2012年5月16日水曜日

正しい下草刈りの仕方とは?

背の低い雑草はあえて残す下草刈り
5月だが、南薩の気候はすでに夏めいており、雑草の元気がよい。

というわけで、ポンカン園の下草刈りをしているのだが、よくわからないのは「正しい下草刈りの仕方」である。

周りの方が家の周囲や田んぼの畦を刈っているやり方を見ると、地際まできれいに刈り揃えていることが多く、これはこれで工芸的美しさがあってよいが、果樹園の林床の場合はこのようなやり方が適切なのかどうか。

というのも、果樹園の理想の林床は、全く雑草がない状態ではなくて、背の低い雑草で覆われている状態だからだ。林床に下草が全くないと土壌が流出しやすく、また土中の水分が蒸発しやすくなってしまう(平地で灌水設備があるなら関係ないが)。さらに、雑草が生えていた方が土壌中の微生物も多く、土が肥沃になるという。

とすれば、背の高い雑草は除去すべきだが、背の低い雑草はむしろ大切な存在なので、実は刈るべきではないのではないか、という気がするのである。

そんなわけで、背の低い雑草で覆われた部分はあまり刈らないようにしているのだが、このような下草払いを続けていれば、理論的には、背の低い雑草で林床の多くが覆われ、背の高い雑草があまり生えてこないという状態になる。そうなれば、下草払いの手間も減るので一石二鳥となるはずだが、本当にそんなにうまくいくかどうか…。

なお、このように果樹園の林床にあえて草を生やす農法のことを「草生栽培」という。最近では、あえて素性のよい雑草の種を播くということも広まっており、例えばミカン園ではナギナタガヤという植物の草生栽培が愛媛などで行われている。

そういう植物の栽培も含め、どうしたら下草払いの手間が省けて、さらにポンカンにもよいのか、私なりにいろいろ試してみたい。

2012年5月14日月曜日

副業的自伐林業のススメ

生活に身近な山を活かす一つの方策として、「自伐林業」がある。

今の林業では、山主は森林組合などに委託して伐採、集材などを行うのが普通だが、以前は自分の山は自分で管理するというのが基本だった。林業は儲からないといわれるが、山主自身は何もせず、全ての作業を組合に委託して山林から利益を出すのが困難なのは自明である。逆に、山主自身が造林、伐採、集材を行えば、今でも林業は決して儲からない産業ではない

しかし一方で、林業には危険が伴うとともに心理的・制度的な参入障壁も高く、いわゆる「素人山主」は山林管理に手を出せない状況が続いていた。本書『バイオマス材収入から始める副業的自伐林業』は、「自伐林業こそ日本の山を救う!」としてその普及を推進している中嶋健造氏が土佐の森での自らの取組を紹介しつつ、自伐林業参入のためのヒントを与える本である。

その主張は次のように要約されるだろう。
  1. 機械化・大規模化の林業は、その維持に高収益が必要なため、儲かる山しか施業されない。そのため放置山林など適切な管理がされていなかった地域の山がさらに放置される。
  2. しかし小規模山主や地域の人々が、高性能機械を使わないシンプルな方法で林業をすれば儲かるのであり、事実、自伐林家の収入は総じて高い。さらに地域の山も整備できて一石二鳥である。
  3. 自伐林業には、地域ぐるみでバイオマス材(薪やペレットにする)の出荷から始めると運搬や伐木の面で新規参入しやすい。チェーンソーと軽トラがあれば誰でも林業はできる
  4. バイオマス材で林業に親しみを持った人のうち、いくらかは本格的・専門的な林業へと進む人も出るし、工夫次第で地域の活性化にも繋がるのである。
私自身、地域の放置山林から利益を生みたいと考えているので、このような主張には大いに頷くところなのだが、問題は主張3である。確かに、シンプルな方法で林業をすれば損益分岐点が大幅に引き下げられることは事実だが、バイオマス材の出荷のみで利益を生むのは至難と思う。

事実、紹介されている土佐の森の取組でも、市場価格3000円/t のC材(バイオマス材になる粗悪な木材)をNPO法人が6000円/t で買うという工夫(差額は寄附などで負担される)が成功の大きな要因だったように思われる。

よって、副業として自伐林業に個人で取り組みたいと思った時、やはり「バイオマス材から始める」のは無理があるような気がする(地域ぐるみで取り組むなら可能だろうが)。軽トラで3000円/tの木材を市場まで運ぶのは、どう考えても割に合わないからだ。やはりある程度の市場価値がある材を出荷する方が、個人でやるなら合理的だと思う。

ちなみに、狭いながらもスギが90本ほど育っているうちの山を伐採すれば、原木市場では単純計算で20万円程度の価値がある。この施業を森林組合に委託すれば経費の方が高くつくが、自伐林業すれば10万円弱の利益が出るかもしれない。

いずれにせよ、儲けが出るかどうかは細かいやり方次第なので、森林組合にもよく話を聞いて施業方法を考えたいと思う。そして、自分の山で利益が出せれば、地域の他の山でも応用できないか考えてみたい。本書に紹介された取組を見ていても、結局「いろいろ工夫してみんなで協力すれば、どんな事業でも儲かるんだ」という当たり前のことを教えている気がするのである。

