2018年3月15日木曜日

田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)

田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。

彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。

それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。

ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。

また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。

彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。

それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。

そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。

おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。

京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。

当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。

元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。

その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。

ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。

国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。

その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。

こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。

宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。

そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
 
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。

この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。

西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。

こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。

田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。

そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。

貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄

2018年3月1日木曜日

嘉永朋党事件と国学の弾圧——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その7)

明治天皇に神代三陵を遙拝するよう建白した人物、田中頼庸(よりつね)とは何者だったのだろうか? 彼は、一般の維新史ではほとんど知られていないから、その人生を少し詳しく辿ってみることにしよう。

田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。

彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。

そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。

頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。

嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。

その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。

斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。

そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。

実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。

というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。

こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。

12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。

そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。

その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。

さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。

とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。

そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。

要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。

話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。

そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。

当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。

後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。

貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。


【参考文献】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2017年12月16日土曜日

「恐竜 v.s. 西郷どん」

来年も、「砂の祭典」に関わることになった。

今年私は「砂の祭典」の実子推進本部員および広報部員として、このイベントに関わらせてもらった。

でもそれは、30回記念を迎えたこの1回限りのつもりだった。そもそも、「砂の祭典」のメイン期間であるゴールデン・ウィークは、栽培しているかぼちゃの開花時期のため受粉作業で忙しい。だからあまりお手伝いもできず、後ろめたい気持ちもあった。

でも、所属している観光協会の方から、「ぜひ!」という声があって、今度はイベント企画について中心的な役割を担う「企画・マーケティング会議」と広報部で活動させてもらうことになった。

で、この「企画・マーケティング会議」でいろいろ議論したことのうち、砂像テーマについてはちょっと誇れる結果になったのでお知らせしたい。

それが次回の「砂の祭典」の砂像テーマで、
「ジュラシック・ファンタジー 〜進化の足音どん・どん・どん〜」
である。

これがどうして誇れるのかというと、言うまでもなく来年は明治維新150年+「西郷どん」放映で、鹿児島県内各地は明治維新関連のイベントで目白押しである。そんなわけで、最初は(私自身も含め)「砂像テーマは明治維新かなあ」という流れがあった。

しかし、会議で議論していくうち、「そもそも子どもたちに明治維新って言っても楽しんでもらえない」「鹿児島市の子どもたちは明治維新ばっかりだから、たまには明治維新から離れたいはずだ」「このイベントのメインターゲットである子どもたちのことを考えたら、明治維新じゃなく、もっと子どもらしい楽しいテーマがいい!」ということになり、テーマが「恐竜」になったのである。

実は、この議論の中で私が提案したテーマは「恐竜 v.s. 西郷どん」だったのだが、それはあまりにもアヴァンギャルド過ぎたのか却下された(でも、意外なほど多くの支持を集めたんですよ!)。 なお、「進化の足音どん・どん・どん」の「どん」というのは、「西郷どん」の名残である(!)

「恐竜 v.s. 西郷どん」というパワー溢れるテーマが却下されたのは残念だが(笑)、県内が明治維新150年で一色になる中、子どもたちのことを考えた選択ができたのは誇れることだと思う。これで、次回の「砂の祭典」に向けて、いいスタートが切れたような気がする。

そんな「砂の祭典」だが、今年も運営メンバーの募集が開始された。

具体的には、(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会、の6つの部会への参加者の募集である。

私は、昨年に引き続き「広報部会」。「西郷どん」の勢いに負けない「砂の祭典」にするため、手伝って下さるみなさまをお待ちしております!(〆切2017年12月28日)

↓応募はこちらから(「砂の祭典」公式WEBサイト)
2018吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう!

