2012年12月4日火曜日

朝日の直刺す国、夕日の日照る国——南薩と神話(2)

南薩は日向(ひむか)神話の舞台となったところだが、日向神話を語る前に、記紀神話(古事記と日本書紀で語られる日本神話)の全体像もわかっていた方がいいかもしれない。

ということで、記紀神話について簡単に紹介する。これは天地ができてから神武天皇が誕生するまでを描いているが、大きく分けると次のような3部構成になっている。

第1部は高天原が舞台。イザナギとイザナミ夫婦が国産みを行い国土が完成、ところが火の神を産む時にイザナミは焼かれて死んだため、イザナギは黄泉の国までイザナミを追いかける。しかしその変わり果てた姿を見て退散。その禊ぎによってアマテラスやスサノオが誕生する。次がアマテラスとスサノオの姉弟ゲンカの話で、ケンカの結果スサノオは高天原から追放、落ちていったところが出雲である。

第2部はその出雲が舞台。高天原は「天界」なのでやや抽象的な話が多いが、出雲神話は地上の話なので具体性とストーリー性が強く、例えばスサノオのヤマタノオロチ退治、因幡の白ウサギなど人気の(?)神話が収録されている。スサノオの娘の旦那であるオオクニヌシの指導の下で国土が発展したのを見て、アマテラス一族はその国を譲ってもらおうと何度か使者を送り交渉した結果、結局オオクニヌシが国を譲ることを決定。

第3部はがらっと場面転換して日向(ひむか)、つまり九州が舞台。出雲を譲ってもらったはずのアマテラスだったが、孫のニニギをなぜか日向に派遣。ニニギは山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれ、海幸彦と山幸彦の兄弟が誕生。山幸は海幸から借りた釣り針をなくしてしまい、海神の宮まで探しに行く。山幸はそこで海神の娘である豊玉姫と結ばれウガヤフキアエズが誕生、さらにその子どもがイワレヒコ=神武天皇であり、ここに記紀神話が終結する。なお、さらに記紀の物語は続くが、一応これ以降は神話ではなく歴史、ということになっている。

では、これからその日向神話について順を追って見てみよう。なお、内容は基本的に『古事記』に沿うが、適宜『日本書紀』を参照する。

アマテラスにより、なぜか日向の地に派遣されたニニギの一行だったが、彼らが降りて来たのが「高千穂のクシフル岳」というところで、(書記によると)さらにそこから「吾田の長屋の笠狭の碕」へ到達したという。この「阿田」が阿多のことで、「長屋」は加世田と大浦の境界である長屋山あたりといい、「笠狭の碕」(古事記では「笠沙の御崎」)が笠沙の野間半島だというわけだ。

このように、南さつま市の笠沙は天孫ニニギが初めてその居を構えたという記念すべき土地なのである。確かに、雄渾で荒々しい絶景が広がる笠沙は、我が国の黎明を飾るにふさわしい。

しかし、実はこの笠沙という地名はごく最近つけられたもので、古くからの地名ではない。大正時代までは現在の笠沙町と大浦町を合わせた地域は「西加世田村」と呼ばれており、大正12年にこれが「笠砂村」と改称、昭和15年に「笠沙町」となった経緯がある。笠砂村と改称したのは、「加世田村」「東加世田村」もあって紛らわしいということと自治意識を高めるのが目的だったらしく、古事記に因んで「笠砂」と名付けたらしい。つまり、今の笠沙町一帯が元から笠沙と呼ばれていたのではないのである。

ではデタラメでつけた名前かというとそうでもなく、江戸末期(1843年)に編纂された『三国名勝図絵』では、野間半島は「笠砂御崎」と記載されており、野間岳は昔「笠砂嶽」と呼ばれていたとされている。さらに遡る1795年に編まれた『麑藩名勝考』でも加世田は「笠狭之崎」であり、加世田は笠狭に田をつけたものとし、要は加世田という地名は笠沙が訛ったものだと推測されている(※1)。ともかく、「笠沙の御崎」が南薩にあったという主張はかなり古いのである。

