2022年7月22日金曜日

安倍元首相の国葬に反対。というか国葬そのものに反対。

安倍元首相の国葬を執り行うという。

首相の在位期間は大変長かったが、疑惑や不正も多く、賛否は割れている。自民党は「多くの国民が望んでいる」「反対しているのはノイジーマイノリティ」などというが、世論調査などでは五分五分のようだ。

私も国葬には反対である。

でもそれは、安倍元首相を評価していないからではない。いや、実のところ、私は安倍政権の政策はほとんど何一つ評価していないが、仮に彼が偉大な功績を残した、万人に愛される首相だったとしても、私は国葬に反対である。

というのは、私は国葬そのものに反対なのだ。

そもそも、憲法第20条(第2項、第3項)にはこうある。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

国葬は、明らかに「宗教的活動」であり、「宗教上の行為・儀式」である。私は「国葬」の開催は憲法第20条第3項に違反しており、実質上、多くの行政関係者がそれに参加することが強制されることを考えれば第2項にも違反する。

「いや、国葬が宗教的活動とは言い切れない」という人もいるかもしれない。例えば、祝詞を読んだりお経を上げたりすれば明らかに宗教的活動であるが、祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントなら宗教的活動ではないのかもしれない。

だが、死者を葬る儀式において、死者の魂を実在のものとして扱わないということはあり得ないと私は思う。死者の魂など存在しない、というのであれば、葬式自体をやる意味がないからだ。仮に特定の宗教に基づくものでなかったとしても、例えば、弔辞において「安倍さん、あなたのおかげで…」と呼びかけるようなやり方は、死者の魂に話しているとしか考えられないのである。死者の魂を扱う以上、そこに宗教的なものがないというのは難しい。

それでも、「最近は”無宗教の葬式”もあるからなあ」いう人もいるだろう。とはいえ、「無宗教の葬式」は自由な葬式であるために一概にはいえないが、完全に宗教的でない葬式は例外だと思う。というのは、それらの多くは、ただ僧侶を呼ばないというだけで、特定の宗教の儀式に則ってはいないとしても、やはり故人の冥福(魂の安らぎ)を祈るもののように思われるからである。ごく一部には、全くの無神論の葬式もあるのかもしれない。だがその場合は、個人の冥福など祈る必要もないので、葬式ではなく告別式と呼ぶであろう。

話がやや逸れたが、葬式である以上、宗教と関係がないというのは詭弁だ、と私は思うのである。では祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントでは憲法違反にならないか。私は、それは憲法違反ではないと思うが、それを「葬儀」「国葬」と呼ぶことには断固反対したい。それは「告別式」であり葬儀ではない。

葬儀は、宗教の核心である。おそらく宗教は、人を葬ることから生まれたのであろう。国家が葬儀を行うこと自体が、国家が宗教を手中に入れることに繋がると私は危惧する。

でも「政教分離を掲げる多くの国で国葬は行われているじゃないか」と言われればその通りである。しかしそれらの国では「国葬令」などの法律があり、法に則って行われている。日本では国葬に関する規定はなく、今回も国会の審議を経ずに「閣議決定」でなされるようだ。これでは「故人の魂」を政治的に利用していると言われてもしょうがない。民主的な手続きによって定めた法律によって定まった「国葬」であればまだ容認できるが、国家が恣意的に宗教イベントを開催できるということが空恐ろしいのだ。

日本では明治以来、政権と宗教の歪(いびつ)な関係が続いてきた。国家が宗教までも管理し、国民の「良心」を国家が改変してきたのが日本の近代史である。そのことの一端は拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』でも描いたつもりだ。日本の場合、国家と宗教の関係には非常に注意していなければならないと思う。

しかも今回、安倍元首相を銃撃した犯人は、統一教会と自民党への関係を恨んで犯行に及んだというのだからなおさらである。

多くの国家元首が弔問に訪れるという事情があるなら、告別のイベントを国費によって行うというのであればいいだろう。宗教は抜きで。でも宗教は抜きなのにそれを「国葬」と呼ぶのなら、明治時代の政策担当者が「神道は宗教ではなく国家の祭祀である(だから国民に神道の祭祀を強制しても、政教分離や信教の自由には抵触しない)」と整理したことと同じ過ちを犯すことになる。

国会審議を経て(つまり民主的手続きによって)国葬とするか、閣議決定で告別式にするか、どちらかにしていただきたい。反対派の私にとって、それがギリギリの妥協点である。


2022年7月10日日曜日

山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って

拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。

売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。

そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「これまで神代三陵がなぜか閑却されてきたことに気付かされた」など肯定的に評価していただいた。

そんな中で、意外と多いのが「表紙の絵がかっこいい」という感想。

実はこの表紙の絵、私から出版社に「表紙はこの絵にしてほしい」とお願いしたものだ。意外とすんなりその要望を聞いてくれて、バッチリ表紙にあしらってくれた。なので表紙の絵が好評なのは私としても喜ばしい。

この絵は、山内多門という人が描いた「中国西国巡幸鹿児島著御(之図)」という作品。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているものだ。

聖徳記念絵画館には、この作品も含め、日本画40枚・洋画40枚の明治天皇・皇后の歴史にまつわる絵画が展示されている。これらは、明治天皇崩御をきっかけに、その顕彰のための壁画として(といっても壁に直接描くのでなく、和紙・キャンバス製で)製作されたもので、全ての絵画が奉納されたのは25年後の昭和11年。そしてその画題も、明治天皇の個人的な事績というよりは、国家の歴史と密接に関わったものが選ばれ、国使編纂事業(←これは拙著でも触れています)とも関連して制作された、まさに国家的大事業としての壁画制作であった。

