2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2021年1月7日木曜日

「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎

加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。

地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。

この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示されているのだろう。なにしろ、鹿児島は幕末・明治初期に徹底的に廃仏毀釈を行っている。

だから、この像が廃仏の影響を全く受けていないのは、何か理由があるはずだ。疑問に思って、以前、加世田郷土資料館の方に聞いてみたことがある。そうしたら、「この像は、設立当初からの収蔵品で、受け入れ時の記録が残っていないので分からない」とのことだった。

そんなわけで、その理由については今も分からないままなのだが、この像が何者なのかを調べてみて面白かったので、ちょっとまとめてみよう。

まず、この地蔵像に関する地元の伝説をザックリとまとめると「これは井尻神力坊(いじり・じんりきぼう)が廻国の過程で手に入れて持ち帰ったもので、加世田の柿本寺に安置されていたものだ。だから柿本地蔵と呼ぶ」となる。

井尻神力坊とは、戦国時代の島津氏中興の祖・島津忠良(日新公(じっしんこう))の家臣である。彼は日新公の命を受けて、諸国を巡って法華経を奉納する修行を行った。所謂「六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)」である。彼はスパイ的な仕事もしていたらしく、諸国の情報を日新公に伝えていたという。ところが廻国修行を終えて加世田に帰ってみれば、日新公は既に亡くなっていた。そこで木から身を投げて殉死したと伝えられる。ちなみに、元鹿児島件知事の伊藤祐一郎氏も井尻神力坊の末裔である。

さて、井尻神力坊が生きたのは戦国時代であるから、どう見ても江戸時代の作のこの「柿本地蔵」は、神力坊が持ち帰った地蔵そのものだとは思えない。

では、この像は一体何なのだろう。そして柿本地蔵とは何なのだろう。

それを考えるには、いくつかの史料を繙いてみなくてはならない。ちょっと地味な作業だがお付き合い願おう。

まずは『加世田再撰帳』という史料がある。これは19世紀半ば、つまり江戸時代の後期にまとめられたと考えられているもので、加世田郷の地理や産業、名物や名所旧跡を絵入りで紹介したものである。この史料に、「柿本寺」に関する事項が数ヶ所出てくる。

そして鹿児島の名勝旧跡について調べる時の基本資料、『三国名勝図会』である。これも同時期にまとめられたもので、薩隅日の三国(島津領地)の情報を絵入りでまとめ、考察を加えたものである。これには、加世田の「柿本寺」の項目はないが、鹿児島市内にある「柿本寺」の項目の中で加世田の方も触れられる。