また、南薩のこのあたりは神代の伝説やそれを祭る神社が多いのは事実で、阿多として栄えた古代に加世田一帯が笠沙という地名であったとしてもおかしくはないようだ。ただ、直接の証拠はないのに、『三国名勝図絵』ではあまりに自信満々に「笠沙の御崎」が現在の笠沙と同地であるという主張をしていて、客観性が足りないようにも見える。当時から「笠沙の御崎」は宮崎にあるという主張もあったが、同書ではこれを「無稽の妄説なり、詳に辨ぜずして明なり」と一蹴し、薩摩ナショナリズムを全開にしている(※2)。

それはさておき神話の方に戻ると、笠沙に到着したニニギは「ここは朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほで)る国」だから、ここはとてもよい所だ、と言った。このフレーズはとても素敵で、普通いい国というのは農業・経済が盛んで地力があるところだと思うのだが、景色がいいからよい所だ、というのはなんともロマンチックだ。もともとアマテラスは、オオクニヌシが治めていた「豊葦原の水穂の国」という豊穣な国を譲ってもらいたかったわけだが、ニニギは朝日と夕日が美しいと喜んでいるのだから結構呑気な神である。

また「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」というのは、笠沙の実態とも合致する。朝日の方は見たことはないが、東シナ海に沈む笠沙の夕日はとても美しい。まあこれは日本海側の多くの地域が該当するとは思うが。それから、「豊葦原の水穂の国」という美称と比べると、「褒めるのが風景しかなかったのかなあ」という気もしなくはないが(※3)、ロマンチックな言葉なので観光のPRにも使えると思う。

ちなみに、「笠沙の御崎」の位置については、北九州だという説もある。しかし、神話はそれ自体本当にあったことかどうかわからないわけで、どこかに確定できるものではないのは当然だし、いろいろ書いたが私としては別にどこでもいい。それより、「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」みたいな素敵な言葉が神話の中だけに埋もれているのがもったいないと感じる次第である。

※1 この推測は『三国名勝図絵』で再説されているが、両書には微妙な違いがある。『麑藩名勝考』では加世田=笠沙ということで、「笠沙の御崎」が野間半島だとは限定していおらず、また推測として書いているのに対し、『三国…』の方になると野間半島のことを「笠砂御崎」と断定している。

※2 『三国名勝図絵』では、4ページ半に渡って「笠沙の御崎」=笠沙説を展開しているのだが、特に論証があるでもなく、「〜に違いない」式の記載が続く。一方で宮崎説についてはその内容を紹介せずに「辨ぜずして明」というのだから強気なものである。

※3 当時の信仰はアマテラス=太陽神を中心にした太陽信仰が濃厚なので、朝日夕日云々というのは、ただ景色がいいということではなくて、太陽祭祀に関係があるらしい。天孫降臨の地が出雲でなくて日向なのも、「日に向かう」ということと関係があるのかもしれない。でも神話というのは深読みするとキリがないので、素人はあまり深く考えない方がいいと思う。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『三国名勝図絵(第二七巻)』(復刻版)1982年、五代秀尭、橋口兼柄 編(青潮社版)
『麑藩名勝考(第一巻)』1795年、白尾国柱著
『笠沙町郷土誌(中巻)』1986年、笠沙町郷土誌編さん委員会

【アップデート】2012.12.5
『加世田再選史』についての記載を載せていたが、改めて調べてみると『三国名勝図絵』の方が古い資料だし、そもそも『麑藩名勝考』の方がもっと古かったのでこっちを参照することにした。また参考文献に『笠沙町郷土誌』を追加。

販売サイトを構築中…。

このところ、農産物販売のためのWEBサイトを作っているため、なんだか百姓ではなくて引きこもりみたいにPCに向かっている

本当は夏にオープンさせるつもりだったが、いざ実際にやってみると私のWEBサイト構築の知識が古く、基本をちゃんと学ばないといけないことに気づいて構築が延び延びになっていた。