大げさに言えば、これらの一連の壁画は「建国の神話」を表現したものであったといえる。

当然、この制作に関わった画家は、当時最高の技倆を持っていた人ばかりである。「中国西国巡幸鹿児島著御」を描いた山内多門もその一人だ。

山内多門(たもん)は、木村探元から続く南九州の狩野派の掉尾を飾る人物である。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

「中国西国巡幸鹿児島著御」は、そんな山内多門が絶頂期に制作した大作である。

島津氏の居城だった鶴丸城(今の黎明館があるところ)に天皇の一行が到着した、明治5年6月22日の様子を描いている。ちなみに明治天皇は、騎馬している人物の前から3番目である。

どうして明治天皇がわざわざ鹿児島まで来たのかというと、西国・九州の各地を回って人心を収攬するための一環だったが、特に鹿児島については当時政府と敵対していた島津久光の慰撫が念頭にあったとするのが通説である。

この鹿児島行幸の際、明治天皇は行在所(あんざいしょ)で神代三陵を遙拝(遠くから拝む)し、これが神代三陵の治定にあたって決定的な役割を果たすことになった。まさに、神代三陵の治定において象徴的な場面が描かれているのが、この作品なのだ。だからこそ私はこの絵を表紙にしたかったのである。

ところで、明治11年生まれの山内多門がどうやって明治5年の出来事を絵に描いたか?

この絵には、鶴丸城の城門である御楼門(ごろうもん)が描かれているが、実は御楼門は巡幸の一年後の明治6年に火災で焼失している。なので山内多門が絵画を制作していた時は影も形もなかったし、当然見た事もなかった。設計図なども残っているわけもない。そもそも、鶴丸城自体が、明治10年の西南戦争で焼失しているのである。

そこでこの絵の重要な参考資料となったのが、明治5年の西国・九州巡幸の際に撮影された写真である。この巡幸には、長崎出身の写真師・内田九一(くいち)が同行していた(なお内田九一は最初の明治天皇の肖像写真を撮影した人物)。彼は各地で名所旧跡の写真を撮っており、そのうちの55点が確認されている。

そして幸いなことに、そこに鹿児島の御楼門の写真も入っていた。

この写真をよく見れば、山内多門の絵に描かれた石垣にせり出す松が、事実に基づいているものであることがわかる。

もちろん、この写真がなかったら御楼門の構造も詳細な点は不明だっただろう。

内田九一の写真のおかげで山内多門は「中国西国巡幸鹿児島著御」を史実に基づいて完成させることができたのである。

余談だが、鶴丸城の前が「城下」のイメージとは違うだだっ広い平野になっているのも興味深い。さらに、城郭の中もほとんど森のようである。鶴丸城には元々天守閣がなかったが、私たちがイメージする城郭とはかなり隔たった姿だったわけである。

さらに余談になるが、令和2年(2020)、御楼門は明治維新150年事業の一環で官民協力のもとに復元された。

その復元にあたって重要な資料となったのが内田九一の写真であったことはいうまでもない。出土品や江戸時代の補修時の史料などは残っていたが、全体的なフォルムについてはこの写真がなければ正確に復元するのは到底不可能であった。

だから、貴重な記録写真をもたらしたという意味でも、西国・九州巡幸には大きな意味があったと言えるだろう。明治維新では廃仏毀釈という破壊運動が起こり、多くの貴重な文化遺産が失われるという負の側面があったが、写真によって当時の社会が記録され、それが後の文化財の再建に繋がるという面もあったわけだ。

ところで、この大作「中国西国巡幸鹿児島著御」を完成させた後、山内多門は病気がちとなり、2年後には54歳で死去してしまった。弟子には宮之原譲、山下巌、野添草郷らがいるが多門が早死にしたこともあって、その後は大きな流れとはなっていない。

ちなみに、明治5年に御楼門の写真を撮った内田九一も、その3年後には31歳という若さで肺結核により死亡している。もし巡幸のタイミングがずれていたら御楼門の写真は残らなかっただろうし、また内田九一も生きていなかったということだ。同じことは山内多門にも言える。文化財というものは、様々な偶然や幸運に恵まれて生まれ、残されたものだということをつくづく感じる。

さらに蛇足だが、山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」の模写が黎明館に所蔵されている。元々山内多門の絵は、鹿児島市が依頼して製作したものだが、これを神宮外苑に奉納するにあたり、その模写を制作していたもののようだ。模写したのは石原紫山。入来町出身の画家である。これは時々展示されるようなので、機会があれば是非見ていただきたい(私自身も未見)。

御楼門が描かれた絵画を表紙にあしらったにのはもう一つ理由がある。元々、この本が自分の中での「明治維新150年事業」だったからでもある。

鹿児島県では2010年代後半、明治維新150年(2018年)に向けて大河ドラマ「西郷(せご)どん」や御楼門再建といった記念事業に官民挙げて取り組んでいた。もちろん明治維新の主役である西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった人たちの顕彰はやるべきことだ。しかし明治維新には廃仏毀釈という負の面もある。私は、主流の人たちがやりづらい、負の面の明治維新150年事業を自分一人でやってみたかった。薩摩藩出身者たちが明治政府に残した、負の遺産を見直してみたかったのである。

その結果が、『明治維新と神代三陵』である。

明治維新には、その後の日本が破滅に進むことになった兆しが内包されていた。その一つが「神代三陵の治定」であると思う。これは一見、重箱の隅をつつくようなマニアックなテーマだが、これを通じて明治以降の150年を自分なりに見直すことができたと自負している。

というわけで、拙著のご高覧、よろしくお願いいたします。

【参考文献】
金子 隆一「内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置
※内田九一の写真は、同論文から転載しました。東京都写真美術館の収蔵品です。同作品は同美術館のデジタルアーカイブでは公開されていませんが、著作権は既に消滅しています。
都城市立図書館「山内多門 生誕130年展」パンフレット
みやこのじ南日本新聞社編『郷土人系』
※現在の御楼門の写真は県のWEBサイトより借用しました。

【2022.7.12追記】
御楼門復元にあたっては、別の「正面から撮った写真」があり、そちらの方も参考にしている…という情報をいただきました。ということで、内田九一の写真がなかったら御楼門も復元できなかったのでは、というのは私の早合点だったようです。こちらの写真も明治初期に撮影されたものらしいですが、誰の撮影なのかがわかりません。これも内田九一なのでしょうか…?


