2013年9月3日火曜日

日本の農書の黎明と停滞

以前「西欧近代農学小史」というブログ記事を書いた時に、「俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。[…]何かいい参考資料を探したい」としていたのだが、実はこの分野には「これを知らなければモグリ」という決定的な研究書があった。それが、古島敏雄の『日本農学史 第1巻』である。

本書は、上代の農業から説き起こし、元禄期に農書が出現するに至るまでの歴史を扱う。あまり一般の方が興味を抱く内容ではないが、大変面白い本であり、また自身百姓としていろいろ考えさせられたことも多かった。そこで、例によって備忘も兼ねて、本書に即して農書の黎明を繙いてみたいと思う。

まず、農書云々以前の我が国の農業の特色として、主要作物である水稲に関しては、非常に早い時期に栽培技術が完成していたということがある。既に平安時代には苗作りから収穫に至るまで、基本的に現代と同じ耕作が行われていたらしい。集約的な管理という面で、日本は大陸や朝鮮半島の先を行っていたようであるが、どうして栽培技術が急速に完成されたのかというのは謎の一つである。

一方、もちろん大陸の方では、古代より『斉民要術』といった農書が著され、農業技術が早くから体系化されていた。これを我が国でも早くから輸入しており、ここに現れる植物が我が国のどの植物に当たるのかを明らかにして内容を理解できるよう、平安時代の辞書である『和名類聚抄』には植物の項も詳細に設けられている。

このように、我が国は進んだ農業技術を持ち、また大陸の農書を輸入しそれに目を通してもいたのだが、なぜか『斉民要術』の導入より約千年間、独自の農書を生むということがなかったのである。『日本農学史 第1巻』の前半は、この事実をどう捉えたらよいか、という問題提起であるといって差し支えないと思う。本書にはそれに対する明快な回答は準備されていないが、農書を成立させる様々な要件が整わなかったから、ということは言えるだろう。

我が国の最初の農書とされる、戦国末期〜江戸初期成立の『清良記 第7巻』の登場の背景を見て、その要件の一端を見てみよう。『清良記』は、封建領主の統治マニュアルとも呼べるもので、第7巻は農業経営の要諦を領主が老農に諮問するという形式を持って書かれている。どうしてこのような書が成立したのかというと、その背景には中世的な農業社会が解体して、近世のそれへと変遷していく社会の変化がある。

つまり、乱暴にまとめれば、荘園経営のような企業的な農業が終焉を迎え、封建領主による個々の百姓の管理という零細的な農業形態へと変遷していったことが挙げられよう。領主にとって租税の源泉たる農業の振興は重要な問題であり、「無知なる農民」「怠惰な農民」を厳しく指導し、農業の生産性を向上させる必要が大きかった。『清良記 第7巻』の要諦は、いかにして貢租を確たるものにするかという点にあり、純粋な農業技術書というより、農政の指導書と言うべきものである。

この『清良記 第7巻』によって千年の沈黙が打ち破られ、約40年後の元禄期に至って雨後の筍のように農書の出現が続く。その理由は定かではないが、基本的には社会の変化の早さに求められるのではないかと思う。そもそも農業技術というものは、親から子へ、子から孫へと世代間で伝えられるか、あるいはせいぜい近隣のやっている事を見たり聞いたりして学ぶもので、現代においてすら、書物から学ぶようなものではない。ましてや近代以前の社会ではそうである。

農業技術を書物を通して学ぶ必要があるとしたら、世代間や近隣から学ぶスピードよりももっと早い速度で社会が変化し、それに対応していかなければならない状況があったからだろう。農業技術を書物にまとめようとする動機には、口伝えによる技術の伝播ではもどかしいとする焦燥感があることは間違いない。

さて、『清良記』を含め、この時代に出現した凡百の農書はいずれも出版されたものではなく、地方的かつ散発的なもので、大きな影響力を持つことなく忘れられていったものなのであるが、元禄10年(1697年)に宮崎安貞により『農業全書』が我が国の農書としては初めて刊行されることになる。

これは、それまでの農書が多かれ少なかれ持っていた「領主から百姓への農業指導」という側面を廃し、「農民のための農書」即ち「耕作者のための農書」を自認して著されたものである。そして、体系的であると同時に体裁的にも完備し、出版以後、なんと明治期に至るまで絶大な影響力を持つことになる。一言で言えば、近代以前における我が国第一の農書であると言えよう。

