大浦町の南側は、磯間嶽という山が塞いでいる。磯間山とも言うし、もっと親しみを込めて「いそまどん」とも呼ばれる山である。
この山、標高は363mと低いながら巍巍とした威風ある山容を持ち、特に天を衝く山巓(さんてん)はあたかも鬼の頭のような異様な風体をなしている。
また、急峻な岩稜は短いながら本格的な登山が楽しめるといい、山と渓谷社が選ぶ九州百名山(旧版)の一つに選ばれたこともある。この特徴的な山影はほとんど大浦町の全体から望むことができるので、ある意味では大浦町の象徴ともいうべき非常にモニュメンタルな山である。
磯間嶽の山頂には、かつて磯間権現という社があったのだが、磯間嶽は日羅(にちら)という人が敏達天皇12年(583年)に開山したという伝説を持つ。この場合の「開山」とは登頂して祠堂を設けたことをいうのだろうが、磯間嶽が今から1400年以上前という遙かな古代、古墳時代から尊崇された山だとすると驚くべきことである。
しかし古墳時代というのはさすがに古すぎる。ほとんど歴史を無視したような古さである。本当に、そんな遠い昔に開山された山なのだろうか。また、磯間嶽を開山した日羅という人物は何者なのだろうか。そうしたことは、これまで真面目に考証を受けたことはないようなので、この機会に少しまとめてみたいと思う。
この日羅という人物、知名度は極めて低いが、古代史の中でも大変に興味深い存在である。彼は熊本(葦北)の国造の子であったが、百済の高官であった。百済では達率(だちそち)という位にあったといい、この達率は百済の官位第2位で定員が30名であったそうだから、今で言うと大臣級のエライ人である。
葦北に父を持つ日羅は、元々百済に生まれたのか、熊本から百済に渡って高官に上り詰めたのか、そのどちらなのかは分からないけれども、ともかく日本に深い縁を持っていた。そのため、朝鮮半島情勢を憂えていた敏達天皇はこの日羅を外交顧問として日本へ招聘した。百済の王は当初日羅の渡日を首肯しなかったが、日本からの使者の強い要請を受けて承認。その代わり、大臣級の渡航ということで当然の待遇だったのだとは思うが数々の部下も同時に来日させた。
この頃の日本は、朝鮮半島の権益を失いつつあったタイミングで、また新羅の領土拡張策などを警戒しており、朝鮮半島への強攻策を検討していた模様である。敏達天皇はこうしたことから日羅に朝鮮半島の諸国家への対抗策を諮問する。それに対し、彼は極めてまっとうだが、一方で百済に不利な建白を行ってしまう。そしてなんと、その廉(かど)で百済からついてきた部下に暗殺されてしまったのである。百済王は、百済の内情を知悉していた日羅を元々殺すつもりで日本に送ったのであろう。天皇はこの暗殺を遺憾とし、百済からついてきた部下たちを死刑にして日羅は丁重に葬ったという。敏達天皇の12年、西暦583年のことであった。
日羅は、(日本書紀には記載がないが)伝説によれば聖徳太子の師でもあったといい、百済から招聘されながら日本で部下に暗殺されるというドラマチックな生涯と、実は後世にも大きな影響を与えていることから、これまであまり注目されてこなかった人物ながら、古代史の重要人物といってもよかろうと思う。
そして、日羅は実は南薩にも深い縁を持つ。我が国最古の寺(かもしれない)、との触れ込みの坊津の一乗院は同じく583年に日羅が開基したといい、金峰山も日羅が大和の金峰山から勧請(かんじょう:今風に言えば、金峰山の”支店”を作るような感じである)したものという。遙かな昔、この辺鄙な南薩に日羅が本当に来たのだろうか?
ちなみに、鹿児島には南薩の他にも慈眼寺、清泉寺も日羅が建立したものという伝説がある。慈眼寺は一乗院、宝満寺とともに「薩摩三名刹」と謳われた寺であるが、薩摩三名刹のうち2つもが日羅建立の伝説を持つわけで、それだけでも鹿児島県の歴史に興味を抱く人はこの日羅に注目すべきである。一方で、日羅が百済から日本へ渡航して暗殺されるまでの短い期間(しかも古墳時代)に、この辺境の地に赴き、いくつもの寺院を作るというのはありそうもない話である。しかしその「ありそうもない話」が、鹿児島、そしてこの南薩に数多く残っているとすると、その理由を考究していくのも一興だ。
と言うわけで、その理由を自分なりに考えてみたのだが、長くなったので次回に書くことにしたい。
【参考文献】
『日本書紀 下(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会
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