2022年8月24日水曜日

波紋を広げた一つの記事「インフラックスが子ども食堂に寄付」

7月16日、南日本新聞にこういう記事が載った。

「インフラックスが子ども食堂に寄付」「同社は伊集院こどもふれ愛食堂に50万円寄付した」「同食堂を通じ日置市内4カ所の子ども食堂にも配分する」

何も知らない人は、「社会貢献をする企業えらいな」と素直に思うかもしれない。だがこのニュースは一部の人にはすごく評判が悪かった。

というのは、このインフラックスという企業は、今、吹上浜沖に大規模な洋上風力発電施設を建設しようとしているところだからである。

このブログをご覧いただいている方はご存じの通り、この件についてはこれまで3つの記事を書いており、私自身もこの洋上風力発電事業については反対である。

【参考】吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html

【参考】インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由

【参考】洋上風力発電は、結局、全部カネの話。
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/07/blog-post_25.html

なので私も、この記事を読んだときに「これをどのように評価すればいいのだろうか?」と考えてしまった。

現在、インフラックスは事業の実現へ向けて着々といろいろな調査をしている。1本1億円するという海底のボーリング調査を何本も行ったり(伝聞)、小湊には風況調査のための60mのタワーが建設された。

にもかかわらず、地域住民には事業の丁寧な説明がなされているとはいいがたい。みんなの海を大きく改変する事業であるのに、一方的に進められているという印象である。当然、この事業に反発している人は多く、反対する市民の会もできて署名活動が行われている。

こうした中、インフラックスが日置市の子ども食堂にお金を寄付したというのは、どう考えても偽善的行為というか、一種の「売名」である。「地域貢献もしていますよ」という姿勢を見せることで、企業イメージの向上を図っているわけだ。

当然、反対派の市民はこれに反発し、噂では南日本新聞社に「インフラックスの売名行為を宣伝して加担するのか」と抗議したとかしないとか。なお、「日置市内4カ所の子ども食堂にも配分する」とあったがこれは誤報で、実際には吹上のこども食堂はインフラックスからの寄付はもらいたくないということで断ったそうだから、報道としても少し脇の甘いところはあったようだ。

私としても、市民への説明をちゃんとしないのに、企業イメージの向上だけには熱心なのはいただけないと思う。新聞といえば、今年4月9日の南日本新聞にはインフラックスの全面広告が掲載されたが、その広告にしても吹上浜沖の洋上風力発電事業のことは一言も触れず、「「風」を力に、街を豊かに」のキャッチコピーの下「地域のエネルギーを活かして町を豊かにしたい」とだけ語ったのには怒りすら覚えた。本当に街を豊かにする事業だったら、正々堂々と事業内容について説明したらいいのに。

とは思うものの、新聞社にこれを掲載するなというのはお門違いだろう。確かにインフラックスは誠実な企業とはいいがたいが、今のところ法律違反などはしていない。新聞社として広告を断る理屈はない。日置市の子ども食堂の件も、「売名行為を報道しやがって」という気持ちはわかるが、これは報道する方が正しいだろう。

いや、「売名」とか「偽善」とか言っても、子ども食堂への寄付そのものは非難されるべき要素は一つもない。俳優・杉良太郎さんが東日本大震災の支援について「偽善や売名だといわれることもあると思いますが…」と問われ「偽善で売名ですよ。あなたもやったらいい」と答えたように、「やらない善より、やる偽善」。インフラックスのことは気に食わないが、子ども食堂への支援は立派だと、素直に認めるほかない。

それに、子ども食堂の関係者に政治力がある人たちがいるようにも思えない。これは「売名」ではあるかもしれないが「買収」ではない。周辺の漁協に補償金をチラつかせるのは明らかに買収を意図しているし、権利を持っている人にお金を配ろうというのだから、こういうお金は全く評価できないが、子ども食堂への寄付はそういうのではない。

