2015年12月1日火曜日

「積ん読ナイト」に参加して

先日、「積ん読ナイト」という催しに参加した。

積ん読している本について語り合おうという変わった会である。「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」にも出店いただいた「つばめ文庫」の店主さんに誘われて二つ返事でOKし、この前夜中に天文館の某所に行ってきた。

これが、読んだ本について語り合う会だったら、もしかしたら行っていなかったのではないかと思う。私にとって、読んだ本をオススメし合う会よりも、読んでない本について語る会の方がよほどクールなものだ。

会では「買ったけど難しくて挫折した」といったような真面目な理由で積ん読されている本が多かったようだが、 私はそもそも、買った本は読むべきもの、とは思っていない。もちろん買ったのなら読むに越したことはないが、それは冷蔵庫の野菜は使い切った方がよいというレベルの話であり、無駄はない方がよいということに過ぎない。

でも、無駄はない方がよい、ということを考えるなら、そもそも読書自体が無駄であって、本なんか読まない方がよほどスマートである。「本はためになる」「本で勉強できる」「本は感動する」「本で心が豊かになる」といったたくさんの反論が予想されるが、これまでの経験で言うと、読書家に「知識が豊富で心が豊かな人」が多いかというとそうでもない。

もちろんほとんど読書をしないで知識が豊富な人というのはかなり珍しいので、知識を求めるなら読書は有用であるが、大抵、読書によって仕入れる知識のほとんどはそもそも無駄である。そして、ついでに言うと読書によって仕入れる知識はとても危険であり、本当は賢くなっていないのに、なんだか賢くなった気がするという読書の逆効用を常に気をつけていないといけない。本当に知識が欲しいなら、かなり心して体系的な読書を心がけないと、生兵法は怪我の元で、読まない方がマシだったということになりかねない。

そして、もっと心してかかるべきなのは、読書は知性を彫琢するという思い込みである。読書家には知的な人が多い。これは確かである。だからと言って誤解してはならないのは、人はなかなか読書だけでは知的になることはできないということだ。それどころか、読書は時として人を高慢にし、悟ったような気持ちにさせ、中庸を見失いがちになり、その割に人を怯懦にさえさせる。このあたりは、中島 敦が『山月記』に余すところなく描いている通りである。もちろんあの話は読書に限った話ではないが、読書には李徴を虎に変身させたのと同じ力が秘められている。

本当に知識が欲しいなら、読書よりも誰かについて勉強するほうが確かだし、知性を陶冶したいなら読書はむしろ危険でさえある。人を真の意味で知的にするものは行動と経験だけで、読書はそれに添えられたスパイス的な働きをするに過ぎない。要するに、知的なものを求めて行う読書というのはあまり意味がない。私は、長く「読書など知識人にとってのパチンコである」と思っていた。パチンコは低俗なもので、読書は高尚なものだ、というのは思い込みである。

だからといって私が読書を敵視しているかというと、もちろんそんなことはない。それどころか、読書はすごく好きである。いや、正直に言えば、本がない生活というのは、(今までそんなことがなかったので想像だが)耐えられない。

でも、「読書って素晴らしいよね!」という屈託ない思いで読書に向き合うことができないというのが私のような中途半端な知識人の悲しいところで、いつも「本なんか読んですいません」という気持ちで読書している。それあたかも、こっそりとパチンコに行くオヤジさんのような気持ちである。 読書なんて無駄な活動をして申し訳ない! ほとんど収入もないというのに!

それはさておき、そういう考えでいくと、積ん読は無駄でもなんでもない。むしろ読書に費やされたかもしれない時間で何か他の活動をしているわけだから、無駄の削減でさえある。だいたい超人的な博覧強記でもない限り、読書内容の99.9%は忘れる。しばしばその本を読んだのかどうかさえ忘れる。積ん読は、そういう99.9%を削減する素晴らしい方策である。…というのはジョークだが、積ん読を悪びれる必要は全然ないのだ。

それに、どの本を購入するかということを、自分の取捨選択だと考えているうちはまだ読書の高慢さに捕らわれていると思った方がよい。本当のところは、本の方があなたを選ぶのである。例えば、それは捨て猫に出会ってやむなくそれを家に連れて帰るようなもので、実際には購入者の方には選択肢があんまりない。その本と目があってしまったら、それはその本があなたを選んだということで、その本を読みたいかどうかということはさておいて、とりあえず家の本棚という居心地のよいところで、その本を休ませてあげなくてはならない。撫でたり眺めたりした後で、読みたくなったら読めばよいし、そうでもなかったら遠慮なく積ん読しておいたらよい。あなたは今やその本の保護者である。

本が溢れている現在はそういう気持ちでいる人が少ないが、本が超貴重品だった前近代社会においては、本は所有するものでなく保護するものだったと私は思う。でも今でも、本というものはちゃんと保護していないと意外とすぐに死に絶えてしまうもので、本は常に絶滅危惧種である。特にいい本こそ生命力は弱いので、見かけた時に買っておかないと、次はない、という場合だって一度や二度ではないのである。

読む暇も 知力もなくても よい本は、積ん読してでも 家に置くべし(短歌)。

ということなのだ。そういう考えの私であるから、「積ん読ナイト」は大変興味深いイベントだった。といっても、もちろんそれは「積ん読最高!」というようなひねたイベントではなく、その中身はごく健全なもので、私のような毒気がある人もおらず(たぶん)、私自身が読書に対して改めて清新な考えで向き合うきっかけになったと思う。

思えば、ド田舎に移住してきてから、私の読書に対するスタンスも少しずつ変わってきた気がする。

「読書など知識人にとってのパチンコである」というのも、未だにそういう思いはあるが、それは、そもそも読書の主体に「知識人」しか想定していない狭量な考えであったと反省する。読書は万人に開かれたものであるし、読書は単なるエンタメに過ぎないとしても、その楽しみを追求することに罪悪感を覚える必要はないのだろう。

そういう心境の変化があって、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」にも古本屋を呼ぶことになったと(今になってみれば)思うし、このタイミングで「積ん読ナイト」という本のイベントに参加できたことはよかった。これから少し、本についても前向きに人生に取り込んでいこうと思う。

蛇足。ちなみに私が持参したとっておきの積ん読本3冊は次の通り。なぜこれらが積ん読になっているのかは秘密です。

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