2017年11月25日土曜日

「罪深き愉しみ」

高校生の頃、NHK-BSで「BSマンガ夜話」という番組があった。

一つのマンガ作品についてとにかく語り明かす! という趣向の番組で、特に筋らしい筋もなく、居並ぶ男たち(稀に女性もいた記憶があります)が熱く語りまくっていた。

「このコマがいいよね〜」という発言が出れば、「そうそう、そしてこっちも」と付箋だらけになったマンガを繰り開いてどんどん話が展開される。そして 「この連載当時、この作家は〜〜で」という裏話に行くと、当時の社会情勢や編集者との関係なども解説されるという調子で、作品についてあらゆる角度から切り込んでいくのだ。これで「オタクに自由にしゃべらせるとどうなるか」ということの一端を見た思いがした。

レギュラーで出ていたのは、司会の大月隆寛、いしかわじゅん、岡田斗司夫、夏目房之介。このいい年こいたオヤジたちが、ちょっと異常なくらい楽しそうにマンガについて語っていて、私は「マンガってこんなに深い楽しみ方が出来たのか!」とすごく影響を受けた。

あの番組を見て、マンガを読みたくならない人はいなかったと思う。まあ、もともとマンガ好きでないと見ない番組でしょ、という指摘は置いといて…。

さて、私はこの12月に再び「石蔵古本市」を開催するが、そこで特別企画としてブックトーク「罪深き愉しみ」というなにやら妖しげなイベントをやる予定である。

【参考】↓昨年の「石蔵古本市」の案内記事
「石蔵古本市」でぜひ「入り口の本」を。

この「罪深き愉しみ」という、ただならぬ名前のイベントを構想するにあたって頭の中にあったのが、この「BSマンガ夜話」だった。

鹿児島は、あまり本に縁がない土地である。その中でも南薩は、もっと本に縁がない地域であり、南さつまの人は全国平均と比べたった3分の1くらいしか本を買っていないという推計がある。以前も書いたように、この秋に加世田の古本屋は閉店したし、本屋の縮小傾向が続いている。このままでは、街から本屋が消えてしまうかもしれない。

それを避けるためには、より多くの人に本を買ってもらうしかない。そのためには、読書の愉しみに目覚めてもらうしかない!


でもどうやって読書の楽しさを伝えればいいというのか。私自身が、「読書楽しい!」というタイプでないことはこのブログの読者はよくご存じだと思う。「本なんか読んですいません」という後ろめたさを感じながら読書しているわけで、とてもじゃないが「読書の楽しさ」など伝導できない。


そういう逡巡の中にあって、ふとあの「BSマンガ夜話」のことが頭に浮かんだのである。オタクが楽しそうに語り尽くす! それだけで、十分ものごとの楽しさは伝わるという見本があの番組だった。

だから、鹿児島の「本のオタク」たちを集めて、とにかく自分が好きなものについて語ってもらったらいいんじゃないだろうか? しかも、「だからみなさん読書しましょうね」という推奨のスタンスよりも、「このディープな世界に足を踏み入れるのは危険だから注意してね」という訓戒のスタンスで臨む方が、ずっと面白いのではないか。

だいたい、私自身が読書は「罪深き愉しみ」だと思っている。つい数日前も、4歳の娘に「本ばっかり読んでないで仕事しろー!」と怒られたばかりだ(下の娘の前ではあまり本を読んでいないはずなのに!)。でも「やるべきこと」でないからこそ、つい手を伸ばしてしまうのもまた人間である。

こうして、ブックトーク「罪深き愉しみ」という企画を考えた。読書を推奨するイベントは数多あれど、ここまでひねくれたイベントも全国有数だと思う。ブックトークというのはテーマに沿ってオススメ本を紹介するイベントで、このテーマも王道なものの他に、ちょっとひねくれたものを考えているところである。

集まるのは、鹿児島を代表する若手の読書家6人。私は年にせいぜい40冊くらいしか本を読まないが、ここに集まるのはその何倍も読んでいる(はずの)人たちばかりである。何倍も罪深い人たちだ(笑)

当日、私はコーディネータということで、要は聞き役を務める。私自身、直接の面識がない人の方が多く、どんな話が聞けるのか本当に楽しみである。

そんなわけで、12月の初旬、ぜひ南さつま市の万世で行われる「石蔵古本市」、そしてブックトーク「罪深き愉しみ」に来て欲しい。きっとあなたも、罪深い世界へ入っていきたくなると思う。

【情報】石蔵古本市 vol.2
日程:12月8日(金)-11日(月)(営業時間は日ごとに違います)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼットつばめ文庫
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

