先日、加世田の若手農家Kさんのところにいって、ショウガを仕入れてきた。
「南薩の田舎暮らし」では「ジンジャーエールシロップ」を製造・販売しているが、この原材料となるショウガはKさんから仕入れている。
実は、自分でも2年ほどショウガを作付して作ってみたものの、どうも上手にできなくて、プロのKさんから買った方が美味しくできるのでKさんに頼っているのである。
ところで、今回のショウガの仕入れにあたり、一つ誇りたいことがある。
それは、ショウガの値段を1キロあたり250円から300円に上げてもらったことである。
値上げは、Kさんからお願いされたわけではない。自分の方から、1キロあたり300円で買い取らせて欲しい、と逆の意味での「価格交渉」をしたのである。
Kさんの方からは、別に値上げしてほしいという要望はなかったし、業者にいくらで卸しているのかも知らなかった。でも、自分たちで考えてみて、ショウガが1キロ250円はちょっと安すぎる! このままでは何か悪い感じがする! と思って値上げしてもらったのだ。
このように、仕入れ先からの交渉によらず、自分たちの考えで仕入れの値段を上げるということは普通のビジネスではちょっと考えられないことだと思う。普通は、仕入れの値段を下げようと交渉するものだ。
でも仕入れ値をあえて上げさせているからといって、私が大儲けしているわけではない。もちろん、「ジンジャーエールシロップ」の売れ行きがいいということはあるが、今年ようやく黒字になった程度である。それどころか、国民年金保険料の免除・減額の手続きをしたり、相変わらず貧乏な暮らしは続いているのである。
それでも仕入れ値を上げてもらったのは、1キロあたり250円はフェアでない価格だと思ったからだ。フェアトレード、という考え方は何も途上国相手にだけ適用するべきものでなくて、通常の商売においても常にフェア(公正)を念頭に置くべきだと思う。
そしてもうひとつ強く言いたいことがある。
今の時代、コスト・ダウンではなく、コスト・アップが必要だ、ということだ。
もう20年以上も続く不況によって、ビジネスではコスト・ダウンばかりが叫ばれ、誰もコスト・アップを試みる人はいない。当たり前である。コスト・ダウンをすれば利益が増える。利益が増えれば給料が増える。コスト・ダウンをすれば効率化になる。効率化ということは生産性があがる。生産性があがるということは、GDPが増える、ハズだった。
だが、逆からみればそれは正しくなかった。コスト・ダウンをすると、コストを削減された業者にとっては収入が減るということだった。社会全体がコスト・ダウンばかりしていると、実はみんなの収入が減ってしまう。購買力が落ちるから、ものが売れなくなる。コスト・ダウンによって生産性を上げるどころか、ものが売れなくなって生産性が落ちてしまった。
その上、コスト・ダウンというのは、無駄の削減である場合は必ずしも多くない。
無駄を削れ、とよく言われる。だが、ビジネスのフローにおいて本当に無駄な部分というのは実は少ない。鉄板の厚みを1mm削る、といったことも、単に強度や耐久性を犠牲にしているだけのことが多い。強度や耐久性なんて無駄なんだ! といえばそれまでかもしれない。でも、そういうことを20年も続けてきたおかげで、世の中には軽薄短小な安物ばかりが増えてしまった。
一方で、極限にまで無駄を切り詰めているビジネスの世界で、未だに書類にはハンコが必要だ、といったような馬鹿らしい無駄がはびこっているようにも見える。無駄を省き続けた20年、日本は一切無駄のないスマートな社会になったんだろうか? とてもそうは見えない。本当に省くべき無駄が温存されて、品質や人々の暮らしが犠牲になってきただけなのではないか?
そもそも、無駄を省くとか、効率性を上げるということは、実はコスト・ダウンを図ることによっては成し遂げられないことだ。効率化するにはむしろ、冗長な部分を作ること、余白を作ること、贅肉をつけることから始めなくてはならない。一度余裕のある状態にしておいて、そこから新しく効率のよい道筋を探るというようにしないと、余裕のないギチギチの状態から無駄をなくそうとしても、部分的には最適化できるかもしれないが全体はどんどんいびつになっていく。
筋トレでも、最初から筋肉をつけるのは難しい。最初はたくさん食べて贅肉をつけ、それをトレーニングによって筋肉に変えていくのが王道である。ただ痩せたいならひたすらトレーニングを続ければ減量はできるが、本当の意味での体作りにはならない。だがこの20年、日本社会はひたすら無駄を省くという過酷なトレーニングをするばかりで、体作りはしてこなかったのではないだろうか。
だから私は提唱したい。コスト・ダウンではなく、今度はコスト・アップを図ってはどうかと。これは簡単である。取引先に行って、これまで100円で仕入れていたものを110円にしてくださいと頼めばいい。断る人は誰もいないだろう。
そんなことをしたら利益がなくなる! と思うかもしれない。これまでギリギリにまで切り詰めていた製造コストを、いきなり上げるなんて不可能だと。確かに、あなたの会社だけがコストを上げるならその通りである。だが、それを社会全体でしたらどうか?
仕入れコストも大きくなるが、ものの値段も少しずつ上がる。だから給料も上がる。社会全体がコスト・アップすれば、基本的には社会全体の収入は増える。そしてもっと重要なことは、100円で卸していたものが110円に値上げできるとすれば、その製造会社には10円分の余力が生まれ、新たな創意工夫の余地が生まれるということなのだ。
コストを切り詰められる、ということは、打てる手がどんどん少なくなっていくことを意味する。100円のものを90円にコスト・ダウンしてくれといわれれば、出来ることは限られる。工程を減らし、原材料を減らし、人件費を安くし、手数はどんどん減っていく。だが、100円のものを110円にしてもよいと言われれば、その10円分は未来に向けて使うことができる。
また、コストを減らすことばかり考えていると、コストを減らすためのコストが見えなくなってくる。役所仕事が典型であるが、100円の無駄を省くために500円かける、なんてことは、実はよくあることなのだ。
先日、あるイベントの会議で、「通訳ボランティアを確保するにはどうしたらいいのか」みたいな議論がされていた。難しいことである。イベントのボランティアを確保するだけでも大変なのに、通訳まで出来る人に協力してもらうのはさらに難しい。
だからその場で「通訳は専門職なのだから、ちゃんと仕事として依頼したらよい」と発言してみた。そうしたら、「そうだよね。ボランティアでやってもらおうとするから難しいだけで、普通に依頼したら簡単だよね」という方向になってほっと一安心したのだが、今の日本社会はこういうことがよくあるのではないか。コストをちょっとでも削りたいがために、難しい課題をクリアしなければならないような場面が。
ちょっとのコストを削減するために知恵を絞るよりも、もっと生産的なことに頭脳を使った方がいいのである。
もちろん、こんな議論は理想論で、現場を知らない空想的なものだ、という批判はあるだろう。生き馬の目を抜く競争社会で、お願いされてもいないコスト・アップなどするのは馬鹿げていると。だが極限にまで無駄を切り詰めたその先には、もはや社会の発展など望めないのではないかと私は思う。
先日、経団連の会長が「国民の痛みを伴う思い切った改革を」と首相に提言したそうである。 ならば、まずは企業が自主的に利益を犠牲にして、コスト・アップを図ってはどうかと思う。取引先に値上げを促せばよい。すぐにでもできることだ。そうすれば、日本経済にどれだけよい効果があるかわからない。一時的には企業も痛みを伴うかもしれないが、長い目でみれば素晴らしい成長策になる。
コスト・ダウンはもう十分なのだ。コスト・アップを社会全体でやる方が、ずっと将来性がある。
私はショウガの仕入れでそれをした。次はあなたの番である。
2017年11月1日水曜日
2017年10月27日金曜日
島津久光と明治政府の対立——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その6)
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島津久光 |
そうした機会を捉え、島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建白書」を奉呈した。
その内容は、当時明治政府が進めつつあった各種の改革を強く非難するものであった。久光は、明治維新の立役者でありながら、いざその改革が進み出すと明治政府と対立した。明治維新は、彼の思惑とは違うものになってしまっていたからだ。
改革を否定する「14箇条の建白書」は、当然のことながら政府首脳からは全く相手にされなかった。その内容は、次のようなものだった。
一、至尊(天皇)御学問の事、
一、国本を立て紀綱を張る事、
一、服制を定め容貌を厳かにする事、
一、学術を正す事、
一、慎みて人才を択(えら)ぶ事、
一、外国交際を謹み審らかに彼我の分を弁ずべき事、
一、兵気を振興し軍律を正す事、
一、貴賤の分を明らかにする事、
一、利欲を遠ざけ節義を重んじ詐術を退け誠実を貴ぶ事、
一、淫乱を厳禁し男女の別を明らかにする事、
一、言路を開く事、
一、讞獄(げんごく)を慎み賞罰を正す事、
一、租を軽くし斂(れん=政府が人民から集めるもの)を薄くする事、
一、詳らかに出納を量る事
久光が嫌ったのは明治政府の「文明開化路線」であった。外国と親しく交際し、外国の学問を無定見に取り入れ、貴賤の別、男女の別を緩めたことに憤っていた。そうした象徴として、久光は天皇が洋装になったことを特に問題視した。鹿児島巡幸の際にも天皇以下供奉のものも全て洋装であった。久光にとって、その様子は滑稽であった。外国の猿まねに見えたのだ。
久光は、明治維新後も封建時代の雰囲気のまま、「尊皇攘夷」を続けていた。彼は死ぬまで、髷を切らず帯刀を辞めなかった。
そもそも、久光は全く新しい政体を作るつもりはなかったようだ。彼は、薩摩藩を中心とした雄藩連合や公家が皇室をいただいた、いわば天皇中心の「連邦国家」を構想していたのかもしれない。それは各地に「藩」という半独立国が存在するという意味で、封建主義の枠内で構想された政体であっただろう。