例えば、HTMLについては多少知っているつもりだったが、現在のWEBサイト構築ではHTMLで作ったコンテンツをCSSという仕組みで画面上にレイアウトする。このCSSについては、私は全く触れたことがなかったので一からの勉強しなくてはならず、なんとなく後回しにしてきた。しかし要点がわかってみると、以前のHTML一本のレイアウトに比べて随分と合理的で、実は簡単な気がしてきた。

もちろん基本的には面倒な作業の連続なので、正直、多くの農家にとってはこういう面倒な作業をしてまでインターネットで個人販売をするのは難しい。直売所などのリアルな販売の方が発送や入金確認などの手間もないし、合理的だろう。

しかし、そうなるとどうしても既存の客への販売という面が強くなる。私が主力の一つにしたいと思っているカンキツ系は皮を剝くのが面倒なためか若年層への人気がなく、消費が高齢の固定客に偏りつつある。つまり、将来の展開を考えると既存の客への販売だけには頼れないわけで、インターネットなどを通じて新規顧客の開拓を頑張る必要があるだろう。

私としては、あまりカンキツ系を食べない(と思われる)若い女性の客層を開拓したいと思っており、家内の協力も得て女性に受け入れられるデザインのサイトを作りたい。もちろんWEBサイトなどは作ってもほとんど見向きもされないものなので、今年は作り損だと思うが、いつ作ってもそれは変わらないから早めに作るに越したことはない。

また、もう一つ考えているのは、例えば「○○農園.com」みたいに自分の作った農産物だけを販売するのではなくて、地域の美味しいものを販売するような広がりも作れたらと思っている。先述のように個々の農家がインターネットでの販売に取り組むのは難しいので、もしインターネットで売りたいという人が周りにいれば、そういう人も利用できるようなWEBサイトにできたらいいなと思う。

2012年12月1日土曜日

阿多という地名——南薩と神話(1)

古事記編纂1300年の今年も残り僅かとなってきたので、この機会に神話における南薩について思うところを数回書いてみたい。

さて、南さつま市の金峰町に、阿多という地名がある。

実はこの阿多という地名は、神話的古代に遡る来歴を持つ。阿多は今では狭い地域となっているが、古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言ったらしい。

金峰町は以前から「神話のふるさと」を自称してきたが、事実この「阿多」は古事記・日本書紀の記紀神話において重要な位置を占めている。具体的には、天孫ニニギが降臨し山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれるのが阿多の笠沙であり(※1)、その他にも阿多に関する多くの記載が記紀にはある。

どうも、大和政権というのは、天皇家一族と出雲の勢力、そして阿多を中心とする隼人勢力の連立政権だったようで(※2)、そのために阿多の神話が記紀に多く取り入れられているようである。ちなみに、そのころ「薩摩」という地名はメジャーではなく、記紀には薩摩隼人は登場しないが、「阿多隼人」と「大隅隼人」というのが対置されて登場する。

例えば、日本書紀には、阿多隼人と大隅隼人が天覧相撲をして大隅隼人が勝った、という記述がある(※3)。これは史書における相撲の最初の記述であり、相撲の起源の一つは南九州にあるのである。今でも鹿児島では神事としての相撲がとても盛んで、夏祭りでは綱引きと相撲がよく行われるし、金峰町の錫山相撲などは350年以上の歴史がある。

この阿多隼人と大隅隼人は、おそらくは天皇一族との連立政権を組むため(※4)、古代に畿内へ大量移住しており、今でも畿内には鹿児島に因む地名がある。例えば、奈良県五條市の阿陀(あだ)は阿多に起源を持つと言い、京都府京田辺市の大住(おおすみ)では大住隼人舞という芸能も行われている(近年復活させたもの)。

畿内隼人は律令制の中で「隼人司(はやとのつかさ)」という機関に所属せられ、歌舞などの芸能や竹製品の製造を担当した。また、天皇一族の護衛(近習隼人)や御陵の警護、そして(もがり)の儀礼にも参加させられたという。これらは隼人の持つ呪能を期待したものだったらしい。どうやら、古代において隼人というのは、神秘的な力を持つ民族と捉えられていたようだ。

