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2024年7月22日月曜日

忘れられた民具のゆくえ

最近、奈良県立民俗文化博物館が休館するというニュースがTwitterで話題になった。

「維新は文化を大事にしない」という批判のコメントが多かったが、同博物館には、精査なく民具等を受け入れており、しかも整理が十分にできていなかったという反省もあるようだ。

実は、似たような問題が南さつま市にも存在する。これはあんまり知られていない話だ。

加世田の白亀(徳久整形外科をちょっと入ったところ)に、かつて県立果樹試験場南薩支場があった。柑橘類の試験栽培を行っていた場所である。平成4年にこれが廃止されて、土地建物は旧加世田市に移管された。今もこの建物は残っているのだが(冒頭写真)、じつは、この建物の中に大量の民具が保管されているのである。

どうしてこんなところに民具があるのかというと、こんな事情がある。加世田市では、景気が良かった頃に博物館をつくる計画があった。万世にある「天文潟砂丘」という場所に建設する予定だったと聞く。

当時は行政の予算が有り余っていたので、いわゆる「箱物(はこもの)行政」と言われるように、いろんな施設が建設された。その中の一つに博物館があったのだ。加世田市ではその準備のため、学芸員を採用して、民具の収集を行った。

なにしろこの頃、鹿児島では下野敏見さんや小野重朗さんといった民俗学者が活躍していて、民俗学が大きな盛り上がりを見せていた時期だったのである。全国的にも鹿児島の民俗学が一目置かれた時期だったのではないかと思う。

ところがその後、行政の懐事情は徐々に悪くなり、博物館の構想も凍結された。

そして、収集した大量の民具だけが残された。加世田には今も図書館の3階に「郷土資料館」があるが、ここに民具を展示するスペースはなく、収蔵庫のようなものもおそらくほとんどない。そんなわけで、空いていた県立果樹試験場南薩支場跡を「文化財センター」という名称にして、とりあえず行き場のない民具をここに保管することにした、ということのようだ。

しかし、その「とりあえず」 がもう20年以上も経過している。中の民具はどのような状態なのだろうか。防虫の処理などしているのだろうか。そもそも、何が保管されているか把握している人はいるのだろうか。加世田市が周辺自治体と合併して南さつま市になってからは、どのような扱いになっているのだろう。

こんなことは、南さつま市役所でも、ほとんど気にする人はいない。「民具? よくわからん」が市長はもちろん、行政職員の正直な気持ちではないだろうか。これらの民具は、すっかり忘れられたのである。鹿児島の民俗学も、すっかり下火になってしまった。

さて、今、なぜ私がこの民具についてここで書いているのかというと、南さつま市では今、箱物整備のタイミングになっているからだ。

きっかけは、加世田にある南薩地域振興局の南九州市への移転が決定されたことだ。本当は、その跡地に県が何らかの施設を作ってくれればいいのだが、県はそんなお金はないとしているので、南さつま市はその跡地を県から無償で譲ってもらうことにした。そして南さつま市の本坊市長はここに「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設することを表明、令和6年度はその調査にかかる予算が計上された。

さらに、別の話ではあるが、加世田の「市民会館」(行政の教育部局と大ホールと市民センターがある建物)が老朽化しているため、大ホールが解体されることが決定されており(隣に「いししへホール」があるため)、教育部局の棟は建て替えする計画である。

また、図書館や郷土資料館が入っている建物も老朽化しているため、おそらく「南さつま交流プラザ(仮称)」にその機能が移管されるのではないかと思う。そして市民センターの機能のいくらかもこちらが担うことになるのだと思う。

となると、気になるのは郷土資料館の扱いである。

合併後、加世田市および旧4町の展示施設は、なんだか中途半端な扱いが続いてきた。合併前には、加世田市が「郷土資料館」、金峰町が「歴史交流館 金峰」、大浦町が「郷土資料室」、笠沙町が「郷土資料室」と「笠沙恵比寿の博物館」、坊津町が「輝津館(きしんかん)」という6つの施設があった。合併後も、施設自体が廃止された「笠沙恵比寿の博物館」を除いて、これらは一応存続してきた。ただ、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、ほとんど有名無実化しているのが現状だ。

