2013年5月30日木曜日

もう一つの特攻基地

南薩で特攻基地、というと知覧が圧倒的に有名だが、実は加世田の万世(ばんせい)にも特攻基地(万世飛行場)があった。

この基地は旧日本陸軍最後の特攻基地であり終戦間近の数ヶ月だけしか使われなかったことや、極秘の飛行場だったためか、かつては「幻の基地」と呼ばれほとんど知られていなかったのだという。

しかし、使われたのが短期間とはいえ201人もの若い命がこの飛行場から特攻に飛び立っており、知覧の439人と比べ約半分の規模、またこれは全特攻戦死者1036人の約5分の1を占めてもいる。

現在飛行場跡地には「万世特攻平和祈念館」があり、慰霊と特攻の記録が展示されている。この施設ができたことで、「幻の基地」は幻でなくなったといえる。これはここから飛び立った数少ない生き残りである苗村七郎さんという方が、非常な熱意を以て遺品を収集し、また私財を旧加世田市に寄附したことを契機として建設されたものだ。なお苗村さんは生前は名誉館長も務めていた。

その内容は、知覧特攻平和会館に全く劣らない。規模的には半分程度だと思うが、遺影と遺書の展示は見ているとどんどん気分が沈んでくるものであるから、半分もあれば十分すぎるほどだと思う。しかし、入館者の数は半分どころではなく、知覧の10分の1もないであろう。先日私が訪問した時も、入館者は私一人であった。

知覧には武家屋敷もあり、複合的な観光地であるので単純に比べることはできないが、この入館者の少なさは残念だ。南さつま市の方でもこの施設を積極的に広報していこうという気はなぜかないようだが、いつも人でごった返している知覧よりも、静かに、じっくりと特攻兵士たちと向き合える施設だと思うので、もっと多くの人に見てもらいたいと思う。

ちなみに、この万世飛行場だが、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和18年に突貫工事で作られた。資材不足のため舗装すらされていなかったという。が、用地は吹上浜に面した網場集落(83戸)というところを買収しており広大な敷地があった。戦後、飛行場は跡形もなく消えさり、今では営門の遺構が残っているだけに過ぎない。かつて「幻の基地」と言われた所以である。

しかし、基地の敷地だったところには今でも官有地がかなり残っており、この万世平和祈念館を始め県立薩南病院、物産センター「るぴなす」など公共の施設が多い。特に吹上浜海浜公園は基地跡のかなりの面積を占めているだけでなく、同公園には今でもさりげなく特攻の滑走路が残されている

死地へと飛び立つ兵士を送り出した滑走路が、今は子どもたちの歓声が響く公園で使われているわけだ。これには「滄海変じて桑田となる」という言葉を思い出さずにはいられない。隣国との関係が何かギクシャクしている昨今、今度は桑田がまた滄海と変じてしまわないように、気をつけていかなければならない。今度、滑走路跡を歩いてみたいと思う。

2 件のコメント:

  1. 語り継いで下さいね!
    『ああ これは日本の艦(ふね)よ フロリダの深き入り江に錆び朽ちてあり』、自惚れで恥ずかしいですが22の日にソロモン諸島のフロリダ島で遭遇した旧日本海軍の駆逐艦(雪風?)との相対を歌い、朝日歌壇で3者共選として頂いたものです。
    ソロモンから戻った後は、憑かれたみたいに『きけ わだつみのこえ』(東大新書)を読みまくり、その主人公達に会いたくなって訪ねたのがフィリッピンのリンガエン湾やバターン等の各地でした。
    今では、わだつみのこえを読むのも真夏の頃だけとなってしまいましたが、忘れてはならない自分の原点です。

    万世も知覧も、一歩足踏み入れた途端に抑え切れないかなしみに襲われてしまうのは何故なんでしょう?
    どうかどうか、万世をもいつまでも語り継いで下さいね!

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    1. つよしさん、

      コメントありがとうございます。語り継ぐというか、まず知ることからですね。つよしさんは実際にいろいろなものを見ていらっしゃるようで頭が下がります。鹿児島にとって、戦争はどういうものだったのか、多くの史跡は残りますが、筋道立てて論考したものは少ないようで、私にはまだよくわかりません。直喜おじいちゃんに戦争について聞いてみましたが、直喜おじいちゃん自身は戦争にいかなかったようで、詳しい話は聞けませんでした。でも大木場の山の中に焼夷弾が落とされたことがあったそうですよ。

      戦争を実体験した人に、いろいろ話を聞いてみて、南薩にとっての戦争の実像を知りたいなあと思っていますが、なかなか暇もなく、話を聞けずにいるところです。でも、どんどん亡くなっていきますからね…。私がここに越してきてからも、じわじわと人がいなくなってきています。急がないと。

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