このように大和朝廷において重要な働きをしたらしい隼人だが、大和朝廷が氏族支配の体制から律令制(法治国家)に移行するにつれ利害が対立し、702年、713年、720年に朝廷への反乱を起こす(隼人の乱)。ちなみに最後の反乱で朝廷から派遣された将軍が、歌人として著名な大伴旅人である。旅人によりこの反乱は鎮圧され、以後隼人は不遇の時代を迎えることとなる。2回目の反乱の後には、6年に1度の朝貢も求められている(六年一替の制)。これは江戸時代の参勤交代制度に似ているが、定期的な朝貢を求められたのは全国でも隼人しかいないのである。

この他にも、阿多隼人の記事は『古事記』や『日本書紀』に散見される。そして『続日本紀』(797年成立)くらいまではかなりの存在感がある阿多隼人だが、続く『万葉集』になると、阿多という地名は全く出てこないし、「隼人」という言葉も半ば思い出の中に表現されるだけである。 どうもこれは、阿多隼人の場合、中心勢力が畿内に移住してしまったために、地元の政治的重要性が低下していったということもあるようだ。

こうして、神話的古代に栄えた阿多は、阿多郡→阿多郷→阿多村とどんどんその領域を縮小していき、今では金峰町の一地名として残っているだけである。寂しいとも言えるが、古代から引き継がれた地名が交差点の名称として普通に使われているのは面白い。地元でも特段アピールされないけれど、阿多という地名は、鹿児島にとっての記紀神話への入り口なのである。

※1 「この「阿多」は鹿児島の阿多ではなくて、宮崎県の吾田(あがた)だ!」 とする主張もある。宮崎県は、神話の舞台が鹿児島ではなく宮崎にあったとする主張を頑張っていて、これはまた機会があったら書きたいが理由のないことではない。延岡市には笠沙の御崎もある。神話の本拠地の競争をするのではなく、姉妹都市になったら面白いと思う。

※2 「隼人は天皇家に服属させられた民族」というのが従来の常識だったが、最近こういう考え方になりつつある。

※3 『日本書紀』天武天皇11年の条。

※4 これは(※2)と関連するが、従来は天皇家への服属のため強制移住させられたと考えられていた。しかし江戸時代の外様大名のように敵対勢力は遠ざける方が合理的であることを考えると、この移住は自主的なものであったと考えた方がよい、ということになりつつある。

【参考文献】
『熊襲と隼人』1978年、井上辰雄
『隼人の古代史』2001年、中村明蔵

2012年11月26日月曜日

南さつま市定住化促進委員会:市長に報告書を提出

南さつま市定住化促進検討委員会が、報告書をまとめて本坊市長に手渡し、終了した。

本坊市長からは「単に南さつま市が人口減少で困っているから来て下さいと言っても、それで来る人はいない。「こんな暮らしをしたい」とか、人それぞれ叶えたい夢があるわけだから、 その夢を応援できるように取り組んでいきたい」というような趣旨の抱負もいただいた。

報告書の内容は、委員の意見を最大限取り入れる形になっており、こういう委員会にありがちな「役所の作った下案をオーソライズするだけ」という形骸化したものにならずによかった。正直、自分としてもここまで意見が取り入れられるとは思っていなかったので、ちょっと見直した部分がある。

報告書の内容だが、要約すると次のような感じである。
  • キャッチコピーは『あなたの「夢」応援します』
  • 「あなたの移住“とことん”応援事業」として、総合窓口と「移住・定住促進コンシェルジュ」の設置、各地域で専門性や人脈を持つ人を「地域コンシェルジュ」に任命。移住者等へのケア体制を充実させる。
  • 「あなたの起業”とことん”応援事業」として、移住者のみならず現在の住民も対象に含めて資金・情報面などで起業家を応援。
  • 移住定住のための広報を強化。
  • その他、推進施策として既存施策も含めていろいろ推進。例えば、住宅所得補助金やアパートの家賃助成、空き屋バンク制度の活性化のための「片付け補助金」の創設など。
なお、これはあくまで委員会としての提言であって、これをどれくらい実現するのかは市役所次第である。予算的な制約以上に、マンパワー的な制約もあると思うので全部を実現するのは難しいかもしれないが、一つでもよいので成功事例を作り、次に繋げていって欲しい。