しかし幕末には忠実な家臣だった大久保利通も、いざ明治維新が興ればその手を離れ、日本を近代国家に変えるための仕事に着手していた。岩倉具視、木戸孝允、そして大久保らは日本を西洋風の中央集権国家に作り直そうとした。
そういう明治政府と島津久光の対立は、少なくとも明治2年、版籍奉還のあたりから始まっている。
版籍奉還自体は、明治2年(1872年)の正月に提出された薩長土肥の四藩による建白に基づいている。この建白書は四藩が自主的に出したものというより、政府がモデルケースとして四藩に率先して版籍奉還を行うよう求めた結果であるが、久光も版籍奉還の構想までは新政府にそれなりに協力的であったのだろう。しかし建白書を出したその1ヶ月後から、政府と久光の間には早くも暗雲が立ちこめた。上京して政府に協力するようにという天皇からの要請(勅書)があったのに、久光は病気を理由にそれを断ったのだ。
同様にこの要請を断ったのが長州藩の毛利敬親。薩長二藩は、明治維新をリードしながら、共に明治政府と対立を深めていた。
久光が天皇からの要請を断った理由が病気のためだけではなかったことは、その後幾度となく同様の要請が行われたことで知れる。
たびたび要請を受けた久光らは上京を決心。3月に京都に入り、天皇に謁見した。そして久光と敬親は「自分たちを要職につけてくれ」という趣旨の連名の建白書を奉った。結果、久光は「参議」に任命され、左近衛権中将を兼ね(これは形式的な官名)、従三位に叙された。
しかしそのたった数日後、久光はせっかく任命された「参議」を辞職する。これも表向きは病気をその理由にしていたが、本当に病気のためであるはずはなかった。改革を進める政府に、守旧派の久光の意見が受け入れられる余地はない。新政府には、既に久光の居場所はどこにもなくなっていたのだ。そこで久光はさっさと鹿児島へ帰ってしまう。
その後、政府は久光の慰撫に随分気を遣っている。 例えば6月には、戊辰戦争での功績を理由に久光を「従二位」に叙し、永世禄として破格の10万石を与えた。が、久光はこれをすぐさま辞退。久光によれば「陛下の神威と列聖在天の霊」による戦勝なのだから、自分などが賞典を受けるに値しない、というのだ。だがこれも表向きの理由で、久光の本心としては、体制内に取り込まれたくないという気持ちだったのだろう。しかしこの辞退はすぐには受け入れられなかった。
そうした中、明治2年6月17日、版籍が奉還され、久光の子で当時藩主を務めていた島津忠義が藩知事に任命された。当時、久光は薩摩藩主ではなかったし、一度も藩主を務めたことはなかった。彼は藩主の後見役に過ぎなかったが、「国父」として実質的な権限は久光の下にあった。つまり久光は形式的には明治政府と無関係でありながら、一方では西郷や大久保、それから大勢の士族たちを通じ隠然とした影響力を有していた。政府としては、久光は独立不羈の不気味な存在だったに違いない。
明治2年の6月には、久光の兄で前藩主の島津斉彬への「従一位」の追贈が行われた。明治政府の中でも追慕するものが多かった斉彬であり、これ自体は不自然な賞典ではないが、もしかしたら久光への慰撫という側面があったのかもしれない。
しかしこれを受け、明治3年(1870年)正月、久光は改めて位階を辞退する上表を行った。その上表文に言うには、明治維新にあたっての自分の功績は全て兄斉彬から受け継いだ「余慶」であるから、既に斉彬へ位階が追贈された以上、自分へも位階が叙されることは「褒賞を重ねる恐れ」があるというのだ。
この再三の辞退に、政府はしょうがなく「従二位」の奉還を認めた。だが政府は、久光を体制内にとりこもうとする努力をやめなかった。
また同月には、大久保利通が西郷と久光を鹿児島から引き出すためにやってきた。そして2月24日、久光と大久保は面談の最中に激論となり、大久保には「言うべからずの沙汰」、つまり「もうこれ以上何も言うな」との指示が下った。約10年の間、固い信頼関係で結ばれ、数々の困難を乗り越えてきた二人は、日本が向かうべき方向について決して理解し合えない分かれ道に遭遇したのである。
それでもこの年の5月には、木戸孝允が毛利敬親を連れて鹿児島を訪れ、久光親子と会見して「ともに力を朝廷に尽くして欲しい」と頼んでいる。
12月には、この件に関して正式な勅旨を伝えに、岩倉具視が鹿児島を訪れた。その勅旨に曰く「上京し、朕の輔翼大政を賛成し、各藩の標準となり大に皇基を助け」て欲しいと。また天皇からの詔書には、「久光は朕の股肱羽翼なり」とまで書いている。久光が天皇にとっての「股肱羽翼」——つまり一番信頼できる部下——だというのだ。これはかなりの気の遣いようである。しかも岩倉は、大久保利通、山県有朋、河村純義なども引き連れていた。しかし久光は、勅使の岩倉に会うことすらしなかった。代理として息子の忠義に勅旨を受け取らせたのである。ここでも口実に使われたのは病気だった。
明治4年(1871年)に入っても、政府からの上京の要請はたびたび行われた。そこで、久光は仕方なく4月に息子の忠義を代理人として上京させ、病が癒えないため出仕できない旨を弁明させている。
そんな中で、明治4年の7月、廃藩置県が行われた。
廃藩置県こそは、明治維新の改革の中で最大のものであった。というのは、大久保利通や木戸孝允といった、中央政府で活躍していた英傑たちも、そもそもは藩の代表として維新に参与していた。彼らが重んじられたのは、その能力が評価されたのだとしても、元来は出身藩の権威・軍事力・経済力といったものがなくては、舞台にすら上がることができなかった。例えば大久保利通は、久光に取り立てられ中央政界に送り込まれるということがなかったら、おそらく歴史に名を残す仕事をしていないだろう。
だから、明治政府はその出発においては、雄藩連合の意味合いが強かった。藩を基盤にした政権だったし、人材も各藩から登用されていた。
ところが廃藩置県というのは、政権の足場ともいうべきその藩を自ら解体することを意味していた。一歩間違えれば政権が空中分解する可能性もある危険な施策であった。だがそれをしなくては、いつまでも明治政府は半独立の藩の連合体のままで、近代的な中央集権国家になることはできなかった。
各藩主にとっては、廃藩置県とは長く築き上げてきた領地と財産をたった一篇の勅令によって政府に取り上げられることである。そんなことが容易に認められるわけがなかったし、政府内においてもこれを主導した西郷隆盛は矛盾に苦しんだという。一度は殉死しようとまでした先君島津斉彬公の残した薩摩藩を自分の手で解体してしまってよいものかと。西郷はその矛盾を、明治天皇への忠誠によって乗り越える。今や新しい君主として西郷は天皇をいただいていた。斉彬への忠誠と天皇への忠誠は矛盾しなかった。より大きな立場で忠君愛国を貫くことで、西郷は廃藩置県を敢行したのである。
一方久光は、西郷や大久保には、決して廃藩だけはするなと申しつけておいたらしい。この指示は結局無視されたわけで、廃藩置県が行われるや久光は激怒し、憂さを晴らし不満を表明するため、一晩中花火を打ち上げたと伝えられる。廃藩置県に対する公然たる反対であった。
廃藩置県から2ヶ月後の明治4年9月10日、政府は久光の「積年の功績を褒し」て、別に家門を立てる勅書を出した。分家の命令である。島津本家を継いでいるのは息子の忠義で、久光は後見人にすぎなかったが、その久光を独立させたのである。勅書では、体裁上褒賞の形をとっているが、これまでいくら久光に上京を促しても、名義上は当主である息子の忠義を派遣したり、忠義に弁明させたりといったことが続いたので、久光その人を動かすために強制的に分家させたのだと思われる。
同じく9月には、廃藩置県に基づき県令として大山綱良が鹿児島に赴任した。こうして700年にわたる島津家の鹿児島支配はあっけなく終わった。
そして時を同じくして、政府はあらためて久光を「従二位」に叙した。「たびたびの固辞があってやむをえず受け入れたが、改めて宣下することにした」という。このあたりから、久光と明治政府の対立は意地の張り合いとでもいうべきものになってくる。
9月にはまたしても岩倉具視からの上京の依頼。「皇国の前途の興廃安危は則ち薩長土の三力」が頼みであり、再三久光に上京を要請したにもかかわらずそれが無視され続けて今日まで来たことは「実に茫然の仕合」だと。しかしこれに対しても、久光は即座に断っている。理由は「旧来の足痛」である。確かに病状も重かったらしい。
久光は、明治政府は早晩瓦解すると考えていたようだ。かつての忠君たちはもはや藩の力で中央政府に登用されたことも忘れ、基盤である地方の意見も聞かずに急進的な改革に溺れている、と久光は考えた。このような政体は、長続きするはずがないと。だから久光は、明治政府から距離をとろうとした。そして10月には、またしても病気を口実にして、「従二位」の位階を返上したい旨上表したのである。このあたりの明治政府と久光の応答はほとんど押し問答に近く、文面は極めて慇懃であって滑稽ですらある。
明けて明治5年(1872年)には、忠義から改めて「せめて従二位の拝授を遅らせて欲しい」との上請も行われた。病気が癒えるまで上京することができないという理由だった。
……これまで、明治2年から5年に至るまでの島津久光と明治政府の動向をかなり詳しく見てきた。
久光にとって、明治政府はかつての部下が自分への恩義も忘れて好き勝手な改革を弄んでいるように見えたから、当然気にくわなかっただろう。しかも急進的な改革は、実際に旧社会を良かった部分も含めて急速に破壊しつつあって、彼の不満もただの感情のもつれというわけでもなかった。
そもそも名目上の明治維新とは、いっこうに攘夷を出来ない幕府に代わって天皇が政権を担う、という意味で行われたものだ。しかし実際に新政府が出来るやいなや、「攘夷」の旗印はどこかに行ってしまった。明治政府は西洋の制度や文物を導入するのに忙しく、それを吟味しないままに、どんどん日本に持ち込んでいった。
幕末、久光を突き動かしていたのは、日本を清国のように西洋の属国・植民地にはさせない、という使命感だったように見える。にもかかわらず、新政府は海外のものに心酔し、あまつさえ天皇を洋装に整えた。これでは政治的には独立を保ったとしても、精神的には西洋の属国ではないか。このままでは「日本」はなくなる。そういう思いが久光の胸にあった。