【参考】
木の駅プロジェクト
土佐の森での取組を全国で応用可能なものにしていく社会実験。鹿児島でも「木の駅」が早く作られるといいと思う。

2012年5月13日日曜日

「畑の学校〜ゆうき教室〜」始まる

南さつま市が有機農業の普及のために行う農業体験講座「畑の学校〜ゆうき教室〜」が始まった。私はこれに、ボランティアスタッフとして関わっている。

ことの発端は、ひょんなことから鹿児島県有機農業協会の大和田専務理事と知り合いになったことである。南さつま市はこの講座の実施を同協会に委託しており、大和田さんとの縁でボランティアをやることになったのだ。といっても私自身が素人なので、ボランティア活動を通じて有機農業について学んでいきたいと思う。

ちなみに、本日の活動は、参加者毎に区切られた畑において
  1. 苦土石灰と鶏糞由来の有機肥料を施用
  2. 2本の畝を作り、ピーマン、ナス、ミニトマトを植え付け
  3. 別の畝にかぼちゃ(ぼっちゃんかぼちゃ)を植え付け
というものだった。その第一印象は、「意外に普通の農法と変わらないな」というものだ。有機農業というと、まず種苗の選択から慣行農法(農薬や化学肥料を使う普通の農法)とは違うという印象があったので、いささか拍子抜けした次第である。ただ、今回の講座は準備期間がなかったことで、開始時点では慣行農法との差を付けられなかったということはあると思う。

ともあれ、種苗の選択にセンシティブにならなくてよいということは、野菜を健全に生育させることに自信があるということでもあるだろう。有機農業というと、まず病害虫に強い作物を育てるという先入観があったが、病害虫駆除の技術があれば、意外と脆弱な野菜でも育てられるのかも知れない。今後の授業内容に期待である。

【補足】(5/16アップデート)
植え付けられた作物の品種は以下の通り。
ピーマン:京波
ナス:黒陽、白長ナス
ミニトマト:千果

2012年5月9日水曜日

Yesterday Today and Tomorrow という花

庭のバンマツリが満開である。

このあたりの庭には、よくバンマツリが植えられている。温暖な気候でよく育つこの花木は、丈夫で生長が旺盛、そして香りがよいことから、明治期に南米から導入されて以来、人々に愛されてきた。

バンマツリとは「蕃茉莉」で、外国のジャスミンの謂いであり、実際、ジャスミンの花以上にジャスミンっぽい匂いがするが、両種は全くの無関係である。

ところで、バンマツリの花はスミレ色で咲き、しばらくすると藤色となり、最後には白い花となる。この色合いの変化が楽しめるのもバンマツリの魅力である。この色が移ろっていく性質から、英語名は「Yesterday Today and Tomorrow」という。

昨日と今日と明日で花の色が違う、そういうことでこのような詩的な名前がついたのだろうが、ネーミングセンスとしては、生硬な感じが否めない。一部には、もっと親しみやすい名前にした方がいいという議論もあるようだ。

ちなみに、バンマツリには毒(サポニン、アルカロイド等)があり、服用すれば幻覚を催すという。この性質を利用し、バンマツリの仲間は南米ではシャーマンにより古くから薬として使われてきた。そして現代でも樹皮をパウダー状にしたものが煎じ薬として売られている。これはリューマチに効くということだが、幻覚性があるのなら、これをよからぬ目的に使う人もいるような気がする(当然ながら、日本では薬品として認められていないので服用しないように…)。

2012年5月8日火曜日

墓石の変転から伝統と革新を考える

私事ながら、5月8日は祖父の命日ということで、墓(石)について思うところを書いてみたい。

写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。

しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。

祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。

元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。

しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。

こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。

すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。

第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。

第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。

第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。

第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。

第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。

こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。

墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。

人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。

【参考】
お墓の歴史」(金光泰観墓相研究所)
お墓の歴史を縄文時代から概説している。

2012年5月3日木曜日

驚異的に幼児に優しい店、「ドライブイン大浦」

アラ炊定食
南さつま市大浦町にある「ドライブイン大浦」は、当地の数少ない飲食店の一つである。

骨まで柔らかく煮込まれた甘辛い「アラ炊」で有名で、近隣の漁港(片浦漁港)で獲れた新鮮な魚料理が堪能できる、庶民派だが本場感溢れるところだ。ちなみに、私事ながら店主は父の同級生である。

さて、この店、こういう田舎の食堂にはめずらしく、驚異的に幼児に優しい。なんと、ベビーランチというメニューが、3歳未満限定でタダなのである(なお、ランチ限定ではなく、夕食時でもオーダーできる)。

このベビーランチ、タダではあるが、かなり充実している。ふりかけご飯、エビ天、白身魚の天ぷら、野菜天、タコさんウィンナー、サラダ、ミカン(オレンジ?)半分、ゼリー、そしてうまい棒…少なくとも350円くらいはする内容で、事実これが350円でも躊躇なく注文すると思う。