何が中途半端かというと、それぞれが惰性的かつ個別的に存続してきたことである。これでは、合併のメリットを活かしているとはいいがたい。

そんなわけで、この箱物整備のタイミングで、南さつま市の展示施設の在り方について改めて考えてみるべきだと思う。あわせて、塩漬けになっているあの民具についても、この機会に見直し、管理や調査研究、展示をしていってはどうか、というのが私の提案なのである。

展示施設について理想的なのは、全てを統合し一つの博物館を設立することであるが、「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はそれぞれが南さつま市の規模からすると立派すぎる施設なので、廃止はもったいないし難しい。だが別個に存在するとしても、お互いに有機的な連携を図っていくべきだ。

せめて、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、すでに有名無実化しているので加世田に統合したらよい。そして塩漬けになっている民具も含め、加世田に「南さつま市郷土資料館」を設立、そして「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はその分館に位置づける、というのが一番自然な案である。場所は、現在の図書館がある建物を全部(1~3階)使うこととすればよい。1階の行政部署は市民会館の建て替え部分に、2階の図書館は「南さつま交流プラザ」に移転させればよいと思う。

この案の問題は、この建物自体が老朽化しつつあることだが、耐震工事などはしていたと思うのでまだしばらくは使えるのではないだろうか。

中には「まだあの建物が使えるなら、民具なんかを置くのではなくて、もっと役に立つ使い方をしたらいいんじゃない?」という人もいそうである。そもそも「そんなことにお金を使うより、生活困窮者や子育て世代への支援、高齢者福祉とか移住促進に使う方が有意義では?」という考えだってアリだ。

もちろん、南さつま市の財政がカツカツなら、私だって「残念だけど民具は後回しにしよう」と思うところだ。だが実際、「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設したり、市民会館の一部を建て替えたりする余裕はあるわけだ。それに南さつま市では幸いなことにふるさと納税の成績がよい。人口減少が始まっている南さつま市にとって、今は、市民生活に直結しない展示施設をつくれる最後のチャンスというタイミングであると私は思う。今やらなかったら、忘れられた民具は、廃屋で朽ち果てる可能性が高い。

収集した民具はモノをいわない。たとえ放っておいても、奈良県立民俗文化博物館の場合とは違って誰も文句は言わなそうだ。そんなことになぜお金や労力をかけないといけないのか。声を挙げている人、困っている人はたくさんいるというのに。

だが、それを言ったら、困っていてもモノを言えない人は意外と多い。そういう人を放っておいても、たいていは何も問題は起こらない。そんな風にして、声なき弱者を切り捨て続けてきたのが、今の日本ではないか。

儲かるものや、役立つものや、権威ある人の後援を受けているものを大事にするのはバカでもできるが、儲からないもの、すぐに役立たないもの、誰の後ろ盾もないもの、そういうものを大事にするには、「見識」がいる。

実際、収集された民具が有効活用されないとしても、どれほどの文化的損失があるのか、私にはわからない(だいたい、その民具を見たこともない)。だが少なくとも、現在保管している民具の扱いを検討するくらいの「見識」がある町に、住みたいものである。

2022年5月29日日曜日

鹿児島の郷土作家、名越 護さん

拙著『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が遂に手元に届いた。

公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。

【南薩の田舎暮らし】『明治維新と神代三陵:廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(1870円(定価販売)、送料無料)

そしてこの度、拙著に名越 護(なごし・まもる)さんから推薦コメントをいただいた。

本書をすすめる

なぜ神代三陵が鹿児島県内に比定されたのか、天皇を中心とする明治政府は、国家神道をめざして廃仏毀釈を蛮行したが、なぜ鹿児島だけが率先して決定的な「寺こわし」を徹底したか。そして彼らが目指した「国家神道」で、なぜ各地の人々の身近にあった多くの産土神を、すべて記紀に記された神々と合祀していったか——。政治が宗教までも抹殺して庶民の心まで奪い、一方的に天皇制を強化していった姿を、史料類を詳細に調べて明治維新の“負の部分”を明らかにした好書である。
           名越 護(鹿児島民俗学会員)  

