2012年9月6日木曜日

有機農業の是非を検証する

新規就農するというと、いろいろな人から「やっぱり野菜は有機栽培で作りたいよね」というようなことを言われる。私も、高付加価値商品を作る観点から有機農業に惹かれる部分はあるが、一方で、無批判に「有機農業はよい」というイメージだけが先行しているようにも感じている。

極端な話だが、有機農業というと「有機栽培の野菜を食べてアトピーが治った!」とか「元気で明るくなった!」とか宗教まがいの喧伝がされることも多い。実際、有機農業と宗教との関係は近く、養鶏を中心とした有機農業を発展させて人の生き方まで規定するに至った山岸巳代蔵は、農事組合法人でありながら宗教組織である「幸福会ヤマギシ会」を作ったし、酵素肥料なる(今ではインチキと考えられているが)ボカシ肥の元祖みたいなものを作った柴田欣志は祈祷師だった。有機農業による穀菜食を提唱している食品会社の三育フーズは、セブンズデー・アドベンチスト教団という米国のキリスト教系信仰宗教の一部門が運営している。こうした話を聞くたび、「有機農業は、科学的に考えて実際どうなのだろう?」という疑問が湧く。

そこで、少しマニアックな話になるが、有機農業の是非について考えてみたい。

まず、有機農法とは何か、ということを正確に定義しておこう。普通、有機農業とは「化学肥料と農薬を使わない農業」と思われているがこれは物事の一面でしかない。化学肥料や農薬を使わないというのは、手段であって目的ではないからだ。IFOAM(有機農業運動国際連盟)という団体が有機農業の詳細な定義を作っているが、それをまとめると有機農業の目的は「農業生態系と農村の物質循環を重視し、地力を維持・増進させて生産力を長期的に維持し、外部への環境負荷を防止して自然と調和しながら、十分な量の食料を生産し、農業者の満足感と所得を保障すること」である(※)。

要するに、有機農業の主要目的は、環境負荷を低減しつつ経済的にも自立可能な「持続可能な農業」をすることであり、こうした目的の下に行われる農業が有機農業なのだ。これは、近年喧しい「安心安全な農産物の生産」や「作物本来の美味しさ」などは全く関係がない。

この目的を達成するため、有機農業では農業生態系(圃場とその近辺)の外からの資材投入は出来るだけ少ない方がよいとされており、化学肥料のように外国で精製された物質はもちろん、堆肥であっても外部の畜産農家から仕入れるのではなく自家生産することが奨励されている。すなわち、物質循環をできるだけ農業生態系内で完結させることが求められているのである。

この理念を厳密に実行するのは日本では難しく、有畜農業が普通のヨーロッパにおいてすら簡単ではない。

また環境負荷を低減するため、化学農薬を基本的に使用しないのであるが、これは私には疑問だ。例えば、除草剤を使用しないために、有機農業ではマルチングの使用が必須となるが、なぜ石油合成製品であるビニールマルチはよくて、除草剤はダメなのか。また、2週間で自然分解される除草剤を使って草を枯らすのと、数時間ガソリンを使って草払いするのとどちらが環境負荷が軽いと言えるのか。そのほか、害虫の防除にも農薬が使えないことから天敵となる昆虫を大量に放すなどするが、これも一種の生態系の攪乱である。どのような手段が最も環境負荷が小さいかは科学的検証によって判明することであって、頭ごなしに「農薬はダメ」というのは科学的態度ではない。

なお重要なことだが、農薬を使用しないのは、決して「安全安心」のためではなくて環境負荷を低減し、農業生態系の中で物質循環させるためである。日本だけでなく世界で「有機農業による生産物は安全・安心だ」という思い込みがあるが、これは間違いとは言えないまでも正確ではない。

というのは、「有機農産物=安全・安心」は「慣行農業農産物=危険・不安」の裏返しなのだが、野放図に農薬を使っていた数十年前はともかく、現行の農薬規制は非常に厳しく作ってあり、普通の農産物が危険・不安というのは科学的態度ではない。農薬規制は「その農産物を一生食べ続けても影響がない」レベルになるよう調整されており、有機農産物をことさら「安全・安心」と喧伝することは、暗に慣行農業の農産物への危険を煽る不誠実な行為と言える。ただし、農薬に未知のリスク(長期使用による蓄積や複合的な影響)がある可能性はゼロではないのは事実だ。

といっても、農薬を使っていないから安全・安心というのは安直な考えで、農薬による防除を行わずに虫食いや病害などが起こったとすれば、植物はこれに対抗するために自ら毒性物質を生産するといった手段を講じる。これによって植物体の中に植物毒が蓄えられることもあり、農薬を使わない=毒性物質がない、ではない。

少し話が脱線するが、俗に言われる「農薬を使わず自然に育てた野菜が美味しい」とか自然農法に代表される「植物のありのままの力を活かすと美味しくなる」といった言説は、私には自然への冒瀆とすら感じる。「自然=美味しい」という図式がどうして成立したのかわからないが、自然の植物の多くは虫害・鳥害・病害などからその身を守るために植物毒を持っており、その毒性はしばしば極めて強力である。自然は荒々しいものであり、人間が気軽に利用できるような簡便なものではない。多くの栽培植物も、その起源においては毒性があったり利用しにくい性質を持っていたりしたが、少しでも美味しい株、利用しやすい株を増やすという数千年にわたる品種改良の結果、今の作物が生まれているわけで、「自然=美味しい」などという認識は、自然をなめきったものであると同時に、人類の農耕史をも貶める見方であると思う。