【情報】ブックトーク「罪深き愉しみ」
日時:12月9日(土)18:30〜20:30
場所:南さつま市加世田万世 丁子屋第2石蔵(本店裏)
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。←古本市とは別です。



2017年11月16日木曜日

「立候補しなかった人」の責任

南さつま市長・市議選である。

私は、前回4年前の市議選において、「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る という記事を書き、現職市議の働きぶりを一般質問の回数で表してみるということをした。

その記事でも書いたように、この回数だけでは働きぶりを判断することは出来ないが、少なくとも市政を糺していこうとする積極性くらいは表していると考えられるため、今回も同様の表を「市議会だより」からまとめて作ってみた。それが下の表である。
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載。順番は質問回数+五十音による。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※議長は室屋 正和氏

質問回数に応じてなんとなく色分けしてみたが、市議会の一般質問では「ほぼ毎回質問する議員」「ときどき質問する議員」「ほぼ質問しない議員」がいることがよくわかる。

ところで4年前の記事では、各議員の関心事項まで分析した。だがこの作業は大変時間がかかるもので(というのは、質問事項を「市議会だより」のPDFから簡単にコピーすることができないから)、ちょっと今その時間的余裕がないため、今回はその分析はしていない。

その代わり、今回の市議選に立候補している19人という集団についてちょっと述べてたいことがある。立候補者は次の通りである。

氏名 年齢 党派 新旧 主な肩書き
今村 建一郎 68 無所属 農業
有村 義次 66 無所属 農業
上村 研一 54 無所属 漁業
貴島 修 66 無所属 農業
大原 俊博 68 無所属 合資会社大原百貨店代表社員
清水 春男 62 共産 農業
竹内 豊 53 無所属 ゆたか代表
平神 純子 60 無所属 無職
古木 健一 75 無所属 無職
小園 藤生 59 無所属 有限会社コゾノ代表取締役
相星 輝彦 50 無所属 商業
坂本 明仁 55 無所属 消毒センター代表
松元 正明 60 無所属 農業
山下 美岳 67 無所属 商業
諏訪 昌一 63 社民 無職
林 耕二 74 無所属 商業
田元 和美 66 無所属 商業
石原 哲郎 64 無所属 農業
室屋 正和 68 自民 (株)日峰測地会長

さて、私が言いたいことは3つだ。

第1に、平均年齢が高すぎる。立候補者の平均年齢は63歳。任期最後の年には67歳になっていることになる。いくら高齢化した過疎の町といっても全人口の平均年齢はこれほど高くないから、市民の代表としては偏っていると言わざるを得ない。やはり、子育て世代(30〜40代)はもっと入ってなければならないし、20代の議員だって1人くらいはいるべきだと私は思う。

第2に、女性議員(立候補者)の数が少なすぎる。今回の選挙では平神 純子氏しか女性の立候補者はいない。市民の約半分は女性である。理想的には、議員だって半分が女性であるべきだ。なぜ女性が立候補しないのか、よく考えて対策していく必要がある。

第3に、そもそも立候補者が少なすぎる。南さつま市議会議員の議員定数は、今回削減されて20から18になった。それでも立候補者は19人。たった1人しか落選しない。議員の正統性は、選挙で選ばれたということにあるのに、ほとんど選択肢らしい選択肢がないことになる。それでも、少なくとも今回選挙が行われることになってよかった。立候補者があと1人少なければ、無投票になっていた。無投票では、市民の代表としての正統性がまったく担保されない。

もうお気づきの通り、この3つについては、ここに立候補している人には全く責任がない。「立候補しなかった人」に責任がある。若い人、女性がどんどん立候補しないから、こういう偏った議会が生まれる。結果として、議会を「わたしたちの代表」として感じられなくなっている。私たちは、どことなく不審感を持って議会をみていないか。

議会は、我々の利害を代弁し、市政を糺し、そしてみんなで「意志決定」をするためにあるところである。議会の決定が、南さつま市民の決定になる。だから私たちは、「私たちの代表」として信頼できる議会をつくっていかなくてはならない。そのためには、若い人や女性の議会への参画は必須だ。