名越護さんは、鹿児島の徹底的な廃仏毀釈についてまとめた『鹿児島藩の廃仏毀釈』の著者で、存命中では、質・量ともに一番の郷土作家。鹿児島ではファンの多い名越さんに推薦コメントをいただけたことはとても心強い。

しかし名越さんは、あまり人前に出ていくタイプではないし、新聞やテレビでコメントするようなことも少ないので、鹿児島でも知らない人は多いかも知れない。まだ誰も「名越護」についてまとめた人がいないようなので、僭越ながら少し名越さんについて語ってみる。

名越さんは、昭和17年(1942)奄美大島宇検村生まれ。立命館大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社して記者になった。記者になって10年ほどたった昭和50年(1975)頃、鹿児島の民俗学者・小野重朗さんの『かごしま民俗散歩』を読んで民俗学に興味を持ち、民俗学を学んだ。

そのため、祭りや伝統行事を伝える新聞記事も、名越さんの手にかかると一種の民俗学のフィールドワークの面持ちがあり、今の新聞記事にはない深みがあった。

名越さんは、南日本新聞社加世田支局(現南さつま支局)に昭和50年代後半に赴任。そこで「ふるさと流域紀行 万之瀬川」というとんでもない連載記事を書いた。これは万之瀬川の流域(主に今の南さつま市、南九州市)の自然や文化、神話や伝説、産業や人々の暮らしについて地域の特色を描いたもので、昭和57年(1982)3月から7月までに60回に渡り連載された。1回の記事は1500字程度。綿密な取材を行った上で、地域の様々な事柄について自分なりに考察した部分も多く、民俗学的視点が発揮されている。

この連載記事は、内容もすごいがそれ以上に驚かされるのは、たった3ヶ月半程度の間に60回もの記事が発表されている、ということだ。記事は毎日あるいは1日おきくらいで掲載された。この濃密な連載をとんでもないスピードで書いていたことは驚愕以外の何物でもない。しかも、もちろんこの他に通常の記者としての記事も書いているのである。

この連載記事は、郷土を知るための恰好の地域誌となっており、今は失われた祭りや民俗の記録ともなっていて資料的価値も非常に高いため、南さつま市観光協会が2019年にまとめて翻刻している(非売品だが協会に行けばもらえる)。

この大仕事を終えて後、名越さんは南日本新聞社文化部に在籍。ここでは鹿児島県全域が取材対象となる。そこで連載「かごしま母と子の四季」を自ら企画し、昭和60年(1985)、週一回一年間連載した(53回)。これは県内各地を巡って、祭りや伝統行事を女性や子どもに注目して取材しまとめた「民俗ルポルタージュ」。祭りというと、どうしても男性がやる派手な所作などに注目が集まるが、この連載では団子を作る女性や、時として神の代わりとなる子どもたちを取り上げたことが新鮮だ。取材においては、小野重朗さんもいろいろと指導をしたらしい。

さらに翌61年(1986)には、週二回の年間連載「かごしま民俗ごよみ」を95回連載した。これは祭りや伝統行事だけでなく、民俗信仰まで含めて県内各地を取材し改めてまとめたもの。2年連続で手間のかかる企画連載記事を手がけたことは、この時期の名越さんの気力体力がいかに充実していたかを物語る。

そして、これらの記事を見ると、民俗学の視点や伝説や言い伝えの考察といった名越さんならではの深みは当然のことながら、取材の丁寧さや文字の多さだけ見ても今の新聞記事とは隔世の感がある。今の新聞の悪口を言ってもしょうがないが、昨今は写真ばかりが大きくなり(しかも記者本人が撮っているためおざなりなものが多い。当時の写真はカメラマンが同行し、ちゃんと現像した写真だ。写真にかける力が違う)、文章は必要以上に削られて、ほとんど紋切り型の説明しかできなくなっている。

だからきっと、今の南日本新聞にこれだけの力量がある記者がいたとしても、宝の持ち腐れになるだろう。昔の力作記事を見ると、どうしても今の新聞の凋落を感じてしまう。

それはともかく、名越さんは南日本新聞で精力的に記事を書いた。日々の取材の記事だけでなく、民俗学の視点から主体的に鹿児島を切り取っていった。そして2003年で定年退職し、執筆活動に入る。主要な作品を書き出してみると、こんな感じだ。