その内容はと言えば、実はその頃(明代)大陸で著された徐光啓の『農政全書』に多くを負っており、少なくともその総論はほとんどこの翻訳といってもよい観がある。作物別の各論においても『農政全書』の影響は明らかで、気候風土も農業を成り立たせる基盤も違う明代の農書から多くを引き写してくるあたり、日本人の大陸信仰の悲しい現実を嘆かざるを得ないのであるが、もちろん独自の内容もある。

その最も著しいものは肥料論である。江戸時代の肥料といえば、人糞や厩肥を思い浮かべる人が多いと思うが、京阪を中心とした地域では、既に干鰯や油粕といった自給的でない金肥の使用が進んでおり、施肥が高度化していた。元来日本では精密な施肥というものが早くから意識されていて、元肥と追肥の使い分けといったものもおそらく世界で最も早く認識されていたように思われる。

そこに、元禄期に至って自給的でない購入資材による施肥が始まるのである。その遠因は城下町の成立と石高制(米本位制)にある。江戸幕府は一国一城制を定めて支配階級たる武士を城下町に居住させたが、それにより急速に都市が発達した。一方で、租税収入たる米は、もはや食料というよりもお金であり、一度大坂(大阪)に集められた米を売却して現金化し生活必需の品と交換する必要があった。このため商人が取引を仲立ちし、商人経済が活発化していくことになるのである。商業には極めて冷淡で、農本主義的な政策を実行した江戸幕府であったが、結果的には商人たちが活躍する時代が到来したのである。

財力を蓄えた商人たちは、食においても嗜好品を求めた。野菜や果物を食するのにも、各地のものを比較した上で最良のものを消費したのである。これにより、産地間の競争が促され、やがて競争に勝った産地がブランド化を成し遂げていく。例えば、「丹波の栗」のように地名を冠した食材が一般的になっていくのがこの頃である。農産物の商品化・ブランド化が進んだことで、ブランドカタログたる『本朝食鑑』が刊行されたことでも当時の事情が窺える。

こうして名産地が確立され、財力のある商人が高値で農産物を買うようになると、人糞、厩肥、刈草などといった身の回りにある自給的肥料だけでなく、干鰯、油粕といった高価な購入肥料を使うことができるようになる。もちろんそれには、各地を結ぶ海運の完備が前提となっている。全国各地から大坂に海運で米が集められることの当然の帰結として、京阪地域は海運が充実していた。そして商人経済の中心地である大坂へ農産物を卸せる立地的有利性もあって京阪地域の農業は自給的な段階を脱し、商業的なものへと進んでいった。高価な肥料を使うことから、おそらく当時としては世界最高水準の肥料論が確立されたのである。そして園芸作物の管理においてもその精密なことは著しいものがあり、ほとんど現在の水準と変わらない管理手法が採られている。

しかし『農業全書』の精華はそれ以上に発展させられることなく、多くが翻訳であることも認識されないまま、農書の王様の地位に鎮座し続けた。そしてついに西洋農学が輸入されるまで、我が国独自の科学的農学が生み出されることはなかったのである。その点について、古島敏雄は『学者の農書と百姓の農書』という悲痛な短編で述べている。

結局の所、我が国の農書には、現実を観察し、過去の権威に逆らってでもそれを理論化しようとする意志が欠けていたのである。 百姓と共にあったはずの二宮尊徳ですら、農業指導において「詩に曰く、易に曰く」と儒者らしく前置きを述べるように、世界の真理は古代の聖典が既に明らかにしており、それを理解することこそが「学者」であるとする世界観から脱することができなかった。むしろ儒学を知らない百姓こそが、精確な現実の観察に基づき、科学の萌芽とも呼べる農業実験を行い、新知識を体系化するということもないではなかったが、そういう場合においても、明の『農政全書』を始めとした権威的書物と異なった結論、あるいは書いていない事柄であるというだけで、間違っていると決めつけられ、ささやかなる新知識を発展させていく芽を摘まれてきたのであった。