これは久光だけがそう思ったのではない。当時日本を訪れた外国人さえもそう思ったのだ。日本には美しい衣服や住居、立ち居振る舞い方があり、日本人の身のたけにあった社会の仕組みがあるではないか。それをわざわざ破壊して、導入する必要もない西洋のやり方を猿まねして移植することは文化的損失であると。明治政府の「洋風礼讃」は、憧れの西洋からすら滑稽に思われた。
一方で、久光は強硬な攘夷論者というわけではなかった。久光は兄・斉彬から「彼の長を取り、我が短を補う」ことが海外との付き合いの基本であるとたたき込まれていた。攘夷が国是であった時ですらも、例えば紡績のように海外の優れた技術を採用することに久光は躊躇していない。久光は西洋を毛嫌いしたのではなかった。ただ、実際の社会への適合を考えず盲目的に西洋を礼讃して、守るべき伝統も顧みない新政府に愛想を尽かしたのである。
確かに、彼は封建主義体制から抜け出ることは出来なかった。「男女の別」や「君臣の別」を喧しく言う守旧的傾向はあった。それが久光の限界でもあった。時代から取り残された人物という評価もできよう。しかし久光は、新政府によって破壊されつつあった旧い日本を一人で体現していた。良い部分も、悪い部分も、全て含めてだ。彼とともに、古き良き日本が破壊されつつあった。
そしてまた、久光とはまた違った理由から、鹿児島の士族たちが反明治政府的になっていったのはよく知られている通りである。士族たちの不満は、ある意味では失業問題であった。明治維新を主導したはずの士族階級は、雇い主である藩がなくなったことで解雇され、無職になってしまった。結局明治10年には西南戦争が勃発してしまうように、明治維新を主導した薩摩藩は、明治の始めから急速に政府への反発を強めていった。
こういう情勢であったから、明治政府が島津久光の慰撫を重大な課題と認識したのも無理はない。どうにか久光には体制側についてもらって、鹿児島の士族の不満を抑えて欲しい、せめて公然と反旗を翻すことはやめてほしい、と思っていただろう。だが一方で、久光の意見については一切聞く耳を持たなかった。久光の意見を聞く気はなかったが、体制内には取り込みたいと思っていたわけで、明治政府の姿勢にはご都合主義的な部分があった。
よって、久光を慰撫する手段は、いきおい「象徴的」なものとならざるを得なかった。例えば、「従二位」の宣下といったものである。その究極が、明治5年の天皇の鹿児島行幸であった。この西国行幸は、もちろん久光の慰撫のためだけに計画されたものではなく、廃藩置県後の人心の収攬を目的にして各地を巡るものであったが、その大きな目的は鹿児島の久光をなだめるということにあった。この巡幸を強く主導したのは西郷隆盛であった。尊皇の志の篤い敬神家で知られた久光である。天皇がわざわざ出向いていけば、頑固な久光とても態度を和らげるに違いないと。
そんな中で傲然と行われたのが、守旧的意見を述べる「14箇条の建白書」の奉呈であった。その建白書の添え書きに言うには、「明治2年に上京して出仕した折には意見を申し上げる機会もなく、何らの御下問もいただけなかったので虚しく沈黙するしかなかった。このたび天顔を拝するにあたり”因循固陋”の意見ではあるが、この先このような機会もないと思われるので突然の奉呈を許して欲しい」。そして、「現在の政体では国運は日に日に衰弱し、万古不易の皇統も共和政治の悪弊に陥り、終には洋夷の属国となってしまう」と。
この文面を見れば分かる通り、久光としては、天皇は自分の意見を分かってくれるかもしれないと思っていた。明治政府とは対立していたにしても、久光は敬神家であることは間違いなく、天皇の権威は強く認めていた。ただ、その権威ある天皇をほしいままにして、傀儡化している明治政府を非難していたのである。
明治5年6月23日の、明治天皇による可愛・吾平・高屋の神代三陵の遙拝は、このような状況を背景にして理解する必要がある。久光の慰撫が、明治政府にとっての対鹿児島政策の最大の課題だった時期のことだ。この神代三陵の遙拝が、政治的な意味を帯びていないとしたら、そっちの方がおかしいだろう。
久光の国を、天皇が肇国の聖地と認めて恭しく遙拝すること。これが久光への慰撫でなくてなんだというのか。そしてこれは鹿児島の士族へ向けたメッセージでもあったはずだ。例えば現代においてすら、鹿児島出身の俳優やタレントであるというだけで鹿児島の人には身近に感じられ応援される場合が多い。天皇家のルーツが鹿児島にあると公式に表明することは、鹿児島の士族に天皇家を身近に感じて欲しいという意味合いがあっただろう。
こうしたことは史料上のどこにも書いていないことで、状況証拠に基づいた私の推測であるが、「久光と士族の慰撫」、それが、まだ公式には指定されてもいない神代三陵を天皇が遙拝したことの政治的意味であったと確信する。
だが、天皇が自主的にこのような政治的パフォーマンスをするわけがない。もちろん、この遙拝を演出した人物がいるのである。
鹿児島で神代三陵を遙拝するよう天皇に建白した人物、それが薩摩藩出身の国学者であった田中頼庸(よりつね)であった。
(つづく)
【参考文献】
『島津久光公実記 巻七』1910年、島津公爵家編輯所 編
『西郷隆盛―西南戦争への道』1992年、猪飼 隆明
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、倒幕を決意したか』2002年、芳 即正
※2018年2月6日アップデート
久光の行動に関して、一面的すぎる記載があったので表現をやや改めた。それにより参考文献『島津久光と明治維新』を追加した。
2017年9月24日日曜日
神代三陵が等閑視されていた理由——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その5)
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明治天皇の鹿児島行幸(山内多聞 画) |
ただし、それらが鹿児島の中のどこにあるか、というと異説がいろいろとあり、幕末の時点でも決定打と呼べる説はなかった。何しろこの頃は、古代の考証といっても考古学の考え方がほとんど援用されていない。地名や言い伝え、口碑流伝(こうひるでん)によって推測するのがこの頃の考証である。しかもそういった伝承を批判検証することなくそのまま信じ、その上考古学的遺物も調べないのだから、決定打がなかったのは当たり前である。
とはいっても、それは他の歴代天皇陵においても全く同じだった。「文久の修陵」によって神武天皇陵を急ごしらえで新たに築造したように、本来どこにあるのかという調査研究よりも、天皇陵をコンプリートするという政治的目的の方が優先され、根拠はあやふやなままでどんどん天皇陵を治定していったのが幕末であった。
そしてこの姿勢は維新後も変わらない。歴代天皇陵の確定に目途がついてくると、明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。天皇陵だけでなく、広く皇族の陵墓までもその対象として指定し、全国に皇室讃仰の拠点を配置していこうとしたのである。こうなると、鹿児島に神代三陵が治定されたのは当然のことのようにも思える。
だがこの明治4年の時点において、神代三陵については政府は全く指定するつもりがなかったようなのだ。行政文書などを見ても、神代三陵については特に触れられていない。祭祀すべき天皇陵は、あくまでも神武天皇陵に始まるのである。
ではなぜ明治政府は神代三陵を無視していたのだろうか? 「万世一系」の証拠となる天皇陵だけでなく、それに附属する皇族たちの陵墓まで確定させようとしていたのに、それよりもずっと重要に見えるその父祖たちの山陵を等閑視していたというのはどうしてか。
それを考えるために、改めて「神代三陵」とは何かを理解しておきたい。神代三代、あるいは日向三代(ひむかさんだい)とは、天孫降臨から神武天皇に至るまでの三代の神々を指す。具体的には、天孫ニニギ、その子ホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズである。ウガヤフキアエズの子が神武天皇になる。
ここで少し、この神代三代の神話を簡単に振り返ってみよう(※)。
高天原(たかまがはら)を治めていたアマテラスは、下界がオオクニヌシらの善政によって栄えているのを見て国を譲ってもらえるよう交渉し承認される。アマテラスは孫のニニギを派遣し、ニニギが降り立ったのが日向の高千穂の嶽であった。これが天孫降臨である。
ニニギはやがてコノハナサクヤ姫という美女と出会い結婚する。しかしたった一夜のちぎりでコノハナサクヤ姫が身籠ったため、ニニギは「自分の子ではないのではないか」と疑った。そこで姫は出口のない部屋を作ってそこに籠もり、火をつけて燃えさかる産屋の中で出産。本当のニニギの子どもなら無事に生まれるだろうというのだ。
燃えさかる部屋の中で果たして無事に生まれたのが三兄弟で、その末っ子がホオリであった。ホオリは「山幸彦」として知られる神である。ホオリは、兄のホデリ(海幸彦)の釣り針を海でなくしたことで兄弟喧嘩になって、釣り針探しに海神の宮まで行き、海神の娘であるトヨタマ姫と結婚した。
トヨタマ姫はその出産にあたり、鵜の羽で屋根を葺いた小屋を作って、自分の出産を決して見ないようにホオリに申しつけておいたが、ホオリはその約束を破って出産を覗いてしまう。そこには、出産にのたうつ鮫(ワニ/龍)がいた。トヨタマ姫の正体はワニだったのである。正体を見られたトヨタマ姫は海神の下へと帰ったが、ここで生まれたのがウガヤフキアエズである。鵜の羽で屋根を葺き終わらない間に生まれたからそういう変わった名をつけた。
ウガヤフキアエズはトヨタマ姫の妹のタマヨリ姫を妻に迎え、そこで誕生したのが神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)である。
このように神代三代とは、天界から降りてきたニニギ、海神の宮に行ったホオリ、ワニから生まれたウガヤフキアエズと、いずれも神話的なエピソードに彩られている。
そこで読者諸氏に問いたいのだが、この神代三代の神々は、実在したと思うだろうか?
