2012年9月15日土曜日

西欧近代農学小史

化学肥料も農薬も、トラクターもなかった頃の農業はどんなだっただろう? そして、現代農学の原型となっている西欧近代農学の成立はどんなだったのだろう? という興味から、『西欧古典農学の研究』(岩片 磯雄 著)という本を読んだ(※1)。

その内容はかなりマニアックだが、他では得られない情報をたくさん含んでいたので、備忘も兼ねて、ポイントをまとめてみたい。

さて、本書の対象となるのは18世紀初めから19世紀半ばのイギリスとドイツの農学であるが、その頃の農業先進国はなんといってもオランダであった。オランダでは既に低地の干拓を大規模に行っており、当時の新作物であったクローバーを導入した集約的な農業が行われていた。しかし海運の商業的成功による富のおかげで穀物は輸入に頼っており、農業がより集約性の高い畜産(チーズ作りなど)にシフトしていく趨勢もあった。そうした中で新興の農業国として勇躍するのがイギリスである。

イギリスの農民的地主であったジェスロ・タル(Jethro Tull)は、病気の治療のため訪れたヨーロッパ大陸において先進的農業を見、その経験に基づいて一連の農機を発明するとともに、イギリスで農業の新体系を構築した。タルの新農法の普及によってイギリスは農業生産性の飛躍的向上、つまり「農業革命」を成し遂げ、それによる人口増は産業革命の一因となったともいう。タルはしばしば「農業の発展に最も大きな影響を与えた人物」「近代農業の父」と言われる。

タルの新農法のポイントは、作付体系から休閑をなくしたことと、条播中耕、そしてそのための機械化である。

その頃のヨーロッパでは中世以来の三圃制が行われていた。三圃制とは、圃場を3つに分け冬穀物−夏穀物−休閑のローテーションで耕作を行う体系であるが、これだと耕地の1/3は耕作をしないということで効率が悪い。そこで、この休閑をなくせないか? というのが西欧農学の発展の一つの軸になっていく。

では休閑をなぜ行うのだろうか? 歴史の教科書などには、「休耕地に放牧することで家畜の糞尿が肥料となり土地の力を回復させる」などと書いているが、これは正確ではない。元々の休閑とは、地力の回復ももちろんだが、同時に除草のためのものであった。当然除草剤などない時代なので、雑草は凄いことになっていたと思われる。しかも、当時は条播ではなく、散播(つまり畑に種をばらまく)であったため、人力による除草もしていなかったらしい。

となると、数年耕作すると雑草だらけになってしまいほとんど何も収穫できなくなってしまう。これを防ぐのが休閑の重要な目的なのだった。では休閑によってどのように除草するかというと、まず畑を放っておく。すると土中にある雑草の種が発芽し、やがて雑草が繁茂する。そこで乾燥した日などに草を刈ったり、棃耕(馬に棃を引かせて耕す)したりすると、雑草が枯れる。だが土中にはまだ発芽していない雑草の種があるので、また畑を放置し、雑草を敢えて生やしてから絶やし、棃耕する。これを何度か繰り返すとだんだん土中に含まれる雑草の種は減っていくわけだ。少なくとも4回、理想的には7回ほどこうしたことを繰り返すことで、雑草の種が含まれない清浄な畑になるらしいが、こうして穀作に備えたのが本来の休閑である。

つまり、本来の休閑とは何もしないのではなく、数次にわたる棃耕が必要な重労働なのだった。これをなんとかなくせないかと考えるのは当然だ。しかも、やがて人口増等によって家畜飼料等が足りなくなり、休閑地への放牧等が始まっていく。そうなると、当然棃耕も十分に行われなくなり、雑草の種が完全に排除されなくなる。この変容した休閑では本来の目的が達成できないので、その意味でも三圃制の変革が求められていたのだった。

これへのタルの解決策は、条播と中耕である。条播とは、線状に一定間隔で種を播くことで、中耕とは種を播いてからその周りを耕すことである。中世以来の散播を辞め、条播にしたことで播種後も圃場に入れるようにして中耕することで除草し、また(タルの理屈では)土を耕すことで地力を回復させた。またタルは休閑をなくすだけでなく、カブなどの根菜類やクローバーなどを導入し、冬穀物−カブ−夏穀物−クローバーというような休閑のない輪栽農法を確立させた。さらにこの農法のための畜力条播機中耕機を発明し、農業全体を新しいものにつくりあげた。

またこの際、タルは植物の生理、栄養、土壌などの理論を反省して、いろいろな実験や観察を行い、総合的理論の上にこの農法を確立したのだが、それは「近代農学の父」と呼ぶにふさわしい。何より、数百年間無批判に行われてきた在来農法である三圃制を打ち破ったことは、タルの不朽の功績と言える。

タルはこれらを『新農法論』としてまとめ公刊するが、所詮は農民である彼の発案はそのままでは世の中に広まらなかった。その流布のきっかけとなったのがアーサー・ヤング(Arthur Young)による紹介である。ヤングはいわゆるジャーナリストだったが、農園を買って農業もやっていた。だが彼自身は農業では成功せず、3度も農園を変えて破産状態だったという。しかし農業に関する著作が売れたことで農学史に名を残すことになる。

