2014年1月28日火曜日

鹿児島の真宗が墓参りに熱心なわけ——鹿児島本願寺小史(4)

これまで見たように、西本願寺による鹿児島の布教活動には数々の困難が伴っており、およそ成功するような事業ではなかった。乱暴にまとめてしまうと、当時の鹿児島には、真宗の教えを受け入れる素地がなかったのである。

しかし実際には、西本願寺による布教活動は大成功することになる。明治期に建立された寺院のほとんどは真宗のものであったし、それは現代でもさほど変わらない。鹿児島県は真宗率の最も高い県の一つになったのである。それはなぜだろうか?

実は、当時彼らの布教活動を強力に後押しした明治政府の政策があった。それは、鹿児島での信教自由に先立つこと4年前、明治5年に出された「自葬禁止」の太政官布告であった。

それまでは、葬式といえば庶民は共同体で営むものであり、神官や僧侶は必ずしも同席していなかった。そこで政府は神官・僧侶が執り行わない葬儀を禁止し、彼らに葬式を管理させることにしたのである。死者を勝手に葬ることはできなくなったのだ。

どうして葬儀を神官・僧侶に管理させる必要があったのか、ということは少しく説明を要する。 明治4年は、全国的にも信教自由の前で、神道が国教化されていた時代である。明治政府は人心を神道により収攬することを企図し、神仏分離を始めとして様々な宗教政策を実施していたが、その要諦は、全ての宗教を国家の管理下に置き、宗教活動の中心を「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」に組み替え、もって愛国と服従を教え込むことにあったと言える。

真宗が「真俗二諦」を打ち出したのもそのためだ。「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」という、阿弥陀仏への信仰とは異なる考え方を教義上で正当化するため、真諦=真宗の元々の教え、俗諦=国家の教え、というように一応区分し、それが矛盾しないことを説明しなくてはならなかったのである。

ここで注意しなくてはならないのは、「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」は一見別のものに見えてその内容は密接に関連しているということである。明治政府が肇国の聖典とした記紀神話は、各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるが、これは言葉を換えて言えば「遙かな過去に遡れば、誰でも天皇家と親戚関係・主従関係になる」ということで ある。

であるから、明治政府は各自の祖先を敬うことがひいては皇祖=神を敬うことになると整理し、そのために神社整理の際は記紀に位置づけられない土着の神社を廃したり改名して、記紀神話に基づいた神社を創建したのである。こうして、「皇祖・敬神」という、庶民にとってはとても理解しがたい、抽象的な信仰が、それぞれの祖先を敬うという具体的なレベルの行動に落とし込まれたのであった。

というわけで、明治政府にとって祖霊祭祀というのは、ただ祖先を大事にしましょう、という倫理以上の重要性を持っていた。皇祖崇拝の根源を祖霊祭祀に置いていたので、これを徹底することは国家の祭祀に関わることだったのである。そして、祖霊祭祀の具体的活動はとりもなおさず「葬式」であるから、これを国家の管理の下に置こうとするのは当然だ。そこで「自葬禁止」の布告がなされることになったのだ。

また、民衆的レベルにおいては、葬式はあらゆる宗教活動の中で最も重要なものである。「自葬禁止」の布告には、未完成・未徹底だった国家宗教としての神道の完成のために、葬式を手中に収め、これを管理することにより民衆の教化の入り口にしようという目論見があったに違いない。

ところで、「自葬禁止」の布告には、国家神道の観点から見ると不徹底な部分が一つある。それは、葬式の執行者を神官(神道)だけでなく僧侶(仏教)も含めた ことだ。これは、当時仏教諸派も国家の管理下に置かれていたために、祖霊祭祀や皇祖崇拝を仏教側も民衆に教える(教えなくてはならない)ということから含まれているのである。

仏教側には、この自葬禁止という政策にはいろいろと思うところがあったらしい。しかし、国家神道を推し進めるためのこの政策が、西本願寺による鹿児島への布教活動にあたっては、皮肉にも強力な追い風になったのである。

なにしろ、当時の鹿児島は苛烈な廃仏毀釈後であるから寺院が全くない、つまり僧侶がいない。神官はいたが、当時の神官は公務員であるためその数が限られており、とても民衆の葬式をまかなう人数がいなかった。だが人は、そんなことはお構いなしに死んでいく。かといって勝手に葬れば取り締まられる。さて困った。 と、そういう状況でやってきたのが西本願寺の僧侶たちなのである。鹿児島の民衆にとって、ようやく葬儀を任すことができる人が現れたのであった。渡りに船とはこのことであろう。乗らないわけがないのである。

この状況は、西本願寺側もよくわかっていた。島地黙雷はこれをチャンスと見たし、西南戦争後の明治11年には、西本願寺の鹿児島出張所(現・西本願寺鹿児島別院)は県庁の指導に従い「葬儀を懇ろにせよ」という達書を県内で活動する僧侶たちに送っている。

こうして、鹿児島の民衆にとって、真宗は「葬式仏教」として入ってきたのである。西南戦争や隠れ念仏、そして言葉の問題など本願寺にとっては逆風だらけの中、布教事業が非常なる成功を収めたのは、ひとえに明治5年の「自葬禁止」の布告のおかげであるといっても過言ではない