現代の人で、彼らが実在したと思う人はいないだろう。もしかしたら、こうした神話の元になった古代の英雄的人物はいたのかもしれない。きっと、古代社会のなんらかの習俗や、伝統や、歴史を反映して生まれた神話なのだろうとは思う。しかし、ニニギやホオリ、ウガヤフキアエズといった人物そのものが実在したとは、現代の常識に照らして到底考えられない。
しかし、神代三陵を政府が指定するということは、少なくともこうした神々の実在を公認することを意味した。なぜなら、実在しない人物の墓があるわけがないのだから。明治4年の段階で政府が神代三陵の指定をする気がなかったのは、おそらくこのおとぎ話的な神話を公認することに二の足を踏んだからではないかと思う。
というのは、明治政府の山陵政策にとって最も重要だったのは、これまで見てきたように神武天皇による「肇国の神話」を現実化し、「万世一系」の皇統を確たるものにすることだった。何しろ、既に王政復古の大号令において、「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」とされたくらいである。今の世に「神武創業」を再現することが、明治政府の理想の一つだった。
しかしそういう神武天皇ですら、本当は神話の彼方にあった。
記紀に記された神武天皇の事績を見ると、神代三代に比べるとおとぎ話的な要素は少ないが、やはり神話的人物であることは間違いない。そういう神武天皇の存在を無理矢理に歴史的事実へと変換するための装置が神武天皇陵の創出だったわけで、神代三陵のようなおとぎ話的なものまで公認してしまうと、公認の信頼性が下がって「神武天皇も実在していないのでは?」という疑問を惹起する可能性があったのである。
江戸時代や明治の人たちは、記紀の神話を素朴に事実だと信じ込んでいたのではないか? と思う人もいるかもしれない。神話と歴史の区別もつかなかったのではないかと。
でもそれは大きな間違いだ。既に江戸の中期から、記紀神話は歴史的事実ではないという考えはどんどん広まっていった。例えば、新井白石が享保元年(1716年)に記した『古史通』では神代の神怪談を人事の比喩的修辞と見なしたし、山片蟠桃が享和2年(1802年)に著した『夢の代』では、神代説話を後世の作為の産物であるとする見解を表明している。しかも山片蟠桃は、神代説話だけでなく神武天皇から仲哀天皇の部分までをも客観的事実の記録としては認めがたいとした。これは、大正時代になって津田左右吉が行った画期的な記紀研究と結論においてほぼ一致しているのである。
実は、江戸時代は合理主義の精神が花開いた時代でもあって、記紀神話を素朴に事実だと信じるようなことは、この時代の知識人にはなかったと考えられる。
記紀神話に記された年代から600年を減じなければ外国の史書と年代が合わないことを主張した藤貞幹の『衝口発』(天明元年(1781年))に対し、本居宣長は反発してこの説を葬り去ろうとした。これは「日の神論争」と呼ばれる上田秋成と宣長の激しい論争の発端になったのであるが、宣長がムキになった事実をもってしても、逆にこうした説が受け入れられる常識があったことが窺えるのである。それどころか、宣長の門人である伴信友でさえも『日本書紀』の紀年が辛酉革命の説によって作為されたものであることを論証しており(「日本紀年歴考」)、記紀神話が事実そのものであると信じることは、記紀を学問の根本に置く国学者にとってすら難しかったと思われるのである。
そもそも、国学の淵源の一つであった水戸学の根本『大日本史』においても、その始まりは神武天皇であり、それ以前の神話は歴史としては扱われていない。天皇の正統性を主張する『大日本史』においてすらこうだから、記紀神話が現実のものとは見なされていなかったのは明白である。
だから、明治政府が「神武創業」を厳然たる事実だと強弁しようとした時、知識人からの反論を予想しなかったとは考えられない。いくら社会が大混乱のさなかにあった時であるとはいえ、表立っては反論しにくいように歩みを進めていったに違いないのである。
そんな中で、神代三代の荒唐無稽な神話をも事実であると認めることは、あまりにも軽率なことであった。神代三陵を公認することは、明治政府の正統性と理念の象徴である「神武創業」が子どもっぽい嘘の上に成り立っていることを白日の下に晒す可能性があったのだ。
ところが、明治5年になって、明治政府はほとんど唐突に「神代三陵を始め(中略)等未詳の御箇所」を早く確定しなくてはならないと言い出すのである(明治5年8月29日、教部省伺)。
これはどうしてか。
ここから先は、史料上では明らかではない。だから、ここからは私の推測が入ってくる。そして、ここからが本題である。
明治5年に政府がいきなり神代三陵を確定させようとした事情は、きっと明治天皇の鹿児島行幸にある、と私は思う。
廃藩置県後の明治5年の5月、明治天皇は東京から西に赴き、大阪・京都・下関・長崎・熊本の各地を巡幸して、遂に6月22日には鹿児島に着いた。鹿児島に天皇を迎えるということは鹿児島の歴史にとって空前のことであった。
そして翌23日の午前6時、天皇は行在所の庭にしつらえられた拝所で、もっとありえないことを行った。可愛・高屋・吾平の神代三陵を、遙拝(遠くから拝むこと)して、御幣物を奉納したのである。この時点では、まだ神代三陵は政府によって確定していなかったにも関わらずだ。
このことがあったから、明治政府は神代三陵の確定を急いだのは間違いない。天皇が遙拝したその山陵が、本当は別のところにあったということになれば大変なことになる。明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した時点で、神代三陵の確定は既定路線となってしまった。
ではなぜ明治天皇は、まだどこにあるか確定してもいない神代三陵を遙拝したのだろうか? 江戸時代から育ってきていた合理的精神と対決してまで、神代三陵を実在のものとして扱ったのはどうしてなのだろうか?
(つづく)
※記紀神話の要約は、基本的に『古事記』に依った。
【参考文献】
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『鹿児島県史 第3巻』1940年、鹿児島県 編
*冒頭画像は、『鹿児島市史 第1巻』(1969年、鹿児島市史編さん委員会)から引用したもので、明治神宮外苑絵画館に展示されているもの。
2017年9月19日火曜日
薩摩藩の天皇陵への関心——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その4)
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『神代山陵考』白尾国柱 著 |
では、鹿児島にとって、天皇陵とはどんな存在であったのだろう。やはり薩摩藩も、天皇陵を政治的に利用しようと目論んでいたのだろうか?