そして私個人としては、このような委員会に参画する機会を与えてもらったことを感謝したいし、ここで得た縁を、別の面でも生かせていけたらと思う。関係者のみなさん、ありがとうございました。

【参考リンク】
南さつま市定住化促進委員会(第1回)
南さつま市定住化促進委員会(第2回)
南さつま市定住化促進委員会(第3回)
南さつま市定住化促進委員会(第4回)

2012年11月24日土曜日

果樹の有機栽培を(理屈はともかく)実践的に述べた本

来期から果樹生産を有機栽培に切り替えたいなあ、と思って『有機栽培の果樹・茶つくり』(小祝 政明 著)でお勉強。

著者の主張は単純で、農薬を使わずに病害虫を防除するためには植物体自体を充実させなくてはダメで、そのためにはミネラルと有機のチッソが重要だ、という。

ミネラルは植物の生育に必須なものであるにも関わらず、意識して投与しないと不足がちになるのでわかるが、「有機のチッソ」というのはなんだかよくわからない。要はアミノ酸のことらしいが、著者曰く「有機のチッソはそのまま細胞づくりに使えるので、光合成でつくられた炭水化物の消費が少なく、糖度を高めることができる」(p.31)とのこと。

植物は無機物の窒素(硝酸とか、アンモニウムとか)だけを吸収すると思われているが、実は有機物の窒素(アミノ酸の一部として存在する窒素)も少量ながら吸収するようだ、と最近言われ始めた。じゃあどのくらい有機物の窒素を吸収するのか、というのは手元に資料がないが、多分無機物の窒素吸収率とオーダー(桁)が一つ違うと思う。

つまり、植物がアミノ酸を吸収できないとは言わないが、アミノ酸では直接は肥料にならないのではなかろうか。そのあたりの疑問に対しては本書は何も答えない。実際にそれでうまくいっているのだから理屈にはこだわらない、ということだと思う。

ところで、有機栽培の本にしては珍しく、本書にはほとんど土壌微生物の話が出てこない。有機栽培の要諦は土作りだと思うが、そのための土壌微生物の活発化・安定化が触れられないというのは奇異である。というか、有機の窒素=アミノ酸肥料を投与すると、これを直接的に栄養にするのは土壌微生物なわけだから、著者が「そのまま細胞づくりに使える」という「有機のチッソ」こそ土壌微生物の活発化の話なのではないか

しかも、本書では「施肥は早めにやった方がいい。春肥は降雪前に」と述べるのだが、これは、アミノ酸を土壌微生物が分解して窒素を無機態にするために時間がかかるからだと解釈できる。 本書では早めの施肥の理由を「肥料分が土壌に浸透するのに時間がかかるから」と解説しているが、微生物の働きを考えた方が合理的だ。

ちなみに、著者は農家や学者ではなくてジャパンバイオファームという農業資材屋さんであり、本書には自社資材の普及の意図もあるのかもしれないが、そういう広告めいた記載は全くなく、基本的には信頼できる。その理屈の部分では疑問符がつくようなところもあるが、果樹の有機栽培について実践的に述べた本は少ないので、貴重な本ではある。ぜひ来期のポンカン栽培に生かしたい。本書でも「中晩柑類の有機栽培はこれから非常に面白い局面を迎えるのではないか」(p.190)とあって勇気づけられた。

2012年11月21日水曜日

農業にとってのTPP

日本全国の農村がそうだと思うが、うちの周りにも「TPP参加断固阻止!」のノボリや看板がよく立っている。

衆院選の争点の一つでもあり、農業者以外の関心も高いと思われるが、どうもその議論は感情的なものが多いように思われる。そこで、国際貿易に関してはズブの素人であるが、農業分野に限ってTPPについて自分の見解をまとめておきたい。

