そこに手段と目的と成果の齟齬がある。

これは観光振興なんかでも同じである。「地域活性化」の一つとして、観光振興が注目を集めているが、誰のための観光振興なのか、が曖昧であることが多い。というかほとんどそうである。観光で潤うのは、第1に交通(バス会社とか)と宿泊業、第2に飲食業、第3に物産販売業であるが、こうしたメインのステークホルダーが不在のまま、勝手連的な活動として観光振興が取り組まれることが多い。

我が南さつま市の観光協会の場合どうなのかは知らないが、交通と宿泊業の人はあまり中心的な役割を果たしていないように見える。観光振興というのは、結局はこうした業種の利益を伸ばしていくということが目的なので、まずはこうした業種の企業からプロジェクト毎に協賛金の形でお金を集めて、その範囲でちゃんと利益に繋がる活動をしていくのがよい方法であると思う。

だが、これまで観光地でなかったところは、「観光客が増えるとなんか嬉しいよね!」というようなふわっとした目的の下、観光業には直接関係のない人たちが、良くも悪くも利益を度外視してボランティアで活動しがちである。それは一種のロータリークラブのようなものだから、社会貢献活動をやるフレームワークとしては機能するし、別に悪いことはない。でも長い目で見れば、観光は社会貢献活動ではなく商業活動として成立しなければ意味がない。

だから結局は「○○旅館の売り上げを増やす」というような具体的な成果を見据えていなければ、そういう活動はやりたがり屋の人たちの生きがいづくりの場になってしまう。具体的な成果が想定されていないなら、何かをやったことそれ自体が成果になるからだ。でもそれでは、その活動によって誰が喜ぶのだろうか? この活動を横目に見ている地域の宿泊施設は、実は収益の柱がスポーツ合宿で、観光客なんか全然期待していないのかもしれないのだ。せっかくの「観光振興」なのに、それで喜ぶ業界関係者があまりいなかったら、何のためにやっているのかよくわからない。

つまり何かの活動をする時は、「それによって誰が喜ぶのか」が明確でないといけないと私は思う。 別に、「自分が楽しいから」でも全然問題ない。私は実際、「珈琲を飲む会」は自分が楽しいからしている。また、目的が誰か特定の人を喜ばすことだったらそれももちろんいい。でもよくないのは、「地域の人を喜ばす」とか、「観光客を喜ばす」とか、そういう誰かもわからない人を喜ばそうとすることである。それが「地域活性化」という題目のよくないことだ。

こうなると、「地域活性化」は中身のない「大義」になる。そして「大義」は腐敗の温床であり、その活動に協力的でない人を非難するようになる。「こっちは地域活性化のために頑張ってるのに、あの人は全然協力しない」とか。 でもそれは本当にみんなが参加するべき活動なんだろうか? 実際はやりたい人だけがやればいい活動なのではないだろうか?

というより、「地域活性化」のために「みんなが参加するべき活動」なんてものがあるとすれば、それはもはや「地域活性化」でもなんでもない。参加したくもないものに参加させられるとすれば、地域の活力はなおさら失われるはずだからだ。ただでさえ自分の時間がないなかで、抽象的な「地域活性化」とやらにボランティアで参加しろといわれるなら、そんな地域には住んでいたくない。

だから「やりたい人がやればよい」という活動でない限り、「地域活性化」にはならないと私は思う。一方で、活動の中で、地域のみんなが顔を揃えて話し合いをするとか、そういうことは必要だろうし、自治会などの組織で取り組む場合は、なるだけ多くの人を巻き込む工夫も必須である。正直、全員参加が望ましい活動はある。でも「これに参加することは義務だ」となれば、人心が離れていくのも現実である。この種の活動は、このあたりのバランスがすごく難しい。

結局、「地域活性化」なるものが中身のない理念だからこういう難しい事態が生じるのだろう。だから私は「地域活性化」なんてやめた方がいいと思うのだ。それよりも、個人が、自分がやりたい活動を思い切りやる方が本当の地域活性化になるはずだ。自分の趣味にひたすら没頭するのでもいいし、「地域に花を植えたい」というような活動でもやりたい人でやったらいい。それで喜ぶのが、あくまで「自分」あるいは「自分の知っている人」であるならその活動は健全なものだ。

そして、本当の地域活性化とは、そうした「自分がやりたいこと」をやりやすいように、さまざまなことの心理的・社会的・経済的ハードルを下げることであると思う。私が笠沙美術館を借り切ってイベントをしたことで、「自分も笠沙美術館を借り切ってイベントしてみたい」と思う人が出てきたら、イベントの副次的効果として本当に嬉しい。美術館を借り切ることの心理的ハードルが下がったということだからだ。

「地域活性化」に取り組む人の悪い癖は、「みんな地域資源に気づいていない。地域の魅力を分かっていない。やる気がない」といったように、地域が衰退していくことを不特定多数の人の責任に転嫁しがちなことである。でも地域が衰退していくことは人口動態や経済構造で決まることで、「地域の魅力に無頓着な人」の責任は全くない。

というより、私は「地域の魅力」なんか住民に理解されていなくても、住民一人ひとりがめいめいにやりたいことをしている地域の方がよっぽどいいと思う。むしろ、「地域の魅力」などというものは分かっていない方がいいくらいで、「うちの地域はなんもなくてすいません」というくらいの気持ちでいる方が可愛げがある。

「地域活性化」などという「高尚な目的」よりも、個人の生活の幸せを追求する方が、ずっと大事なことである。

2015年11月5日木曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催します

11月15日(日)、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催します!