最初に答えを言ってしまうと、風雲急を告げる幕末の頃、薩摩藩にとっては天皇陵など眼中になかった。
例えば、宇都宮藩が尊皇を形にするものとして歴代天皇陵の修陵を建白した文久2年、薩摩藩がどのような動きをしていたのかというと、ずっと過激な尊皇の挙に出ていた。文久2年の3月に、島津久光は一千もの軍勢を連れて京都に入京したのである。
本来、京都は幕府の軍事統制下にあり、諸侯は幕府の許可なくして絶対に立ち入ることはできなかった。この時久光は、江戸への参勤を名目にして鹿児島を出発し、許可なくして京都へ立ちいって朝廷との接触を図った。幕府に対する反逆ともとられかねない行動だ。彼が軍勢を連れていたのは、もちろん京都を攻撃するためではなくて、兵士たちを天皇に献げるためであった。
そういう久光に孝明天皇は滞京を許し、浪士の沈静化に当たるよう勅諚(ちょくじょう)を下した。そして久光の軍勢800人はそのまま大原重徳(しげとみ)勅使の護衛となり、幕政改革を求める「三事策」を幕府へと突きつけるため江戸へ向け出発するのである。
このときまで、天皇の権威はある意味では架空のものであった。いくら日本を治める正統な君主であるといっても、政権の基盤となる実力がなかったからだ。朝廷の石高は僅か3万石であって、天領(幕府の直轄領)400万石とは比べるべくもなかった。あくまでも、理論上だけの権威に留まっていたのである。
しかしこのとき、天皇の勅使は、800人の精鋭部隊に護衛され、江戸城の中を我が物顔に闊歩することができた。もはや天皇の権威は架空のものではなかった。現実の軍事力に裏打ちされ、幕府にも打倒しがたいものへと変質していた。久光は、軍事力を天皇に献上することで最も過激な尊皇を表現し、天皇の権力を現実化したのである。
そして島津久光らが構想した「三事策」はある程度実現され、その最も象徴的な側面として参勤交代制度の廃止をもたらした。こうして江戸で十分な政治的成果を収めた久光は、悠々と江戸を去ったのである。その帰路で彼は生麦事件に遭遇するが、そのまま彼はまた京都へ向かい、孝明天皇に拝謁した。
官位もなく、藩主の後見人に過ぎない島津久光が天皇に謁見することを許され、また太刀を賜ったことは、久光がもはや江戸幕府の秩序から飛びだし、天皇と直接に君臣関係を結んだことを意味していた。これを契機として、同年の冬だけでも、長州、土佐、鳥取、安芸、久留米、佐賀、阿波といった各藩主が幕府の許可なしに上洛していくことになるのである。
このように文久2年という年は、生麦事件だけでなく、薩摩にとって転回点となった年でもあった。ともかく、この頃の薩摩藩というものは、幕政改革を成し遂げるための政治的な動きに忙しかったから、象徴的な意味しか持たない天皇陵については、ほとんど何も顧慮することがなかったと言ってよい。悠長な天皇陵の修補などやっている場合ではないのだ。もちろんその後についても、現実の政治・軍事の問題を処理することに忙しく、天皇陵について何かを主導したといった形跡は見られないのである。
しかし、薩摩藩がそれ以前も天皇陵に無関心だったかというと、そうでもない。
天皇陵問題に取り組んだ薩摩藩主といえば、島津重豪(しげひで)(1745〜1833)がいる。重豪は島津斉彬の曾祖父にあたり、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物であるが、この重豪は白尾国柱という国学者に命じて神代三陵—すなわち「可愛(えの)山陵」「吾平(あいら)山上陵」「高屋(たかや)山上陵」の調査をさせているのである(『神代三陵取調書』文化11年(1814年))。
白尾国柱は、既にその命を受ける前の寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を書いていた。これは後になって、神代三陵の位置の治定に大きな影響を及ぼした本である。重豪がどういうわけで白尾に神代三陵の再調査を命じたのか、その意図は正確にはわからない。
だがこの時期は陵墓に対する社会的関心が高まってきた時期である。その上、山陵研究の嚆矢である松下見林『前王廟陵記』においては、早くも神代三陵は全て薩摩・大隅国にあると考証されていた。一方で、直近に出た蒲生君平の『山陵志』(1808年)において、神代三陵については全く考証もなく、全て日向国にあるものとされているのである。
というのは、記紀には神代三陵は全て日向国にあると書いているのだ。この場合の日向国は、薩摩国と大隅国が分離する前の古代の区画(つまり薩摩・大隅を含む区域)であるとの主張もあるが、記紀は分離後に編纂されたものだから、素直に考えれば神代三陵のありかは日向国、つまり今の宮崎県にあたるのである。『山陵志』は現在の歴代天皇陵の治定にも大きな影響を及ぼした、山陵研究の最重要文献であるから、重豪としてはここで神代三陵がちゃんとした調査もなく日向国に治定されてしまうことに不満があったのかもしれない。
しかしその後しばらく、薩摩藩では神代三陵についての政治的動きは見られない。それでも、神代三陵が鹿児島(薩摩・大隅)にあるという説は既成事実化していった。例えば、「文久の修陵」にも参加した陵墓研究家である平塚瓢斉(津久見清影)が著した『聖蹟図志』(安政元年(1854年))においても、神代三陵は全て鹿児島に治定されている。
一方、日向国に神代三陵があるという主張もされなかったわけではない。現・西都市に生まれた児玉実満という国学者は、『笠狭大略記』やそれを絵図化した「日向国神代絵図」を著し、天孫が降臨した「笠狭之碕」は西都原にあったという説を唱えた。児玉は西都原周辺に残る古墳が、古代の天皇陵であると考えたのである。
しかし、児玉実満は国学者とはいえ一介の好事家であり、薩摩藩による公的な神代三陵の所在主張の前では物の数ではなかった。実際に、宮崎に神代三陵があるという主張は、各種の山陵研究においてほとんど顧みられた形跡がない。
このように維新前においても、神代三陵は全て鹿児島にあるという説はほぼ定説化していたのである。だから、神代三陵の治定においては薩摩閥の政治力が背景にあったという説は、額面通りに受け取るわけにはいかない。神代三陵の鹿児島所在説は、真面目な考証もなく政治力によってゴリ押しされたのではないのだ。それどころか、山陵研究の当初から松下見林によって鹿児島所在説が唱えられており、鹿児島の人だけが言っていたわけでもない。
ところが、さらに調べていくと明治7年の政府の決定——神代三陵は全て鹿児島にあるという決定の背景には、やはり政治的な思惑が見え隠れしているのである。
(つづく)
※冒頭画像は、早稲田大学古典籍総合データベースよりお借りしました。
【参考文献】
『儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年、ジョン・ブリーン
『島津久光と明治維新—久光はなぜ倒幕を決意したのか—』2002年、芳 即正
2017年8月25日金曜日
神話は現実化していった——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その3)
可愛山陵 |
山陵にいち早く注目した為政者は、徳川光圀である。光圀は、元禄7年(1694年)に神武天皇陵の修補を幕府に提案している。その意図するところは、神武天皇からの歴代天皇の陵墓を敬うことで、孝道を示すことであった。
言うまでもなく光圀は、『大日本史』の編纂によって後に「水戸学」と呼ばれることになる政治思想学を確立した人物であり、水戸学は幕末の尊皇攘夷の理論的支柱として明治維新の原動力の一つとなった。その光圀が、神武天皇陵に着目したのは象徴的なことである。ただし、光圀の提案は幕府により却下された。
光圀の提案とほぼ時を同じくして、元禄9年(1696年)、江戸時代の陵墓研究において最も注目される本が執筆された。松下見林の『前王廟陵記』である。『前王廟陵記』は歴代天皇陵について網羅的にその所在を考証した本だ。
これは一部の権力者のためだけにまとめられたものではなく、広く一般へ販売された。元禄時代のことであるから、出版といっても日本全国の人が読んだというと大げさになるが、江戸、大坂(大阪)、京都の版元による共同販売であり決してその読者は少なくなかったと思われる。そもそも、このテーマで商業的に出版ができるというだけでも、山陵への関心の高まりが窺い知れよう(※)。
光圀の提案や『前王廟陵記』による刺激を受けたのか、この頃幕府側でも山陵の調査が活発になったようで、地元の伝承を中心とした古墳の研究や修補(標札の設置など)が行われている。