でも、「事実、有機農業の野菜は美味しいじゃないか!」という反論があるかもしれない。確かにこれは事実と思う。しかしそれは因果関係に飛躍がある。先ほどの目的からすると、有機農業を真面目に実施しようと思えば、大規模生産が難しいことは自明だ。そこで、有機生産農家は高付加価値商品の少量生産を行わざるを得ない。そのため、適切な施肥設計、作付計画、高品位な種苗の選択といったことが行われた結果、美味しい作物が収穫できるのであって、有機農業だから美味しいわけではない。当然、慣行農法の農家であってもそのような適切な管理を行う農家はいて、そういう農家が生産した作物は、有機農法による作物と同じように美味しいだろう。

つまり、「有機農業だから安全・安心で美味しい」は幻想に過ぎない。慣行農業においても安全・安心で美味しい農産物は得られる。ということは、有機農業の農産物を(通常の農産物より高い価格で)購入する消費者は、何に対してお金を払っているのだろうか? なんとなくよいもの、なんとなく高級なもの、というイメージにお金を払っているのだろうか?

ここでもう一度有機農業の目的を見直してみるとこの答えは明白だ。有機農業というのは、要は環境に配慮した農業なのだから、消費者は環境の保全のためにお金を払っているのである。しかし有機農業の農産物を買って割高なお金を払うのは一部の人である一方、環境が保全されてその利益を享受するのは共同体全員だ。そのため、ヨーロッパ各国では環境保全の意味合いから有機農業を行う農家に補助金を出している。有機農業は消費者のニーズに応えるために行うものではないから、政府がその費用の一部を支出しているのである。

そもそも有機農業がヨーロッパで広まった背景には、1980年代の食料の過剰生産がある。この頃、ヨーロッパでは農業の機械化・集約化によって生産力が高まって食料が余り、また農薬・肥料の過剰投入によって環境が汚染された。これを受け、日本風に言えば減反政策が実施されるのだが、その中の一つが有機農業の振興だったのである。つまり、大規模農業の代わりに少量生産の有機農業を広めることにより、減反と環境保全を両方達成しようとしたのであった。補助金がなければやっていけない農業は真の意味で「持続可能な農業」ではない、という批判もあるが、私はこの政策は合理的であったと思う。

翻って日本を見ると、減反と環境保全という有機農業の理念が正確に理解されているとは言い難い。日本においては食料生産レベルをさらに上げることが課題であり、農地の集約化・機械化による大規模化は長年の懸案だ。有機農業の振興は、ただでさえ小規模分散・手作業の多い日本農業を立ち遅らせることにならないか。また、有機農業の目的が環境保全にあることを理解している消費者も少なく、「安全・安心」のような漠然としたイメージに踊らされている面がある。本来なら、環境に配慮した農業という理念に共鳴し、環境保全のために高いお金を払うという認識になるのが正しいあり方だと思う。

しかも、有機農業は日本とは気候も環境も農業文化も違うヨーロッパから輸入された概念・手法になってしまっており、本当にIFOAMが定める「有機農業」が日本に合っているのかは一考を要する。有畜農業が基本になっているだけでも、畜産農家と作物農家が分かれている日本には相容れないものがあるし、作物体系も違う。日本での「持続可能な農業」は一体どんなものなのか、その解は出ておらず、真面目に検討されているとも言い難い。日本ならではの「有機農業」を形作っていく必要があると思う。

こうして有機農業の特質を検討してみた結果をまとめると次のようになる。
  • 環境保全、持続可能な農業という有機農業の理念はよい。
  • しかし、現行の化学肥料・農薬不使用というのは科学的なのかどうか不明。
  • 消費者に有機農業の意味が正確に理解されておらずイメージだけが先行している。
  • そもそもヨーロッパ基準の「有機農業」が日本に合致しているか不明。

結論としては、「有機農業は理念はよいが現行の手法が最適なのかは一考の余地があり、日本ならではのやり方を確立すべき」、つまり「今の有機農業はいろいろな意味で未熟」ということになると思う。

しかし、未熟であるからこそ将来性もあるだろうし、化学肥料や燃料、化学合成の資材をふんだんに使える環境になったのは、つい最近のことに過ぎず、これが将来どうなるかは不透明だ。大量生産・大量消費の文明がどこまで続くかわからないが、これを支えている条件が崩れれば、人類はこうした便利な資材を使う農業を続けて行くことはできない。そうでなくても、近い将来にリン酸肥料の枯渇が予見されるなど、人口増に対応した肥料増産が今後可能かどうかわからない。人口増と新興国の生活レベルの向上によって食料生産が逼迫してきた時、今までのような農業を日本が続けていけるのか心もとない。

そうなった時の答えが有機農業なのかはよくわからないけれども、農業が変わって行かざるを得ないのは間違いない。その意味で有機農業の一つの利点は、「慣行農業に対して疑問を抱く」というスタンスにもある。主流派の動向を懐疑的に見る勢力が私は好きだ。いろいろ批判的なことを書いたけれども、自分なりに有機農業をやってみたいとは思っている。

※ 『有機栽培の基礎知識』1997年、西尾 道徳 より引用。

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