以下、以上2つの史料の該当箇所を抜粋引用する。読むのが面倒という方は、史料の後に青字で付したポイントだけ読んで頂いたら大丈夫である。

【史料1】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、地蔵堂 一宇    格護 日新寺
 従日新寺子方道程二町五十六間
 一、将軍地蔵    一体 長ヶ二尺四寸木立像蓮台金磨
 一、脇士 性善童子、性悪童子    二体 長ヶ各一尺三寸木立像蓮台彩色
 一、鰐口    一口 差渡六寸無銘
 右将軍地蔵ハ井尻神力坊日本国中廻国ノ節負下リタル地蔵ニテ安置ナリ然処 光久公 御代御城内ヱ召移レシニ変事有之彩色等御取繕ニテ亦々如本召返サレ安置スト云
【ポイント】日新寺(今の竹田神社)の管理下にある「地蔵堂」には、井尻神力坊が持ち帰った将軍地蔵が祀られている。島津光久の時代にこれを城内に移したことがあるが、変事があったので彩色などを繕って元の場所に安置しなおした。
【史料2】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、石塔 一基(日新寺界内将軍地蔵堂左側)
  天正三年十二月二十七日
  権大僧都神力宗憲法印
 右井尻神力坊墓ニテ柿本地蔵堂左側ニアリ
 日新公ヨリ神力坊ヱ 御国家繁栄長久ノ為ニ一ヶ国ニ於テ六十六部ノ法華経ヲ御奉納ノ 御誓願ノ由ニテ回国被仰付二十二年ニ至テ四千三百五十六部ノ妙経ヲ奉納成就シ 日新公御逝去ノ後帰国ス天正三年十二月二十七日殉死スト云
【ポイント】「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」の左側に、井尻神力坊の墓塔がある。
【史料3】「加世田再撰帳 二」
(麓 柿本)
一、山王権現 一社 格護 今泉寺
 従地頭仮屋未申方道程四町十間
 祭神 大已貴命 大山咋命
  木立像 八体 大破
  猿木座像 二体 大破
 祭日 十一月初申
 右山王宮大永四甲申歳十二月十六日薩摩守忠興御建立其后 日新公 御再興ニテ候上代者柿本寺別当寺ニテ候ヘドモ廃壊ノ后今泉寺格護二相成候
【ポイント】加世田の山王権現は、昔は「柿本寺」が別当寺だったが、「柿本寺」が壊れた後は今泉寺の管理となった。
【史料4】「三国名勝図会 巻之四」(※[]内割注)
能満山、所願院、柿本寺[府城の西]
 西田村にあり、本府大乗院の末にて真言宗なり、本尊虚空蔵菩薩[日秀上人一刀三礼の木座像]、開山典雄法印[元和四年遷化]、当寺の伝へに曰、典雄法印は、加世田日吉山王宮の別当寺、柿本寺[加世田柿本寺は、村原村にあり、今廃して寺地存ず]の住持なりしに、 慈眼公御帰依あり、本府当村窪田に一宇を営て、典雄を移住せしめ給ひ、屢祈祷を命ぜらる、其後当寺を今の地に御建立ありて国家安鎮の為とし、典雄を開基とす、因て寺号は加世田柿本寺の名を用ひしとぞ(後略)
【ポイント】鹿児島の西田村の「柿本寺」は、加世田の村原村にあった「柿本寺」の住持であった典雄法印を島津家久(慈眼公)が鹿児島に連れてきて、同名の寺を建立したものである。
【史料5】「三国名勝図会 巻之二十九」
龍護山日新寺[地頭館より未方三町余]
 (中略)
○梅岳君御石塔
(中略)又井尻神力坊といへる修験(中略)其石塔は、日新寺境内、柿本地蔵堂の側にあり、神力が霊とて、今に奇異あり、諸人是を畏る。(後略)
【ポイント】井尻神力坊の墓塔は、日新寺境内の「柿本地蔵堂」の側にある。

史料中には、相互に用語が一致しなかったり、場所の説明が食い違っている部分があるが、細かいことは気にせずに、この史料に基づいて地蔵像と柿本寺のことをまとめると以下の通りである。

●地蔵像
○日新公の家臣、井尻神力坊は、将軍地蔵像を加世田に持ち帰った。【史料1】
○その将軍地蔵は、「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」に安置された。【史料1、2】
○神力坊は日新公に殉死して、その墓は「柿本地蔵堂」の側に建てられた。【史料2、5】
○島津光久の時代に、この地蔵像を城内(鹿児島)に移したことがあるが、変事が起こったので彩色し直して元に返した。【史料2】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)、地蔵像と地蔵堂は現存していた。【史料1、2、5】

●柿本寺
○加世田麓の柿本には、山王権現(日吉山王宮)があり、その別当寺(神社の管理をするお寺)が柿本寺であった。【史料3】
○この柿本寺の住持典雄法印は、島津家久に気に入られて鹿児島に移住させられ、典雄を開基として鹿児島にも柿本寺が建立された。【史料4】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)で、加世田の柿本寺は壊れてなくなっていた。【史料3、4】

さて、2つの史料から読み取った情報では「柿本地蔵堂」と「柿本寺」は全く別のものなのであるが、実は地元では「柿本地蔵堂」=「柿本寺」と考えられている。

竹田神社(元の日新寺)の北側に、「柿本地蔵堂跡」・「柿本寺跡」と見られる竹やぶがあって、そこには井尻神力坊の墓があった標柱も立っている(墓は竹田神社に改葬されている)。

少なくとも、ここが「柿本地蔵堂」であったことは、史料からも、遺物からも確かなことである。ではここは、以前は柿本寺でもあったのだろうか?