  • 『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』(2002年、南日本新聞開発センター)
  • 『薩摩漂流奇譚』(2004年、南方新社)
  • 『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(2006年、南方新社)
  • 『鹿児島藩の廃仏毀釈』(2011年、南方新社)
  • 『自由人西行』(2014年、南方新社)
  • 『田代安定 : 南島植物学、民俗学の泰斗』(2017年、南方新社)
    ※南日本出版文化賞受賞
  • 『クルーソーを超えた男たち』(2019年、南方新社) 
  • 『ふるさと流域紀行 万之瀬川』(2019年、(一社)南さつま市観光協会)
    ※私事ながら、本書の刊行には私自身も関わった。
  • 『鹿児島 野の民族誌——母と子の四季』(2020年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま母と子の四季」
  • 『鹿児島民俗ごよみ』(2021年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま民俗ごよみ」

さらにこうした作品を執筆する傍ら、鹿児島民俗学会会員として、学会誌『鹿児島民俗』に数々の論文も発表してきた。私自身はこれらのうち一部しか目を通していないが、書名だけを並べても、名越さんでなければ書けない、しかも誰かは書かなくてはならなかった重要なテーマにずっと取り組んできたことが明白である。

特に『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は薩摩藩の植民地だった奄美において、黒糖製造業の犠牲となった債務奴隷ヤンチュの実態を明らかにした名著であり価値が高い。

そして徹底的に行われた鹿児島の廃仏毀釈を、各市町村郷土史をベースに現地取材して描いた『鹿児島藩の廃仏毀釈』は、「南方新社史上、最も売れた本」と言われている名作である。もちろん、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の執筆においても大いに参考にさせてもらった。

そんな名越さんは、2022年5月、自身「最後の著作」と位置づける『新南島雑話の世界』を南方新社から上梓された。 15冊目の本だそうである。これは、幕末に奄美に島流しにされながらも、奄美の文化や自然について克明な記録を残した名越左源太(なごや・さげんた)の「南島雑話」を読み解くものである。旧作『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』が祭事を中心としていたのに対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心に現在の奄美の情報も付け加えたもの。奄美生まれの名越さんの「奄美愛」が詰め込まれているように思う。

このように名越さんは、新聞記者時代には生きた鹿児島の民俗を記録し、退職後は独自の視点で郷土史研究を行い、これまたとんでもないペースで本を書いてきた。名越さんが第一級の郷土作家であることが、これでおわかりいただけたと思う。

そして私事ながら、名越さんには著作の上で多くの示唆を受けただけでなく、直接にもいろいろとお世話になっている。すごい人なのに、いつも控えめでにこやかに微笑んで下さる方である。この度拙著への推薦コメントも、お願いしたら快く引き受けて下さり、数日後にはコメントを手紙で受け取った。

名越さん、いつもありがとうございます!!


2016年5月29日日曜日

納屋をリノベーションします

実は、明日からうちの納屋のリノベーション工事が始まる。

このあたりの古い家には必ず納屋が附属しているもので、うちも本宅よりも立派な2階建ての納屋があった。でもいつかの台風で2階部分が壊れて改築し今は1階部分しか残っていない。

昔も今も、農業には倉庫が重要であることは言うまでもないが、特に昔は牛に犂(すき)を引かせていたから家に牛がいて、牛を飼うためには納屋が絶対必要だった。写真で分かるように、建物の下半分が石詰みによって作られているのはこのためで、木造だと牛の糞尿によってすぐに材が腐ってしまう。だからこのあたりの古い納屋の下半分(の、特に牛のためのスペース)は石詰みによって作られている。

さらに、牛の糞尿は肥料にしたので、牛のいた区画の下は傾斜がついていて屎尿排水の口があり、下には大きな肥だめの空間がある。ついでに納屋の外には人間用の便所もあって、人間と牛の屎尿はそれぞれ下の肥だめに集められるようになっていた。