ではなぜこうした人たちは立候補しないのだろうか? 立候補しさえすれば、確率的にはほとんど当選するとしても、やはり立候補しない理由はたくさんあると思う。田舎だから、票はかなりの程度固まっている(誰に投票するか決まっている)ということもある。それに、今の議会のシステムはほとんど自営業の人しか立候補ができない。でも自営業というのは大抵忙しいものであって、選挙の準備などやってられないということもある。さらに女性の場合、未だに「女のくせに出しゃばって」というような因習的な考えに阻まれることも大きいだろう。

こうしたことはすぐには変えられない。でもだからといって議員の平均年齢が60代の現状に甘んじていては、いつまでもまちを変えていくことはできない。「地方創生」は、結局は地方自治のリノベーションに行き着くのだから、若手・女性が強引に出て行かないと、衰退の道を歩み続けることになる。

とはいえ、まさに今選挙が行われているわけで、こんなことを今言ってもしょうがないことだ。今回の選挙については、現に立候補されている方をよく見て選ぶということ以外にはないのだし、これからの4年間については、選ばれた議員の方を我々の代表としてよりよい市政のために働いてもらうしかないのである。

でも、あと4年後にはまた市議会議員選挙がある。その時は、若手・女性が5人くらい立候補してしかるべきだと思うし、そう考えたら、もう今からそのムーブメントを起こしていかなければならないくらいだ。具体的に、それがどういう形をとったらいいのかは今イメージはないが、そういうムーブメントは、抽象的であっても大事な「まちづくり」だろう。

有り難いことに、私などにも「市議選に出てよ!」というような声がある。今のところ、まだ生活基盤が確立していないくらいで、自分のことや家族のことで精一杯だから、とてもじゃないが立候補などできない。それに、仮に立候補して当選したとしても、自分一人では議会で何もできないと思う。やっぱり、話が合う何人かの仲間がいて、「そうだそうだ!」とならない限り、集団の方向を変えていくことは無理である。これは誰にでも当てはまることだと思う。

だから私は、若手や女性がもうちょっと市政に関わっていく道筋を作っていきたいと思う。これは、「自分が関わっていきたい」というより、そういう人を増やしたいという話である。でも、今のところその道筋というのが一体どういうものなのかイメージがない。市政についてどんどん意見を言っていこうみたいな話ではないような気がする。そうではなくて、若手や女性の力でこの街を変えて行こうという気持ちを盛り上げたいということの方が近い。

そういう気持ちが街として盛り上がっていれば、市議選ももっと違ったものになるだろう。

2017年11月8日水曜日

街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

「石蔵ブックカフェ」の様子
今年の9月に、加世田の「ホンダフル」がつぶれた。マンガを中心とした古本、CD、古着なんかが置いてある、若者向けの古本屋だった。

それからすぐに、今度は「加世田ブックセンター」が閉店して、本町の通りに「加世田書店」として移転オープンした。店の面積は4分の1以下になった。実質的に「教科書販売」以外の機能をほとんど手放したように見える。

歴史を遡れば、加世田にはかつてもっとたくさんの本屋があったようだ。それが近年になってどんどんなくなった。「人口が減ってるんだから仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうだが、実はそうでもない。加世田の中心部に限れば、人口は増えているくらいである。

それに、書店以外の商業施設は出店が相次いでいる。私は以前「ダイレックス」の出店について書いたことがあるが(【参考記事】ホヤ的な商売のススメ)、街の中心部にあった広大な「イケダパン跡地」が再開発されることになり、さらに複数の新規出店がある模様である。もちろん潰れていく店もあるにはある。しかし加世田中心部が、活気づいているというのは間違いない。

が、本屋だけは潰れていっている。なぜか?

本をよく読む人にとっては、Amazonで十分だからかもしれない。マンガや雑誌なら、コンビニで事足りる。加世田にはそれなりの人口があり、購買力があるのに、書店の需要はないということなのだろう。

今のところ、それなりの規模がある本屋が一軒だけ残っている。「TSUTAYA」だ。「それなりの規模」といっても、都会の基準で言えば小さな方である。

だが、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

これは、空恐ろしい想像だ。少なくとも図書館はある、といって安心するわけにはいかない。たびたび書いてきたことだが、鹿児島の図書館の貧弱さはカルチャーショックレベルである。図書館の人が悪いのではなくて、予算が圧倒的に足りていない。図書館が、人々の知的欲求に応える場になるには、仮に行政が本気になったとしても、まだまだ時間がかかる。