2022年5月29日日曜日

鹿児島の郷土作家、名越 護さん

拙著『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が遂に手元に届いた。

公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。

【南薩の田舎暮らし】『明治維新と神代三陵:廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(1870円(定価販売)、送料無料)

そしてこの度、拙著に名越 護(なごし・まもる)さんから推薦コメントをいただいた。

本書をすすめる

なぜ神代三陵が鹿児島県内に比定されたのか、天皇を中心とする明治政府は、国家神道をめざして廃仏毀釈を蛮行したが、なぜ鹿児島だけが率先して決定的な「寺こわし」を徹底したか。そして彼らが目指した「国家神道」で、なぜ各地の人々の身近にあった多くの産土神を、すべて記紀に記された神々と合祀していったか——。政治が宗教までも抹殺して庶民の心まで奪い、一方的に天皇制を強化していった姿を、史料類を詳細に調べて明治維新の“負の部分”を明らかにした好書である。
           名越 護(鹿児島民俗学会員)  

名越護さんは、鹿児島の徹底的な廃仏毀釈についてまとめた『鹿児島藩の廃仏毀釈』の著者で、存命中では、質・量ともに一番の郷土作家。鹿児島ではファンの多い名越さんに推薦コメントをいただけたことはとても心強い。

しかし名越さんは、あまり人前に出ていくタイプではないし、新聞やテレビでコメントするようなことも少ないので、鹿児島でも知らない人は多いかも知れない。まだ誰も「名越護」についてまとめた人がいないようなので、僭越ながら少し名越さんについて語ってみる。

名越さんは、昭和17年(1942)奄美大島宇検村生まれ。立命館大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社して記者になった。記者になって10年ほどたった昭和50年(1975)頃、鹿児島の民俗学者・小野重朗さんの『かごしま民俗散歩』を読んで民俗学に興味を持ち、民俗学を学んだ。

そのため、祭りや伝統行事を伝える新聞記事も、名越さんの手にかかると一種の民俗学のフィールドワークの面持ちがあり、今の新聞記事にはない深みがあった。

名越さんは、南日本新聞社加世田支局(現南さつま支局)に昭和50年代後半に赴任。そこで「ふるさと流域紀行 万之瀬川」というとんでもない連載記事を書いた。これは万之瀬川の流域(主に今の南さつま市、南九州市)の自然や文化、神話や伝説、産業や人々の暮らしについて地域の特色を描いたもので、昭和57年(1982)3月から7月までに60回に渡り連載された。1回の記事は1500字程度。綿密な取材を行った上で、地域の様々な事柄について自分なりに考察した部分も多く、民俗学的視点が発揮されている。

この連載記事は、内容もすごいがそれ以上に驚かされるのは、たった3ヶ月半程度の間に60回もの記事が発表されている、ということだ。記事は毎日あるいは1日おきくらいで掲載された。この濃密な連載をとんでもないスピードで書いていたことは驚愕以外の何物でもない。しかも、もちろんこの他に通常の記者としての記事も書いているのである。

この連載記事は、郷土を知るための恰好の地域誌となっており、今は失われた祭りや民俗の記録ともなっていて資料的価値も非常に高いため、南さつま市観光協会が2019年にまとめて翻刻している(非売品だが協会に行けばもらえる)。

この大仕事を終えて後、名越さんは南日本新聞社文化部に在籍。ここでは鹿児島県全域が取材対象となる。そこで連載「かごしま母と子の四季」を自ら企画し、昭和60年(1985)、週一回一年間連載した(53回)。これは県内各地を巡って、祭りや伝統行事を女性や子どもに注目して取材しまとめた「民俗ルポルタージュ」。祭りというと、どうしても男性がやる派手な所作などに注目が集まるが、この連載では団子を作る女性や、時として神の代わりとなる子どもたちを取り上げたことが新鮮だ。取材においては、小野重朗さんもいろいろと指導をしたらしい。

さらに翌61年(1986)には、週二回の年間連載「かごしま民俗ごよみ」を95回連載した。これは祭りや伝統行事だけでなく、民俗信仰まで含めて県内各地を取材し改めてまとめたもの。2年連続で手間のかかる企画連載記事を手がけたことは、この時期の名越さんの気力体力がいかに充実していたかを物語る。

そして、これらの記事を見ると、民俗学の視点や伝説や言い伝えの考察といった名越さんならではの深みは当然のことながら、取材の丁寧さや文字の多さだけ見ても今の新聞記事とは隔世の感がある。今の新聞の悪口を言ってもしょうがないが、昨今は写真ばかりが大きくなり(しかも記者本人が撮っているためおざなりなものが多い。当時の写真はカメラマンが同行し、ちゃんと現像した写真だ。写真にかける力が違う)、文章は必要以上に削られて、ほとんど紋切り型の説明しかできなくなっている。

