2017年11月8日水曜日

街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

「石蔵ブックカフェ」の様子
今年の9月に、加世田の「ホンダフル」がつぶれた。マンガを中心とした古本、CD、古着なんかが置いてある、若者向けの古本屋だった。

それからすぐに、今度は「加世田ブックセンター」が閉店して、本町の通りに「加世田書店」として移転オープンした。店の面積は4分の1以下になった。実質的に「教科書販売」以外の機能をほとんど手放したように見える。

歴史を遡れば、加世田にはかつてもっとたくさんの本屋があったようだ。それが近年になってどんどんなくなった。「人口が減ってるんだから仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうだが、実はそうでもない。加世田の中心部に限れば、人口は増えているくらいである。

それに、書店以外の商業施設は出店が相次いでいる。私は以前「ダイレックス」の出店について書いたことがあるが(【参考記事】ホヤ的な商売のススメ)、街の中心部にあった広大な「イケダパン跡地」が再開発されることになり、さらに複数の新規出店がある模様である。もちろん潰れていく店もあるにはある。しかし加世田中心部が、活気づいているというのは間違いない。

が、本屋だけは潰れていっている。なぜか?

本をよく読む人にとっては、Amazonで十分だからかもしれない。マンガや雑誌なら、コンビニで事足りる。加世田にはそれなりの人口があり、購買力があるのに、書店の需要はないということなのだろう。

今のところ、それなりの規模がある本屋が一軒だけ残っている。「TSUTAYA」だ。「それなりの規模」といっても、都会の基準で言えば小さな方である。

だが、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

これは、空恐ろしい想像だ。少なくとも図書館はある、といって安心するわけにはいかない。たびたび書いてきたことだが、鹿児島の図書館の貧弱さはカルチャーショックレベルである。図書館の人が悪いのではなくて、予算が圧倒的に足りていない。図書館が、人々の知的欲求に応える場になるには、仮に行政が本気になったとしても、まだまだ時間がかかる。

それに、本を所有する、ということは、人間にとって絶対に必要なことだと思うのだ。

誰にとっても、「初めて自分で買った本」というものがある。私の場合、それはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。郷里の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)にはちゃんとした本屋がなかったから、吉野町の春苑堂という本屋で買った。多分小学4年生くらいのこと。この1冊が、その後の私の読書傾向にどれだけ影響を与えたか知れない。いや、私の「人生」にどれだけ影響を与えたか知れない。

「初めて自分で買った本」は、ただの思い出深い本ではない。若者は、その1冊から世界を見る。世界の窓口になる。そこから、人類の知の世界へと、旅立っていく。歴史の突端に立つ人間として、過去を振り返る術を得る——。

その1冊は、もちろん図書館で借りた本でもいいのかもしれない。でも私の経験でいうと、やっぱりその本を所有して、背表紙を眺める経験をしていないと、その本は十分に窓口としての機能を果たさない。一言で言えば、その本への「愛着」が育っていないと、 世界に対する「愛着」が醸成されない可能性がある。

誰しも、ドキドキしながら書店員さんに本を差し出すという経験をしなくては、「世界」に入っていけないのだと、私は思う。

だから、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

若者は、本屋がなくてもちゃんと「世界」を知る人間になるんだろうか。インターネットがあるから大丈夫、と人はいうかもしれない。インターネットの方が、ずっと「世界」と繋がっているんだと。確かに、今の若者は英語が達者である。すごく頼もしい。私なんかより、ずっと「世界」を知っていると思う。そんな人も多い。

でも本当に、本屋がなくなってもそんな人がたくさん生まれてくるんだろうか。

「本」など単なるメディアにすぎないのかもしれない。情報が掲載された紙を束ねたものにすぎない。今の時代、「本」という形にこだわる必要はないのかもしれない。電子書籍で問題はないようにも見える。

でも「本」は、かなりの程度完成されたメディアの形である。少なくとも2000年くらいの時間を掛けて今の「本」の形は整ってきた。デジタル技術が進歩したといっても、まだその完成度には及ばない。大人にとってはデジタルデータで十分であるとしても、若者が手にするとすれば「本」の形になっている方がよほど親切だ。

少なくとも、小学生から中学生くらいまでの子どもには、紙の「本」が必要だし、それを所有することが必要だし、「初めて自分の意志で買った本」がなくてはならない。

それなのに、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

鹿児島市内に行って本を買えばいい、という話なんだろうか? 理屈で言えばそうだ。もし近所から本屋がなくなったら、実際そうするだろう。現実に、ここ大浦町には本屋がないから、加世田に買いに行く。でもそれすら、小さな子どもにとっては自由に行ける場所ではないのである。車で30分もかかる。本屋が街になくなるということが、文化の退潮でなくてなんなのだろう。

本屋が消えた街は、もはや「街」ではなく「村」だ。どれだけ人口が多くても。

私の考えでは、街から本屋が消えたら単に不便になるだけでなくて、もの凄く大きな文化的な損失が生じる。特に若い世代の知的な成長において。

だから街の住人は、本屋を維持する、という矜恃を持つ必要がある。本屋が潰れるに任せておいて、いいわけがないのだ。

そんな折り、懇意にしている古本屋「つばめ文庫」さんから古本の定期出張販売の話があった。これに私たち「南薩の田舎暮らし」も協力して、万世(ばんせい)の丁子屋石蔵で月例の「石蔵ブックカフェ」をすることになった。既に10月13日に初回を開催した。

【参考】石蔵ブックカフェ(第1回)ありがとうございました!(「南薩の田舎暮らし ブログ」の記事)

さらに、昨年も開催した「石蔵古本市」をより内容を充実させて今年も開催する予定である。

【参考】石蔵古本市vol.2(Facebookページ)

もちろん、こうした取り組みで本屋が潰れるをの食い止められるとは思わない。でも、少なくとも私たちが「石蔵ブックカフェ」のイベントをすれば、月に1回は万世に本屋ができる。小さなことでも、そういう集積で街の文化が形作られていくのではないかというのが私の密やかな期待である。

そんなわけで月例の「石蔵ブックカフェ」。直近だと明後日11月10日(金)に行われる。ぜひ寄っていただければ幸いである。


【情報】石蔵ブックカフェ
開催時間:毎月第2金曜日 10:00〜20:00(次回開催11月10日(金))
場所:南さつま市加世田唐仁原6032(丁子屋本店 石蔵)
「つばめ文庫」と「南薩の田舎暮らし」の共同開催。

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