農学の歴史というと、農学の徒にも、歴史学の徒にも興味を惹かれないようなニッチな分野であるが、そこにも日本の学界が抱える問題が先鋭的に現れているように思える。古代より先進的農業技術を持ちながら、また大陸の農書という先蹤もありながら、千年間の長きにわたり一冊の農書もものされず、やっと『農業全書』という体系的な農書ができたと思ってみれば多くが大陸の農書の翻訳であり、それが絶対の権威を確立してしまうというのはどうしてだろうか。『農業全書』で世界的レベルに達したはずの肥料論も、商人経済の停滞と共に以後発展することもなかったようだ。

そして、『学者の農書と百姓の農書』は戦後すぐに書かれたものだが、このような問題は現在でも全く色褪せていないように思われる。いやむしろ、絶対の権威を措定し、そこで思考停止するというパターンは、社会の停滞と共に強化されているのではないかとすら思える。最後に、同短編から古島の叫びを引用したい。
かつて見られた百姓の経験主義・実験的態度は、近代科学の同様な態度によって鼓舞されることなく消失し、改良を拒む伝統主義非能率を誇りとする勤労主義として、最も惨めな面のみを残して、近代科学研究者としての農学研究者を農業研究・現実研究から引き離していく契機となってしまった。
「百姓」を自認している私である。「絶対の権威」を気にすることなく、現実を直視していきたいと思う。

【参考文献】
『古島敏雄著作集 第5巻』1975年、古島敏雄

2013年9月1日日曜日

萬世酒造の「松鳴館」には万世の古い記憶が展示されています

吹上浜海浜公園の隣に、「松鳴館」と名付けられた萬世酒造の瀟洒な建物がある。ここには醸造の展示施設が併設されているのだが、実は絵画も展示されているらしいと聞いて見に行ってみた。

しかし、同社のWEBサイトにもほとんど情報がないこともあり、「どうせ焼酎ブームの頃に社長が趣味で買い集めた適当な絵が、脈絡なく飾ってあるんじゃないの? 瀟洒な建物は税金対策では?」などと不遜な考えで行ったのだが、これはとても真面目な展示である。

醸造の展示は今時珍しくもないが、感心したのは絵画だ。ここに展示されているのは、野崎耕二さんという方が万世の昔を描いた作品群。萬世酒造が吹上浜海浜公園の隣の旧自動車学校跡地に移転してきたのは2005年で、それまでは万世小学校の近くにあった。野崎さんは、この昔の萬世酒造の3軒となりの家に生まれたらしく、小さな頃は焼酎の量り売りを買いに行かされたという。

野崎さんは1937年生まれ。万世小学校、万世中学校を卒業し、薩南工業に進んだ。1957年に上京し、やがてイラストレータとして独立したが、1983年に筋ジストロフィーと診断されたことをきっかけに「一日一絵」を描き始め、30年近く続いている(現在も続いているのかは不明)。

この野崎さんは、現在は千葉に在住であるが、自分が小さい頃に過ごした万世を思い起こし、素朴なタッチで戦中戦後の日常生活を描いた作品を多く製作している。その作品群がこの萬世酒造に展示されているわけで、描かれているのは何気ない昔の風景に過ぎないが、逆に今では失われ忘れられたものであり、貴重な歴史の資料である。

また、絵に添えられた短文がいい味を出していて、素朴な絵をいっそう素朴な気持ちで見ることができる。万世出身のある年代以上の人がご覧になったら、きっと「ああ、こんな時代だったなあ」と懐かしがること必至である。今回はフラリと寄ったのでじっくりと見る時間がなかったが、いつか一枚一枚をちゃんと見てみたいと思う。

どうしてこういう展示施設を作ろうと思ったのかは分からないが、「万世(萬世)」の名を掲げる萬世酒造なだけに、地元の古い風景を大事にしようと思ったのだろうし、野崎さんの仕事をしっかりと残していこうという使命感のようなものを持ったのかもしれない。絵画の展示スペースは決して大きくないが、真摯さを感じる展示であった。

一方、瀟洒な建物の方は、なんだか大正ロマン風の贅沢な造りで、こちらは本当に税金対策で作られたものかもしれない。展示施設の案内の方に聞くと、「詳しい経緯は知らないが、萬世酒造は薩摩酒造の子会社なので、薩摩酒造の考えでこうした施設にしたのでは」とのことだった。言われてみると、枕崎の薩摩酒造のハデな建物(明治蔵)と相通じるものがあるような気もする。