あえて非難する点を言えば、ボーリングや風況調査など数億円規模の調査事業を実施しながら、子ども食堂には50万円とは少しケチすぎるのではないか、ということくらいだ。

そして、吹上の子ども食堂が寄付を断ったことは尊重するにしても、逆にもらった子ども食堂もやましい思いをする必要はないと思う。反対派の人には「インフラックスから金をもらいやがって…」という思いを抱く人もいるかもしれないが、寄付を受けたこと自体は全く問題がないということをここで明確にしておきたい。

何度も言うが、問題は、インフラックスが地域住民に事業計画をまともに説明せず、対話もしていない。ということである(ほかにもいろいろ問題はあるが、私にとって一番の問題がこれだということ)。

だからこそ言いたい。インフラックスのやることだからといって、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に否定していては対話そのものができない、と。子ども食堂への寄付そのものは「地域貢献」として認めなくては、インフラックスとしても地域への譲歩ができない。「偽善」が否定されたら、「善」に行かずに「悪」に行くかもしれない。同じお金なら、評価されない偽善に使うよりは、住民の買収(や恫喝)に使った方がいいからだ。

私としては、インフラックスと対話するために、常に是々非々の姿勢で臨んでいきたい。インフラックスを全否定していたら対話ができない。対話がなければ譲歩もなく、事業の変更もない。結局、向こうの思惑通りに進むだけだと思う。だから素直に、今回の子ども食堂への寄付は一定の評価をするべきだと考える。とはいえ、だからといってたったこれだけのことでは事業に賛成するほどにはならない。だが今後インフラックスが住民と協働して地域貢献事業を幅広く実施していく、というなら、やはり斟酌せざるを得ないだろう。

こういうことを書くと、「インフラックスの肩を持つ気か!」と反対派の人からは怒られるかもしれない。しかしちょっと待ってほしい。全ての市民活動が陥りやすい罠がそこにある。それは、賛成か、反対かという白黒式で市民を二分してしまう危険性である。しかし世の中の多くの人はグレーである。グレーであることを敵視したら、世の中の多くの人を敵にすることになる。多くの市民活動が「過激な少数派の市民がやっていること」として社会の賛同を得られず瓦解していった歴史を想起すべきだ。

私も、吹上浜沖洋上風力発電事業の反対派の一人である。計画を中止に追い込むだけでなく、インフラックスを、できれば「ぎゃふん」と言わせたいと思っている。でも反対運動は市民を賛成派と反対派に二分するものであってはならないと思うし、インフラックスと対話していくために、自らも対話的であらねばならないと思う。「話の分かる人間」になる危険性はあるが(=丸め込まれる危険性はあるが)、私は「話の通じない人間」にはなりたくないのである。

2022年8月21日日曜日

今や最大の交通弱者は高校生。行きたい高校に通学手段がなく行けないのは大問題

この画像は、今年の2月に南日本新聞で報じられた、鹿児島県の公立高校の出願状況である。

【参考】
公立高校入試 最終倍率0.82倍 定員割れ63校126学科の2913人 鹿児島県(2月25日)|南日本新聞
https://373news.com/_news/storyid/152098/

ご存じの通り、鹿児島の公立高校は定員割れが深刻である。しかも県の方にはそれを改善しようというそぶりさえない。市町村では児童生徒が少なくなった小中学校は割とあっさり閉校・統合されてしまうが、県立高校の場合は定員割れが続いていてもほとんど放置されている。

なぜ県はこの惨状を放置しているのか、それはともかくとして、今年は長女が中学校に上がり、鹿児島の高校のこの状況も他人事ではなくなってきた。

というのは、県の中でも鹿児島市中心部の高校は定員割れまではいっておらず、地方の方が定員割れが激しいからである。うちは南薩のそのまた僻地に住んでいるので、この影響を大きく受ける。

