『幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』。著者はジェフリー・S・アイリッシュさん。米国生まれのエリート、にもかかわらず甑島で漁師をした後に南九州市の川辺に移住したという破天荒な方である。
ヘビー級に変わっている著者のことはさておき、少しだけ本の紹介をしよう。本書は、平均年齢80近く、高齢化率89%という限界集落である土喰(つちくれ)の日常をエッセイ風に描いている。だがそこには幸せな暮らしがあるという。
この本のことを知ったとき、「どうしてそんな集落で幸せに暮らせるのだろう?」と思った。増える廃屋、荒れる農地、都会から帰ってこない子どもたち、老いゆく自分自身。このまま朽ちていくことがわかりきった社会。将来への希望がないところに、どうして幸せな暮らしがあるのだろうか。
本書は、「それでも人間は幸せに暮らせるんだ!」と主張する本ではないし、そもそも何か教訓的なことを述べようという本でもない。ただ、何気ない集落の暮らしを描いているだけで、特にこれといった事件が起こるわけでもない。海外からの移住者ながら小組合長(自治会長)になった著者のささやかな経験が述べられているだけだ。
だが、その行間には人間社会への深い洞察がある。どうして土喰のおじいちゃんおばあちゃんたちは幸せなのか、ということは特に説明もされないが読んでいれば明らかなことで、良好な、しかし馴れ合いではない人間関係、デイサービス等には頼るが精神的に自立した生活、狭い畑を耕し収穫を喜ぶ心。そういったことが集落の人たちの幸せの基礎になっていることが見て取れる。
もちろん、そこに若い人たちが帰ってきて、新しい何かを作り、集落がさらに発展していけばもっと幸せなのだろうが、既に土喰の人たちはこうした「村おこし」を諦めており、静かに滅び行く集落でにこやかに暮らしている。
それに対する著者の考えが本書の最後にあるので引用しよう。
私自身は、土喰集落のような住み心地の良い場所がなくなっていくのは寂しい。半面、ひとりの人間が亡くなるのと一緒で、ひとつの集落がなくなることはとても自然なことでもあると、日々自分らしく過ごしている集落仲間を見て最近思うようになった。(強調引用者)
つまり、本書に描かれる土喰の有様は、一種の「滅びの美学」なのである。滅びを受け入れることで、あくせくせず、日々の暮らしを楽しむことができるのかもしれない。だが、私自身はまだあくせくして高望みをしたい気持ちがあるし、まだ、そんな風に社会を達観することはできない。
一方で、国土交通省が2011年に出した『国土の長期展望(中間とりまとめ)』によると、
- 日本の人口は今後100年間で100年前(明治時代後半)の水準に戻っていく可能性。この変化は千年単位でみても類を見ない、極めて急激な減少。
- 国土の大部分で人口が疎になる一方、東京圏等に集中が起きる。
しかし消滅の淵に立ったとき、誰でもが土喰集落のお年寄りのように幸せに暮らせるのかというと、心許ない。良好な社会というのはフラジャイルなもので、田舎ならどこでも仲の良い隣人関係があるのかというとそういうわけでもないし、表面的には和気藹々とした地域が、ふとしたきっかけで日頃の不満が噴出して大混乱する時もある。
気持ちよく暮らす、ということは人生でもものすごく大きなことなのであるが、これを達成するためには地域に暮らす人間全てが「気持ちのよい地域」を作っていく努力をしなくてはならない。村おこしも重要だが、既に滅びの道をドライブしている我々は、将来への希望のない場所でいかに楽しく生きるか、を考えなくてはならないのかもしれない。
そういう意味では、本書の読後感には少しだけ『夜と霧』に近いものがある。アウシュビッツの収容所、圧倒的な絶望の中でも失われない人間性という最後の砦——。ユダヤ人虐殺という極限状況とありふれた「限界集落」を比べるのは大げさかもしれない。だが、今後の日本ではナチスが殺した数よりも、もっと多くの人口が失われていくのである。その中において、どうやって毎日を楽しむかということに自分としても取り組んでいきたいと思う。
人は,年齢に応じた生き方を選ぶべきだと思います。若い時は発展や活性化,経済的な欲望など必要ですし,それが人間を伸ばしてきます。歳をとり,脳の力が衰えてくれば,今の現状に満足するいわゆる「足るを知る」ことが大事になる。一人一人の生き方と集落の在り方も同じ人間に係ることだからオーバーラップするのではないかと思います。
返信削除網屋さん
削除コメントありがとうございます。仰る通り、人も社会も同じですね。私はまだまだ若い(と思っている)ので、遠慮なくアクセクしてみようと思います。