ちなみに、この松鳴館でしか買えない焼酎があって、それは2006年秋季全国酒類コンクール本格焼酎部門総合1位を獲得した「萬世松鳴館」である。せっかくなので、私はアルコールは飲まないがこいつの原酒(アルコール度37度)を買って帰った。

ここはWEBにもパンフレット等にもその情報は少なく、なぜか萬世酒造自身があまり広報していないが、万世出身の方は何かの機会に寄ってみて損はないと思う。松籟(しょうらい)の響く地に、万世の古い記憶が静かに展示されている。

【情報】
薩摩萬世 松鳴館 
南さつま市加世田高橋1940-25

TEL: 0993(52)0648
見学/9時-16時(休館:第3日曜日、年末年始(12/30-1/2))
※見学は年中可能。ただし、焼酎製造の時期は9月中旬-12月初旬

2013年8月27日火曜日

南薩には、かぼちゃのシーズンが年に2回あります

ここのところずっと、何もかもが砂漠のように乾いていたが、昨日久しぶりの本格的な雨が降った。

この雨を期して先週秋かぼちゃの種を植えており、それがちょうど今日発芽していたので、これはまさにベストタイミングな恵みの雨だ。

例によって先輩農家Kさんの絶大なる協力を得て、今年も秋かぼちゃをやらせていただくことになり、惨憺たる有様だった昨年の秋かぼちゃのリベンジを果たそうと目論んでいるところだったので、幸先のよいスタートにひとまず安心である。

ところで、私も特に意識していなかったのだが、南薩ではかぼちゃを春と秋の2回作付するということが特徴の一つである。かぼちゃというのは、夏野菜ではあるけれどやや涼しい気候を好むので、時期を工夫すれば北海道と東北を除く日本の多くの地域で春秋2回の作付が可能であるように思うが、実際に2回作付しているところは少ないようだ(多分、鹿児島以外にはなさそうである)。

その理由はいろいろ考えられるが、第一には経営作物としてあまりうまみのないかぼちゃをわざわざ1年に2回も作る利点がないということがあるだろう。それに連作を嫌うかぼちゃを1年に2回も作っていたら、度重なる土壌消毒などで土がすぐにバカになってしまうという理由もあるかもしれない。

では、なぜ南薩では春秋2回作付するのだろう? 南九州では4月から5月にはかぼちゃが出来て初物として高値で取引されるので、春にかぼちゃが作られるのは合理的としても、どうして秋にも作付するのだろうか?

それは南薩の早期水稲と関係がある。ご存じの通り、南薩の西部は早期水稲の産地で、新米の季節は8月である。普通は、お米の収穫時期は10月だから、米の収穫後に2毛作で何か作ろうとしても時期的に選択肢は限られるが、早期水稲の場合、8月に田んぼと労働力が空くわけなのでその後いろいろ作ることが可能である。

そして8月というのは、かぼちゃを作付するには霜が降るまでに収穫まで漕ぎ付けるギリギリの時期で、南薩のかぼちゃの多くは、この収穫後の田んぼを利用して作られているのである。収穫後の田んぼというのは、何も作らなくてもどうせある程度の管理が必要になるわけで、であれば何か作付する方が得策である。そのため、南薩の早期水稲収穫後には、蕎麦やかぼちゃといった短期集中型の作物が植えられることになる。しかも水稲後の作付は、土壌消毒の必要がなく経済的かつ健康的である。

さらに、12月は北海道からのかぼちゃが切れる時期にあたるので、市場的な価値も高い。…ということになっていたが、今では輸入ものがあるのでスーパーには一年中かぼちゃがあるし、貯蔵施設の整備などで北海道のかぼちゃも随分遅くまであるため、鹿児島の秋かぼちゃの価値が揺らいでいる面がある。

その上、秋は台風シーズンに当たるため、秋かぼちゃは博打性が強い。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったのは、播種時期の長雨ももろんだが、台風が(直撃でなかったとはいえ)4回も来た影響が大きい。天候のことは人の手ではいかんともしがたいわけで、秋かぼちゃの生産は不安定にならざるを得ない。

