2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2021年1月7日木曜日

「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎

加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。

地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。

この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示されているのだろう。なにしろ、鹿児島は幕末・明治初期に徹底的に廃仏毀釈を行っている。

だから、この像が廃仏の影響を全く受けていないのは、何か理由があるはずだ。疑問に思って、以前、加世田郷土資料館の方に聞いてみたことがある。そうしたら、「この像は、設立当初からの収蔵品で、受け入れ時の記録が残っていないので分からない」とのことだった。

そんなわけで、その理由については今も分からないままなのだが、この像が何者なのかを調べてみて面白かったので、ちょっとまとめてみよう。

まず、この地蔵像に関する地元の伝説をザックリとまとめると「これは井尻神力坊(いじり・じんりきぼう)が廻国の過程で手に入れて持ち帰ったもので、加世田の柿本寺に安置されていたものだ。だから柿本地蔵と呼ぶ」となる。

井尻神力坊とは、戦国時代の島津氏中興の祖・島津忠良(日新公(じっしんこう))の家臣である。彼は日新公の命を受けて、諸国を巡って法華経を奉納する修行を行った。所謂「六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)」である。彼はスパイ的な仕事もしていたらしく、諸国の情報を日新公に伝えていたという。ところが廻国修行を終えて加世田に帰ってみれば、日新公は既に亡くなっていた。そこで木から身を投げて殉死したと伝えられる。ちなみに、元鹿児島件知事の伊藤祐一郎氏も井尻神力坊の末裔である。

さて、井尻神力坊が生きたのは戦国時代であるから、どう見ても江戸時代の作のこの「柿本地蔵」は、神力坊が持ち帰った地蔵そのものだとは思えない。

では、この像は一体何なのだろう。そして柿本地蔵とは何なのだろう。

それを考えるには、いくつかの史料を繙いてみなくてはならない。ちょっと地味な作業だがお付き合い願おう。

まずは『加世田再撰帳』という史料がある。これは19世紀半ば、つまり江戸時代の後期にまとめられたと考えられているもので、加世田郷の地理や産業、名物や名所旧跡を絵入りで紹介したものである。この史料に、「柿本寺」に関する事項が数ヶ所出てくる。

そして鹿児島の名勝旧跡について調べる時の基本資料、『三国名勝図会』である。これも同時期にまとめられたもので、薩隅日の三国(島津領地)の情報を絵入りでまとめ、考察を加えたものである。これには、加世田の「柿本寺」の項目はないが、鹿児島市内にある「柿本寺」の項目の中で加世田の方も触れられる。

