田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。
彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。
そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。
頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。
嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。
その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。
斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。
そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。
実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。
というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。
こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。
12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。
そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。
その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。
さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。
とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。
そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。
要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。
話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。
そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。
当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。
後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。
貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。
【参考文献】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
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