しかしながら、1年に2回かぼちゃのシーズンがあるということは他にはあまり見られない特色なので、今まで誰もこれをアピールしようとした人はいないみたいだが、何か活かす道があるのではないだろうか。少し考えてみても何も妙案は浮かばなかったが、いいアイデアがある人はぜひご高教願いたい。

2013年8月19日月曜日

オフ会、じゃなくて加工所OPEN記念「茶飲み話の会」を開催します

ちょくちょく、食品加工業に手を出したい、という記事を書いてきたのであるが、「南薩の田舎暮らし 加工所」を8月24日にオープンさせる運びとなった。

まあ、いわゆる農業の6次産業化というやつで、自分で作った農産物や、地域で生産されているものを使って、なんだか楽しい商品を生み出していきたいと思っている。

本来、「農家は、農業自体の生産性向上に心を砕くべき」というのが当然の話で、私のような農業初心者が加工にまで手を出すのは危険なのであるが、やはり加工までできると農業や販路の幅も広がるし、何より地域にある美味しいものを「商品」という形で可視化できるのは大きいのではないかと思っている。

手がけるのは、さしあたりジャム製造。これは保健所の許可が取りやすくて食品加工の初心者には最適な業種である。最初の商品は、以前ブログに書いたことがある「かぼちゃのコンフィチュール」で、つい先日、家内との試行錯誤と激論の末にようやくラベルのデザインが決まったところである。既に当地でかぼちゃの季節は終わっているので、冷蔵庫に保管している分しか原材料がなく、すぐに本格製造というわけにはいかないが、とりあえず第一号の商品は初志貫徹でこれに決めた。逆に言えば、すぐに第二号の商品が必要になるのだが、それについては検討中である。

要するにこれは、緻密に計画されたというよりも、走りながら考えればいいや、というやや先走りのオープンである。それでも、やはりセレモニー的なものがあった方がよかろうということで、8月24日(土)には「加工所OPEN記念 茶飲み話の会」を開催することにした。

文字通り「茶飲み話」をするということで、それ以上のものではないが、近所の方にも「あれは何を作るところなんだろう?」と不思議に思っている方もいるだろうし、お披露目というか、申し開き(?)の機会としてもいいのではないかと思う。

それに、嬉しいことに、地域の方にもこのブログを読んで下さっている方もたくさんいるようなので、私としてはオフ会(=オフラインの会合。ネットでしか知らない人と現実に会う機会、みたいな意味です)の意味も兼ねてお知らせしたい。ということで、別段食品加工に興味はなくてもかまわないので、「ブログ見てるよ!」という暖かい言葉を掛けてくださる場合は、ぜひ「茶飲み話の会」にお越し下さい。

【情報】南薩の田舎暮らし 加工所OPEN記念 「茶飲み話の会」
ネットショップ「南薩の田舎暮らし」の小さな食品加工所が出来ました!
最初に作るのは、特産のかぼちゃを使ったコンフィチュール(ジャム)です。

これから地域の食材を使った加工品を作っていく予定ですので、どうぞよろしくお願いします☆


加工所OPEN記念「茶飲み話の会」

 8月24日(土)
 16:00~19:00

冷たい飲み物や手作りのお菓子、お土産をご用意してお待ちしています。

少し風が出てくる夕暮れ時、加工所の前に出したテーブルを囲んで、お茶をしたりお話したりしましょう。文字通り「茶飲み話」なのでアルコールはありません!持ち込みは可です(笑)
「ちょっと5分だけ」の方も、「初めまして」の方も大歓迎!お気軽にお立ち寄り下さい(*^^*)

<場所>
南薩の田舎暮らし 加工所
南さつま市大浦町10951-1
当日連絡先:090-5767-9768(窪)
【行き方】
(1)南さつま市役所大浦支所前、県道272号線を南下
(2)西福寺のある三叉路を右折
(3)「原」のバス停を過ぎてから300mほど先に右手に「亀ケ丘登山口」という小さな看板がある交差点があるので、そこを左折 (←ここがわかりにくいです)
(4)道なりに行くと右手に真新しい小さな建物がありますのでそこが加工所です。
※google mapsでは正確な位置が表示されません。

2013年8月17日土曜日

加世田には鹿児島に2店舗しかないマックカフェの第1号店がなぜかあるんです

少し前の話だが、加世田マックカフェ(McCafe by Barista)が出来たというので行ってみた。

都会にいた頃はよくスターバックスやエクセルシオールカフェで勉強したり、読書したりしていたが、こちらに越してきてからはそういう場所も(お金も)ないので少し寂しく思っていた。

