2013年5月18日土曜日

ぼんぼん時計はどうしてぼんぼん鳴るのか?

うちには、そんなに立派なものではないけれど、ゼンマイ式のぼんぼん時計がある。最初は使っていなかったのだが、古民家の内装は今風の時計とはしっくりこないので、古くから置いてあったこのぼんぼん時計を使わせてもらっている。

この時計、(ぼんぼん時計だから当たり前だが)正時になると「ぼーんぼーん」と鐘が鳴る。その音は、なかなか味があってよい。さて、ところで、どうしてぼんぼん時計はぼんぼん鳴るのだろう?

「もちろん、時刻を告げるためだろう」と思うかもしれないが、ではどうしてわざわざ時刻を告げる必要があるのだろうか? 今の時計では時刻を音で知らせる(打刻する)ものは少数派なのに、昔はこのぼんぼん時計が時計の主流だった。なぜ時計はぼんぼん時計でなくてはならなかったのか?

素朴には、「昔は家に一つしか時計がなかったから、時計のない部屋にいても時刻がわかるように打刻したのではないか」と思われるが、これは実際には現実的ではない。ぼんぼん時計が普及した明治から昭和初期にかけては、家の中は薄暗かったので、屋内で何かの作業をするということ自体が少なく、作業の主体は外だった。家の中にいて時計を気にしなくてはならない状況というのは少なかっただろう。

そもそも、日本は古来より「不定時法」を使っており、正確な時間を気にして生活するということがなかった。不定時法とは、日の出と日の入りの時刻を基準に昼と夜をそれぞれ6等分して「巳の刻」とか「子の刻」といった約2時間1セットの目安を定める方法である。この不定時法は、当然ながら季節によって1セットの長さが変わり、あまり細かく時刻指定はできない代わり、日の出日没を基準にしているので農作業などの外労働の開始や終了とは親和性が高い。

不定時法による時計もないではなかったが、実用品というよりは大名などが持つ珍妙なコレクションとして作られたものが大半だった。17世紀中頃からはお寺の鐘による時報(時鐘)が普及したが、これもあまり厳密なものではなかった。日本では明治時代まで、時計よりも太陽に従った生活をしていたのである。

幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の多くが述べているのは、日本人がやたらとのんびりしていて時間に大変ルーズであるということだ。実はこれは近代化以前のヨーロッパでも同じで、職人は自分のペースで仕事をしていたということにかけては洋の東西を問わない。そもそも時間を基準にした労務管理というものは、大量の人員を投入して規律に従った生産を行う工場制手工業の登場によって生まれたものだ。時間に従って行動するという規範は、産業革命以前の世界には存在しなかったのである。

とはいえ、実は西欧と日本では、時計に対する感受性にはもともと少しだけ違いもあった。西欧では割と古くから1日を24等分する定時法が使われており、時計も普及していた。ぼんぼん時計の元祖と言えるStriking Clockは、教会や市庁舎に設置された鐘時計であるが、これは教会の典礼の時間を広く地域社会に知らせるために打刻したのである。決まった時間にお祈りをしなくてはならない、という習慣は、ヨーロッパの人々に「時計に従った生活」という近代社会の準備をさせたように見える。

しかし、西欧において定時法が採用されたより本質的な原因はもっと単純なことで、緯度の関係だ。ヨーロッパは高緯度の国が多く、夏は夜遅くまで太陽が沈まない。冬と夏では日の出日没の時間が数時間もずれてしまい、太陽に従っていては生活リズムがめちゃくちゃになる。そのため、太陽に頼らない客観的な時間を知る需要が高く、結果として時計が発達することになったのである。

逆に、中緯度にあった日本では、時計に従うよりも太陽に従う方が合理的だった。実際自分も農作業をしていると、作業の終了時刻は自然と日没が基準になる。農業だけでなく各種の職人などもそうだっただろう。今では、時間を守ることにかけては病的なまでの評判がある日本人だが、これは決して日本人の「国民性」などではなく、ごく近代に導入された習慣なのである。

ちなみに、田舎に来て驚いたことの一つに、立ち話などの長さがある。ふと近所の人と会って立ち話が始まると、平気で1時間くらいしゃべってしまう。立ち話くらいしか娯楽がない、ということもあるのかもしれないが、都会ではありえない光景だろう。田舎には、明治以前のノンビリとした時間感覚が残っているように思われる。

そのように、元々時間にルーズだった日本人が、どうしてやたら時間に厳しくなったのかはよくわからない。ただ、大急ぎで「近代国家」の国民をつくり上げなければならなかった明治時代以降、官民挙げて行われた様々な取組の結果であるとはいえる。

国として時間の基準を定めるため、1871(明治2)年に「午砲の制」が定められ、旧江戸城の本丸から毎正午に空砲を撃つようになったのがその嚆矢だ(追って各地方でも午砲は鳴らされた)。これは、「丑の刻」のような、ぼんやりとまとまった「時間帯」の感覚しかなかった日本人へ、「時刻」という瞬間の時間を認識させる初めての取組だったかもしれない。