最初に行ったとき、タダでこんなメニューが出てきたのでとてもびっくりしてしまった。いつも子供(2歳)の食事のことで困っているのでこういうサービスはとても有り難い。なお、この店は子供全般に優しいということではなくて、(都会にあるような)おむつ替えシートがあるとか、絵本が置いてあるとかそういうことはない。それどころか、お子様ランチもない(ただ、「お子様海鮮丼」! はあるようだ。注文したことはないが…)。それなのに、3歳児未満へのこの奉仕精神は一体なんなのだろう。

どうしてこのようなサービスを始めたのか、いつか店主に伺ってみたいと思う。

新鮮な魚介料理、特に名物のアラ炊を堪能するにはもちろん、3歳未満の子供と一緒なら、なおさら行って損はない店である。なお、店の名前は「ドライブイン」だが、普通の飲食店なので(車に乗ったまま利用できる施設ではないので)ご注意を。

2012年5月2日水曜日

鹿児島はクズの生産量日本一ですが、南薩ではどうなんでしょう?

数十年ほったらかしになっていた自家林を、何かに生かしたいと考えているが、蔓植物の勢いが凄く、随所に絡まっているので木の伐倒が大変だ。

特にクズ(葛)は凄い。この写真のクズは樹齢20年以上(※)だと思うが、絡まるというより、飛翔するといった方がいいくらいで、自由闊達に樹冠へと伸びている。

西日本では、荒蕪地にはすぐにクズがはびこり、雑草としては最もやっかいな部類に属するが、これはかつて救荒植物(飢饉の際に食料となる植物)だった。クズのつるを切ってしばらくすると半透明のデンプン質がじわっと浮いてくるのがわかるが、クズの中(根)には大量の良質なデンプンが蓄えられているのである。クズから採れるデンプン(葛粉)は、各種デンプンの中でも最高級といわれており、葛粉の原料としてクズは今でも重要な植物である。特に鹿児島ではそうだといえよう。

というのも、あまり認識されることはないが、実は鹿児島は日本一のクズの産地なのである。葛粉というと奈良の吉野葛が有名だが、その原料はほとんどが鹿児島産のクズだ。吉野葛というのは、クズを吉野の水で晒して作られた葛粉のことをいうらしい。

なお、くず餅とか葛切りとか葛粉を使った食べ物は多いが、100%クズを原料とした純粋な葛粉が使われているものはほとんどない(サツマイモ由来のデンプンやコーンスターチを混ぜるのが普通)。かつて飢饉の際に食べられたというクズ(葛粉)は、今や立派な高級食材である。

クズは葛根湯など漢方に使われるだけあって健康食品で、消化がいいだけでなく、食感が繊細・滑らかで透明感があり、純粋な葛粉で作ったくず餅を食べたら二度と忘れられなくなるほど美味らしい。もちろん、そのような葛粉を作るためには非常な手間がかかる。

まず、そういった高級品となるクズは限られていて、30年以上のもので、よく光合成し、根に大量のデンプンを溜めていなくてはならない。30年もののクズの根ともなると、人間の太腿くらいの太さはあるわけで、それを掘り出すだけでも大変な労力だ。また、クズのアクを抜いてデンプン質だけを取り出す作業(水で晒し、沈殿させることを繰り返す)も単純なだけに効率化できないし、その上最上級の葛粉を作るためには2ヶ月〜1年も乾燥させなければならないらしい。葛粉が高級食材になるのも頷ける。

ところで、鹿児島は日本一のクズの産地ではあるが、実は生産は大隅地方に偏っていて、この南薩ではクズ掘りについての話は聞かない。大隅ではクズの掘り子の高齢化などの問題にも直面していると聞くが、「葛スイーツ」の開発など新しい展開も見られる。また近年の健康志向の高まりで、クズに対する再評価の気運もある。葛粉は高級食材であるだけに大きな需要増は見込めないが、今後も安定した取引が予測される。

となれば、この自家林にある葛もなんとか生かせないか、と考えるのが人情だろう。木の伐倒をする上では邪魔者だが、それ自体は高級食材(の原料)なのでただ切り払ってしまうのはもったいない。問題は、鹿児島では大隅地方が生産拠点のため、出荷するためにはフェリーに乗って大隅側まで出向かなければならないということである。それを考えるとおそらく利益が出ない気がして少し萎えるが、なんとか生かす道筋を考えてみたい。何しろ、私もくず餅など葛粉で作ったお菓子が大好きなのである。


※ クズはマメ科の多年草で、木ではないので「樹齢」という言い方は厳密に言えば間違いである。見た目は木のようで、実際やや木質化しているが、切ってみると木とは違うことが分かる。それにしても、50年も生きる草というのはそれだけで凄い。

【蛇足】
個人的には、クズは山伏が全国に広めたものという伝説も気になるところである。最初から全国に自生していたようにも思うが…。また、どうして鹿児島での生産が盛んになったのかいずれ調べてみたい。