だからきっと、今の南日本新聞にこれだけの力量がある記者がいたとしても、宝の持ち腐れになるだろう。昔の力作記事を見ると、どうしても今の新聞の凋落を感じてしまう。

それはともかく、名越さんは南日本新聞で精力的に記事を書いた。日々の取材の記事だけでなく、民俗学の視点から主体的に鹿児島を切り取っていった。そして2003年で定年退職し、執筆活動に入る。主要な作品を書き出してみると、こんな感じだ。

  • 『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』(2002年、南日本新聞開発センター)
  • 『薩摩漂流奇譚』(2004年、南方新社)
  • 『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(2006年、南方新社)
  • 『鹿児島藩の廃仏毀釈』(2011年、南方新社)
  • 『自由人西行』(2014年、南方新社)
  • 『田代安定 : 南島植物学、民俗学の泰斗』(2017年、南方新社)
    ※南日本出版文化賞受賞
  • 『クルーソーを超えた男たち』(2019年、南方新社) 
  • 『ふるさと流域紀行 万之瀬川』(2019年、(一社)南さつま市観光協会)
    ※私事ながら、本書の刊行には私自身も関わった。
  • 『鹿児島 野の民族誌——母と子の四季』(2020年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま母と子の四季」
  • 『鹿児島民俗ごよみ』(2021年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま民俗ごよみ」

さらにこうした作品を執筆する傍ら、鹿児島民俗学会会員として、学会誌『鹿児島民俗』に数々の論文も発表してきた。私自身はこれらのうち一部しか目を通していないが、書名だけを並べても、名越さんでなければ書けない、しかも誰かは書かなくてはならなかった重要なテーマにずっと取り組んできたことが明白である。

特に『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は薩摩藩の植民地だった奄美において、黒糖製造業の犠牲となった債務奴隷ヤンチュの実態を明らかにした名著であり価値が高い。

そして徹底的に行われた鹿児島の廃仏毀釈を、各市町村郷土史をベースに現地取材して描いた『鹿児島藩の廃仏毀釈』は、「南方新社史上、最も売れた本」と言われている名作である。もちろん、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の執筆においても大いに参考にさせてもらった。

そんな名越さんは、2022年5月、自身「最後の著作」と位置づける『新南島雑話の世界』を南方新社から上梓された。 15冊目の本だそうである。これは、幕末に奄美に島流しにされながらも、奄美の文化や自然について克明な記録を残した名越左源太(なごや・さげんた)の「南島雑話」を読み解くものである。旧作『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』が祭事を中心としていたのに対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心に現在の奄美の情報も付け加えたもの。奄美生まれの名越さんの「奄美愛」が詰め込まれているように思う。

このように名越さんは、新聞記者時代には生きた鹿児島の民俗を記録し、退職後は独自の視点で郷土史研究を行い、これまたとんでもないペースで本を書いてきた。名越さんが第一級の郷土作家であることが、これでおわかりいただけたと思う。

そして私事ながら、名越さんには著作の上で多くの示唆を受けただけでなく、直接にもいろいろとお世話になっている。すごい人なのに、いつも控えめでにこやかに微笑んで下さる方である。この度拙著への推薦コメントも、お願いしたら快く引き受けて下さり、数日後にはコメントを手紙で受け取った。

名越さん、いつもありがとうございます!!


2022年5月22日日曜日

スマートに支配されている社会よりも

先日、「生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて」という記事を書いた。

【参考】
生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/04/blog-post.html

そこでは、「自転車通学を許可制にするのはおかしいし、距離で制限されるのもおかしい」と述べていた。

その記事中には書かなかったが、私がこういう記事を書いただけで満足するわけもなく、当然中学校にも「私はこのように考えるので、ご検討をお願いします」と手紙で伝えていた。

またそれとは別に、ここでは詳しくは書かないが、学校を一歩出れば非常識な校則について見直すよう、教頭先生にいろいろと強く意見を言っていた。まだ子どもが中学校に入学したてなのに、校則についてアレコレ文句を言ってくる親も珍しいだろうが、私はなにしろ、理詰めで考えて間違っていることを放置するのは我慢がならないタイプである。

とはいえ、そういう学校への意見がすんなりと受け入れられると考えるほどウブではない。内心、「無駄かも」と思いながら学校に伝えていた。

ところが、先日あった中学校のPTA総会の場で、学校側からの説明があり、

  • 自転車通学については距離の制限を撤廃する。
  • 下着(インナー)の色の規制はなくす。
  • 靴下も白以外でもよいことにする。 

などなど、非合理な校則を見直すという方向性が示されたのである。ちなみに下着の色の規制は、昨年、白のみから茶・紺・黒なども認めましょう、という規制緩和が行われたところだったが、「そもそも下着の色を規制すること自体が非常識」と私も主張していた。おそらく他にもそういう意見があって、こうした校則の見直しが行われたに違いない。

ともかく、このことは素直に歓迎したいし、校則の見直しに着手してくださった先生方(特に校長・教頭)には感謝したい。 ちょうど昨年、文部科学省が非合理な校則について対処を求める通知を都道府県に出し、それに応じて校則の見直しが社会の趨勢になってきたことも後押ししたに違いないが、私も含め「これはおかしい!」との声が、変化を促した一番の原動力であったと思う。声を上げてよかった。

「そんなこと言ったって何も変わらないよ」ということは実際にたくさんある。でも、声を上げなければ何も変わらない。

そして、言うのはタダだ。それなら、無駄かもしれないが、とりあえず声を上げていく方がいい。 ちょうどタイミングが合えば、動かないと思っていたことも動くかもしれない。実際、今回校則の見直しが行われたのは、先ほど述べた文科省の通知や、人事異動(校長が変わった)や、いろいろなことが重なっていたおかげだと思う。

これは中学校だけでなく、国政なんかでも言えることだ。日本の政治・行政のダメなところは、はっきりしている。そして、どうしたら日本をよくすることができるか、処方箋はほとんど明確になっている。それなのになぜそれが実行されないか。