まず、最初に断っておくが、私は農業分野に関してはどちらかと言えばTPP推進派である。理由は、東大の本間正義教授が推進派だからだ。自分の頭で考えろと言われるかもしれないが、国際貿易というのは経済学の中でも非常に込み入っていて、素人が少し調べたくらいで実態がわかるものではない。私は官僚時代に日・EU科学技術協力協定の締結にちょっとだけ関わったが、ことに国際貿易の協定というものは複雑なもので「分かった気」になるのは逆に危険である。

そのため、素人としては、信頼できる(あるいは立場が近い)専門家の見解を信じるしかない、と思う。本間先生は農業経済学の重鎮で若いころから国際貿易の研究に取り組み、国際交渉の現場もよくご存じであるし、途上国等の関税アドバイザー的なこともやっていた(と思う。記憶が違っていたらすいません)。 自由貿易論者ではあるけれど、適切な関税で自国産業を保護することの重要性も強調するので、バランスも取れている。

というわけで、本間先生の見解をベースに、農業分野におけるTPPの意味をまとめてみる。
  • 既に米、麦、食肉、乳製品以外の農産物の関税は低いか実質無税なので影響はない
  • 例外品目の中で影響が大きいのが米。関税撤廃は段階的にすることが可能だが、猶予は10年なのでその間に米耕作の産業構造を変革する必要がある。農水省は9割が壊滅するという試算をしているが、それは大げさにしても零細兼業農家を中心に2/3くらいが廃業し、大規模耕作者(15ha以上)に集約される可能性がある。狭小な農地については耕作放棄地も増える。
  • 一方農産物の輸出については、TPPによって大幅に増加することはないが、共通のルールで公正な競争ができれば、伸びるところもある。懸念される自給率低下については、そもそも自給率という指標自体にあまり意味がない。
  • TPPがなくても近い将来日本の米農業は変わって行かざるを得ない以上、TPPに参加して早いうちに米農業の構造改革を進めた方がよい。TPPに参加するメリットは必ずしも大きくないが、旧来型の構造を温存し続けるリスクの方が大きい。
要は、TPPに参加すれば零細米耕作農家の多くが潰れるのは間違いないらしい。だが、現在の零細米耕作農家は多くが高齢者であり、10年もすればかなり自然減すると思われる。多分、何もしなくても優に30%は減るだろう。2/3の廃業を多いと見るかそうでもないと見るかは難しい。耕作放棄地も、何もしなくても増えるのは目に見えている。

また、本間先生は「TPP参加は農政改革とセットに行う必要があり、もし農政改革なしにTPPに参加したら農業は大打撃を受けるだろう」と言っているが、TPPに参加しなくても農家の自然減が想定される以上、減少分を補うために大規模農家への優遇政策が取られる必要がある。規模拡大を図りたい農家にとってみれば、TPPに参加すれば零細米耕作農家が早めに淘汰されるのでチャンスとも言える。

ところでTPPだけに限らないが、高齢化・少子化によって基本的に日本の将来というのは暗いので、「TPPに参加して経済成長!」とかはあまり真に受けない方がいい。来るべき衆院選も、有権者はどちらに明るい将来がありそうかで選んではいけない。日本の未来は暗鬱としたものであることを前提にして、より傷口が浅い方を選ぶという非常に後ろ向きな考えをする必要があると思う。

とはいいうものの、TPP参加の方がより傷口が浅いのかどうかは、実はよくわからない。今回は米だけにフォーカスしたが、畜産についても検討しなくてはならないし、そもそも農業分野はTPPのほんの一部で、投資や知的財産など20の分野を含む(※)。金額的な影響としては金融などの方が農業より圧倒的に大きいと思われるので、分野ごとに細かい検証が必要だ。非関税障壁の扱いについても考慮しなくてはならない。冒頭に述べたように国際貿易というのは非常に難しいのだが、こうした複雑さを捨象し、「TPPに乗り遅れると大変なことになる!」とか「TPP参加で国が滅びる!」のような極端な主張ばかりが目立つのが気になる。