元禄以降は、陵墓に対する関心は一層強くなり、例えば並河永『大和志』(1736年)、竹口英斉『陵墓志』(1794年)といった、陵墓に関する調査・記録が次々まとめられた。その中でも最も影響力が大きかったのが蒲生君平の『山陵志』(1808年)で、『山陵志』に刺激されて著された陵墓研究本は数多く、一々それを挙げるのが煩わしいほどである。
このように、元禄時代から幕末にかけて山陵の研究がどんどん盛んになっていったのは、ある研究での考証が別の研究で批判されて…という議論の応酬の結果という側面ももちろあっただろうが、それよりも重要な背景は、やはり尊皇攘夷の高まりである。
「尊皇」については、それこそ蒲生君平の『山陵志』がこのような言葉で始まっている。
「古の帝王、其の祖宗の祀を奉りて、仁孝の誠を致すなり(原文漢文)」歴代天皇の墓を敬い、祭祀を行うことは、「仁孝の誠」だというのである。この頃に山陵研究が盛り上がったのは、考古学的な関心などではなく、これまで忘れられていた歴代天皇の墓所を再興することで禁裏(天皇家)への忠誠を形にするという意図によるものだった。
そして、今から考えると意外な感じがするが、山陵は「攘夷」とも分かちがたく結びついていた。「文久の修陵」で創出された神武天皇陵では、それこそこの山陵の「築造」の僅か1ヶ月後、熱心な攘夷論者であった孝明天皇の勅使が派遣されて「攘夷祈願祭」が行われている。山陵は、攘夷を祈願される存在だったのである。
実は、神武天皇陵はそれまでの陵墓研究での考証を半ば無視したような形で強引に築造されたという経緯がある。その理由は、未だ神武天皇陵の位置が明らかにならない段階で神武天皇陵での「攘夷祈願祭」実施が決定されてしまい、築造を急がなければならなかったという事情があったことから、造成しやすい土地を指定したからではないか、と推測されている。神武天皇陵が本当にどこにあったのか、という考証よりも、政治的な日程が優先されたのだ。
なぜ神武天皇陵が政治的に利用されたのかというと、自ら東征して橿原で即位したという神武天皇の「武」のイメージが山陵に重ねられたからだ。この「攘夷祈願祭」によって、神武天皇陵はその後「攘夷」の精神的支柱としての役割をも担うことになった。
ところが、江戸幕府の権威低下が行き着くところまでいって、大政奉還、王政復古となると、この山陵の政治的役割もまた変わって行かざるを得なかった。
明治新政府が、攘夷ではなく開国を志向したからである。
しかし、山陵は「尊皇攘夷」のシンボルでなくなっても、より重大な政治的役割が付与されるようになった。というのは、明治政府の正統性は、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」に支えられていたからだ。この「歴史的事実」を証明するものが、歴代天皇陵であった。
明治維新は、理念の上では決してクーデターではなかった。革命ですらなかった。元来あるべき正統な君主の元に実権が返っただけのことであった。では、天皇家が「正統な君主」であるという根拠は何だったのかというと、それは神の子孫である神武天皇の「建国の大業」であり、神武天皇から続く「万世一系」の無窮なる皇統なのだ。
とはいっても、神武天皇なる人物が本当にいたのだろうか? 現代の研究では、そのモデルがいたとしても、神武天皇そのものが存在したとは考えられていない。遙かな古代の話であり、当時としても伝説の域を出なかったであろう。そもそも、明治政府の方針として、迷信の打破といったようなことが声高に叫ばれていた。その明治政府は、歴史的に全く証拠がない神武天皇を正統性の源泉としていたのである。
そこで重要になってきたのが、神武天皇の実在性を証する神武天皇陵であった。そして、神武天皇から連綿と続く、歴代天皇の山陵であった。こうした「物証」がある以上、「万世一系」の皇統は現実であるとされたのだ。
こうして、神話は現実化していった。
そして、現実化の装置として、山陵が機能するようになった。
もちろん、現実化の装置は、山陵だけではなかった。まず挙げなければならないのは伊勢神宮だろう。伊勢神宮は皇室の崇敬する神社として、歴史的にも特別扱いを受けていたが、今のように皇室との緊密な関係が築かれ、国家の宗廟にされたのは明治政府による。
伊勢神宮がこのような変貌を遂げた原因はいろいろあるが、その一つに、伊勢神宮には三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が祀られているということがある。これこそ、天皇が神話の時代から続いているという事実を証するものの一つだった。
それ以外にも、神話を現実化する装置がたくさん考案された。それは、ある意味では「聖地の誘致合戦」とも言うべきものだった。
例えば、伊勢神宮に次ぐものとしての待遇を求めてある程度成功した熱田神宮。ここも三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がご神体となっている。それから、神武天皇の即位宮である橿原神宮も新たに創建された。橿原神宮は神武天皇の宮跡を奉斎するもので、国家によって大急ぎで創られ、神社の中でも破格の扱いを受けた。神武天皇の実在性を人々に信じ込ませるために必要なものだったからだろう。
そんな中で、山陵の「神話を現実化」する装置としての特殊性は、歴代天皇のものが全て揃いうるという「万世一系」の証明になる点であった。神武天皇を初めとして、それに続く天皇の山陵が各地が散らばっていること、それ自体が、皇室が遙か古代から日本を統治してきたという動かぬ証拠であった。
ところが明治の始めにおいて、未だ治定されていない天皇陵もあった。明治政府は、皇室の陵墓を全てコンプリートすることで、万世一系の神話の完全なる現実化を図り、皇室の祭祀体系を完成させようとした。
こうして、幕末には武家から公家への贈り物、尊皇の志を形にするという意味だった修陵事業が、明治時代になって全く別の意味を持つようになった。それは、山陵を全国に配置して皇室のモニュメント(記念碑)とするということだ。皇室のモニュメントというより、明治政府のモニュメントと言った方がいいかもしれない。政府は、全国に散らばる山陵を介して、人々と皇室との関係を新たに樹立しようとしたのである。
早くも明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。だがこれにはかばかしい回答が得られなかったため、明治8年(1875年)には、当時陵墓に関する事務を司っていた教部省が、陵墓の調査のために職員を全国に出張させるようになった。国家は遂に、日本全国に「万世一系」の皇室のモニュメントを配置するという事業に乗り出した。
鹿児島の3ヶ所が、可愛(えの)山陵、吾平(あいら)山上陵、高屋(たかや)山上陵であると指定されたのが明治7年(1874年)。明治7年は、こういう動向の時代だったのである。
(つづく)
※『前王廟陵記』の出版年代については、早稲田大学の蔵書によると奥付に「元禄十一年戊寅歳三月彫成、安永七戊戌歳五月補正」とあります。これは元禄11年(1698年)に初版が出て、安永7年(1778年)に改版が出たということだと思いますが、和書に詳しくないのでもしかしたら間違っているかもしれません。
【参考文献】
『天皇の近代史』2000年、外池 昇
『天皇陵とは何か』1997年、茂木 雅博
『神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン
2017年8月21日月曜日
「文久の修陵」と「尊皇の競争」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その2)
明治政府は明治7年に、鹿児島の3ヶ所を、それぞれ可愛(えの)山陵、吾平(あいら)山上陵、高屋(たかや)山上陵であると指定した。明治政府は、鹿児島に神々の墓があると決定したのである。
どうして、このような決定がなされたのか、それを考えるには、少し遠回りするようだが、そもそも「明治政府にとって、天皇陵とは何だったのか」を振り返る必要がある。
これまた一見簡単そうでいで、なかなかに難しいテーマである。一般の人には、かなり馴染みがない問題提起だろう。そもそも「天皇陵」とは何か。
素朴に表現すれば、「天皇陵」とは「天皇の墓とされる古墳」のことだ。
例えば、「世界三大墳墓」の一つとされることもある「仁徳天皇陵」、すなわち大山古墳が天皇陵の一つだ。大山古墳は、大阪府堺市にある威風堂々とした巨大な古墳であり、いかにも古代の権力者の墓という感じがする。
また、奈良県の橿原市にある神武天皇陵。こちらは周囲100mほどで巨大ではないが、こんもりとした林になっており、小さいながら聖域の風格がある。
でも、こうした「天皇陵」は、昔からこのような場所だったのだろうか? 築造当初から?