化学肥料が使えなかった昭和の半ばまで、これは農業をやっていくための大事な仕組みだったが、牛がいなくなり、化学肥料になって人糞も集めなくなると、この肥だめシステムは無用の長物と化してしまった。それどころか、肥だめには雨水が溜まって(沁み出してきて?)湿気の温床となり、地下の空間は危険な落とし穴にもなった。野良猫がこの肥だめの中に落ちてしまい、それを救出するのに3時間くらいかかった、なんてこともある。

というわけで、この無用の肥だめをなくしてしまうことにした。これから、また肥だめをつかって肥料を作るような時代が来ないとも限らないが、私の考えでは、昔の屎尿肥料の作り方にも非効率なところがあり(※)、仮にそういう時代が来るとしても昔ながらの肥だめシステムを使う必要はないだろうと思う。

具体的な工事としては、肥だめを壊し、埋め、上からコンクリートで塗り固めてしまうというもの。でも工事というものは、マイナス(迷惑施設)だったものがゼロになる、というだけではなかなかやる気が出てこないものである。というわけで、せっかく工事をやるなら、納屋のリノベーションを行って、ここをステキな部屋にしてしまおうというわけである。

そもそもうち(本宅)は築百年の古民家で、間取り的に現代の生活スタイルに合っていないところがあり、子どもたちがもうちょっと大きくなったら一部屋足りなくなる見込みだ。この機会に一部屋作っておけば将来の子ども部屋問題も解決するし、それまでの間は事務所か書斎として使うこともできる。

同世代が次々に新築の家を建てる中、このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがあるが、加世田のステキな工務店crafta(クラフタ)さんのセンスで、新築するよりステキな空間に生まれ変わる予定である! 私としては密かに南薩の「納屋リノベーション」の先駆事例になったらいいなと期待しているところだ(同じような納屋がこのあたりにはたくさんあるので)。

ところで、こちらに移住してきてから、かなりのお金が工務店さんの方にいっている。本宅のリフォームはさておき、その他にも食品加工所(そういえばこれまでブログに書いていなかったのに気づいたのでいずれ書きます)、農業用倉庫、そして今回の納屋リノベーション。生活や仕事の基盤を作っていくというのは、なによりもまずその「場」を作る事が重要だ。「場」=不動産よりもコンテンツにお金を掛けるべきという考えもあるが、私の場合はまず「場」をしつらえるのを優先するので、これはこれでよかったと思う。

でも農業ではなかなか生活が成り立って行かない中で、どうして納屋リノベーションの予算が出たのかというと、これは当然貯蓄を切り崩して捻出している。そしてこれで都会時代の貯蓄が全て無くなった感じになり、また今年後半から新規就農の補助金も終わるので、これでいよいよ裸一貫でやっていかないといけない。正直、ちょっと不安はあるが、農業でなんとかやっていけないことはない、という見通し(だけ)はある。

お金のない中で、そんなやってもやらなくても困らない工事なんかやめておけ、という人もいるだろうが、私としてはこれも「南薩の田舎暮らし」の重要な基盤の一つだと思っている。生活や仕事の基盤はそろそろ出来てきたので、これからはそれを活かして行く段階になってくる。…と書いていたらだんだんやる気が出てきた。

というわけで「納屋リノベーション」がステキにできあがるか楽しみである。


※ というのは、糞尿を肥料に変えるには発酵させなくてはならず、それにはたくさんの空気(酸素)を必要とする。昔の肥だめは尿も一緒に集めていたためドロドロ状態になっていて、それを別の場所にわざわざワラなどと重ねて入れ発酵させていたようだ。今だったら、ブロアで空気をいれて発酵させるかもしれない。でももっと簡単かつ効率的なのは、糞は糞だけを集めて水気のない状態で発酵させることである。なぜ昔はこうしなかったのかよくわからない。

2014年3月7日金曜日

恵比寿とクジラの関係

今、南さつま市では、クジラ関係の観光振興に力を入れている。先日は、クジラをテーマにしたお土産コンテストまで開催され、とも屋さんの「くじらのおひるね」というお菓子が大賞を受賞した。

