そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。
まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。
次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。
当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。
さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
- 報効農事小組合共進会に於いて[…]引続き5ヶ年間甲組一等賞を受けたるを(昭和9年)
- 報効農事小組合共進会に於いて[…]その成績最も顕著なるに依り(昭和10年)
- 堆肥増産一斉週間に当たり[…]その効績顕著なり仍て(昭和14年)
戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。
時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。
例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。
この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。
さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。
また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。
考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。
近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。
こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。
さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。
またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。
賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。
昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。
これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。
とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。
また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。
最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。
さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。
【参考文献】
「鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延
風狂さんのは いつも内容が濃くて知性溢れていて くらくらしてしまいます。立派だねえ…
返信削除実は故あって、私もブログ継続(今までは3日坊主だった!)することになりました。
「ようちんの手芸、着物」で検索し、是非おいで下さい。
男性には興味ない内容だとは思いますが…自分の実の無さをさらけ出して恥ずかしい限りです。
ようちんさん
削除コメントありがとうございます。「小難しいことばかり書く」「段落が長い」「わかりにくい」といった酷評ばかり受けるものですから、お褒めいただいて嬉しい限りです。特にこの記事は反響がなかったですしね…。
「ようちんの手芸、着物」拝見させていただきました。結構本格的にやってらっしゃるんですね! 手芸が趣味の家内に紹介したところ、「もっと作品をたくさん乗せて欲しい」と申しておりました。ちなみに、「マカロンケース」なんて初めて知りました。無知なんてとんでもない。それぞれ生きてきて身につけた知識や経験は、思いも寄らぬところで他の人への貴重なヒントになるものです。
ありがとうございます!
返信削除稚拙な文章読んで、「ああ、こんな文章書く人に褒められてもなあ…」なんておもわれたのではないでしょうか?
これからも 頑張ってみます。
奥様によろしくお伝え下さいませ。
今から、奥様のとこに行きます。
ああ、忙し…忙し…