南薩学区には、そもそも普通科を置いている高校は4つしかない。加世田、川辺、頴娃、指宿の各高校である。その普通科の定員と出願者数・倍率は下のようになっている(なお定員は学力検査定員。つまり推薦入試の応募枠を除く)。

高校    定員  出願者数 倍率
加世田高校 115人  94人  0.82倍
川辺高校   80人        68人  0.85倍
頴娃高校   40人   7人  0.18倍
指宿高校  120人  86人  0.72倍

これを見ればわかる通り、特に頴娃高校の普通科の定員割れは激しく、7人だと高校の「学級」としては成立しない水準になっている。このような激しい定員割れの状態では適正な教育が提供できないと思う。ここまでなくても、定員割れをしている学校では、学力的に多少不足していても合格を出さざるを得ないし、 学校の施設設備の維持にも支障が出てくることは想像に難くない。

「そんなこと言っても子供の数が減ってるんだからしょうがないだろう」と思う人もいるだろう。それはその通りである。しかし、高校全てが定員割れに喘いでいるのかというとそうではない。

例えば、加世田高校の近くにある私立の鳳凰高校は、私立なのでそもそも倍率の情報はないが定員割れという話は聞かない。それどころか最近の鳳凰高校は徐々に大きくなっているような気すらする。子供の数は少なくなっているのになぜ鳳凰高校は成長しているのか。

それにはいろいろな理由があるだろうが、寮とスクールバスの存在だけでもかなり説明できる。

というのは、僻地に住んでいると高校に通学するということ自体が一つのハードルだからである。例えば、うち(大浦町)から公共の交通機関を使って登校できる公立高校は一つもない。原付で通うか、親が毎日送り迎えする以外に通えないのである。しかも原付免許は満16歳以上から取得可なので、高校入学当初から使える人は少なく、例えば12月が誕生日の人は1年生の2学期までは親が送り迎えしなくてならないということになる。

こうなると、親の仕事の都合がいいか(高校の近くに職場があるなど)、よほど時間に自由がきかない限りは公立高校普通科に通わせることはできない。さらに兄弟姉妹が別々の学校に通う場合には、かなり自由がきく親でも毎日の送迎は不可能だと思う。

もちろん、これは今に始まった話ではなく、大浦町の高校生は昔から通学には苦労してきた。だが平成16年(2008)までは町内に笠沙高校があり、さらにその前にはもう少しバスの本数が多かったため、かつては高校を選ばなければ自力通学できる状態だったようだ。ところが、最近は路線バスは激減どころか路線自体が廃止されるくらいで、登校の役には立たなくなった(下校は加世田―大浦間はバスが使えるが…)。

加世田高校とか川辺高校のような、(一応)地元での名門校が定員割れしているのはこのせいが大きい。最近の公共交通の衰退によって、高校も元倒れしているというわけなのだ。

そんな状況を逆手にとって、鳳凰高校のような高校はどんどん入学者希望者を増やしている。鳳凰高校には約600名分の寮があり、スクールバスはなんと16路線で運行している。驚くのはそのカバー範囲の広さで、川内以南の薩摩半島全域に及んでいる。もはや鳳凰高校は南薩だけでなく薩摩半島西部の中核的な役割を担う高校といっても過言ではない。どうしても通学手段がない生徒は鳳凰高校に頼るしかないのだ。

他に大浦までスクールバスを運行している高校といえば、鹿児島情報高校(谷山)がある。情報高校は、バス路線は南薩を中心とした9本と少ないが、溝辺線があるのが注目される。溝辺のあたりも高校の通学が困りそうな場所である。

もっとすごいのが鹿児島城西高校(伊集院)。城西高校のスクールバスは17路線を運航し、薩摩半島全域をカバーする。先ほどの溝辺に加え、鶴田とか東郷のような僻地にもバスを通しているのはお見事という他ない。