こうして、クジラに力を入れているのは「くじらの眠る丘」というクジラの骨格標本を展示する施設ができたからなのだが、自分としては、ただ骨があるというだけでは観光資源としての深みに欠けるような気がして、もう少し歴史や文化まで掘り下げてクジラをアピールすることができないかと思っている。

【参考】南薩の捕鯨と「くじらの眠る丘」

というようなことを考えていたら、ふとクジラと恵比寿信仰には関係があるのではないかと思いつき、少し調べてみた。南さつま市でも笠沙に「笠沙恵比寿」という恵比寿信仰をモチーフにした施設があるのを始め、恵比寿信仰は盛んだった。その祠があるところが、どうもクジラが見られる浦に当たっているような気がして、関連性が気になったのである。

結論を言うと、恵比寿信仰とクジラには深い関連があり、中山太郎という明治時代の民俗学者は「ゑびす神異考」という論考を著して、恵比寿信仰の源にはクジラへの信仰があるのだ、という説を唱えているくらいである。ただこれは少し牽強付会なところがあって、信憑性はイマイチと言わざるを得ない。

だが、北関東以北の地域では、クジラやサメといった大型の海棲動物を「えびす」と呼んできた地域が多い。 これは、クジラやサメが小型の魚を追い込んで沿岸に大量に連れてくるため豊漁になることが多く、豊漁をもたらす有り難い存在として「えびす」と呼んだのだろうとされている。恵比寿信仰とクジラには確かに関連があるのである。

ただし、西日本ではクジラと恵比寿信仰に関連があるという明白な証拠がないようだ。西日本の沿岸での恵比寿信仰は、海岸の石とか珍奇な漂着物とかを依り代(よりしろ)にして豊漁を願うものが多く、東日本のそれとは少し違っている。こうした自然発生的な民俗信仰は地域ごとの差異が大きく、そもそも信仰の淵源を求められるものではないが、残念ながら西日本ではクジラと恵比寿信仰の関係は遠い。

しかし今回少し調べてみて思ったが、恵比寿信仰というのはなかなか奥が深い。漁民の豊漁や安全を願う心が具現化されたのが恵比寿という存在であることに疑いはないが、他の神格や神話を取り込み、習合を繰り返し、恵比寿は複雑な神に発展して行った。だが生活と仕事に即した素朴な願いが託されている存在であるから、決して大仰な力(例えば国家安泰とか)を持ったりせず、それが司るのは商売繁盛といった身近で現世的なものだったのである。

そういう点は、稲荷信仰、八幡信仰、熊野信仰といった民間信仰がみな共有していたところでもあるが、恵比寿信仰が特異的だったのは、信仰に中心らしい中心を持たず、常に意識が海の彼方へと向かっていたというところである。稲荷信仰なら伏見稲荷、八幡信仰なら宇佐八幡、熊野信仰はそのままずばりで熊野が中心だ。だが恵比寿信仰は、兵庫県の西宮神社というのが総本社とされているが、各地ではそれが意識されていなかったようだ。

恵比寿信仰は、神話の及ぶところにない、庶民と海の間から澎湃と沸き上がった信仰である。そういう正体不明の存在だからこそ面白い。いつか機会があったら南薩の恵比寿信仰についてちゃんと調べてみたい。

【参考資料】
えびす信仰事典』1999年、吉井良隆 編

2013年12月21日土曜日

「はきもの奉納」と大木場山神祭りの謎

大浦町の大木場という集落にある大山祇神社で12月に行われる奇祭が「山神(ヤマンカン)祭り」である。先日これの案内をいただいたので見学に行った。

この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。

その由来は、集落の言い伝えによると
大木場地区は、平家の落人の里といわれ、[…]伝説によると村人は、源氏の追っ手におびえながら暮らしていた。そこで村に通じる峠道に畳十畳ほどの大草履を置いたところ、追っ手は「この村には巨人がいる」と恐れ、退散したという。以来大草履は、村(地区)の守り神として、毎年旧暦11月の「1の申の日」に行われる山神祭りに、これを奉納している。
ということである。

もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。

実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。

なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。

さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。

それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。

こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。

こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。

しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。

話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。

そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。

大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。

そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。

だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。

しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。

ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。

弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。

【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男