そんなわけで、都会にいる時はマックカフェなんて歯牙にも掛けなかったのに、むしろ物珍しいくらいの気持ちでマックカフェに行くことにしたのである。田舎に住んでいると都会に普通にあるものに憧れるようになるんだなあ、としみじみ感じるし、逆に考えれば、都会にいる人は田舎に普通にあるものに価値を見いだすんだろう。都市も田舎もお互いに無い物ねだりをしているわけで、人間というのは単純である。

さて、このマックカフェ、BGMが安っぽいことを除けばとても都会っぽい出来で、割といいシートが使われているし、電源用コンセントもある。それになにより無料のWi-fiが使える。これで加世田でもノマドぶって仕事できる(=特定のオフィスを持たずにカフェなどで仕事することやそういう人を、最近「ノマド」と言う)が、加世田でどういう使われ方をすることを想定して作ったのか分からない。加世田にはまさかノマドはいないと思うが…。

純粋に収益性だけで考えた場合、このおしゃれな(しかも24時間営業の!)マックカフェよりもごく普通のマックの店舗の方が田舎の場合はいいと思うし、だからこそ鹿児島県にはマックカフェは加世田と易居町の2店舗しかない。というか鹿児島県で最初のマックカフェがこの加世田店らしいのだが、どうしてここに最初に作ろうと思ったのかが謎だ。いわゆるリープフロッグ型発展(何もない途上国の方が既得権的なものが存在しないので、かえって最新の技術が先進国より早く導入される現象)みたいなものだろうか?

というわけで、ここにいるとなんだかとても場違いな場所にいるような気分になってしまう。でも同時に、少し東京時代を思い出してなつかしくもある。先日は近くにある古本屋「ほんダフル」に寄ったらソルジェニーツィンの『収容所群島(第1巻)』が100円で(!)投げ売りされていたので喜んで買い、そしてこのマックカフェに入ったのだが、古本屋で掘り出し物を見つけて、それをカフェで眺めるという極めて都会的な行為が加世田でもできるようになったわけだ。年に2度くらいは、そういう日があったらいいと思う。

2013年8月14日水曜日

農産物の世界の「言葉狩り」

各国の有機認証ロゴ
無農薬」という言葉は、今や使わない方がいい言葉、ということになっているのをご存じだろうか?

ついでに言うと、「減農薬」も使わない方がいいし、「無化学肥料栽培」なんてのもそうである。例えば、現在「南薩の田舎暮らし」で発売中の狩集農園の「お家で食べているお米」は「減農薬」又は「無農薬」に該当しているのだが、積極的にはそう書いていない。

どうしてダメか? というと、実は農林水産省に「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」というのがあって、このガイドラインの中で「無農薬」などの言葉は使用が禁止されているのである。

ではこれまでの「無農薬」は、農水省のガイドラインに沿って正しく言い直すとどうなるのかというと、「特別栽培農産物(農薬:栽培期間中不使用)」というやたら長ったらしい表現になってしまうのである! ただし、正確にはこれは無農薬なだけでなくて、化学肥料も慣行よりも5割以上削減していた場合で、そうでないと「特別栽培農産物(この言い方自体がもの凄く野暮ったい感じの悪いネーミングだと思う)」に該当しないので、ガイドライン上はそもそも表現することができない。

どうしてそんなバカなガイドラインが出来たのかというと、一応の理屈はある。「減農薬」「無農薬」といった言葉が農家それぞれの考えで使われてきた結果(※)、一般と比べて大して使用農薬が少ないわけでもないのに「減農薬」と表示されたり、残留農薬の可能性がある(前作に農薬を使っていたなど。根菜類とかの場合)のに「無農薬」と表示されたりということがあり、消費者にとって実態がわかりにくい状態になっていたため、これをわかりやすく整理し、適正な表現に改めるため制定された、というのが建前である。

しかしまことしやかに言われているのは、一部の有機農家から『「無農薬」が「有機栽培」よりいいものだと勘違いする消費者が多いので、「無農薬」という言葉を使わせないで欲しい!』という強い要望が提出されていたため、という説だ。