いろいろ理由はあるが、「それを求める声がない」からだ。

例えば、日本は奨学金の制度がダメすぎることは何十年も前から指摘されていた。日本で「奨学金」と呼ばれているのは単なる「教育ローン」であり、真の意味の奨学金をわざわざ「給付型奨学金」などと呼んでさも特別なものであるかのように見せかけてきた。教育を受けることは子どもたちの権利であり、奨学金ほど投資効果の高い投資はないにもかかわらず、教育を「自己責任」の領域のこととして金を出し渋ってきたのである。これが問題であるのは明らかだ。そしてそれを改善するための予算は、例えば社会保障や国防に比べると微々たるものなのだ。

にも関わらず、なぜ改善されてこなかったか。それは国民がその状況に「忍従」してきたからに他ならない。国家や上位権力に「忍従」することが「美徳」であると、我々は明治時代以来、ことあるごとに教え込まれてきた。

しかし「忍従」を美徳とする価値観はもう捨て去った方がよい。社会は自分たちの手で変えられると信じる方が、ずっと建設的であることがもはや明らかになった。

もちろん、国民が「忍従」を辞めれば、随分と騒々しい社会になるだろう。利害が真っ正面から衝突するような、不格好な社会になるかもしれない。ストライキが頻発してしょっちゅう電車が止まるような社会になるかもしれない。でも、不格好でも国民主権の社会の方が、スマートに支配されている社会よりずっとマシだ、と私は思う。

ちなみにまだ、校則以外も含め、中学校には「一体いつの時代の話だよ!」というようなことがまかり通っている。体育館のガラスを割って回るようなとんでもない不良がいた時代につくられた管理の仕組みが未だに生き残っているのである。

私はこれからも声を上げ続ける。学校にとっては面倒な保護者には違いない。中学校はたった3年間のことである。黙っている方がスマートなのかもしれない。でも子どものためになると思うことは、不格好に思われても声を上げていきたい。

2022年4月26日火曜日

初の著書『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』

初めての本が、この6月に出版の運びとなった。

『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』というタイトルだ。

管見の限り、「神代三陵」をテーマにした本は史上初ではないかと思う。神代三陵を知っている人自体が少なく、「何それ?」という状態なのを考えると、これまで神代三陵についての本がなかったのも当然かもしれない。

しかし、神代三陵という存在は、なかなかに面白い。

神代三陵とは、日本の神話に登場する天皇家の祖先、天孫ニニギノミコト、その子のホホデミノミコト、その子ウガヤフキアエズノミコトの陵墓である。ちなみにウガヤフキアエズの子どもが神武天皇だ。

この3柱の神々の陵墓は
可愛(えの)山陵」=薩摩川内市
高屋(たかや)山上陵」=霧島市
吾平(あいら)山上陵」=鹿屋市
と全てが鹿児島県に確定されており、宮内庁が管理している。

もちろん、「神」の墓、などというものを額面通りに受け取るわけにはいかない。そもそも神自体がいたかどうかもわからない。というより、神々が実在したとは、科学的に考えてありえないのである。しかし実在しないものの墓があるわけがないのだから、日本政府の公式見解としては、ニニギノミコト以下の神々は確かに存在したのだ、ということになる。

ではなぜ、四角四面で頭の堅い日本政府が、神々を現実のものとして扱っているのだろうか。それは、明治維新からの国家運営において、国家が神話を現実化しようと試みたからなのだ。日本は世界に冠たる「神の国」であるとしつらえるために必要だったことの一つが、神代三陵だったのである。

戦後にはそうした狂気じみた政策は是正されたが、神代三陵は引き続き宮内庁が管理しており、未だに国家公認の「神」の墓としての性格を失っていない。これは、宮内庁が積極的に残したというよりも、おそらくはさしたる議論もなく戦前からの管理が続いてきただけなのだろう。しかし、科学的な世界観が浸透した現代において、明治時代の置き土産である神代三陵が変わらず鹿児島にあり続けていることに、興味を覚えるのは私だけではないだろう。

そして、ニニギノミコトの天孫降臨を中心とする神話を「日向(ひむか)神話」というが、これの舞台は日向国、今の宮崎県であるから、神代三陵が全て鹿児島にあることには奇異な感じがする。宮崎県には西都原古墳群など立派な古墳がたくさんあり、逆に鹿児島にはあまり大規模な古墳はない。にも関わらず、なぜ明治政府は神代三陵を全て鹿児島に宛てたのであろうか。

これまで、「神代三陵が全て鹿児島に確定されたのは、薩摩閥の政治力のためだ」といわれてきた。誰しもそう思うに違いない。私が神代三陵について調べ始めたのも、薩摩閥の影響が具体的にどのようなものだったのかを検証しようとしたことが発端だ。結論を言えば、確かに薩摩閥の影響は大きかった。しかし不思議なことに、鹿児島の側から神代三陵を求めた形跡は一切ない。明治政府の宗教政策全体にわたって薩摩閥の影響は大きく、神道の国教化を進めたのは薩摩閥であるといっても過言ではない。それでも神代三陵については、鹿児島からの要望ではなく、むしろ国家の都合によって決定したものなのだ。

これまでも、歴代天皇陵の創出については多くの研究の蓄積がある。幕末明治の政権において天皇陵がどのような役割を負わされてきたか、そしてそれがどのように改変されてきたを辿れば、それが”国家”の創出に一役買ってきたことが理解できる。