以下、以上2つの史料の該当箇所を抜粋引用する。読むのが面倒という方は、史料の後に青字で付したポイントだけ読んで頂いたら大丈夫である。

【史料1】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、地蔵堂 一宇    格護 日新寺
 従日新寺子方道程二町五十六間
 一、将軍地蔵    一体 長ヶ二尺四寸木立像蓮台金磨
 一、脇士 性善童子、性悪童子    二体 長ヶ各一尺三寸木立像蓮台彩色
 一、鰐口    一口 差渡六寸無銘
 右将軍地蔵ハ井尻神力坊日本国中廻国ノ節負下リタル地蔵ニテ安置ナリ然処 光久公 御代御城内ヱ召移レシニ変事有之彩色等御取繕ニテ亦々如本召返サレ安置スト云
【ポイント】日新寺(今の竹田神社)の管理下にある「地蔵堂」には、井尻神力坊が持ち帰った将軍地蔵が祀られている。島津光久の時代にこれを城内に移したことがあるが、変事があったので彩色などを繕って元の場所に安置しなおした。
【史料2】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、石塔 一基(日新寺界内将軍地蔵堂左側)
  天正三年十二月二十七日
  権大僧都神力宗憲法印
 右井尻神力坊墓ニテ柿本地蔵堂左側ニアリ
 日新公ヨリ神力坊ヱ 御国家繁栄長久ノ為ニ一ヶ国ニ於テ六十六部ノ法華経ヲ御奉納ノ 御誓願ノ由ニテ回国被仰付二十二年ニ至テ四千三百五十六部ノ妙経ヲ奉納成就シ 日新公御逝去ノ後帰国ス天正三年十二月二十七日殉死スト云
【ポイント】「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」の左側に、井尻神力坊の墓塔がある。
【史料3】「加世田再撰帳 二」
(麓 柿本)
一、山王権現 一社 格護 今泉寺
 従地頭仮屋未申方道程四町十間
 祭神 大已貴命 大山咋命
  木立像 八体 大破
  猿木座像 二体 大破
 祭日 十一月初申
 右山王宮大永四甲申歳十二月十六日薩摩守忠興御建立其后 日新公 御再興ニテ候上代者柿本寺別当寺ニテ候ヘドモ廃壊ノ后今泉寺格護二相成候
【ポイント】加世田の山王権現は、昔は「柿本寺」が別当寺だったが、「柿本寺」が壊れた後は今泉寺の管理となった。
【史料4】「三国名勝図会 巻之四」(※[]内割注)
能満山、所願院、柿本寺[府城の西]
 西田村にあり、本府大乗院の末にて真言宗なり、本尊虚空蔵菩薩[日秀上人一刀三礼の木座像]、開山典雄法印[元和四年遷化]、当寺の伝へに曰、典雄法印は、加世田日吉山王宮の別当寺、柿本寺[加世田柿本寺は、村原村にあり、今廃して寺地存ず]の住持なりしに、 慈眼公御帰依あり、本府当村窪田に一宇を営て、典雄を移住せしめ給ひ、屢祈祷を命ぜらる、其後当寺を今の地に御建立ありて国家安鎮の為とし、典雄を開基とす、因て寺号は加世田柿本寺の名を用ひしとぞ(後略)
【ポイント】鹿児島の西田村の「柿本寺」は、加世田の村原村にあった「柿本寺」の住持であった典雄法印を島津家久(慈眼公)が鹿児島に連れてきて、同名の寺を建立したものである。
【史料5】「三国名勝図会 巻之二十九」
龍護山日新寺[地頭館より未方三町余]
 (中略)
○梅岳君御石塔
(中略)又井尻神力坊といへる修験(中略)其石塔は、日新寺境内、柿本地蔵堂の側にあり、神力が霊とて、今に奇異あり、諸人是を畏る。(後略)
【ポイント】井尻神力坊の墓塔は、日新寺境内の「柿本地蔵堂」の側にある。

史料中には、相互に用語が一致しなかったり、場所の説明が食い違っている部分があるが、細かいことは気にせずに、この史料に基づいて地蔵像と柿本寺のことをまとめると以下の通りである。

●地蔵像
○日新公の家臣、井尻神力坊は、将軍地蔵像を加世田に持ち帰った。【史料1】
○その将軍地蔵は、「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」に安置された。【史料1、2】
○神力坊は日新公に殉死して、その墓は「柿本地蔵堂」の側に建てられた。【史料2、5】
○島津光久の時代に、この地蔵像を城内(鹿児島)に移したことがあるが、変事が起こったので彩色し直して元に返した。【史料2】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)、地蔵像と地蔵堂は現存していた。【史料1、2、5】

●柿本寺
○加世田麓の柿本には、山王権現(日吉山王宮)があり、その別当寺(神社の管理をするお寺)が柿本寺であった。【史料3】
○この柿本寺の住持典雄法印は、島津家久に気に入られて鹿児島に移住させられ、典雄を開基として鹿児島にも柿本寺が建立された。【史料4】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)で、加世田の柿本寺は壊れてなくなっていた。【史料3、4】

さて、2つの史料から読み取った情報では「柿本地蔵堂」と「柿本寺」は全く別のものなのであるが、実は地元では「柿本地蔵堂」=「柿本寺」と考えられている。

竹田神社(元の日新寺)の北側に、「柿本地蔵堂跡」・「柿本寺跡」と見られる竹やぶがあって、そこには井尻神力坊の墓があった標柱も立っている(墓は竹田神社に改葬されている)。

少なくとも、ここが「柿本地蔵堂」であったことは、史料からも、遺物からも確かなことである。ではここは、以前は柿本寺でもあったのだろうか?