「無農薬」と「有機栽培」の違いが分かっていない人は確かに多いし、「無農薬」の方が優れていると誤解している人も多いだろうが、だからといって「無農薬」という言葉を使わせないようにするというのは、ちょっと行き過ぎである。「無農薬」というある程度市民権を得た言葉の命脈を絶って、「特別栽培農産物」という役所的な言葉で代替しようとするのはそもそも無理がある。「特別栽培農産物」と表示されていても、どれくらい有り難いのかよくわからないから消費者が手を出さない。消費者が手を出さないから普及しない。結果的に、特別栽培(化学肥料5割減、農薬5割減のこと=ちょっと環境に優しい農業)を普及させようという意図とは逆に、消費者の嗜好は、慣行か有機か、に二極化しつつあるように見える。

そしてガイドラインの認知度がいまいちなためか、今でも「無農薬」と謳われた農作物はたくさん売られている。このガイドラインには法的拘束力もないので、別に違反しても罰則があるわけではない。それ以上に、あまり浸透していないので、「無農薬」という言葉は使わない方がいい、ということ自体が食品業界でもまだ明確には意識されていないように思われる。法的拘束力のないガイドラインなどで安易に言葉を捨て去るべきではないし、それでいいのだろう。

ついでに言うと、ガイドライン制定の経緯に影響しているかどうかはともかくとして、「無農薬」が「有機栽培」より優れている、という誤解は未だに根強いものがある。しかしその誤解を解く方法は、「有機栽培」の良さを地道に浸透させていくことこそ王道で、「無農薬」を亡き者にすることではないはずだ。

ちなみに「有機栽培」とか「オーガニック」という言葉も認証を受けなければ使えないことになっていて、仮に本当の有機栽培であっても認証を受けずに「オーガニック」などと表示して販売すると、農水省から改善の命令が下り、改善しない場合は販売を中止させられることになる。こちらはガイドラインではなく法律(農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律第19条の15)で定まっているので守らなくてはならない。

こうして「有機」の言葉が法律上強く守られている理由は私にはよくわからないのだが、どうやら国際的なものらしく、認証を受けずに「有機」を謳ってはいけないという条文は世界のスタンダードに合わせて制定されたようである(未詳)。

そこまでしても、「有機栽培」が「無農薬」に負けてしまうというのは不思議な気がするが、一つ思うのは法律に基づく「有機」の表示ロゴがかっこわるい、ということである。まるで「特別栽培農産物」という表現のように生硬な感じがする。そもそも、ロゴの少ないスペースにあまり浸透していないJAS(日本農林規格)という言葉を入れているあたり、バランス感覚が欠如しているのではなかろうか…。

「有機栽培」にプレミア感を持たせ、消費者・生産者ともに魅力を感じてもらいたいと思うのであれば、他の類似の言葉の使用を禁じるのではなく、まずは認証ロゴをかっこよく、またわかりやすくしなくてはならないだろう。諸外国のロゴを並べてみてもあまり魅力的なものはないが、少なくとも他国は「有機=organic又はbio」を全面に出している(EU除く)わけで、なぜ日本が「有機」の文字を出していないのか不可解である。これで消費者に通じると思ったのであろうか?

それに、無認証のものがあってこそ認証済みのものが有り難いわけで、「有機栽培」という言葉を無認証には使わせないという施策は有機栽培推進の上でも誤りだと思う。めいめいの農家が自分なりの「有機栽培」をやり、いろんな「有機栽培」があるからこそ、一定の基準をクリアした「認証有機栽培」が光ってくるのではなかろうか。

無認証のものを黙認すると、「本当には有機栽培とは言えないものが有機栽培として売られるかも知れない!」と危惧される方もいるかもしれない。でもそれなら認証されたものだけ買えばいいわけで、認証されていなくても性善説に立って買おうという人もいるのだから、無認証の有機農産物の販売を禁止する必要はない。

これは「無農薬」であれ「無化学肥料栽培」であれ同じで、こうした言葉を禁止する必要はなく、農家の言葉を信じられない方は「特別栽培農産物」を買えばいいだけの話である(特別栽培農産物は、認証を受ける必要はないが、適切なチェック体制を整え、また使用農薬や肥料などを表示することになっている)。

