2012年4月19日木曜日

薩摩藩林政小史:財政再建で注目された山林

私は、農山村が生活に身近な山をどう生かすか、ということに強い興味があって南さつま市へ移住してきた。まずは少々ある自家林から利益を生み出すことを考えたいが、それだけでなく地域の山も視野に入れて将来を考えてみたいと思っている(もちろん全国の山も)。

山は数十年単位で形作られるが、現代の山林の基礎が形成されたのは藩政時代なので、勉強のために、少し薩摩藩の林政の歴史を繙いてみよう。

薩摩藩の林政の特色は、農地支配と同じく、全ての土地は藩主のものという原則のもと、極めて厳しい統制が行われたことである。共力山(きょうりょくやま)という農民共有林はあったが、基本的に私有林は認められていなかった。

また、土地の管理者如何に関わらず、御用木は勝手に伐採することも禁じられていた。御用木とは、松・楠・檜・柏・桐・杉・槿・欅・槇・椨・銀杏・栂・櫟など建築資材として有用な木が広範囲に及んで指定されていた。 なお、ウルシ・ハゼ・クワ・カキ・ナシ・ウメ・ミカン類など、果樹や商品作物は郡方が支配しており、これも禁伐木であった。要は、価値のある木は山林全般にわたり自由に伐ることはできなかったということになる。

このほかに、薩摩藩の林政のポイントとして5つ挙げられるので時代を追って述べる。

第1に、人別差杉(にんべつさしすぎ)の制度である。人別差杉とは、士民全員に1人杉5本の植栽を課した制度である(後に本数は増えた)。薩摩藩は杉の造林に力を入れていた。杉の造林というと、とかく戦後の大量植林が日本の山をダメにした犯人のように言われるのであるが、杉は藩政時代から重要な植樹種だった。ただし、場所によってはハゼ、漆、チヤなども植えたという。

第2に、家老・島津久通(ひさみち)の植林政策である。久通は江戸初期に、杉の植林、コウゾの植林と製紙業の勧奨、茶栽培の勧奨など、その後数百年続く薩摩藩の山林活用の基本を形作った政策を実施している。なお、人別差杉は久通の始めたものという伝説もある。

第3に、江戸中期(貞観・元禄の頃)、家老・禰寝清雄(ねじめ きよかつ)が農民にハゼの栽培、実の収穫を課したことである。ハゼの実からは木蝋が作られ、藩には莫大な収入があったという。これは藩の財政再建を目的に一時的なものとして企画されたらしいが、財政再建後もこの政策は継続されたため、農民にとってハゼはその管理・収穫に多大な負荷が掛かりとても憎らしい存在だった。そのため明治維新後、ハゼ栽培の義務がなくなると農民の多くがハゼを切り倒してしまい、現在の鹿児島県ではハゼ産業はあまり残っていない。ちなみに、ハゼは元々日本には存在しない木で、中国南部から取り寄せたものであり、薩摩藩のハゼの栽培は全国でも一番早い開始だったのである。

第4に、江戸末期に藩の財政再建に取り組んだ調所広郷(ずしょ ひろさと)の林政改革である。茶坊主出身の異色の家老・調所広郷は、借金まみれで財政破綻寸前だった薩摩藩の財政を、事実上の借金棒引きや清との密貿易、砂糖の専売などで立て直すが、その一貫で林政改革も行っている。広郷は、伐木の密売が多かったことから取り締まりを厳重にし、また杉数万本を姶良海岸各所に植えるなど山林育成に力をいれた。とはいえ、これが財政再建に与えた効果のほどは定かではない。

第5に、幕末の藩主・島津斉彬の樹木研究がある。斉彬は新種の優良な樹木を普及しようと考え、蝦夷からカラマツを取り寄せ数万本を、また備前岡山から杜松の苗木数千本を取り寄せて植え付けた。その他、ロシアの大黄、アフリカの丁字、インドのゴム樹、オリーブ、センナ等もオランダや中国、琉球から取り寄せたらしい。しかし、明治維新の混乱により、斉彬の樹木研究は目立った成果は上げられなかった。

明治維新を迎えると、島津氏は広大な山林を購入し植林を行い、金山(鉱業)とともに島津興業の重要な事業の柱として林業に携わっていく。現在でも、島津興業林業部は鹿児島の重要な林業事業体である。

こうして見てみると、薩摩藩は財政再建の際に山林を活用しようとしてきたことが窺われて興味深い。温暖な気候、多雨といった鹿児島県の風土は森林の形成には向いているし、江戸時代には農林水産業以外には目立った産業はなかったわけで、輸送インフラが未発達だったことを考えると(食料品などは輸送できないので)自然と林業が注目されるという理屈は分からなくはない。しかし、財政再建といった喫緊の課題を前にして、造林のような利益を生むのに何十年も必要な事業を始めているのを見ると、藩政時代にはなんと遠大な目的をもって政策を立案したのだろうと思うのである。