【史料4】(『三国名勝図会』)によれば、加世田の柿本寺は「村原村」にあったという。日新寺と村原は2kmくらい離れているので、この情報が正しいならここは柿本寺ではない。

だが『三国名勝図会』が編纂された段階で、柿本寺が廃寺になって100年以上経過している可能性があり、であればこれはさほど信憑性のある情報とも思えない。それに、『三国名勝図会』は「村原村には柿本寺の寺地が今でも存在している」と書いてあるが、それらしき土地もない。

それから、もうひとつ気になるのは、現存の「将軍地蔵」がどうも将軍地蔵っぽくないことである。将軍地蔵は、勝軍地蔵とも書き、甲冑に身を包んだお地蔵様である。愛宕(あたご)修験で重んじられ、軍神として信仰された。また江戸時代は火伏せ(火事除け)の神としても信仰された。

一方、現存の「将軍地蔵」は、どう見ても普通の地蔵である。普通の地蔵が「将軍地蔵」として祀られていることも少なくはないから、全くおかしいとは言い切れないものの、ちょっと違和感がある点である。

また、前述の通り将軍地蔵といえば愛宕修験なのであるが、竹田神社の南側は「愛宕上(かみ)」「愛宕下(しも)」という小字が残っている。とすれば、このあたりに愛宕修験の関係者が住んでいたのかもしれない。村原の方にはそういう形跡はないのである。

というわけで、以上の情報から推測される「柿本寺」と「柿本地蔵堂」について時系列で整理すると、以下のような感じになるだろう。

  • 戦国時代、井尻神力坊は廻国修行から将軍地蔵を持ち帰った。
  • 山王権現の別当寺の「柿本寺」は、元々あったか、将軍地蔵をきっかけに創建され、将軍地蔵は「柿本寺」に安置された。
  • 井尻神力坊は、死後「柿本寺」に埋葬され墓塔が建立された。
  • 戦国時代末期か江戸時代初期、島津家久は、「柿本寺」の住持典雄法印を気に入り、鹿児島に連れて行って西田に柿本寺を建てた(余談ながら今でも「柿本寺通り」の名前で残っている)。
  • これによって、加世田の「柿本寺」は廃寺となった。
  • 柿本寺跡には地蔵堂が建てられ、「柿本寺」の将軍地蔵が安置されて「柿本地蔵堂」と呼ばれた。
  • この地蔵堂の管理を行ったのは、今の「愛宕上、下」のあたりに住んでいた修験者だったかもしれない。
  • 島津光久(家久の息子)の時代、おそらくは鹿児島の柿本寺に安置する目的で、将軍地蔵を鹿児島に持ち去った。しかし何らかの問題が起こったので、彩色しなおしたという名目で別の仏像を加世田に送り元のように「柿本地蔵堂」に安置した。(=地蔵像はここで入れ替わった)
  • 明治初期、「柿本地蔵堂」は廃仏毀釈で取り壊された。この時、修験者たちが地蔵像を隠して破壊を免れたのだろう。

要するに、「柿本寺」が家久によって取りつぶしになった跡に建てられたのが「柿本地蔵堂」ではないかということだ。そして、今の将軍地蔵は、井尻神力坊が持ち帰ったものではなくて、光久の時代に交換されたものと考えられる。

先日、「薩摩旧跡巡礼」の川田さんと一緒に柿本寺跡に行ってみたら、古くて立派な五輪塔の残欠が埋まっているのを見つけた。ここは、少なくともお地蔵さんを安置するだけの「地蔵堂」ではなかったことは確実だと思う。ぜひ柿本寺跡を発掘して、実際にどんな場所であったのかを明らかにしてもらいたい。

ところで、「柿本地蔵」にはもう一つ謎がある。冒頭に述べたとおり、鹿児島は徹底的な廃仏毀釈を行っているので古い仏像があまり残っていない。そんな中で、「柿本地蔵」はつくりもよく、しっかりと保存されてきた優れた仏像である。それなのに、なぜか県指定文化財はおろか、市指定文化財にもなっていないのである。私にとってはそれが一番の謎だ。

そんなわけで、これを市指定文化財にして、故事来歴について研究してもらいたい、というのが私の願いである。

※冒頭の地蔵の写真は、2017年に行われた黎明館企画展「かごしまの仏たち〜守り伝える祈りの造形」の図録から引用しました。