そもそも、言葉がその当たり前の意味で使われ、誰に保証されなくてもそれを素直に信じる、というのは社会を構成する最も重要な基盤であって、コミュニティに必要不可欠な信頼関係と連帯意識を作るものである。言語を使う上での最低限の条件であると言ってもいい。それを言っているヤツはウソつきかも知れない、という疑いを抱き始めると、究極的には信じられるものは何もなくなってしまう。

こういうことを言うと、「でも現実に悪いヤツはいる」という反論があるだろう。しかし悪いヤツを排除するために無闇に言葉狩りをしていると、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたように、我々はダブルスピーク(思っていることと違うことを言う話し方)をしなくてはならなくなる。「言葉狩り」というと大げさだが、「無農薬」とか「有機」とかを自由に使えない、という問題は、些末なことに見えて実は、我々の社会のほころびを暗に示しているのかもしれないと感じている。

※正確には、「無農薬」などの言い方も「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」になる前の旧ガイドラインで規定されていたもので自由に使われていたわけではない。

2013年8月10日土曜日

南薩のポストカードを制作中

実は今、南薩のポストカードを作っている。

きっかけは何だったか忘れたが、南さつま市が近年「南さつま海道八景」のプロモーションに力を入れているように、南薩のこのあたりは絶景の宝庫であるにも関わらず、なぜかポストカードの一枚も販売されていないため、「ないなら自分たちで作っちゃえ!」と軽い気持ちで始めたのが昨年のこと。

私の写真の腕前はドシロウトであるため、高校の同級生でセミプロカメラマンA君の絶大な協力をお願いして快諾をもらい、また笠沙の現代アート写真家こと向江 新一さんからの写真提供もあって、写真についてはあまり心配していなかったが、いざ撮影をお願いする段階になると(ここをこんな風に撮って欲しいと具体的にお願いしたわけではないが)結構難しい仕事であることに気づいた。

というのも、単なる風景写真ではなくてポストカードにするものだから、見る人が「美しい」と感動するだけでなくて、風景を自分のものとして共感して、それを人にあげたいと思ってもらわなくてはいけない。また、コンテストで入賞するような写真は、撮影者の独自の視点であったり、他の人が見逃していた美しさなどが表現されていることが多いと思うが、ポストカードの場合はあまり独自性がありすぎてもいけないと思う。それは、ポストカードの風景は、撮影者だけのものではなくて、手紙を出す人のものでもあるべきだと思うからだ。

だから、凡百の観光地のポストカードは、誰も文句が言えないような、代表的な絶景を無難に配置するということになっているのだと思う。そして、それで十分な場合もあるだろう。けれども、せっかく私のような一個人が発案して作る風景ポストカードなわけだし、そういう無難なやり方ではなく、これまでにない南薩の表情を切り取ってみたいという欲もある

このあたりのことは、実際に写真を撮るA君が考え抜き、また悩み抜いたであろうことで、写真を選ぶ(という傲岸な立場の)私はあまり考える必要はなかったのかもしれない。だが、南薩の絶景でポストカードを作る以上、自己満足で終わらせずに、地域の多くの人に実際に使ってもらいたいと思っているし、しかもタダで配るのではなく、大浦ふるさと館等で販売して、経費分くらいは回収したい。ビジネス的にそのくらいできなくては、ただの素人の遊びになってしまう。

それに、この数ヶ月間、A君は写真撮影のために貴重な休日の多くを費やしているわけで、私の方としても自然に、ポストカードを作るということが本当はどういうことなのか、なんとなく考え続けてきた次第である。

そして、ついに、A君からも素晴らしい写真の数々が入稿され、今、印刷段階に入っているところである。5種類作る予定で、シリーズタイトルだけ事前告知しておくと「Nansatz Blue」という。別に青をテーマとしたポストカードというわけではなかったのだが、入稿された写真を見ていると美しい青の写真が多い! ということから、今回は青に絞ってポストカードを作ることになった。「今回」ということは「次回」があるはずで、まだ何も完成品を出していないうちから次回のことを考えるなんて笑止千万とは思うが、A君の撮ったたくさんの写真を目の前にして、5種類とはいわずまだまだ作るべきだ、という思いが強くなった。やはり、南薩は美しい。

うまくいけば発売は8月末か9月初旬である。改めてお知らせするので是非注目してほしい。