【史料4】(『三国名勝図会』)によれば、加世田の柿本寺は「村原村」にあったという。日新寺と村原は2kmくらい離れているので、この情報が正しいならここは柿本寺ではない。

だが『三国名勝図会』が編纂された段階で、柿本寺が廃寺になって100年以上経過している可能性があり、であればこれはさほど信憑性のある情報とも思えない。それに、『三国名勝図会』は「村原村には柿本寺の寺地が今でも存在している」と書いてあるが、それらしき土地もない。

それから、もうひとつ気になるのは、現存の「将軍地蔵」がどうも将軍地蔵っぽくないことである。将軍地蔵は、勝軍地蔵とも書き、甲冑に身を包んだお地蔵様である。愛宕(あたご)修験で重んじられ、軍神として信仰された。また江戸時代は火伏せ(火事除け)の神としても信仰された。

一方、現存の「将軍地蔵」は、どう見ても普通の地蔵である。普通の地蔵が「将軍地蔵」として祀られていることも少なくはないから、全くおかしいとは言い切れないものの、ちょっと違和感がある点である。

また、前述の通り将軍地蔵といえば愛宕修験なのであるが、竹田神社の南側は「愛宕上(かみ)」「愛宕下(しも)」という小字が残っている。とすれば、このあたりに愛宕修験の関係者が住んでいたのかもしれない。村原の方にはそういう形跡はないのである。

というわけで、以上の情報から推測される「柿本寺」と「柿本地蔵堂」について時系列で整理すると、以下のような感じになるだろう。

  • 戦国時代、井尻神力坊は廻国修行から将軍地蔵を持ち帰った。
  • 山王権現の別当寺の「柿本寺」は、元々あったか、将軍地蔵をきっかけに創建され、将軍地蔵は「柿本寺」に安置された。
  • 井尻神力坊は、死後「柿本寺」に埋葬され墓塔が建立された。
  • 戦国時代末期か江戸時代初期、島津家久は、「柿本寺」の住持典雄法印を気に入り、鹿児島に連れて行って西田に柿本寺を建てた(余談ながら今でも「柿本寺通り」の名前で残っている)。
  • これによって、加世田の「柿本寺」は廃寺となった。
  • 柿本寺跡には地蔵堂が建てられ、「柿本寺」の将軍地蔵が安置されて「柿本地蔵堂」と呼ばれた。
  • この地蔵堂の管理を行ったのは、今の「愛宕上、下」のあたりに住んでいた修験者だったかもしれない。
  • 島津光久(家久の息子)の時代、おそらくは鹿児島の柿本寺に安置する目的で、将軍地蔵を鹿児島に持ち去った。しかし何らかの問題が起こったので、彩色しなおしたという名目で別の仏像を加世田に送り元のように「柿本地蔵堂」に安置した。(=地蔵像はここで入れ替わった)
  • 明治初期、「柿本地蔵堂」は廃仏毀釈で取り壊された。この時、修験者たちが地蔵像を隠して破壊を免れたのだろう。

要するに、「柿本寺」が家久によって取りつぶしになった跡に建てられたのが「柿本地蔵堂」ではないかということだ。そして、今の将軍地蔵は、井尻神力坊が持ち帰ったものではなくて、光久の時代に交換されたものと考えられる。

先日、「薩摩旧跡巡礼」の川田さんと一緒に柿本寺跡に行ってみたら、古くて立派な五輪塔の残欠が埋まっているのを見つけた。ここは、少なくともお地蔵さんを安置するだけの「地蔵堂」ではなかったことは確実だと思う。ぜひ柿本寺跡を発掘して、実際にどんな場所であったのかを明らかにしてもらいたい。

ところで、「柿本地蔵」にはもう一つ謎がある。冒頭に述べたとおり、鹿児島は徹底的な廃仏毀釈を行っているので古い仏像があまり残っていない。そんな中で、「柿本地蔵」はつくりもよく、しっかりと保存されてきた優れた仏像である。それなのに、なぜか県指定文化財はおろか、市指定文化財にもなっていないのである。私にとってはそれが一番の謎だ。

そんなわけで、これを市指定文化財にして、故事来歴について研究してもらいたい、というのが私の願いである。

※冒頭の地蔵の写真は、2017年に行われた黎明館企画展「かごしまの仏たち〜守り伝える祈りの造形」の図録から引用しました。

2020年10月27日火曜日

洋上風力発電についての、録音・撮影禁止の「勉強会」に参加しました

10月25日、「まちづくり県民大学「どうなの洋上風力発電」」という勉強会に参加してきた。

主催は「まちづくり県民会議」で、同会議メンバーで鹿児島市議の野口英一郎さんが中心になって企画したもの。野口さんは、今問題になっている吹上浜沖の洋上風力発電について、実際のところどうなのか知りたいということで勉強会を開催したそうだ。