それに、本を所有する、ということは、人間にとって絶対に必要なことだと思うのだ。

誰にとっても、「初めて自分で買った本」というものがある。私の場合、それはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。郷里の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)にはちゃんとした本屋がなかったから、吉野町の春苑堂という本屋で買った。多分小学4年生くらいのこと。この1冊が、その後の私の読書傾向にどれだけ影響を与えたか知れない。いや、私の「人生」にどれだけ影響を与えたか知れない。

「初めて自分で買った本」は、ただの思い出深い本ではない。若者は、その1冊から世界を見る。世界の窓口になる。そこから、人類の知の世界へと、旅立っていく。歴史の突端に立つ人間として、過去を振り返る術を得る——。

その1冊は、もちろん図書館で借りた本でもいいのかもしれない。でも私の経験でいうと、やっぱりその本を所有して、背表紙を眺める経験をしていないと、その本は十分に窓口としての機能を果たさない。一言で言えば、その本への「愛着」が育っていないと、 世界に対する「愛着」が醸成されない可能性がある。

誰しも、ドキドキしながら書店員さんに本を差し出すという経験をしなくては、「世界」に入っていけないのだと、私は思う。

だから、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

若者は、本屋がなくてもちゃんと「世界」を知る人間になるんだろうか。インターネットがあるから大丈夫、と人はいうかもしれない。インターネットの方が、ずっと「世界」と繋がっているんだと。確かに、今の若者は英語が達者である。すごく頼もしい。私なんかより、ずっと「世界」を知っていると思う。そんな人も多い。

でも本当に、本屋がなくなってもそんな人がたくさん生まれてくるんだろうか。

「本」など単なるメディアにすぎないのかもしれない。情報が掲載された紙を束ねたものにすぎない。今の時代、「本」という形にこだわる必要はないのかもしれない。電子書籍で問題はないようにも見える。

でも「本」は、かなりの程度完成されたメディアの形である。少なくとも2000年くらいの時間を掛けて今の「本」の形は整ってきた。デジタル技術が進歩したといっても、まだその完成度には及ばない。大人にとってはデジタルデータで十分であるとしても、若者が手にするとすれば「本」の形になっている方がよほど親切だ。

少なくとも、小学生から中学生くらいまでの子どもには、紙の「本」が必要だし、それを所有することが必要だし、「初めて自分の意志で買った本」がなくてはならない。

それなのに、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

鹿児島市内に行って本を買えばいい、という話なんだろうか? 理屈で言えばそうだ。もし近所から本屋がなくなったら、実際そうするだろう。現実に、ここ大浦町には本屋がないから、加世田に買いに行く。でもそれすら、小さな子どもにとっては自由に行ける場所ではないのである。車で30分もかかる。本屋が街になくなるということが、文化の退潮でなくてなんなのだろう。

本屋が消えた街は、もはや「街」ではなく「村」だ。どれだけ人口が多くても。

私の考えでは、街から本屋が消えたら単に不便になるだけでなくて、もの凄く大きな文化的な損失が生じる。特に若い世代の知的な成長において。

だから街の住人は、本屋を維持する、という矜恃を持つ必要がある。本屋が潰れるに任せておいて、いいわけがないのだ。

そんな折り、懇意にしている古本屋「つばめ文庫」さんから古本の定期出張販売の話があった。これに私たち「南薩の田舎暮らし」も協力して、万世(ばんせい)の丁子屋石蔵で月例の「石蔵ブックカフェ」をすることになった。既に10月13日に初回を開催した。

【参考】石蔵ブックカフェ(第1回)ありがとうございました!(「南薩の田舎暮らし ブログ」の記事)

さらに、昨年も開催した「石蔵古本市」をより内容を充実させて今年も開催する予定である。

【参考】石蔵古本市vol.2(Facebookページ)

もちろん、こうした取り組みで本屋が潰れるをの食い止められるとは思わない。でも、少なくとも私たちが「石蔵ブックカフェ」のイベントをすれば、月に1回は万世に本屋ができる。小さなことでも、そういう集積で街の文化が形作られていくのではないかというのが私の密やかな期待である。