現代は、とかく山林は管理が大変だとか利益が出ないとか言われるのであるが、産業構造などが変わっているにしろ、こうして見ると藩政時代の政策にも学ぶべき点があると思うし、また、遺されてきた山林をうまく生かす道筋も見えてくるのではないかと感じる次第である。


【参考文献】
『鹿児島県林業史』1993年、鹿児島県林業史編さん協議会
薩摩半島の櫨」(『自然と文化 72号』より)2003年、日本ナショナルトラスト

2012年4月17日火曜日

現代の(機械化された)田植えは、重労働ではありません。

田植えの時期である。先輩農家の手伝いで田植え作業の日々が続いている。

大浦町は早期米の生産地なので、一般的な田植えの時期(5月〜6月)に比べると1ヶ月以上早いが、これでも近くの金峰町に比べれば遅い田植えである。金峰町では、「超早場米」といって7月には出荷する水稲生産をしており、これは実は本土では一番早いお米らしい。

さて古来、田植えは収穫と並んで重要な稲作の中心行事であり、非常に重労働なこともあって、一種のお祭りであった。田植えはあまりに重労働だったので、お祭りにしなくてはやってられなかったのだと思う。

ところが、水稲は農業の中でも最も機械化されている作物の一つで、正直、現代の田植えは、体力的にはそんなに大変ではない。田植え自体は機械がするわけで、人がやることは機械操作や苗の補給くらいしかやることはない。むしろ、機械のメンテナンスや調整、(機械がスムーズに田植えできるように水田を整地する)代掻きといった、事前準備の方が大変である(もっと遡れば、播種=箱苗づくりはかなり大変である)。

田植えは時間的拘束が長いし、単調な作業が続くし、泥を触るので手が荒れるといったことはあるけれども、それ自体は重労働とは言えなくなった。機械での作業をするためのお膳立てのような昔とは違った面で大変さはあるが、現代の田植えは少数の人員でこなすことが出来るし、普段の農作業と大きな差はなく、かつてのように農耕儀礼を必要とするような特別な作業ではなくなってきている。

それは、効率化・省力化されたということだから耕作者にとってはいいことだが、重労働と結びついた文化が失われてしまったという面では、少し寂しい面もある。特に、昔田植えの時に歌われていた作業歌である「田植え歌」というのがなくなってしまったことは、一つの音楽文化の喪失であり、私には残念だ。

2012年4月16日月曜日

筍は、初物を食べるに限る。

筍の旬が終わりにさしかかっている。今、竹林には筍が至るところからにょきにょき出てくる。しかし、この時期の筍は、残念ながらそれほど美味しくない。

日本の市場は、初物信仰が根強い。野菜でも果物でも、初物(つまり旬の最初に出荷されたもの)は高い。需要と供給の関係から、ほとんど流通量がない旬の最初には高額になるのは理屈としてはわかるが、時としてそれは非合理的な値付けにも思える。出荷日が2〜3日違うだけで値段が大きく違う場合もあり、これは生産者としてのみならず消費者としてもよくわからない奇習である。

しかも、多くの野菜では、初物はあまり美味しくない。市場では、少しでも早い出荷が高額取引に繋がることから、生産者としては植物や土壌に多少無理をさせてでも、1日でも早い収穫を目指すのは当然である。そのため、初物よりも若干遅い野菜の方が、実は優れていることが多い。なのに、その値段は半額になったりするのだから、市場価格というのは当てにならない。

しかしながら、筍だけは、高くともぜひ初物を食べるべきだ、と思う。筍の初物は、明らかに旬の終わりのそれよりも遙かに優れている。

なぜなら、旬の終わりの筍は、深い根についた筍であって地上に出るのが遅れたものであることが多いからだ。よってその筍は、収穫時には既にかなりのサイズに生長しており、蓄えられた栄養分がその生長に消費されてしまっているために、栄養面でも味の面でも初物に劣るのである。

ちなみに、筍は旬の終わりにたくさん出てくるものなので、供給が過剰になって価格が大きく下落し、品質の低下以上に筍は安くなる。これは、消費者としてはリーズナブルに買えるということなので、初物を食べるべきだとはいっても、敢えてこのような安い筍を買うというのも一案ではある。

この「旬の終わりにたくさん出てくる」という筍の性質は、生産者側としては困った性質である。品質の劣ったものが、同時に大量に出てくるので、出荷するコストの方が利益よりも大きいような状態である。ほぼ毎日筍を掘っている身としては、もう、「美味しくない筍は出てこないで欲しい」という気持ちである。