勉強会には、まさに吹上浜沖洋上風力発電所を計画しているインフラックス社の面々も東京からわざわざ参加してくださり、我々の質問に答えていただいた。もちろん私も質問した人の一人である(その内容は後述)。 

ところで会議の内容以前に驚いたのは、インフラックス社側の人数だ。なんと、総勢10人近くで臨んできたのである。ちなみにこの勉強会の定員が30人。たった30人の勉強会の相手をするのに、こんなにやってくるなんて体制が万全すぎる。役職まではわからなかったが部長クラスくらいまで含んでいたと思う。市議が主催するとはいえ正式な「説明会」ではない「勉強会」なので、てっきり担当者2人くらいで説明するのかと思っていた。

もしかしたら、地元説明会では常にこうした体制を取っているのかもしれない。しかし私の感覚としては、未だ環境アセスも初期段階、事業実施の目途も何もない段階の、非公式の「勉強会」でこの規模で臨むのは、異例とはいえないまでも少数な方だと思う。

ではなぜインフラックス社は万全の体制で勉強会に臨んだのか。それは、環境アセスの「配慮書」への意見が多かったか、あるいはその中に痛いところを突かれた意見があったかで、これからの地元対応の困難が予想されたからだろう。インフラックス社にそうした緊張感をもたらしただけでも、先日の「配慮書」の縦覧に多くの人が意見を出したのは意味があったと思う。

一方、インフラックス社の要望によって、「勉強会は一切録音・撮影禁止」とされたのは残念だった。なぜ「録音・撮影禁止」なのかについての合理的な説明はなく、「SNSにアップされたら困るから」と言っていたが、なぜSNSにアップされたら困るのかよくわからない。また、その理由であればSNSへのアップの禁止だけなら分かるが、録音・撮影自体を禁止するのも謎だ。疚しいことがあると自分で言っているような感じである。

さらに、事前にはこの勉強会を某新聞社が取材する予定であったが、やはりインフラックス社の意見およびそれを受けた主催者の調整により、取材自体が辞退されることとなったらしい。どうも、マスコミが入ることを嫌って様々な条件を出されたため、「雰囲気を壊すみたいなので今回はいいです」となった模様である。

では、インフラックス社は万全の体制を整え、録音禁止・撮影禁止の下、マスコミにも遠慮してもらって何を語ったのか?

実は、これが、全体が一般論的であってたいした説明はなかったのである。

勉強会の段取りとしては、最初にインフラックス社からの説明があって、その後質疑応答となっていたが、その説明部分では、(事業の説明はなく)制度の説明のみであった。

制度の説明とは、具体的には洋上風力発電を行う上で大きく関係してくる2つの法律、すなわち「再エネ海域利用法」と「環境影響評価法」の説明である。しかし当然ながら、これは法律の話だからインフラックス社の面々がぞろぞろ来て説明するようなことでもない一般論の最たるものである。

その後の質疑応答は、時間が限られているということで、主催者側の調整により「最初に全員分の質問を聴取して、後でまとめて答える」という形式だった。確かに「一問一答形式」よりは時間の節約になってよい面があったとは思うものの、個人的には一つの質問を巡ってもうちょっとやりとりをしたかったなーというのが率直な感想である。

そんなわけで、「録音禁止」であったことと、「一問一答形式」でなかったので、質問への答えが正確に理解できているかわからないが、私が行った4つの質問とその答えについて、以下に簡単にまとめておく。

Q1. 御社が吹上浜沖に洋上風力発電所をつくりたいと思っていても、実際には「再エネ海域利用法」に基づいてその海域が「促進区域」に指定されなければ建設することはできない。吹上浜沖が「促進区域」に指定される目論見があるのか? なければ、どうやって指定されるように図っていくのか?