彼はタルの農法を無批判に紹介したわけではなく、例えば条播や中耕の意義は認めなかったし、さらに一連の機械化に関しても批判的だった。ヤングとしては、昔ながらの散播なら種まき後は農民は何もやることがなく暇なのに、条播・中耕作業は大変だということ、さらに複雑な機械である条播機、中耕機の維持管理は無学な農民には不可能だ、というような考えだったようだ。にもかかわらず、ヤングは大規模経営の優越を説いているなど矛盾した部分があり、彼の言説は個人的にはあまり賛同できない部分が多いが、タルを始めとしたイギリス農民の叡智を体系化し、ヨーロッパ大陸に紹介・導入の契機となった功績は大きい。

そのヤングの著作を通して学び、近代的農業を確立したのがドイツのアルブレヒト・テーア(Albrecht Thaer)だ。医者だったテーアはイギリスの新農法に学び、それを科学的観点から批判検証し、単なる農法のみならず、いかにして農業経営において最高の収益を生み出せるかを考察した。その結果まとめられたのが大著『合理的農業の原理』(全4巻(※2))だ。

特にテーアの業績として重要なのが地力の源泉を土中の有機物に求めたことで、実はこれがタルとの決定的違いになる。タルは地力は耕すことによって増すと考え、休閑・放牧によって家畜糞尿を投入しなくても中耕によって地力は維持しうると考えたのだが、テーアは畑に有機物を投入することが重要であると説いた。これは、後にリービッヒにより窒素・リン酸・カリの肥料の3要素説で一応否定されることになるが、むしろ現代に至って有機物の重要性が再認識されており、ここに近代的な土壌学が開始されたと言える。

これ以外にも、テーアは近代農業を成立させるための様々な前提について考察した。例えば、土地の私有権、賦役労働の禁止、生産物販売の流通、農業経営のための固定資本と流動資本、農業経営への簿記の導入などだ。テーアの考察は非常に現代的であり、約200年前の著作であるにもかかわらず、現代においてもその意義は色褪せていない。「農業と工業の間には本質的に区別されるべきなんらの相違もない」といった彼の言葉は色褪せないどころか、現代においても十分に過激である。またテーアはプロシアの農政改革に参与し、ドイツの農業を封建的農業から資本主義的農業への転換を成し遂げた立役者でもある。

なお、これまで触れていなかったが、タルから続く西欧の農業の革命の背景には、地主−小作人という封建的関係の解消と近代資本主義の成立がある。ちょうどタルの頃、封建領主による閉鎖的かつ分散的な農業社会が解体し、囲い込みなどによって農地が集約化され、共同地が解消されて私有地に分割されるといった社会の激変があった。また、次第に土地所有と経営の分離が起こり、農業の目的が地代収入ではなく、収益の最大化へと変化していく。それに伴って、かつての農書は地主が小作人管理のために読むものだったが、次第に耕作者本人が読むものへと変化していく。地主に隷属した小作人から、独立した農業経営者が出現、同時に封建的地主からは資本家が出現するのである。それが、タルから続く農学の発展の原動力ともなっている。

最後に、テーアに対する論理的批判者として現れるのがヨハン・ハインリヒ・チューネン(Johann Heinrich von Thünen)である。彼は経済学者・地理学者であったが、自ら農園を経営し、詳細な経営記録をつけた結果、テーアの理論と相違が出てくる部分があったのでそれを理論化するとともに経済学的分析を行い、『孤立国』という本にまとめて公刊した。その批判点や主張はあまりに学問的なのでここでは触れないが、これにより農業が経済学に組み込まれて分析されることになった功績は大きい。

化学肥料・農薬の登場前夜であるこの時代の農学史を通して思うのは、これらの農業改革において病害虫の被害への対応の観点がほぼ全くと言っていいほどないことだ。アイルランドのジャガイモ飢饉は1845年からで彼らの活躍した時代より少しだけ後になるが、それまでも作物の大規模な病害虫被害はあったのだと思う。ただ、それに対処する方法がなかったから彼らは考察のしようがなかったのかもしれない。

20世紀に入って、化学肥料と農薬の開発、そしてトラクター等の燃料機械の開発で農業は抜本的に変わっていく。それまでは病害虫の忌避は基本的に輪作体系によって行われていたらしいが、土壌燻蒸剤の開発によって連作が可能になり、肥料の大量投入と除草剤の使用によって休閑も必要なくなった。しかし、農学の基礎は19世紀に確立しており、それを学ぶことは現代的な意義もある。別に取り立てて化学肥料や農薬を敵視するわけではないが、それ以前の農業の基本がこの時代の農学にはあるように思う。

こうなってくると俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。だが一書一書を読むような好事家ではないので、何かいい参考資料を探したいと思っている。


※1 Amazonで検索すると古本で1万円以上する高価な本。近所の図書館の廃棄処分に出ていたのをタダでもらってきた。
※2 日本語版だと3冊になっているが、原著は4巻本。

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