ただ、美味しくないといっても初物に比べての話なので、依然としてスーパーで売っている水煮よりは遙かに美味しい筍が採れるし、全部が全部劣った筍ではないので、放っておくのはもったいない。このあたりは、欲の深い人間の業であろう。

ところで、筍の初物、というのはいつの時期の筍なのか、という別の問題もある。鹿児島では「早掘り筍」といって、土中に埋まっている筍を掘り出して出荷しており、これが全国一早い筍なのだ。早いものだと、なんと11月くらいに掘られるものがあるのだが、やはり、これはこれで無理をしている初物だと思う。このご時世、本当の旬を見極めるのは結構難しい。

2012年4月14日土曜日

鹿児島とクスノキの深い関係

昨日、「千本楠」について書いたのだが、クスノキと鹿児島には深い縁がある。日本一の巨樹「蒲生の大クス」を始めとして、鹿児島にはクスの巨木が多いということもあるけれども、縁はそれだけではない。

それは、クスノキの葉や枝から取れる樟脳が、かつて鹿児島の特産品だったということだ。江戸初期から大正期にかけて、薩摩藩・鹿児島県は日本一の樟脳の輸出元だった。18世紀初頭では、日本が輸出する樟脳のほぼ全量が薩摩藩製で、樟脳はヨーロッパでは医薬品(カンフル剤)として利用されていたが、これが「サツマカンフル」と呼ばれ珍重されたとのことだ。なんと、当時ヨーロッパで使用されていた樟脳の大部分が薩摩藩製であったという記録もあるらしい。

樟脳貿易でもたらされる利益は、77万石とは言っても実際はその半分ほどしか石高がなかった薩摩藩の貴重な収入源であり、明治維新直前に積極的な対外政策を実行できたのは、樟脳のおかげと考える人もいる。

つまり、クスノキには樟脳利権があったと思われるわけで、事実、薩摩藩ではその1本1本が厳格に管理されていた。これが、神木ならずともクスノキの巨木が鹿児島に多く残されている理由なのかもしれない。

しかし、かつて鹿児島を賑わわせた樟脳生産は、昭和初期には台湾などの安い外国産のものに押されたこと、さらに類似の化学合成品に取って代わられたことなどの理由で、急激に衰退していく。ちなみに、台湾にあったクスノキのプランテーションは(当時台湾を植民地としていた)日本政府が経営していたものだったことは、明治維新を主導した鹿児島としてはちょっとした皮肉である。

それでも、鹿児島の樟脳製造は、細々ながら昭和の終わりあたりまで続いたらしい。鹿児島には各地に樟脳製造のためのクスノキの山があり、またその製造工場があった。そのため、今でも「樟脳山」(川辺、金峰)とか「樟脳木屋」(加世田)、「楠木原(くすのきばる)」(知覧)といったクスノキや樟脳に関する地名が南薩にもかなり残っている。

今では、クスノキの巨樹というと、(トトロに出てくるように)田舎の郷愁を感じさせるものだが、かつては鹿児島の歴史を動かした存在だったことは、もっと記憶されてもよいと思う。

【参考文献】
南九州の地名」青屋昌興、2008年

2012年4月13日金曜日

非常に珍しいクスの巨木群「千本楠」

鹿児島県日置市吹上町に「千本楠」というクスノキの巨樹群落がある。

クスノキは南方由来の外来種で、多くが人為的に植えられたらしいこともあり、群落は珍しいが、この千本楠はさらに非常な奇観を呈している。それは、クスノキが横へ横へと伸びていることだ。当地の案内板では「二十数株の大楠があたかも竜が寝ているかのように連なり…」と形容するが、そこに立つとまさしくそんな感じがする。

ただし、「千本楠」という名称は大げさで、楠が千本もあるわけではない。引用によって明らかなように実際には二十数株しかないのであるが、この群落形成の過程が非常に変わっている。それが、クスが横へ横へと伸びた理由でもあるのだが、実は、これら二十数株は元は一本の巨大なクスノキだったらしいのだ。

明治のある夜、根回り18m、樹冠は50a(!)に及んだという巨大なクスが、風もないのに大音響とともに倒れ、付近の人々は恐れおののいたという。そのクスの支幹が根付いたのが千本楠となったと伝えられる。といっても、倒木が根付いたわけではなく、倒壊の前から接地していた支幹からすでに根が出ていたのだろう。クスの幹には巨大な空洞ができやすいので、その重さに耐えかねて倒れることや、支幹が接地するほど下垂するのは十分にありえる。

千本楠を構成するクスノキはどれも幹周10m弱なので、クスノキとしてはそんなに大きなものではない。また、クスノキは非常に樹形の個性が強い樹種なので、変わった形になっているクスノキも全国に多い。しかし、横へ横へと伸びたり、元は一本の木だったという由来があるクスノキ群は唯一無二なのではないか。