幕末に至るまで、歴代の天皇陵は崇敬されることもなく、あるいは耕作され、あるいは山となり、日常の風景に溶け込んできた。それを讃仰すべき存在に替えたのは、「文久の修陵」と呼ばれる宇都宮藩の建白によって始まった事業だ。この事業では田んぼの中のたった2尺の塚だったところが神武天皇の陵墓に造成された。以来、多くの天皇陵が矢継ぎ早に確定され、整備されてきたのである。日本を急ごしらえの”近代国家”にするために。

言うまでもなく、神代三陵の創出も、こうした天皇陵の造成事業の一環である。だがそれが特殊なのは、歴代天皇陵については、一応、歴史的な存在と見なせたのに、神代三陵については、確定するのが神話の世界を現実化するもの以外ではありえなかった点だ。どうしてそんな無茶が可能になったのだろうか。そこには確かに薩摩閥の動向が大きく関わっていたのである。

本書はこうした観点から神代三陵という存在を考察し、神代三陵を明治維新史に位置づけたものである。

なお、本書は本ブログで「なぜ鹿児島に神代三陵が全てあるのか」と題して連載した記事を元にしており、それに2割くらい加筆修正した感じである。ブログ記事を書いている頃は、出版するとまでは思っていなかったので、今から考えると書き方に甘い点(特に先行研究への言及)も見受けられるが、今の自分の力量だと思ってそのままにした。

版元は、京都の法藏館。仏教書専門の出版社であり、創業400年を超える日本最古の出版社である。仏教書だけでなく、『黒田俊雄著作集』など歴史と宗教の研究書を数々出版してきた老舗だ。ただし、本書は専門書でも論文でもなく、一般向けの読み物である。

【参考】法藏館
https://pub.hozokan.co.jp/

どうしてこんな立派な出版社から、私のような無名・在野・しかも農家(!)、という売れそうな要素が一つもない著者の本が出るのか。当然こちらから持ち込んだからだが、コネもなく、私自身断られるとばかり思っていた。ところが法藏館さんは、著者の属性は度外視し、あくまでも内容を見て出版することを決定してくださったのである。変な言い方だが「さすが老舗は違う」と感心してしまった。

また、帯に掲載する文については、松岡正剛さんからいただいた。読書界では知らぬ人のない知の巨人であり、 私自身、学生時代からずっと尊敬し憧れてきた人である。これももちろん、ダメもとで法藏館さんにお願いしてもらったものだ。断られて当然と思っていたものの、ご快諾いただいて「で、我々は、神々をどうしたいのか。」というコピーをいただいた。歴史を俯瞰した、核心を突くコピーを書いてくださったことに感謝である。このコピーに惹かれて手にとってくれる方も多いに違いない。

(なお、法藏館さんが松岡正剛事務所に依頼したので、どうして松岡正剛さんが快諾して下さったのか詳しくはわからない。内容を評価してくださったのは間違いないと思うが…。)

出版までの作業は多くの方とのご縁があり、ダメもとだったはずの本の出版が、これ以上ない形で実現したことに自分自身ビックリである。

だが、ある意味では本を出すだけなら誰でも出来る(お金さえ出せば(笑))。大事なことは、それがちゃんと売れて読者に届き、あわよくば次の展開へと繋がっていくことである。著者割り当てもかなりの部数あるので、それを売らなければならないという現実的問題もあるが、ここだけの話、今回は初版の印税は著者に入らないので、自分の利益のために売りたいわけではない。

神代三陵を多くの人に知ってもらい、明治政府の宗教行政史を再考する機会となることが本書の目的である。そして今、右傾化しつつある日本において、神話を現実化するという、明治政府の間違いが再び繰り返されないように釘を刺すことができれば、望外の喜びである。

どうぞよろしくお願いします。 

【プロフィール】窪 壮一朗

1982年鹿児島生まれ。東京工業大学理学部数学科卒。2004年文部科学省入省、2008年退職。鹿児島県南さつま市大浦町に移住し、「南薩の田舎暮らし」の屋号で柑橘栽培を中心とする農業・食品加工業・ブックカフェ営業を手がける傍ら、郷土史や幕末以降の宗教行政史を研究。著作に『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか—』(私家版)がある。ブログ「南薩日乗」運営。

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2022年4月1日金曜日

生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて

この春、上の娘が中学生になる。

地元の公立中学だが、うちはやや僻地に住んでいるので結構遠い。ちゃんと計ってはいないが、家から4kmくらいありそうである。

当然、自転車通学になる。というわけで、中学校から自転車通学の申請書を出してくれとの指示があった。

その申請書を見て、私は「はぁ? おかしいんじゃないの??」と思ってしまった。

「いや、自転車通学の申請なんかどこでもやってるでしょ」「普通でしょ」と思う人が多いに違いない。それはそうだと思う。でもよくよく考えてみると、これはとてもおかしいことなのだ。どこがどうおかしいのかちょっと説明させて欲しい。

まず大前提として、道路交通法を守る限りは、日本では誰でも公道を自転車で通ることができる。

中学生も小学生も、自転車に乗るのは自由である。事実、うちの娘は自転車で友だちの家に遊びに行っている。それに誰の許可を必要とすることはない。もちろん親は、子どもが自転車(や遠出)に慣れないうちは、遠くに行かせないとか、交通量の多いところには行かせないとかするかもしれないが、それはあくまでも安全上の配慮からすることで、基本的に「子どもが自転車に乗る権利」を尊重する。

お店も同じである。「うちの店には自転車で来ないでください」なんてことは、どんな店でも言えない。人には自転車で移動する自由があるからだ。一方で、「うちには駐輪場がないです。店の前に自転車を路駐しないでください」は全然アリだ。これは実質的に自転車で来店することを制限してはいるが、「自転車を利用する自由」を制限しているわけではないからだ。

もう少し分かりやすく言うと、「うちには駐輪場がないです」の方は、あくまでもお店の管理責任が及ぶ範囲のことだけしか制限していない。店には自転車が駐められないと言っているだけで、別の場所の駐輪場を利用するなら店に自転車で来たっていいことになる。一方で、「うちの店には自転車で来ないでください」の方は、本来店側には全く制限する権利のない、店に来るまでの方法を制限しているからNGなのである。この2つが、似て非なるものであることをまず理解して欲しい。

では中学校の自転車通学の申請はどうか?