そんなわけで月例の「石蔵ブックカフェ」。直近だと明後日11月10日(金)に行われる。ぜひ寄っていただければ幸いである。


【情報】石蔵ブックカフェ
開催時間:毎月第2金曜日 10:00〜20:00(次回開催11月10日(金))
場所:南さつま市加世田唐仁原6032(丁子屋本店 石蔵)
「つばめ文庫」と「南薩の田舎暮らし」の共同開催。

2017年11月1日水曜日

コスト・ダウンをやめ、コスト・アップを図れ

先日、加世田の若手農家Kさんのところにいって、ショウガを仕入れてきた。

「南薩の田舎暮らし」では「ジンジャーエールシロップ」を製造・販売しているが、この原材料となるショウガはKさんから仕入れている。

実は、自分でも2年ほどショウガを作付して作ってみたものの、どうも上手にできなくて、プロのKさんから買った方が美味しくできるのでKさんに頼っているのである。

ところで、今回のショウガの仕入れにあたり、一つ誇りたいことがある。

それは、ショウガの値段を1キロあたり250円から300円に上げてもらったことである。

値上げは、Kさんからお願いされたわけではない。自分の方から、1キロあたり300円で買い取らせて欲しい、と逆の意味での「価格交渉」をしたのである。

Kさんの方からは、別に値上げしてほしいという要望はなかったし、業者にいくらで卸しているのかも知らなかった。でも、自分たちで考えてみて、ショウガが1キロ250円はちょっと安すぎる! このままでは何か悪い感じがする! と思って値上げしてもらったのだ。

このように、仕入れ先からの交渉によらず、自分たちの考えで仕入れの値段を上げるということは普通のビジネスではちょっと考えられないことだと思う。普通は、仕入れの値段を下げようと交渉するものだ。

でも仕入れ値をあえて上げさせているからといって、私が大儲けしているわけではない。もちろん、「ジンジャーエールシロップ」の売れ行きがいいということはあるが、今年ようやく黒字になった程度である。それどころか、国民年金保険料の免除・減額の手続きをしたり、相変わらず貧乏な暮らしは続いているのである。

それでも仕入れ値を上げてもらったのは、1キロあたり250円はフェアでない価格だと思ったからだ。フェアトレード、という考え方は何も途上国相手にだけ適用するべきものでなくて、通常の商売においても常にフェア(公正)を念頭に置くべきだと思う。

そしてもうひとつ強く言いたいことがある。

今の時代、コスト・ダウンではなく、コスト・アップが必要だ、ということだ。

もう20年以上も続く不況によって、ビジネスではコスト・ダウンばかりが叫ばれ、誰もコスト・アップを試みる人はいない。当たり前である。コスト・ダウンをすれば利益が増える。利益が増えれば給料が増える。コスト・ダウンをすれば効率化になる。効率化ということは生産性があがる。生産性があがるということは、GDPが増える、ハズだった。

だが、逆からみればそれは正しくなかった。コスト・ダウンをすると、コストを削減された業者にとっては収入が減るということだった。社会全体がコスト・ダウンばかりしていると、実はみんなの収入が減ってしまう。購買力が落ちるから、ものが売れなくなる。コスト・ダウンによって生産性を上げるどころか、ものが売れなくなって生産性が落ちてしまった。

その上、コスト・ダウンというのは、無駄の削減である場合は必ずしも多くない。

無駄を削れ、とよく言われる。だが、ビジネスのフローにおいて本当に無駄な部分というのは実は少ない。鉄板の厚みを1mm削る、といったことも、単に強度や耐久性を犠牲にしているだけのことが多い。強度や耐久性なんて無駄なんだ! といえばそれまでかもしれない。でも、そういうことを20年も続けてきたおかげで、世の中には軽薄短小な安物ばかりが増えてしまった。

一方で、極限にまで無駄を切り詰めているビジネスの世界で、未だに書類にはハンコが必要だ、といったような馬鹿らしい無駄がはびこっているようにも見える。無駄を省き続けた20年、日本は一切無駄のないスマートな社会になったんだろうか? とてもそうは見えない。本当に省くべき無駄が温存されて、品質や人々の暮らしが犠牲になってきただけなのではないか?

