南さつま市の加世田麓に、一見蕎麦屋風の「志耕庵」がある。これは実は、蕎麦屋ではなくて加世田鍛冶の工房なのだ。先日ふと入ってお話を伺ったら、その成り立ちが奮っている。
発端は10年ほど前、市役所を定年退職した鮫島健志氏が、加世田鍛冶最後の職人と呼ばれた阿久根丈夫氏に弟子入りをお願いしたこと。加世田鍛冶は約400年前から続く伝統工芸であるが、大量生産品に押され年々職人が減り続け、遂に阿久根氏一人となって伝統の断絶が目前となっていたのであった。伝統が失われてはならないという危機感を抱いた鮫島氏は、自分がそれを引き継ごうとしたのである。
しかし、阿久根氏は最初それを拒絶したという。事務仕事をしていた人間に鍛冶が務まるとは思えないし、定年後の人間に教えてもものになるかわからない、と。それでも鮫島氏は諦めず、阿久根氏の元へ日参し、それに根負けした阿久根氏は「それじゃあ、まず作業場を作れ」と指示、それで出来たのが志耕庵だということだ。
今では、鮫島氏だけでなく加世田鍛冶の伝統を絶やすまいという思いを持った人が阿久根氏に弟子入りし、志耕庵では「鹿児島県指定伝統的工芸品」の証が冠された商品を作るまでになっている。というわけで、家内が小ぶりの包丁(2300円)を早速購入した。
ところで、加世田鍛冶というのは名君 島津日新斎忠良が奨励したといわれ、貧乏武士が多かった加世田周辺で郷士の副業として導入されたものだった。特に家督を継ぐことができない武士の次男三男は農民と変わらない暮らしを余儀なくされたことから、技術職として多くの武士がこれに取り組み、武士の3割が従事していたという記録もある。
加世田鍛冶の特徴は、荒々と鍛え上げられた丈夫な構造で、正直見た目はよくなく優美さはないが、実用的で男性的な魅力がある。ただし、刃物は加世田鍛冶の中心ではなく、明治以前は「加世田釘」と呼ばれた角釘が中心的商材だったようだ。薩摩藩では大工は武士の職業とされていたため、同じ武士への原料供給として釘の製造が盛んになったのかもしれない。
南薩地域は海岸の砂丘などで砂鉄がよく採れたため、かつてタタラ製鉄が盛んで知覧がその中心だったらしいが、頴娃方面で採られた砂鉄を花渡川(けどがわ)に沿って運搬、久木野・上津貫方面で製鉄が行われ、それによって加世田鍛冶が成り立っていたらしい。しかし今では、それを物語るのは、加世田に残る鉄山という地名くらいしかない。
製鉄や鍛冶というものは、現代の工業的生産の方が圧倒的に効率がよく、多少使いやすいとか切れ味がよいとかいっても、伝統的工芸品が競争していくのは困難だ。特に加世田鍛冶のように、高級品ではない日用の鉄器を作る鍛冶業ではそうである。かつて貧乏武士が糊口を凌ぐために行った加世田鍛冶であるが、若い人が経済的に自立する手段としてはその役割を終えたといえよう。
しかし志耕庵では、鮫島氏の他にも定年後に鍛冶業に取り組んだ方もいて、これは新しい伝統工芸の継承の姿かもしれないという気もする。「定年後の趣味」と言えるような甘いものではないと思うが、約400年の伝統を受け継ぐ仕事というのは、厳しい修行やつらい作業を乗り越えるだけの魅力もあるのだと思う。
「ちょっとの間だけでも、加世田鍛冶の伝統を絶やさないようにすることができればと思ってます」と工房の方はおっしゃったが、定年後に活動する「ちょっとの間」が連綿と繋がっていけば、その伝統は消えないのかもしれない。
【参考資料】
『鹿児島の工芸』 1982年、飯野 正毅
『加世田市史』 1968年、加世田市史編さん委員会
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