何となく、学校教育で習ってきた「古墳」のイメージからすると、これらは考古学的な存在として、悠久の時を超えてきた印象がある。
だが、それは間違いだ。実際には、これらの「天皇陵」が今の形に整えられたのは、せいぜい幕末くらいの時からなのだ。
また、今「仁徳天皇陵」とされている古墳は、学術的にはおそらく仁徳天皇の墓ではないだろうと考えられている。そもそも、どの天皇がどこに葬られたのか、というのは、『日本書紀』や『延喜式』に記載があるものの、古墳そのものに被葬者が分かる史料が出土したことは一度もない。大山古墳は仁徳天皇陵だ、と宮内庁が決めたからそうなっているだけで、その根拠は実はあやふやである。
神武天皇陵に至っては、幕末に伝承地を造成して指定したものであり、その指定の過程について考古学的に問題があるのは当然として、非常に政治的なプロセスにより決定されたものであるから、ほとんど「創出」といってもよいと思われる。
こうした、「天皇陵」の創出の契機となったのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる事業である。
「文久の修陵」とは、宇都宮藩の建白によって文久2年から行われた、大規模な山陵の修繕事業である。修繕とはいえ、この時点ではどの古墳がどの天皇に対応する墓なのか、ということも決まっていなかったところが多く、まずはそうした治定から行う必要があった。この「文久の修陵」によって、それまでただのこんもりとした山でしかなかったところが、いきなり「兆域(聖域)」として区画され、柵が設けられて立ち入り禁止になり、鳥居が立てられて祭祀の対象となっていくのである。
なにしろそれまでは、天皇陵かもしれない、と伝承されていたところですら、草刈り場になったり、柴取り山になったりして農民に利用されていたし、それどころか年貢地に指定されて耕作されていたところも多いのである。「文久の修陵」では、そうした「生産の場」としての機能を停止させ、あくまで畏れ多い、みだりに立ち入ることができない「聖地」に変えていった。
特に「文久の修陵」で創出された天皇陵の最たるものといえば、神武天皇陵であろう。予算的にも、神武天皇陵の造成は破格の扱いを受けた。というよりも、「文久の修陵」の要は、神武天皇陵の創出にあったといっても過言ではない。
「文久の修陵」を企画し、また実施したのは、宇都宮藩の筆頭家老だった戸田忠至(ただゆき)なのであるが、戸田は何を考えてこのような事業を行ったのであろうか。数々の天皇陵を治定して聖域に変え、神武天皇陵を創出した理由は、なんだったのだろうか。
その理由を探るには、またしても少し遠回りをする必要がある。というのは、当時の時代背景を見てみなくてはならないからだ。
文久年間は、1861〜1864年。「文久の修陵」が行われた文久2年(1862年)といえば、我々鹿児島の人間にとっては「生麦事件」の年であり、非常に攘夷の熱が高まった時代でもある。そして、同じ年には、皇女和宮と第14代将軍徳川家茂の婚礼も行われている。これは「公武合体」の象徴として行われたもので、天皇家と将軍家が姻戚関係を持つという空前絶後の政策であった。そして翌年には、将軍家茂は初めて上洛して天皇に拝謁している。
つまりこの時代は、「尊皇攘夷」が具体化した頃なのである。特に、家茂の上洛は、それまでも形式的には天皇は将軍の上にあったが、実際の上で、将軍の権威が天皇のそれよりも低下したことを示すエポックメイキングなイベントであった。これを境に、政治の中心は江戸ではなく京都になり、列藩たちは京都を舞台に活躍していくことになるのである。
「尊皇」とは、別の面から言えば江戸幕府の権威低下であった。
口では「異国船打払令」などといいながら、実際には外国からの圧力に対して何ら有効な施策を打ち出すことができない江戸幕府は、その財政的な行き詰まりもあって、急速に権威が低下していった。替わってにわかに権威が高まっていったのが天皇(禁裏)である。
その理由を簡単に述べるのは難しいが、それまでも形式的には将軍家の上にあったということで、儒教倫理において至上権を付託されているのが天皇であると考えられたことと、より重要なこととして、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」があった。
いずれにしても、天皇は、何かをやったことによって権威を高めたのではなかった。その権威の源泉は、「行動」よりも「血統」だった。この頃の禁裏は、まだ何もしていないのにも関わらず、自然と権威が高まっていったのだ。それは、幕府の威信低下によって生じた政治的空白を、何かで埋め合わせようとする列藩の思惑もあっただろうが、それよりもこの権威上昇を演出したのは、他ならぬ幕府自身であった。
というのは、幕府自身の権威が不可避的に低下する中で、失われていく求心力を保つためには、禁裏の権威を借りるしかなかったのである。いわば、幕府は禁裏の権威に寄生して命脈を保とうとした。それを象徴しているのが、文久2年の皇女和宮と徳川家茂の婚礼だ。皇女を嫁に迎えることで、将軍家の権威を維持しようとしたのである。それが、「公武合体」の意味するところであった。
しかし、幕府が禁裏の権威を借りようとしたように、次期政権を窺っていた雄藩たちも、同様に禁裏の権威を借りようとした。権威だけは将軍家を凌駕していながら、禁裏自身は次期政権を担う仕組みはなかったため(まだ何もしていないのだから当然だ)、禁裏をその手中に収めるものが、徳川幕府に替わる政体を形づくれるという「倒幕のルール」が出来上がっていった。
こうして、「尊皇の競争」というべきものが生まれたのである。
この状況を理解するには、ちょっと卑近な例すぎる嫌いはあるが、企業の社長交代劇などに置き換えて考えてみればよい。
業績が悪化して、求心力が低下してしまった社長がいたとしよう。既に大幹部たちの人心も離れており、もはや自らの能力で挽回することは難しい。そこで、社長は創業者一族の権威に頼ることを考える。例えば、創業者の子孫を重役に迎えるといったようなことで求心力を保とうとする。
しかしこの策は、次期社長の椅子を狙う重役たちにも使える手なのである。創業者の子孫を担ぎ出して、現社長を追い出すことだって可能なのだ。そのため両者ともに重要となるのが、創業者一族との良好な関係を形成するということだ。担ぎ出すにしても、自分らのいうことを聞いてくださいというワケにはいかないから、心からあなたが必要なんですという姿勢を見せる必要があるだろう。
そのためにはあなたなら何をするだろうか。創業者一族へ贈り物をする、というような露骨なやり方はうまくいかない。それは、ある程度は必要かもしれないが、お金ですむものはお金で覆ってしまうのが常識だからである。だから有効なのは、例えば「創業者のやった偉大な仕事を振り返る」「創業者への恩を思い出す」というようなことを形にすることなのだ。要するに、創業者一族への「忠誠心」を目に見えるようにするということが、最も求められるのである。
もうおわかりの通り、このたとえ話における「社長」を「将軍(幕府)」に、「創業者一族」を「天皇(禁裏)」に置き換えれば、この幕末の状況をある程度理解できると思う。全国の雄藩のみならず、幕府においても、禁裏への「忠誠心」がホンモノであるという主張合戦が行われた。これが、「尊皇の競争」である。「私の方が本当の”尊皇”なんですよ。だから私の味方になって下さい」というわけだ。そしてこのために、より一層禁裏の権威が高まっていくという権威のインフレーションが起きた。
そして、この「尊皇の競争」こそ、「文久の修陵」が行われた背景なのである。
「文久の修陵」を企画した宇都宮藩は、「譜代」でありながら坂下門外の変によって幕府から睨まれ、不利な立場にあった。「修陵」は、幕府への忠誠を示しながら、「尊王」を形にするものとして、藩の立場を逆転させるものとして企画されたのだ。宇都宮藩は、古墳群が存在する畿内からは遠いところにあるので、企画の段階では山陵がどういうものであるか実見したこともなく、 まさにこの事業は机上の空論、政治的計算から生まれたものだった。
とはいえ、「修陵」が「尊皇」を形にするもの、といっても、ちょっとすぐには納得できないかもしれない。 なぜ「修陵」が藩の命運を逆転させる策として浮上したのか。そのためには、そもそも「山陵」とはいかなる存在であるかを理解する必要がある。
(つづく)
【参考文献】
『天皇の近代史』2000年、外池 昇
『日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
どうして、このような決定がなされたのか、それを考えるには、少し遠回りするようだが、そもそも「明治政府にとって、天皇陵とは何だったのか」を振り返る必要がある。
これまた一見簡単そうでいで、なかなかに難しいテーマである。一般の人には、かなり馴染みがない問題提起だろう。そもそも「天皇陵」とは何か。
素朴に表現すれば、「天皇陵」とは「天皇の墓とされる古墳」のことだ。
例えば、「世界三大墳墓」の一つとされることもある「仁徳天皇陵」、すなわち大山古墳が天皇陵の一つだ。大山古墳は、大阪府堺市にある威風堂々とした巨大な古墳であり、いかにも古代の権力者の墓という感じがする。
また、奈良県の橿原市にある神武天皇陵。こちらは周囲100mほどで巨大ではないが、こんもりとした林になっており、小さいながら聖域の風格がある。
でも、こうした「天皇陵」は、昔からこのような場所だったのだろうか? 築造当初から?
何となく、学校教育で習ってきた「古墳」のイメージからすると、これらは考古学的な存在として、悠久の時を超えてきた印象がある。
だが、それは間違いだ。実際には、これらの「天皇陵」が今の形に整えられたのは、せいぜい幕末くらいの時からなのだ。
また、今「仁徳天皇陵」とされている古墳は、学術的にはおそらく仁徳天皇の墓ではないだろうと考えられている。そもそも、どの天皇がどこに葬られたのか、というのは、『日本書紀』や『延喜式』に記載があるものの、古墳そのものに被葬者が分かる史料が出土したことは一度もない。大山古墳は仁徳天皇陵だ、と宮内庁が決めたからそうなっているだけで、その根拠は実はあやふやである。
神武天皇陵に至っては、幕末に伝承地を造成して指定したものであり、その指定の過程について考古学的に問題があるのは当然として、非常に政治的なプロセスにより決定されたものであるから、ほとんど「創出」といってもよいと思われる。
こうした、「天皇陵」の創出の契機となったのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる事業である。
「文久の修陵」とは、宇都宮藩の建白によって文久2年から行われた、大規模な山陵の修繕事業である。修繕とはいえ、この時点ではどの古墳がどの天皇に対応する墓なのか、ということも決まっていなかったところが多く、まずはそうした治定から行う必要があった。この「文久の修陵」によって、それまでただのこんもりとした山でしかなかったところが、いきなり「兆域(聖域)」として区画され、柵が設けられて立ち入り禁止になり、鳥居が立てられて祭祀の対象となっていくのである。