これは、どう考えても「うちの店には自転車で来ないでください」式のやり方である。自転車通学に許可が必要だなんて馬鹿げている。何しろ、中学校以外のところはどこへでも自転車で行くことができるのに、中学校に自転車で行くには許可が必要だなんてことがあるわけがないのだ。

「いや、でも家が近い人に自転車を使わせるのはちょっと…」という人もいるかもしれない。実際、うちの中学の場合も自転車通学の許可要件は「通学距離が1.5km以上あること」である。だが、実のところ距離で要件を定めるのは不合理だ。しかもそのことには、中学校自身も薄々感づいているようだ。

というのは、先日あった入学説明会でも中学校から「距離は自己申告ですので、1.5kmに100m足りないから申請できないとかそんなことはないので〜」と言っていたからだ。許可要件が合理的でないから、こういう「柔軟な対応」が出てくるのだ。

通学距離が1.5kmの人は自転車通学がOKで、1.4kmの人はダメなのは理屈に合わない(それが規則だから、という理由以外では)。では1.3kmはどうか? 500mなら? どこにラインを引くべきなのか? 結局、元来誰でも自由に自転車で学校に来ていいはずなのに、そこに無理矢理1.5kmという自転車通学の許可要件を定めているだけであり、どこにも合理的なラインはないのである。だからこそ中学校は距離要件に関しては「柔軟な対応」をするわけだ。しかし「柔軟な対応」が必要なくらいなら、最初からそういう要件は設けない方がずっと合理的なのである。

「でも家が近い人もみんな自転車で通学していいわけ?」と思う人もいるだろう。私は全然構わないと思う。各人が、一番疲れない、楽に登校できる方法で登校したらよいと思う。人によってはそれが「不公平」だというかもしれないが、そもそも家から学校への距離が違う以上、どんな交通手段を用いたとしても不公平である。学校に近い人の自転車通学を禁じたとしても、遠い人の通学が楽になるわけではない。

だが、現実的に駐輪場の数が限られていて、生徒全員が自転車通学すると駐輪できない! という場合は、通学距離が短い人から駐輪場の利用を制限されるのはもちろん合理的である。先ほどの譬えでいえば、 「うちには駐輪場がないです」式の制限なら理解できる。生徒の自転車を使う自由を制限しているのではなく、あくまで駐輪場という学校施設の管理上の都合を言っているに過ぎないからだ。

だから私の主張をまとめるとこうだ。

「「自転車通学の許可申請」は、中学校には本来は規制する権限がない「生徒が公道を自転車で移動する自由」を制限しているのでよくない。あくまでも学校施設の都合からの「駐輪場の利用許可申請」にすべきである。」

「いや、ほぼおんなじことじゃん!」と感じる人もいるに違いない。どっちにしろ実質的には自転車通学を規制するのだから。だがその細かい違いには、日本の学校にありがちな問題が現れている。それは「中学校には本来規制する権限がない」ことでも制限できて当然という、中学校の認識である。いや、中学校の方では「中学校には本来規制する権限がない」なんてことすら見えていないに違いない。ただ、「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」と思っているのである。民主制の社会では、本来、人が当然に持っている自由を制限するということは簡単なことではないにも関わらずだ。

行政が人々の自由を制限したり、義務を課したりする際には、通常「法律」の制定が必要になる。どういう要件の時に制限できるかといったことを定めるのは「政令」(閣議決定)で、要件の細かい内容を定めるのは「省令」(大臣が定める)である。でも普通は、国会を経ない「政令」とか「省令」だけでは、自由の制限そのものをすることはできない。それくらい、自由を制限することは重いことだ。

そして人々の方は、理由なく自由の制限をされることには反発しなくてはならない。なぜなら、今我々が享受している自由は、先人が戦って手に入れたもので、その戦いは静かにでも続けない限りは、再びなくなってしまうものだからである。

だが中学校というところは、そうした権力と自由の関係を全く理解していないようだ。例えば、中学校には非合理的な校則が多い。うちの中学では下着の色まで決まっている。もちろん馬鹿げた校則である。しかしそもそも、どうして中学校は校則というものを定める権限があるのだろうか。

実は校則は、法令の上では全く位置づけられていない。中学校には、校則を定める法的な権限はないのである。ただ、学校長が学校運営を行う上での決まりを定められるだけだ。しかしながら、その点があまり学校や教育委員会には認識されていないようだ。そうでなければ「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」なんて思うはずはないのである。

「いや、そんなこと思っていませんよ」というのであれば、今すぐ「自転車通学の許可申請」を「駐輪場の利用許可申請」に変更して下さい、といいたい。「いやあそれにはこういう事情があって…」と言い訳するのは目に見えている。生徒の自由よりも、「諸般の事情」が優先されるのが、残念ながら今の公立中学校であろう。

ちなみにうちの娘が進学する中学校は、生徒数が50人くらいの過疎の中学校である。当然駐輪場の数も十分だ。教室も校庭も体育館も、本当にひろびろ使える人数である。そして生徒の方も、規則でその自由を制限しなくても、自分たちでよりよい学校生活を作っていくことができる子たちばかりだ。

中学校では、不条理に自由を制限されることを覚えるよりも、人が本来持っているはずの自由を守っていく力をつけて欲しい。入学前から、自転車通学の許可申請書を前にしてそんなことを思っている。