【チラシ】海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2

昨年の11月23日、vol.1をやって、思いの外多くの人に来ていただいた。ただ眺めのよいところでコーヒーを飲む、というだけのイベントだったが(主観的に)大好評をいただいて、2回目もしようとその場で決めた。

ただ、vol.1の時は振る舞いコーヒーにしたので、私自身がコーヒーを淹れてばかりでそれ以外のことがほとんどできなかった。せっかく遠方から来ていただいた方とロクにお話しすることもできなくて本当に申し訳なかったと思う。

あと、さすがに遠方から来てコーヒー一杯だけというのも、なんかこちらも申し訳ない気分になったので、地元の人以外を呼ぶならやはりそれなりにコンテンツを準備すべきだったとも思った。

そこで、今回はコンテンツを充実させつつ、自分の役割は極力なくして開催することにした。というわけで、少しだけコンテンツのご紹介。

珈琲:天文館の七味小路にある「古本喫茶 泡沫(うたかた)」さんによる出張販売。昨年はふるまいコーヒーだったので無料だったが、今年は普通に販売になる。でも1杯200円くらいと言っていたから格安だ。ちなみに、「泡沫」さんに出張販売を打診したとき「うち、自家焙煎とかじゃないけどいいんですか?」というのが第一声で、それにすごく好感を持った。そして、それに対して私は、「景色がいいから大丈夫です」と答えた。

写真: 小湊在住のプロの写真家・松元省平さんの全面協力(丸投げとも言う)をいただいて、松元省平写真展「今夜も庭に、星が降る」を開催。これは松元さんが自宅の庭や近所で撮った星空写真の展示会である。昨年はせっかくの展示なのに1日だけだったが、今回は6日間の会期(11月11日〜16日)。やはり美術館でイベントを開催する以上、芸術的な要素もないと寂しい。当日11時からは松元さんに「私の星空散歩」と題してギャラリートークもしていただく予定。

【参考】松元省平 写真展「今夜も庭に、星が降る」を開催します!

古本: 今回一番悩んだのはここで、コーヒーと芸術(写真)と景色、だけでもイベントとして成立すると思うが、やっぱり本に関することもやりたい、ということで武岡の「つばめ文庫」さんにお願いして古本の出張販売をしてもらうことにした。何しろ、古本といえばコーヒー、コーヒーといえば古本、だと私は思っている。

【参考】「つばめ文庫」の出張販売も楽しみ!

そして、当日14時からは店主の小村勇一さんに「困ったときの本頼み! ー生き方に迷っても」の題でちょっとした講演もしてもらう。小村さん自身が、生き方に迷って古本屋になったような面白い人なので私自身も講演がすごく楽しみである。

本との出会いというのは、内容以前に、どこでどうやって出会ったのかというのが大事だと思う。雄大な景色の中で、もしこのイベントに参加していなかったら一生手に取らなかった本を手にとってもらえたらすごく嬉しい。

プチマルシェ:笠沙美術館の周りは山と海で手近なお食事処がないので、坊津の「食堂勝八」さんにお願いして出張販売していただくことにした。名物「双剣鯖ピザ」と「双剣鯖バーガー」がオススメとのこと。実は「バーガー」の方はまだ食べたことがないので、私もすごく楽しみである。その他、昨年、店主の負傷により参加できなかった知る人ぞ知る「ZAKCAR」さんも出店。もちろん「南薩の田舎暮らし」も出店します。

このイベントは、一種のオフ会(インターネットで知り合った人と実際に会う場、というような意味です)にもなっているので、このブログをよく読んで下さっている方には、特に来ていただきたいと思っている。実は、私はネット上の人格と、実際の人格が大きく乖離しているみたいなので、期待されるような会話はできないと思うが、せめてご高覧の御礼を申し上げたい。

というわけで、当日天気が良ければぜひ笠沙美術館にお越しいただき、壮大な景色の中で、コーヒー片手に写真や古本を物色していただければ幸いです(天気が悪かったらイベントの意味があんまりないのでそっとしておいて下さい)。よろしくお願いします。

【情報】海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2
日時:2015年11月15日(日) 10:00〜17:00
参加費:100円(子ども無料、+カンパ)
場所:笠沙美術館