なにしろそれまでは、天皇陵かもしれない、と伝承されていたところですら、草刈り場になったり、柴取り山になったりして農民に利用されていたし、それどころか年貢地に指定されて耕作されていたところも多いのである。「文久の修陵」では、そうした「生産の場」としての機能を停止させ、あくまで畏れ多い、みだりに立ち入ることができない「聖地」に変えていった。
特に「文久の修陵」で創出された天皇陵の最たるものといえば、神武天皇陵であろう。予算的にも、神武天皇陵の造成は破格の扱いを受けた。というよりも、「文久の修陵」の要は、神武天皇陵の創出にあったといっても過言ではない。
「文久の修陵」を企画し、また実施したのは、宇都宮藩の筆頭家老だった戸田忠至(ただゆき)なのであるが、戸田は何を考えてこのような事業を行ったのであろうか。数々の天皇陵を治定して聖域に変え、神武天皇陵を創出した理由は、なんだったのだろうか。
その理由を探るには、またしても少し遠回りをする必要がある。というのは、当時の時代背景を見てみなくてはならないからだ。
文久年間は、1861〜1864年。「文久の修陵」が行われた文久2年(1862年)といえば、我々鹿児島の人間にとっては「生麦事件」の年であり、非常に攘夷の熱が高まった時代でもある。そして、同じ年には、皇女和宮と第14代将軍徳川家茂の婚礼も行われている。これは「公武合体」の象徴として行われたもので、天皇家と将軍家が姻戚関係を持つという空前絶後の政策であった。そして翌年には、将軍家茂は初めて上洛して天皇に拝謁している。
つまりこの時代は、「尊皇攘夷」が具体化した頃なのである。特に、家茂の上洛は、それまでも形式的には天皇は将軍の上にあったが、実際の上で、将軍の権威が天皇のそれよりも低下したことを示すエポックメイキングなイベントであった。これを境に、政治の中心は江戸ではなく京都になり、列藩たちは京都を舞台に活躍していくことになるのである。
「尊皇」とは、別の面から言えば江戸幕府の権威低下であった。
口では「異国船打払令」などといいながら、実際には外国からの圧力に対して何ら有効な施策を打ち出すことができない江戸幕府は、その財政的な行き詰まりもあって、急速に権威が低下していった。替わってにわかに権威が高まっていったのが天皇(禁裏)である。
その理由を簡単に述べるのは難しいが、それまでも形式的には将軍家の上にあったということで、儒教倫理において至上権を付託されているのが天皇であると考えられたことと、より重要なこととして、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」があった。
いずれにしても、天皇は、何かをやったことによって権威を高めたのではなかった。その権威の源泉は、「行動」よりも「血統」だった。この頃の禁裏は、まだ何もしていないのにも関わらず、自然と権威が高まっていったのだ。それは、幕府の威信低下によって生じた政治的空白を、何かで埋め合わせようとする列藩の思惑もあっただろうが、それよりもこの権威上昇を演出したのは、他ならぬ幕府自身であった。
というのは、幕府自身の権威が不可避的に低下する中で、失われていく求心力を保つためには、禁裏の権威を借りるしかなかったのである。いわば、幕府は禁裏の権威に寄生して命脈を保とうとした。それを象徴しているのが、文久2年の皇女和宮と徳川家茂の婚礼だ。皇女を嫁に迎えることで、将軍家の権威を維持しようとしたのである。それが、「公武合体」の意味するところであった。
しかし、幕府が禁裏の権威を借りようとしたように、次期政権を窺っていた雄藩たちも、同様に禁裏の権威を借りようとした。権威だけは将軍家を凌駕していながら、禁裏自身は次期政権を担う仕組みはなかったため(まだ何もしていないのだから当然だ)、禁裏をその手中に収めるものが、徳川幕府に替わる政体を形づくれるという「倒幕のルール」が出来上がっていった。
こうして、「尊皇の競争」というべきものが生まれたのである。
この状況を理解するには、ちょっと卑近な例すぎる嫌いはあるが、企業の社長交代劇などに置き換えて考えてみればよい。
業績が悪化して、求心力が低下してしまった社長がいたとしよう。既に大幹部たちの人心も離れており、もはや自らの能力で挽回することは難しい。そこで、社長は創業者一族の権威に頼ることを考える。例えば、創業者の子孫を重役に迎えるといったようなことで求心力を保とうとする。
しかしこの策は、次期社長の椅子を狙う重役たちにも使える手なのである。創業者の子孫を担ぎ出して、現社長を追い出すことだって可能なのだ。そのため両者ともに重要となるのが、創業者一族との良好な関係を形成するということだ。担ぎ出すにしても、自分らのいうことを聞いてくださいというワケにはいかないから、心からあなたが必要なんですという姿勢を見せる必要があるだろう。
そのためにはあなたなら何をするだろうか。創業者一族へ贈り物をする、というような露骨なやり方はうまくいかない。それは、ある程度は必要かもしれないが、お金ですむものはお金で覆ってしまうのが常識だからである。だから有効なのは、例えば「創業者のやった偉大な仕事を振り返る」「創業者への恩を思い出す」というようなことを形にすることなのだ。要するに、創業者一族への「忠誠心」を目に見えるようにするということが、最も求められるのである。
もうおわかりの通り、このたとえ話における「社長」を「将軍(幕府)」に、「創業者一族」を「天皇(禁裏)」に置き換えれば、この幕末の状況をある程度理解できると思う。全国の雄藩のみならず、幕府においても、禁裏への「忠誠心」がホンモノであるという主張合戦が行われた。これが、「尊皇の競争」である。「私の方が本当の”尊皇”なんですよ。だから私の味方になって下さい」というわけだ。そしてこのために、より一層禁裏の権威が高まっていくという権威のインフレーションが起きた。
そして、この「尊皇の競争」こそ、「文久の修陵」が行われた背景なのである。
「文久の修陵」を企画した宇都宮藩は、「譜代」でありながら坂下門外の変によって幕府から睨まれ、不利な立場にあった。「修陵」は、幕府への忠誠を示しながら、「尊王」を形にするものとして、藩の立場を逆転させるものとして企画されたのだ。宇都宮藩は、古墳群が存在する畿内からは遠いところにあるので、企画の段階では山陵がどういうものであるか実見したこともなく、 まさにこの事業は机上の空論、政治的計算から生まれたものだった。
とはいえ、「修陵」が「尊皇」を形にするもの、といっても、ちょっとすぐには納得できないかもしれない。 なぜ「修陵」が藩の命運を逆転させる策として浮上したのか。そのためには、そもそも「山陵」とはいかなる存在であるかを理解する必要がある。
(つづく)
【参考文献】
『天皇の近代史』2000年、外池 昇
『日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
2017年8月20日日曜日
レヴィ=ストロースが鹿児島に来て——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その1)
高屋山上陵 |
これは、ホオリのミコト(火遠理命)、いわゆる山幸彦の墓とされるものだ。山幸彦は、初代天皇である神武天皇の父親に当たる。そういう、神話的古代に遡る墓が、ここ鹿児島にあるのである。
1986年に、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは鹿児島を訪れ、天孫降臨からの神話を辿る旅をした(今、資料で確認できないが、鹿児島の民俗学者下野敏見氏が案内されていたように記憶する)。
そしてレヴィ=ストロースは「九州ではそのようなことはなくて、まったく神話的な雰囲気の中に浸ってしまいます。(中略)われわれ西洋人にとって、神話と歴史との間は深い淵で隔てられています。それに対し、もっとも心を打つ日本の魅力の一つは、神話も歴史もごく身近なものだという感じがすることなのです」と述べた(※)。
これは、我々鹿児島の人間にとって鼻が高くなるようなコメントだ。世界的な人類学者が、鹿児島の地を、神話と現代が交錯するような土地だ、と彼流の詩的表現をしたのだから。
実際、鹿児島にはたくさんの神話が残っている。私はかつて「南薩と神話」という続きものの記事を書いたことがある。
【参考】
- 阿多という地名——南薩と神話(1)
- 朝日の直刺す国、夕日の日照る国——南薩と神話(2)
- 本当は南薩に縁がないかもしれない日本史上初の美人——南薩と神話(3)
- 隼人の南洋的神話=海幸・山幸——南薩と神話(4)
- サメと取違伝説——南薩と神話(5)
特に、天孫降臨から神武天皇に至るまでの神代三代(じんだいさんだい)、すなわち、アマテラスの孫のニニギ、ニニギの子のホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズ、という三代は、みな鹿児島で活躍したことになっていて、実際、国によって認められたこの三代の墓(陵=みささぎ、という)は、みな鹿児島にあるのである。
具体的には、第1にニニギの陵である薩摩川内市の可愛(えの)山陵、一般的には新田神社があるところとして知られる小高い山だ。第2に、ウガヤフキアエズの陵である鹿屋市にある吾平(あいら)山上陵。そして第3に、最初に例を出した霧島市の高屋(たかや)山上陵。(ちなみに、「山上陵」は正式には「やまのえのみささぎ」と読むが、「さんじょうりょう」と読んでもよい。)
これら三山陵は、宮内庁書陵部が管轄していて、実際に可愛山陵には宮内庁の小さな事務所がある。
そして、このように宮内庁が公認する「神」の墓があるのは、鹿児島だけなのである。他の県にも、歴代天皇の山陵というものはたくさん存在しているが、ただ鹿児島だけが神々の山陵を有している。
私は、これは一体どうしてなのだろうと何年も疑問に思っていた。
神々の墓がある、と主張するのは、鹿児島だけではない。特に宮崎県は、西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)を有し、ここにはニニギの墓とされる巨大古墳がある。実際、その古墳は宮内庁によっても陵墓参考地(被葬者の確定はできないが皇族の墓と指定されているところ)とされている。それだけでなく、鹿児島県が有している三山陵全てについて、実はそれらは宮崎県にある別のところにあたるのでは? という異説が存在する。
こうした異説が存在しながらも、なぜ宮内庁は鹿児島の山陵のみを公認したのだろうか。昔から、この公認の背景には、明治時代の薩摩閥の政治力がある、と言われてきたが、実際にはどのようなプロセスで決定されたのだろうか。
このようなことは、歴史の悪戯として片付けられる類のことではある。非常に些末なことと人はいうかもしれない。しかし私にとっては、この謎は明治の宗教行政史の核心に迫るテーマの一つなのだ。
これについて、少し考えてみたい。
(つづく)
※ クロード・レヴィ=ストロース「世界の中の日本文化」、『世界の中の日本 Ⅰ:日本研究のパラダイム―日本学と日本研究―』所収、国際日本文化研究センター, 1989.2.10.
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