「葬式仏教」などというと、形式化した現代の仏教を揶揄する言葉であるが、明治の頃の「葬式仏教」としての真宗をあながち批判することはできない。葬式は、言うまでもなく死者の魂を安らげ、残されたものの心を整理する重要なイベントである。現代においても、心のこもった葬儀というのは、一人の人間の死を悼むだけでなく、それぞれの来し方行く末を顧みる機会にもなり、これまで受けてきた有形無形の慈しみに感謝する場でもある。西本願寺の僧侶たちが葬式を「懇ろに」執り行ってくれたことは、当時の人々にとってどれだけ慰めになったことだろう。

さらに、当時の鹿児島の民衆というものは蒙昧で野蛮な状態に置かれていたのだ、ということをもう一度考えなくてはならない。一方で、鹿児島へ布教活動に来ていた僧侶たちは、当時の西本願寺の中でもエース級の人物たちで ある。そういう、教養も徳も高い僧侶が、「猿の如き」と言われていた野卑な民衆の葬儀を執り行ったのである。しかも、それは偶然ではない。「お念仏の下には、人々はみな平等である」という真宗の教えに基づいて、野卑な庶民にも高徳の僧侶が念仏をしたのであった。難しい話など聞く機会など全くなかったであろう鹿児島の庶民が、始めて触れた高邁な話は、おそらく真宗僧侶の説教(法話)だったのではないだろうか。

なお、鹿児島の民衆と真宗の出会いが「葬式仏教」だったことは、鹿児島の真宗文化に強力な影響をもたらした。

例えば、鹿児島では墓参りが盛んなことに他県の人が驚くことがある。また、盆正月などでなくても、いつもお墓に立派な仏花が飾られていることは、鹿児島の一種の風物詩であり、そのおかげで鹿児島県民の切り花消費量は日本一なのだ。ここでの問題は、真宗率の高い鹿児島で、どうしてこのように祖霊祭祀が盛んなのかということである。

なぜなら、真宗は元来、祖霊祭祀には熱心ではない。 親鸞の元々の教えには祖霊祭祀の要素が非常に希薄であって、祖先の霊を敬うことよりも、ひとえに阿弥陀仏におすがりすることを強調している。それに、念仏 を唱えて亡くなった人は貴賤の別なく阿弥陀の浄土へ往くことができるので、追善供養(死後に読経や布施などをして極楽へ往生できるように願うこと)をする必要もなかった。真宗の教義では、お盆にも祖霊が現世へと返ってくることはなく、死者は浄土にいて永遠の安楽を楽しむことができるとされている。

こういう教義であるから、祖先の墓に頻繁に墓参りをするとか、仏花を献げるとかいうことに、真宗では宗教的な意味づけがあまりなかったのである。事実、古くからの真宗地帯である北陸などでは、祖霊祭祀を行わず、ひとえに念仏に勤しむことを村の誉れとするようなケースもあったと聞く。今でも、北陸には墓がない地域がある。そんな真宗を多くが信仰する鹿児島で、どうして墓参りや献花が盛んなのか。その答えは、この明治期の真宗の受容の仕方にあったのではないか。

先述の通り、この頃の真宗は国家の指導の下、元々の教義にはかなり希薄であった「祖霊崇拝」を積極的に勧奨したし、しかのみならず、「真俗二諦」の旗印の下、皇祖崇拝と天皇への恭順も指導した。この頃の真宗には、元々の教義を枉げていた部分が確かにあった。そしてそれは、既に述べたように西本願寺自身が認めて反省していることである。鹿児島の民衆に篤く墓参りをするよう指導したのは、ほかでもない西本願寺ではなかったか。鹿児島でこれほど墓参りなどの祖霊祭祀が盛んであるのは、この頃の真宗の教化以外に説明がつかない。

ちなみに、墓参りが盛んな理由を「元々鹿児島の人は祖先を敬う気持ちが強いから」などと説明されることもあるがこれは大きな間違いである。「伊勢講」とか「庚申講」といった、近世以前の民衆の宗教活動の中心である各種の「」を見ても、祖霊祭祀の要素はほとんど見当たらないことからもそれは明らかであり、控えめに言っても、かつて鹿児島で祖霊祭祀が盛んだったという証拠はない。

ただ、元々の教義に希薄な要素を新たに導入するのは別に悪いことではない。仏教では、元来「方便」という考え方があり、これは「真理に近づくための方法は様々でよい」というような意味を含む。結果的に鹿児島の人たちを救うのに役立ったのであれば、葬式仏教で何の悪いことがあろうか。

それに、元来の教えに則ったものこそ正しく、後に付け加えられたものは間違いである、という立場に立つと、浄土真宗自体を否定することになる。歴史的人物としての釈尊は阿弥陀仏の教えを説いていないわけで、その立場だと信じられるものは初期仏典のごく一部に限られる。そういう態度を否定はしないが、宗教というのは、土着の信仰や習俗と習合して内容が豊かになっていくものだから、たとえ祖霊祭祀が国家に勧奨されて導入されたものだったとしても、ただちに価値が低いということにはならない。

だが一方で、このために鹿児島の真宗信仰に、本来の親鸞の教えとは少し違う部分がもたらされたことも事実である。他県に出てみると分かるが、鹿児島の真宗文化は他地域のそれと少し変わっている。そしてその差異の淵源が、明治時代にあることはほとんど知られていない。鹿児島の西本願寺も、それを広く説明したことはないようだ。明治維新から150年以上経っているので、そろそろ自らの姿を正しく見つめる機会を持つべきではないだろうか。

【補足】2/3アップデート
最後から2番目の段落を追加した。

【参考資料】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会 代表 槇藤 明哲

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