2022年3月30日水曜日

はじめに——もうひとつの廃仏毀釈(その1)

明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。

寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行ってはいけないとされ神式の葬儀(神葬祭)を行うよう指導された。千年以上にわたって日本文化に根付いてきた仏教が急に否定されたのである。

しかし、これは明治政府の政策ではなかった。明治政府の目的は廃仏毀釈ではなく「神仏分離」であった。それまで神道と仏教は分かちがたく結びついており、例えば神社のご神体が仏像であったり、神社への祈願にお経を奉納することもあった。逆に仏教でも神々が仏法を守護するという考えで神社への信仰が位置づけられ、いわば仏教と神道は地続きのものであった。神社の境内には寺が建てられ(神宮寺)、寺院の中に鎮守が置かれることも多かった。そういった、神道と仏教が混じり合っている状態を「神仏習合」という。

明治政府が問題視したのはこの状況だ。

明治政府は「復古」を旗印にして出発した。明治政府は江戸幕府を打倒して政権を樹立することの正統性を神話的な古代に求め、将軍ではなく天皇が日本を治める状態があるべき姿なのだとした。明治政府の実質的な出発点となった「王政復古の大号令」では、「諸事 神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と宣言し、神武天皇の治世を今の世に再現することを高らかに謳った。それが「復古」だった。

この「復古」という考えに沿えば、仏教は元来の日本にはなかったものであるから、仏教を取り除いた状態に戻さなくてはならないということになる。また神道も仏教と入り交じった状態になっているから、仏教が伝来する前の状態へと純化しなくてはならない。国学者たちはそういう純化した神道を「復古神道」——古代にそうであったはずの神道——として構想した。彼らの構想はそのまま実現したわけではないし、実際にはそう単純に仏教を排除しようとしたのでもないが、少なくとも神社や神道から仏教的な要素を取り除く、という神仏分離政策は実行に移された。慶応4年(1868)、明治政府の出発直後のことである。

後に「神仏分離令」と呼ばれることになる一連の布告は、全国で様々に解釈された。ある場所では寺院の全面的な破壊を意味するものと曲解され、別の場所ではそれほどの破壊は起こらなかった。また破壊が起こった場所でも、地方政府の主導によって粛々と寺院の整理が実行された場所もあれば、路傍の石仏までたたき壊されるなど民衆的な暴動へと発展したところもある。そうした仏教・寺院の破壊運動を「廃仏毀釈」と呼んでいる。

しかし明治政府の意図は、あくまでも神社から仏教的な要素を取り除くということにあり、廃仏毀釈は意図するところではなかった。明治政府は総じて、そうした破壊活動をたしなめ、強引な廃仏を行わないように指導した。とはいえ、明治政府があからさまに神道を優遇し、仏教を冷遇する傾向を有していたのは否定し得ない。 政権の中枢には国学者たちが入り込み、首脳陣にも国学的な素養を有していたものが多かった。政権の基本コンセプト「復古」は、神道を国教化することを求めていた。神話の時代の日本を再現するのが「復古」だったからである。

当然、こうした明治政府の動きには仏教界は反発した。彼らは最初のうちは政府に従ったが、徐々に政府のやり方に釘を刺すようになっていく。そして政府の方としても、仏教界を敵に回すよりは、彼らの協力を得て政権を運営する方がずっと効果的だと考えるようになった。また国学者たちの構想した神道国教化政策は、実際にはあまりうまくいかなかった。仏教は日本社会の基層をなすほど人々の生活に浸透していたし、仏教の代わりとなるはずの新しい神道の教えは急ごしらえ過ぎた。

そうしたことから、神道国教化政策は明治5年3月に終わりを告げる。政府は神道を国教化することを諦め、神道と仏教が共同して国民強化に邁進する体制(教部省・大教院体制)へと移行したのである。政府はもはや仏教を一方的に排斥することはなくなった。全国的には、明治5年以降にも廃仏毀釈が続いた地域はある。しかしそれはあくまでも地方政府や神官、あるいは住民の暴走であったといえる。大まかに言えば、廃仏毀釈は明治5年3月までで終了したのである。

ところが、明治5年に前後して、それまでとは全く異質の廃仏毀釈が動き出していた。 それまでの廃仏毀釈は、政府の「神仏分離令」に触発されてはいたものの、政府の政策そのものとは見なせない。ところがこの廃仏毀釈は、厳然たる政府の政策として行われたものだったのである。

具体的には、明治4年10月に「六十六部廻国聖」と「普化宗」を明治政府は禁止した。また明治5年9月には「修験宗」を廃止する。その他、僧侶の身分を解体するような諸政策が矢継ぎ早に打たれるのである。一般には「六十六部廻国聖」や「普化宗」はあまり馴染みのないものであろうし、当時であってもこれらは比較的小集団であり社会的な影響は大きくなかった。しかしながら、実はこうした宗派の禁止は日本の仏教が受けた被害のほんの一部で、その裏では仏教の在り方を変えてしまうような変革があったのである。

従来、これらの遅れて行われた廃仏毀釈はさほど注目されず、研究書において語られる場合も神仏分離政策の延長線上として理解され、その余波とされることが多かった。しかし2000年代に入ってから、この「もうひとつの廃仏毀釈」は必ずしも神仏分離政策の結果ではなく、それとは異なる原理によって行われたものであることを明らかにする研究が発表されるようになった。

そうした研究結果は、未だ広く知られているとは言えない。それどころか、この「もうひとつの廃仏毀釈」自体がほとんど認識されておらず、それを統一的に記述した本もまだ出版されていないのが現状である。

そこで私なりに、この「もうひとつの廃仏毀釈」を語ってみたいと思う。

(つづく)