もちろんTPPの現実の意味は、その間のグレーな部分にある。まずは交渉参加してどのくらいグレーなのかを探るのがいいのではないだろうか。私としては強い推進の気持ちはないので、どちらに転んでもいいと思うが、TPP問題で冷静な議論が行われ、我が国の産業の未来を考える機会になるとよいと思っている。

※ 24の作業部会があり、うち4つは「首席交渉官会議」「紛争解決」「協力」「横断的事項特別部会」なのでこれを外すと20になる。

【参考】
本間正義教授が日本記者クラブで行った講演

2012年11月18日日曜日

質素だが誠実な展示「南さつま神話の旅」

南さつま市金峰町にある歴史交流館 金峰で「南さつま神話の旅」という企画展が開催中である。

企画展自体は、十数枚程度の手作りポスターパネルと、いくばくかの土器が並べられているだけの質素な展示である。正直なところ、これを見て「面白い!」という人は少数派だろう。だが、その内容は意外によくまとまっていて、普段体系的に示されることのない南さつま市の神話の旧跡が外観でき、勉強になる。お金もかかっていないし、派手さもないが、誠実に作られた企画展である。

特にその誠実さを感じるのが冒頭の説明。要約すると、
  • 南さつま市には鹿児島県が12カ所に作った「神代聖蹟」の9つまでが集中している。
  • 「神代聖蹟」とは、皇紀2600年記念事業として作られたもので、日本神話の舞台となったところを指定する石碑。
  • 皇紀2600年は戦争中の昭和15年。「神代聖蹟」は戦争遂行のための国威発揚に日本神話を利用したものであり、つまり「昭和の遺産」。
とした上で、「市内の神話スポット・神代聖蹟をめぐるときに、神話が戦争に利用された事実にも思いを致していただければ、より多角的に歴史を理解できる好機になるのでは」と結んでいる。

日本神話が戦争の遂行に利用されたことはよく知られているが、残された史蹟が「昭和の遺産」であるとまで述べられることは少ない。多分「神代聖蹟」がそういう陰影を持つものだということを認識している人も少ないだろう。

今年は古事記編纂1300年に当たるということで、特に島根県(出雲地方)と宮崎県が観光キャンペーンに力を入れていた。この2県は首都圏の電車に車内広告を大量に打つなど、昨年来、多くの広告費用を投入して「神話のふるさと」のイメージ形成と観光促進を行った。これ自体は同じく神話のふるさとである鹿児島県も見習うべきところもあると思うが、観光という商業振興を重視するあまり、「我が県には神話にゆかりがある所がたくさんあって凄いでしょ!」というアピールだけになってしまったきらいもある。

だが実際には、先述のように日本神話は戦争に利用された負の歴史がある。島根県についてはよく知らないが、宮崎県では政府の皇紀2600年記念事業で宮崎神宮が大幅拡張されたり、日本海軍発祥の地碑(神武天皇御東遷時お舟出の地)を建立したりするなど、国威発揚の片棒を担いでいる(担がされている)。そういう歴史を反省することなしに、商業主義的に観光を推進しようというだけでは少し空疎な感じも受ける。

そういう意味では、本企画展では冒頭に誠実な説明があるだけでなく、個々のパネルの内容も割と醒めた態度で書かれていて、好感が持てた。歴史交流館の嘱託職員の方が企画・作成したらしいが、見識のある方とお見受けするので一度話を聞いてみたいものである。

ところで、商業主義的すぎるのも問題だが、鹿児島県のようにせっかくの神話資産を無視するのもいただけない。 8年後の2020年には日本書紀編纂1300年になるので、その時には鹿児島県もいろいろとやってはどうか。アピール競争をする必要はなく、他県とも連携しつつ、観光だけでなく歴史研究・教育なども振興するいい機会としてもらいたい。自分としても、南薩の神話について近々自分なりにまとめてみたいと思っている。

【参考】
古事記編纂1300年記念企画展 南さつま神話の旅
開催期間:2012年09月21日 ~ 2012年12月24日
場  所:南さつま市 歴史交流館金峰
料  金:高校生以上300円、小人150円
連絡先: TEL: 0993-58-4321