そもそも、無駄を省くとか、効率性を上げるということは、実はコスト・ダウンを図ることによっては成し遂げられないことだ。効率化するにはむしろ、冗長な部分を作ること、余白を作ること、贅肉をつけることから始めなくてはならない。一度余裕のある状態にしておいて、そこから新しく効率のよい道筋を探るというようにしないと、余裕のないギチギチの状態から無駄をなくそうとしても、部分的には最適化できるかもしれないが全体はどんどんいびつになっていく。

筋トレでも、最初から筋肉をつけるのは難しい。最初はたくさん食べて贅肉をつけ、それをトレーニングによって筋肉に変えていくのが王道である。ただ痩せたいならひたすらトレーニングを続ければ減量はできるが、本当の意味での体作りにはならない。だがこの20年、日本社会はひたすら無駄を省くという過酷なトレーニングをするばかりで、体作りはしてこなかったのではないだろうか。

だから私は提唱したい。コスト・ダウンではなく、今度はコスト・アップを図ってはどうかと。これは簡単である。取引先に行って、これまで100円で仕入れていたものを110円にしてくださいと頼めばいい。断る人は誰もいないだろう。

そんなことをしたら利益がなくなる! と思うかもしれない。これまでギリギリにまで切り詰めていた製造コストを、いきなり上げるなんて不可能だと。確かに、あなたの会社だけがコストを上げるならその通りである。だが、それを社会全体でしたらどうか?

仕入れコストも大きくなるが、ものの値段も少しずつ上がる。だから給料も上がる。社会全体がコスト・アップすれば、基本的には社会全体の収入は増える。そしてもっと重要なことは、100円で卸していたものが110円に値上げできるとすれば、その製造会社には10円分の余力が生まれ、新たな創意工夫の余地が生まれるということなのだ。

コストを切り詰められる、ということは、打てる手がどんどん少なくなっていくことを意味する。100円のものを90円にコスト・ダウンしてくれといわれれば、出来ることは限られる。工程を減らし、原材料を減らし、人件費を安くし、手数はどんどん減っていく。だが、100円のものを110円にしてもよいと言われれば、その10円分は未来に向けて使うことができる。

また、コストを減らすことばかり考えていると、コストを減らすためのコストが見えなくなってくる。役所仕事が典型であるが、100円の無駄を省くために500円かける、なんてことは、実はよくあることなのだ。

先日、あるイベントの会議で、「通訳ボランティアを確保するにはどうしたらいいのか」みたいな議論がされていた。難しいことである。イベントのボランティアを確保するだけでも大変なのに、通訳まで出来る人に協力してもらうのはさらに難しい。

だからその場で「通訳は専門職なのだから、ちゃんと仕事として依頼したらよい」と発言してみた。そうしたら、「そうだよね。ボランティアでやってもらおうとするから難しいだけで、普通に依頼したら簡単だよね」という方向になってほっと一安心したのだが、今の日本社会はこういうことがよくあるのではないか。コストをちょっとでも削りたいがために、難しい課題をクリアしなければならないような場面が。

ちょっとのコストを削減するために知恵を絞るよりも、もっと生産的なことに頭脳を使った方がいいのである。

もちろん、こんな議論は理想論で、現場を知らない空想的なものだ、という批判はあるだろう。生き馬の目を抜く競争社会で、お願いされてもいないコスト・アップなどするのは馬鹿げていると。だが極限にまで無駄を切り詰めたその先には、もはや社会の発展など望めないのではないかと私は思う。

先日、経団連の会長が「国民の痛みを伴う思い切った改革を」と首相に提言したそうである。 ならば、まずは企業が自主的に利益を犠牲にして、コスト・アップを図ってはどうかと思う。取引先に値上げを促せばよい。すぐにでもできることだ。そうすれば、日本経済にどれだけよい効果があるかわからない。一時的には企業も痛みを伴うかもしれないが、長い目でみれば素晴らしい成長策になる。

コスト・ダウンはもう十分なのだ。コスト・アップを社会全体でやる方が、ずっと将来性がある。

私はショウガの仕入れでそれをした。次はあなたの番である。