そんなわけで、薩摩半島の僻地に住んでいる高校生にとっては、学校の偏差値がどうだとか、教育内容がどうだとかいうよりも、もはや「通学手段があるかどうか」だけで鳳凰・情報・城西の私立3高校に絞られてしまう、という現実がある。

ところで、そもそも南薩には普通科を置く公立高校は4つしかないし、人口減少によって子どもの数も少なくなっている。そんな中、ただでさえ少ない地域の高校生がわざわざ地区外の高校に通っているのはもったいない、と思うのは私だけではないだろう。地域の高校に通わせてあげた方がずっとよいのである。

だからこそ言いたい。鹿児島の公立高校は、スクールバスを出しなさい! と。

鳳凰高校のような私立高校が、通学に困る生徒の受け皿になっていること自体がおかしいと私は思う。高校に行きたいと思う人は誰でも通えるようにする責任が、県にはある。「高校に通いたいなら親が送り迎えすれば? 僻地に住んでるのはあなたの勝手でしょ?」というのは公教育の提供として間違った姿勢だ。

路線バスは減ったり廃止され、コミュニティバスは高齢者のためのものとして運行されていて通学には使えない。だから今、高校生が一番の交通弱者になっている。スクールバスを出すことが県の責務だと私は思う。

ここで、ちょっと詳しい人はツッコミを入れるかもしれない。「全寮制の楠隼(なんしゅん)高校は、公立普通科だけど激しく定員割れしてるじゃないか。交通の問題なら楠隼高校が定員割れするのはおかしいのでは?」と。

楠隼高校は、中高一貫の男子校で全寮制進学校という、公立高校としてはかなり変わった学校であるが、実は先ほどのデータでは39名の定員に対して出願者が1名しかなく(!)、なんと倍率は0.03倍というほぼ廃校寸前の数字である(ただし楠隼高校は内部進学があるのでクラスが1人というわけではない)。

確かに交通の面だけを考えれば全寮制は魅力的だが、楠隼高校は高校生(や保護者)の需要に応えて作られたものではなく、完全に政治主導で周回遅れの(2周遅れくらいの)教育思想によって作られたものであるから当然だ。通っている学生がこれを読んだらかわいそうだとは思うが、現実は数字が語っている。

同じ寮生活でも、鳳凰高校と楠隼高校では意味が全然違う。前者があくまで通学に困難を抱えた僻地の生徒の助けとなるものであり、実際に離島からも多くの生徒が鳳凰高校に入学するのと比べ、後者の場合はそうした生徒の希望に沿って作られたものではないからだ。寮もスクールバスも、あくまで生徒の需要に応じて作るべきものだ。これまでの鹿児島県の高校の教育行政は、どうもこの「生徒の需要」というものが軽視されてきたような気がして仕方がない。

鹿児島県には、楠隼高校のような高校を新設するのではなく、むしろ定員の回復が見込めない高校は閉校にして地域の中核となる高校を残し、その高校にスクールバスを運行するという当たり前の政策を実施していただきたい。定員割れ自体はそれほどの問題ではないとしても、行きたい高校に通学の問題で行けないのは大問題である。

娘が高校に上がるまであと2年半。それまでにどうぞスクールバスの運行をお願いします。

※当然ながら普通科以外でも定員割れは深刻だが、普通科以外(工業高校系など)は学区がないなど少し状況が異なるので、本稿では単純化のために普通科のみの議論とした。

2022年8月1日月曜日

Amazonの本の価格がむちゃくちゃになる4つの理由

もう、さんざん言われていることだろうが、私も実感したので書いておく。

「Amazonの本の販売は、価格がむちゃくちゃになってる」

——6月10日、私の書いた本『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が法蔵館より出版された。価格は1,700円+税。つまり1,870円である。

↓Amazonページ
https://amzn.to/3Q0wIio

私は、自分の本なので、出版前の予約段階から本書のAmazonページをほとんど毎日チェックしてきた。そこから見えてきたのは、Amazonマーケットプレイスの本の販売は、良心が崩壊したものだということだ。