ところで、最も早く西洋風の時間を必要としたのは鉄道業界だ。そもそも時間が定まっていなければ時刻表すらできないわけで、1873(明治6)年の「明治改暦」に先立って鉄道業界では既に定時法が採用されていた。この明治改暦というのは、太陰暦を太陽暦に、不定時法を定時法に一夜にして変えてしまうという随分乱暴な大改革だ。旧暦明治5年(1872年)12月3日を新暦明治6年(1873年)1月1日に変えたので、実は明治5年12月3日〜31日というのは存在しなくなったのである。

だがこの改革でも、時間は定時法で計ると決めていたのだが、時間の基準はやはり太陽に置かれていた。具体的に言えば東京で太陽が南中(最も高く上がる)する時刻が正午と定められ、その時に午砲が撃たれたのである。これを「東京標準時」という。このころから西洋の時計は輸入されていたが、現在のように時報もなく、周りにも時計がなかったので、一番始めのころはやはり各地で日時計を作り、南中時刻にあわせて正午を定めていたらしい。

これが、グリニッジ天文台を基準にした世界標準時から算出される日本標準時に改められたのは明治21年(1888年)1月1日のことで、この日が一応日本における近代時間制度の完成した瞬間ということになるだろう。

さて、当時の時計というものは、大変狂いやすいもので、1週間もすると10分程度はすぐにずれてしまった。そこで頻繁に時刻合わせをしなくてはならないのだが、時報もテレビもラジオもない状態でどうやって時刻合わせをしたかというと、この午砲を基準にしていたのだ。正午になると午砲が「どーん」と鳴り響くので、この時に時計の針を正午に合わせたというわけだ。

随分長かったが、これでようやく、ぼんぼん時計がどうしてぼんぼん鳴るのかという謎を推理する材料が揃ったと思われる。

結論を言えば、これは時刻合わせのためなのではないだろうか。ぼんぼん時計が正午を告げ、その後しばらくして午砲が撃たれると、特に意識をしていないくても時計が狂っているのがわかり、時刻合わせの必要に気づく。もしぼんぼん鳴らなければ、意識してその時に時計の文字盤を見ていないと、それに気づけないのである。

ぼんぼん時計は明治期には米国から輸入されていたが、米国での事情も似たようなものだったと思われる。教会の鐘などと時計のズレを認識させ、時計あわせを催すためにぼんぼんと鳴る機能が付いていたのではないだろうか。つまり、コミュニティで正確な時間を共有するために、ぼんぼん時計はぼんぼん鳴ったのである。

これは、実際に自分がぼんぼん時計を使ってみての感想でもある。日本では都市部を除いて今でも正午や5時などにサイレンが鳴るところが多いと思うが、ぼんぼん時計の打刻とサイレンの時間がずれているとどうも気持ち悪くて、つい時刻合わせをしてしまう。仮の話だが、もし家の中に2つのぼんぼん時計があって、それぞれの打刻の時間がずれていたら、さらに気持ち悪いと思う。ぼんぼん時計がぼんぼん鳴るお陰で、特に意識していなくても頻繁に時刻合わせを行い、正確な時を刻むことができるのである。

ちなみに、正午や5時に鳴るサイレンというのは、午砲の直系子孫であって、午砲が廃止されたことを受けて、東京では1929年に始まったものだ。全国的には遅れて昭和初期までに午砲からサイレンに切り替わっている。現在では時を告げる機能よりも、防災関係の放送設備の試験放送・点検の意味合いが強いが、これは明治以来の時間意識醸成の取組の化石と言える。

このように考えると、ぼんぼん時計が廃れた理由もわかるだろう。もちろん、都市部への人口集中による住宅の狭隘化という形態的理由もないではない。狭い住宅に、かさばるぼんぼん時計を掛けるのはいかにも邪魔だからだ。しかし最も大きな原因は、時計があまり狂わなくなり、頻繁に時計あわせをしなくてもよくなったからではなかろうか。ぼんぼん時計は昭和30年代までは使われたようだが、それ以降は激減してゆく。これは、ちょうど正確なクオーツ時計が普及した時代と重なるのである。

なお、ついでに言うと、ぼんぼん時計が1時間(または30分)毎に鳴るのは、1時間という時間の長さを教えるためではなかったかという気もするのである。2〜3時間を単位に生きていた日本人に、1時間という時間の長さを沁み込ませるために打刻したのではないか。そうでなければ、深夜にまでわざわざぼんぼんと鳴って安眠を妨げるのはいかにも無粋だ。

ともかく、大急ぎの近代化を図るために日本人はいろいろなことをやったが、そのうちの一つに時間感覚の改革があったのである。今では、おそらく世界で最も時間に正確な産業活動がなされていると思われる。だが、世界一時間に正確な日本の電車が、しょっちゅう「人身事故」でダイヤを乱すのは、皮肉というより悲劇である。近代化というものは人間にストレスを掛けずにはおれないが、こと時間感覚の面に関しては、日本人は近代化しすぎたのかも知れない。田舎に来て立ち話の長さに驚いたけれども、実は長い立ち話をだらだらとする方がワールドスタンダードで、知り合いとばったり出会っても挨拶もそこそこにすれ違う方こそ、行き先を間違えた日本の近代化の結果なのだろう。

【参考文献】
『遅刻の誕生ー近代日本における時間意識の形成』2001年、橋本毅彦+栗山茂久編著

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