2012年4月3日火曜日

茶生産量全国2位の鹿児島で、抹茶がほとんど生産されない理由

全国的にはあまり認識されていないが、鹿児島県は、静岡県に続く全国第2位のお茶の産地である。認知度がいまいちのは、鹿児島の茶業は緑茶の原料である荒茶の生産がメインで、消費者が直接目にする製品をあまり生み出していないからと思われる。

さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?

それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。

その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。

第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。

第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。

島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。

どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。

しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。

キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。

ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。

歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。

2 件のコメント:

  1. 茶の湯とキリスト教の関係を調べていてこちらに辿りつきました。日新斎の歌とても興味深いです。ご紹介に感謝です。

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  2. 茶の湯とキリスト教ですか。大変興味深い組み合わせですね。ちょっと関係があるとは思わなかった組み合わせでしたので、びっくりしました。お役に立てたのであれば嬉しいです。茶の湯とキリスト教の関係について何かわかりましたらご教示頂けますと幸いです。

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