ご存じの通り、Amazonマーケットプレイス(いろいろな業者がAmazonの仕組みを利用して販売する方式)では、「新品」「中古品」「コレクター商品」という3つのカテゴリがある。まずは「新品」がこうなっている。


一番上はAmazon公式の出品。これは定価1,870円で、しかも送料無料。これが通常のAmazonの販売方式である。しかし次からは販売価格こそ1,870円であるが、送料が600円もかかる。その次の業者も送料が712円。ちなみに書籍を送る場合、郵便局のスマートレターが全国一律180円。少し大きいサイズまで送れるクリックポストでも185円である。少しでも送料を安くしようと工夫している出品者が多い中、この送料の設定は、実際よりずいぶん高い送料によって利鞘を稼いでいるとしか考えられない。

しかしこの時点で新品の本書を販売しているのは23業者もあって、これらは一番安い方なのだ。では一番高いのはどうかというと、こんな風になっている。

 

最高価格は、なんと定価の3倍以上の5,790円。Amazonはもちろん一般書店でも定価で本書が売られている中で、どうして定価の3倍もの価格をつけたのか。

それよりさらにおかしいのが「中古品」。そもそも、まだ新品すら市場に出回っていない中で中古品が売られていること自体が奇妙だ。記録を取っていないが、Amazon公式が販売してから3日後くらいには「中古品」が売られるようになった。「中古品」であるということ自体が嘘八百である。

その価格は、新品の2倍以上である4,675円が最安値となっている。そもそも新品が1,870円で売っているというのに、どうして中古品がその2倍以上の価格になるのか、全く意味不明である。なお中古品は11業者が出品しており、その最高価格は4,675円+送料257円=4,932円である。

さらに、本日(2022年7月31日)、ついに「コレクター商品」の出品が登場した。それがこちら。3,740円だそうである(新刊価格のちょうど2倍)。


ちなみにAmazonのガイドラインでは、「コレクター商品」で出品するには、「サイン入り、絶版などの付加価値が必要です。どのような点にコレクター商品として特別な価値があるのか詳しい説明を提供してください」となっている。そして、本商品の商品説明を見ると「絶版・廃盤・希少品等の理由により、コレクター出品させていただいております。」とある。

しかし、もちろん、この説明は虚偽であり、ガイドラインに違反している。 

さて、Amazon公式(や一般書店)が本を定価販売している中で、多くの出品者が売れそうにもないほどの高い価格で、しかも「中古品」とか「コレクター商品」と偽って販売しているのはなぜなのだろうか。

その答えは、次の4点に集約できる。

第1に、最初からAmazon公式の売り切れ、絶版後を狙って販売していること。
第2に、日本では本の再販制度があり、新刊本は定価販売を義務づけられていること。
第3に、Amazonマーケットプレイスにおける業者の値段の付け方がかなり自動化されていること。
第4に、書店の経営が厳しく、新刊本の販売では利益がでなくなっていること、である。

第1の「最初から絶版後狙い」については、そもそもAmazon公式には絶対に敵わないと諦めている、ということだ。それはやむを得ないと思う。Amazonマーケットプレイスで新刊本を販売することを考えてみると、まず本の仕入れ価格は、条件によって様々であるが大体売価の70〜80%である。つまり1,870円の本の場合、粗利は400円くらいということになる。これからAmazonへ払う手数料が売価の15%(=280円)送料無料にすると利益はないか赤字だ。

であれば、Amazon公式が販売している間は売れなくてもよいので、公式が売り切れになってから売ろうという戦略は間違っていない。先ほどの業者が絶版・廃盤・希少品等の理由により…」と書いていたのは、まだ絶版ではないがすぐに絶版になるだろうとの見込の下、先回りして書いていたのである。これは嘘をついているのでよくないが、絶版後に適正価格で売るのは何の問題もない。