ちなみに、この千本楠は大汝牟遅(おおなむち)神社の神域にあるのだが、実はこの大汝牟遅神社、明治以前は大汝牟遅八幡神社と呼ばれていたのであり、ここでも八幡神社とクスノキがセットになっているのであった。八幡神社とクスノキの結びつきは、いつか解いてみたい謎である。

2012年4月10日火曜日

ひっそりと存在するタブノキの巨木

近所になんとなく気になる場所があった。県道のすぐそばだが、ちょっとした土手の上に何かがあるような気がしたので、ある日思い切って行ってみると、そこにはとても大きなタブノキ(椨)があった。

外からは、こんな大木が隠れていようとは思いも寄らない場所である。堂々とした巨木が突然姿を現し、すっかりびっくりしてしまった。

樹の下には石造りの社と、明和年間に建立された古い墓石群、それからさらに古そうな五輪塔があり、幽邃な雰囲気である。

私は巨木が好きでいろんな巨木を見てきたが、「ここに巨木があります!」というアピールが樹からも人間(の造作物)からもあるのが普通だ。こういう、自己主張せずひっそりと存在している巨木は、珍しい。

説明板なども何もなかったが、調べてみると、これは「原(はる)のタブノキ」といって「かごしまの名木2001」にも選ばれており、幹周8.9mはタブノキとしては日本で五指に入る。樹齢は300年という。十分に注目される価値のある樹である。

原集落の方に伺うと、「確かに立派な樹だけれど、あそこは怖いから私は行かない」とのことだった。確かに墓石はあるし、ただならぬ雰囲気もあるので、怖いから行かないという気も分かる。また、タブノキは古来神木として祀られることも多く、人を畏れさせる何かがあるのかもしれない。

それにしても、こんな立派な樹なのにもかかわらず、市や県が何の紹介もしていないのは少し残念だ。私も「なんとなく気になる」という不思議な感覚がなければ、ずっと知らずに過ごしていたかもしれない。地元の社ということで、おそらく私有地にあるためという事情もあるのだろうが、説明板の一つでも付けたらよいのにと思った。

ただ、県はこの樹に無関心というわけでもないらしく、足下には近年樹木医によって行われた治療記録の立て札がある。樹木医は秋元智雄氏。指宿で造園業を営みつつ、(女流ならぬ)男流のいけばな環境教育のインストラクターなどにも取り組んでおられる多才な方のようだ。機会があれば、この樹について語り合ってみたいものだと思った。

2012年4月9日月曜日

鹿児島でも貴重な美味しくおめでたいエビ、タカエビ

4月1日にタカエビ漁が解禁された。というわけで、近隣にある博物館併設の宿泊施設「笠沙恵比寿」でタカエビ会席を食べたのだが、このエビ、非常に美味である。

タカエビというのは、鹿児島でもあまり知られていないが、日本に数多いエビの中でも相当に美味しい部類に属すると思う。

このエビは所謂「甘エビ」であって、熱を通さなくても美しいピンク色をしており、刺身で食べることができる。食感は、甘エビよりもぷりぷりとしていて、甘味はよりさっぱりしている。

これは甘エビと同じように深海(300〜600m)に棲むエビであるが、一般に言われる甘エビ=ホッコクアカエビとは種類が違う。ホッコクアカエビは死後の自己消化の過程でアミノ酸が生じるために甘くなるらしく、捕獲後しばらく経ってからでないと甘味が感じられないのだが、タカエビは新鮮な状態でも甘いので、甘さの原因が違うのかもしれない。この違いが、ぷりぷりとした食感と甘味が両立するタカエビの優れた形質の根本にあるのだと思う。

また、タカエビと甘エビの見た目の違いとして大きいのは、タカエビは長い髭が紅白になっているということだ。髭が紅白というのは大変おめでたい姿だが、髭はデリケートなために輸送途中に取れてしまうことが多く、市場ではなかなかお目にかかれないものらしい。そもそも、タカエビは鹿児島でも東シナ海側の限られた漁港でしか獲れないもので、タカエビ自体が希少であり、あまり市場に流通していないのだが。

なお、タカエビは地方名で、正式な種名はヒゲナガエビだと解説されることが多いが、これは本当だろうか。ヒゲナガエビとタカエビには形態や味に微妙な違いがあるので、どうもこれは疑わしい。私はこれを地方の亜種であると思っているが、どうだろうか。

ちなみに、笠沙恵比寿のタカエビ会席は、前菜からご飯ものに至るまで全てタカエビづくしである。タカエビは甲殻類らしいクセがあまりなく、食感もあっさりとしているので、最後まで美味しい。だが、正直に言えば、メニューにもう少し工夫が必要かとも思った次第である。例えば、途中でエビ以外のものを一品挟むといった箸休めが必要であろう。