2012年12月1日土曜日

阿多という地名——南薩と神話(1)

古事記編纂1300年の今年も残り僅かとなってきたので、この機会に神話における南薩について思うところを数回書いてみたい。

さて、南さつま市の金峰町に、阿多という地名がある。

実はこの阿多という地名は、神話的古代に遡る来歴を持つ。阿多は今では狭い地域となっているが、古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言ったらしい。

金峰町は以前から「神話のふるさと」を自称してきたが、事実この「阿多」は古事記・日本書紀の記紀神話において重要な位置を占めている。具体的には、天孫ニニギが降臨し山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれるのが阿多の笠沙であり(※1)、その他にも阿多に関する多くの記載が記紀にはある。

どうも、大和政権というのは、天皇家一族と出雲の勢力、そして阿多を中心とする隼人勢力の連立政権だったようで(※2)、そのために阿多の神話が記紀に多く取り入れられているようである。ちなみに、そのころ「薩摩」という地名はメジャーではなく、記紀には薩摩隼人は登場しないが、「阿多隼人」と「大隅隼人」というのが対置されて登場する。

例えば、日本書紀には、阿多隼人と大隅隼人が天覧相撲をして大隅隼人が勝った、という記述がある(※3)。これは史書における相撲の最初の記述であり、相撲の起源の一つは南九州にあるのである。今でも鹿児島では神事としての相撲がとても盛んで、夏祭りでは綱引きと相撲がよく行われるし、金峰町の錫山相撲などは350年以上の歴史がある。

この阿多隼人と大隅隼人は、おそらくは天皇一族との連立政権を組むため(※4)、古代に畿内へ大量移住しており、今でも畿内には鹿児島に因む地名がある。例えば、奈良県五條市の阿陀(あだ)は阿多に起源を持つと言い、京都府京田辺市の大住(おおすみ)では大住隼人舞という芸能も行われている(近年復活させたもの)。

畿内隼人は律令制の中で「隼人司(はやとのつかさ)」という機関に所属せられ、歌舞などの芸能や竹製品の製造を担当した。また、天皇一族の護衛(近習隼人)や御陵の警護、そして(もがり)の儀礼にも参加させられたという。これらは隼人の持つ呪能を期待したものだったらしい。どうやら、古代において隼人というのは、神秘的な力を持つ民族と捉えられていたようだ。

このように大和朝廷において重要な働きをしたらしい隼人だが、大和朝廷が氏族支配の体制から律令制(法治国家)に移行するにつれ利害が対立し、702年、713年、720年に朝廷への反乱を起こす(隼人の乱)。ちなみに最後の反乱で朝廷から派遣された将軍が、歌人として著名な大伴旅人である。旅人によりこの反乱は鎮圧され、以後隼人は不遇の時代を迎えることとなる。2回目の反乱の後には、6年に1度の朝貢も求められている(六年一替の制)。これは江戸時代の参勤交代制度に似ているが、定期的な朝貢を求められたのは全国でも隼人しかいないのである。

この他にも、阿多隼人の記事は『古事記』や『日本書紀』に散見される。そして『続日本紀』(797年成立)くらいまではかなりの存在感がある阿多隼人だが、続く『万葉集』になると、阿多という地名は全く出てこないし、「隼人」という言葉も半ば思い出の中に表現されるだけである。 どうもこれは、阿多隼人の場合、中心勢力が畿内に移住してしまったために、地元の政治的重要性が低下していったということもあるようだ。

こうして、神話的古代に栄えた阿多は、阿多郡→阿多郷→阿多村とどんどんその領域を縮小していき、今では金峰町の一地名として残っているだけである。寂しいとも言えるが、古代から引き継がれた地名が交差点の名称として普通に使われているのは面白い。地元でも特段アピールされないけれど、阿多という地名は、鹿児島にとっての記紀神話への入り口なのである。

※1 「この「阿多」は鹿児島の阿多ではなくて、宮崎県の吾田(あがた)だ!」 とする主張もある。宮崎県は、神話の舞台が鹿児島ではなく宮崎にあったとする主張を頑張っていて、これはまた機会があったら書きたいが理由のないことではない。延岡市には笠沙の御崎もある。神話の本拠地の競争をするのではなく、姉妹都市になったら面白いと思う。

※2 「隼人は天皇家に服属させられた民族」というのが従来の常識だったが、最近こういう考え方になりつつある。

※3 『日本書紀』天武天皇11年の条。

※4 これは(※2)と関連するが、従来は天皇家への服属のため強制移住させられたと考えられていた。しかし江戸時代の外様大名のように敵対勢力は遠ざける方が合理的であることを考えると、この移住は自主的なものであったと考えた方がよい、ということになりつつある。

【参考文献】
『熊襲と隼人』1978年、井上辰雄
『隼人の古代史』2001年、中村明蔵

3 件のコメント:

  1. 隼人と大和朝廷の連立政権!目からウロコでした。「クマソ」として討伐される程度の存在感しかないと思ってました。名字が「阿多」さんという人もいたので、由来は地名なのかなと思うと面白いですね。

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    1. コメントありがとうございます。

      ところで、一言で「連立政権」と言っても、内容はさまざまなので注意が必要です。自公連立みたいなものもあれば、民主党と国民新党の連立みたいなものもあります。大和朝廷における隼人の位置づけは、多分国民新党みたいなものだっただろうと思います。何しろ、当時の隼人とは通訳を介してしか話せなかったらしいですし。ちなみに「阿多さん」というのはもしかしたら阿多忠景にちなむものかもしれませんね。もちろん元は地名の阿多から来ています。
      http://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E6%99%AF

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  2. 熊山雅久と申します。長く古代史の中の熊襲を追求してます。
    「大隅の国」の「阿多(あた)」の「阿」語源は、中国の地名「阿」を指していると考えられています。古代の旅人は幾着く先を出身地の地名を新しい土地に地名として名づける習慣というか、人のふるさと恋しさから、地名として名づけます。具体的には、中国の「阿」は現在の四川省にある「阿坝(あば)」に関連している可能性があります1
    四川省アバ・チベット族チャン族自治州(阿坝藏族羌族)ブン川(汶川)県は四川省の西北部、青蔵高原の東南の端に位置し、東南に流れる岷江はアバ(阿坝)州の州境です。東北部には龍門山脈が、西南部には邛?山系が控え、西部の大部分は海抜3000メートル以上の高山で、なかでも四姑娘山は海抜6520メートルあります。西南部には国家クラスの自然保護区:臥龍パンダ自然保護区があります。
    人口は2005年末時点で106,119人で、62%は農業に従事しています。
    人口の46%は漢族(48975人)、次いで34%が羌族(35535人)、そしてチベット族(19743人・18.6%)、そして回族(1377人・1.3%)となっていて、全国に4箇所ある羌族の密集地のひとつです。
    国内では阿部、阿波、その他沢山あります。先祖は全て阿多族だろうと感じています。


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