しかし問題は、Amazonが書籍販売においてあまりに大きな存在感があるため、消費者は「Amazonが売り切れだったら絶版に違いない」と思ってしまうし、「Amazonで定価の2倍だったら、それが相場なのだろう」と思ってしまうということである。そしてその価格で買ってしまうのである。

その極端な例を一つ挙げよう。

山田風太郎の作品に『魔群の通過—天狗党叙事詩』という作品がある。この作品は、Kindle版は販売されているが、文庫・単行本は絶版中のようである。それでも稀覯本というわけではないので、中古品がだいたい500円で販売されている。高くても1,000円くらいである。ところがAmazonマーケットプレイスでは、これを15,690円で売っている猛者がいるのだ(この価格を付けている「KWZネットワーク」はいろんな商品でボッタクリ価格を付けている業者)。

もし仮に、安値(といっても結構高い値もあるが)で販売されている他の業者の『魔群の通過』が全部売れてしまったらどうなるか。Amazonで検索した人が見るのは「15,690円」の商品だけであり、これがボッタクリ価格であることがわからず、「そっかー、この本は貴重な本だから高騰しているのか!」と思ってしまうに違いない。『魔群の通過』の場合は、出品が10業者ほどしかないからその可能性もゼロではないのである。そういう時、どうしても『魔群の通過』が欲しい人は、いくら高くても買ってしまう。それが本の虫のサガである。

第2の「再販制度」については、よく知られていることだろう。本は出版社に返品できるという条件で書店に納品される。返品可能な代わり、定価販売を義務づけられている。これが「再販制度」である。だから本当は、新刊本(や雑誌)は原則的には定価販売をしなくてはならない。

そのため、新刊本を「中古品」と偽って高値販売しようとする業者が現れるのである。ただし、再販制度は独占禁止法の適用除外によって規定されている。つまり出版社と小売店での取り決めに過ぎないので、新品を定価より高く売っていても、業界の取り決めには違反しているが、違法ではない。

第3の「自動値付け」については、より根深い問題を孕んでいる。Amazonマーケットプレイス登場以前は、古書店の重要な仕事は、本に値段をつけることだった。今目の前にある本をいくらで売るか、それは古書店主の「目利き」を必要とした。だから簡単に古書店主になることはできず、長い修行を要したのである。というのも、普通の人は、目の前にある本が100万円する稀覯本なのか、 10万円の貴重な本なのか、1万円の高価な本なのか、1000円の普通の本なのか、それとも100円のクズ本なのか、全くわからないのである。

ところがAmazonマーケットプレイスで多くの古書が売られるようになると、Amazonの相場を見れば大体わかる、ということになってしまった。とりあえず目の前の本を検索して、それが1,500円だったら、1,500円と値段を付けておく、というような値付けが可能になった。いつしかそれは自動化されて、本のバーコードを読み取るだけでネット販売での「適正価格」が自動で設定されるようになった。こうして、本の内容を一切知ることなく古書店を経営することができるようになったのである。

しかしこの方式が広まったことによって、本の内容はおろか、需要と供給のバランスすらも無視したやり方で本の価格が決まるようになってしまった。

例えば拙著『明治維新と神代三陵』の場合、先ほど「4,675円が最安値」と書いたが、実は出品している全11業者が同じ価格をつけている(ただし送料が違うので実質の価格はやや異なる)。これは確実に、誰かが最初に入力した「4,675円」を自動的に追随したことによって生じた価格なのだ。 4,675円で本書を買った人はまだ一人もいないのに!

