2013年9月17日火曜日

ウッガンドンに「氏神」と刻まれているわけ

このあたりの集落には、「ウッガンドン」または「ウッガン様」と呼ばれる土地神のようなものがあって、細々とではあるが集落共同の祀りが行われている。

このウッガンドンの奇妙なところは、(全てではないが)正面や見やすいところに「氏神」と表示されていることだ。氏神信仰は別に珍しくもないが、祭祀の対象に「氏神」と表示するなどということは、このあたり以外では見たことがない。そして、どうしてそのようになっているのか、これまで誰も説明していないよう だから、その理由を考えてみたい。

まず、ウッガンドンは本当に氏神なのか、という基本的なことが茫洋 としていて、「招き入れた神」の意で「内神」なのかもしれないとの説がある。というより、ウッガンドン=氏神としていては意味が通じないものがあるから、 「内神」なのかどうかは別として、ウッガンドンは素直な意味では氏神ではないことは確実であるように思う。

例えば、我が窪 屋敷(「屋敷」は藩政時代の行政区画単位)には「デコンノウッガンドン」というのが祀られているが、これは「大根のウッガンドン」という意味だ。これが 「大根の氏神」では意味が通らない。大根の氏子といったものが想定されない以上、ウッガンドンは氏神ではない。ちなみに、昔はここらでは大根が食料として主食級に重要だったそうだが、隣の原(はる)集落で大根が豊作になったことがあり、それにあやかろうと大根の神さまを勧請(呼び寄せる)して作られたのがデコンノウッガンドンであるらしい。

とすると、氏神でないものを、氏神として堂々と表示していることになる。 いや、そもそも、本当は氏神ではないからこそ、これ見よがしに「これは氏神だ」と主張している気さえする。

そして、このウッガンドンというもの、一体いつからあるのだろう。大浦に今残るウッガンドンは、明治から昭和にかけてつくられた石造の社ばかりであるが、石造のものに変わる前は、窪屋敷の場合は小さな藁葺きの社があったそうである。集落のトシナモン(古老)に聞いてみると、少なくとも昭和の頃にできたものではなくて、それよりずっと前からあるもののようだ。

『大浦町郷土誌』によると、元々、ウッガンドンというのは、年貢負担の共同体たる門(かど)・方限の神だったそうである。藩政時代、鹿児島では百姓を門とか方限という単位にまとめ、これに年貢を納めさせた。納税を何戸かの連帯責任にすることによって、今風にいえば脱税を防止したのである。この制度は、全国的には「五人組」と呼ばれるものの薩摩藩版だ。

そして、この納税共同体のリーダーを務める家を乙名(おんな)と言い、所属する各戸を厳しく指導したという。何しろ、年貢がちゃんと納められなかったら乙名の責任になるわけだから必死である。そして、ウッガンドンの祭祀は、基本的にはこの乙名の家が担ったようだ。墓の相続でさえ面倒なものとして避けられる現在では想像が困難だが、古くより祭祀権というものはいろいろな権能の中でも最も重要なもので、これはある種の権力の源泉でもあった。ウッガンドンを祀るということは、その土地の重要事項を裁定する力を持っていたことの象徴だ。

そういうわけだから、世が明治に改まると、ウッガ ンドンの性格は変わらざるを得なかっただろう。鹿児島では明治10年まで門・方限制度は存続し、その後も形を変えて納税組合の制度は続いたが、乙名などの藩政時代以来のやり方は廃止された。そこで、ウッガンドンの存立基盤は一度揺らいだはずである。これまで大切に祀られてきた神が、直ちに等閑にされることはないとしても、それが依拠していた共同体が形式的には解体されてしまったわけだから、徐々に祭祀が先細っていくのが自然である。

しかし、ウッガンドンの祭祀は今でも続いている。解体したはずの門・方限が、結局は部落(鹿児島では「部落」という言葉には否定的意味はない)という形で自治体となり存立し続けたことが大きな原因であろうが、もう一つ考えられるのは、神社整理・神社合祀の政策による影響である。

鹿児島の神社整理についてはいずれちゃんと調べてまとめたいと思っているが、以前も書いたように、神社整理というのは「神社のヒエラルキー化・合理化・統廃合」を行った明治政府の政策である。これにより、多くの神社が廃止(合祀)されたが、一方では新たに作られた神社もある。その一つが、氏神を祀る神社である。

江戸幕府は、「寺請制度」 といって、全国民が必ずどこかの寺に所属していなければならないとする宗教政策を採っていたが、これの結果、共同体の祭祀は神道式ではなく「氏寺(うじで ら)」とか「氏仏(うじほとけ)」といって仏教式なものになっていることもあった。しかし、明治政府は神道を「国家の祭祀」とし国民をまとめる原理として採用したため、仏ではなく、天皇を頂点に戴く神々を全国民が讃仰する仕組みをつくらなくてはならなかった。

そのために、『古事記』や『日本書紀』と関係のない、つまり天皇と関係づけられない神社を廃止することもやったが、一方では氏神祭祀の強制ということもやったのである。氏神を祀ることは、皇祖を祀ることの基礎と見なされていたわけだ。それまで氏寺や氏仏しかなく氏神を祀っていなかった地域では、この時に急ごしらえの「氏神」が作られたこともあるという。

こういった全国的な流れを考慮すると、明治からウッガンドンが辿った道筋も少し見えてくる。神社整理の際には、記紀には関係がない、自然発生的信仰であった ウッガンドンは淫祠邪教のものとして廃されてもおかしくはなかった。しかし、氏神であればむしろ祀るべきものとされたため、鹿児島の民衆は、「ウッガンド ンは実際は氏神なんです」といってこれを救ったのではあるまいか。

だから、「氏神」であることを強く主張するために、敢えて「氏神」と刻んだのではと考えたい。氏神といっても、それは単に氏子の神というだけの意味で、氏(血族)の神でなければならないというわけではないし、ウッガンドンは氏神だ、という主張は別段こじづけではない。だから、民衆が嘘をついてウッガンドンを残したということでもないが、ともかくも「氏神」であると強く主張しなければならなかったプレッシャーがあったようには思われる。

そうして、ウッガンドンは、氏神信仰という「国家の祭祀」の一端として改めて地域社会に位置づけられることになったのだと思う。そして、太平洋戦争が終わり、氏神を祀らねばならないとする政策も終わりを告げた。ここに、ウッガンドンを存立させてきた制度的基盤は全て解体されたのである。

大浦町では見たことがないが、他の地区ではうち捨てられた氏神の社を見ることがある。人口減少で、もはや祭祀を行う人間がいなくなったという現実的理由で遺棄されたのだろう。ただ同時に、なんとしても祀らなければならないという理由が失われた信仰であることも、それは象徴的に示している。

今のところ、私の周りのウッガンドンたちには遺棄されるような徴候はない。 制度的な後ろ盾を失っても、地域の人間に親しまれてきたという文化的・慣習的な基盤は失われていないからだ。ウッガンドンがなんなのか、本当のところはよくわらないが、それは少なくとも藩政時代から私の先祖に祀られ、この土地の変遷を見守ってきたものだ。こういう昔風の信仰がいつまで続けられるか分からないし、そもそも、何がなんでもこうした祭祀を続けなければならないとも思わない。だが、こういう何気ない、弱々しいものでも残っていくような社会であってほしいと思うし、そういう努力を少しでもしていきたいと思う。

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