4,675円が「適正価格」(=需要と釣り合った現実的な価格)であるか明証されないうちに、Amazonの画面の中では、本書の中古品は4,675円が「適正価格」であるかのようになってしまった、ということだ。これがとんでもない見当違いであることは誰でもわかるだろう。

昔ながらの、店主がその「見識」で値付けしていた古本屋ではこういうことはなかった。店主が本の内容を見て、「これは3,000円の価値があるだろう」とか「これは3,000円で売れる本だ」と思うからその価格を付けていた。もちろん、神保町のような古本屋が集積している場所では、隣の古書店の価格は気にしていたに違いない。しかし隣の古本屋で3,000円だからといって同じ価格を設定するようなことは、基本的になかったと思う(そもそもいちいち価格を調べることが現実的でなかった)。そしてその3,000円という価格は、古本屋としての長い経験に裏打ちされたものであるだけに、需要と供給のバランスを見据えたものになっていたはずである。

今は、古書店から「見識」が失われ、自動値付け機能によって本の価格がすっかりおかしなことになってしまった。それは本の価格が「投機化した」と言えるかもしれない。

第4の「書店の経営が厳しい」は、今さらいうまでもないことだ。もともと、書店は新刊本の売り上げだけでは利益がなく、雑誌によって利益を出していた。しかし最近わざわざ雑誌を買わなくてもインターネットでいくらでも情報が手に入る(という錯覚がある)ため、雑誌の売上が急激に落ちてきた。そこでこれまでどおりの経営では立ちゆかなくなっているのである。

結果、リアル書店は減少の一途を辿っている。そうして、身近に本屋がないという町が日本にたくさん生まれている。 そうした町にいる読書家は、いきおいAmazonに頼らざるを得ないのである。よって、リアル書店へアクセスしづらい人にとってはAmazonの相場を受け入れる他ない。

また書店にとっても、従来通りのやり方では立ちゆかないのがわかりきっている以上、思い切ってAmazonで高値をつけるアコギな商売をしているのかも知れない。ただし、私の観測している範囲では、リアル書店でこのような良心を欠いたやり方をやっているところはないと思う。むしろリアル書店が衰退したその空隙に、非良心的な業者が湧いているような気がする。

また、1,000円で売られている本に15,690円を付けるような、本物のボッタクリ業者は割合としては僅かだが、自動値付けによって「15,690円」を追随してしまう業者は多く見受けられる。こういう業者は、単に自動値付けのやり方が「最高価格に合わす」という方法であるためで全く悪意はないのだが、結果的にはボッタクリに荷担しているのだ。

そしてそのような見識なき追随が横行した結果、いつしか「15,690円」の方が適正価格とみなされて、一気に値段が10倍になってしまうことはAmazonではよく観測される。例えば、圭室文雄という人が書いた『神仏分離』という新書は、Amazonでつい1年前まで1,500円で売られていたのに、今では最低価格が

 

結局、出版社の経営的体力がないから、初版2,000部の本を自転車操業的に出版し続けなければならないラットレースが起こるのだ。初版2万部の本を長く売っていった方がいいのは出版社の人もわかってはいるが、自転車操業をする以外に今のところ資金繰りをする術(すべ)がないのである。

これを消費者の側から改善する手段は一つしかない。本を買うことだ。

初版2,000部の本がパッと売り切れれば、重版もかけられる。重版も売り切れれば出版社の手元に利益が残る。そうすれば、在庫を抱えるのも怖くなくなる。今まで初版2,000部だった本を4,000部刷れる。簡単に絶版にならなければ、Amazonマーケットプレイスで非良心的業者が活躍することもない。そうすれば本をボッタクリ価格で買わざるを得ない状況もなくなり、結果的に消費者のお財布にも優しいのである。ちなみに「中古品」がいくら売れても出版社にも著者にも一円もお金は入らないのだから、絶版にならないことは、消費者・出版社・著者にとって「三方よし」なのだ。

というわけで、新刊本を買って下さい(拙著でなくていいので(笑))。長くなったが、これが私からのメッセージである。

※なおやむを得ず古本を買う場合は、「日本の古本屋」で買うのがよい。これは組合に加入しているちゃんとした古本屋が出品しているので、Amazonのようなむちゃくちゃな値付けは基本的にない。