A1. おっしゃる通り、自治体、そして国が「有望地域」として選定し、それが「促進区域」として指定されない限り前へ進めない事業である。我々がこうして環境アセスを行っているのは、地元の住民との合意形成を図って住民の声をまとめ、指定につなげる意味でやっている。

【補足】「目論見があるのかどうか」に対しての直接の答えはなかった(多分、ある程度はあるからやっているんだと思うが)。しかし「住民の声をまとめて指定につなげる」というのはちょっと腑に落ちない。環境アセスをやると99%は反対意見しか出ないと思うが、それでどうやって「指定につなげる」ような住民の声をまとめるのだろう…? 住民の声をまとめたら「建設反対」の結論以外ありえないように思うが…。

Q2. 川内原発一基分もの電力を送電するとなると、地元の3市のどこかに送電網を建設することになると思うが、具体的にはどのように考えているのか?

A2. どこに接続するかは現在九電と協議中である。南さつま市またはいちき串木野市に(※日置市は単に言い漏らしただけかもしれない)変電所を作って、電線は地中に埋設して九電の送電網へと接続する計画である。

【補足】私の素人考えでは、もし吹上浜沖に洋上風力発電所が建設された場合、その送電線は伊佐市にある「南九州変電所」に接続する以外ないと思っている。とするとそれまでの間に送電鉄塔がずらっと建つのかと思っていたが、そうではなくて地中埋設方式らしい。

Q3. 当該事業は、インフラックス社の直轄ではなく、「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」という子会社を作って実施する理由は何か。

A3. こういった大規模事業をする際にはよくあることで、例えば建設会社などの関係企業とチームを組んでやっていくための別会社である。今はインフラックス社の100%子会社だが、今後パートナーを入れてやっていく予定である。

【補足】私は、事業を売却するために子会社を作ってやっているのではないか、と以前の記事で「邪推」した。まさかそう答えることはないだろうとは思っていたが、一応聞いてみたのがこの質問である。なお、大規模建設事業では複数の企業が「ジョイントベンチャー(共同事業体)」という法人格のない組合のようなものを作って請け負うのは確かによくあることである。しかし風力発電のような長期にわたる大規模事業を、このような形態で(特に「合同会社」で)実施することがよくあることなのかは不明である。

Q4. 仮にこの事業が実現した場合、地域に住む我々は、吹上浜沖の風車に出資することはできるのか?

A4. それは出資の募り方次第になるが、グリーンボンドのようなものを発行してそれに応じるという形で、個人というよりは、例えば漁協などが出資のための組合を作って投資するというケースが他の地域でもやられている。

【補足】「グリーンボンド」とは、大雑把に言えば「環境にいい事業に充当するための債券(の金融商品)」を指す。私は、吹上浜沖洋上風力発電の場合、それ単発で投資を募るのではなく、他の洋上風力発電事業などと一緒くたにして資金調達がなされると予想している。つまり投資家は「日本の洋上風力発電」に投資するということで、特に「吹上浜洋上風力に投資する」というような意識はないような形であろう。先方の回答は、この予想を裏付けた形だ。であれば、少なくとも、地域の人がこれに投資してそのリターンを得るというような資金の循環はできないだろう。

私の質問は以上である(本当はもうちょっと聞きたいことがあったが、時間もなかったので割愛した)。他の方々から行われた様々な質疑応答については、正確にメモを取っていないのでその内容を紹介することは差し控えたい。ただ、インフラックス社の答えは、ほとんどが一般論的であって(ただし、質問の方も一般論的なものが多かったので、そこはしょうがないかもしれない)、具体的なことについては「今後、皆様のご意見を踏まえて検討していきたい」というような調子だった。

だが、最後に鹿児島に赴任している社員からの挨拶があって、その方は結構自分の言葉で思いを語っていた。「せっかく作るのであれば、地域の発展に役立ちたいというのが私たちの思い」「皆さんのご意見をよく聞いて、意見を交わしてお互いの理解を深めていきたい」というようなことで、こうして書くとありがちな言葉を並べているだけだが、言葉遣いや雰囲気を含め、「この人は本気でこう思っているのかもなあ」と思わせる感じで好感を持った。そういう話を最初からしてくれたらよかったのに(笑)

しかし、だからこそ思うのである。

「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」のWEBサイトの、必要最低限のことすら何も説明していない冷淡さは一体何なのだろうか? 「配慮書」をすぐに閲覧不可にしてしまうのはなぜなのだろうか? なぜ勉強会を録音・撮影禁止にするのだろうか?

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

「地域の発展に役立ちたい」というなら、そういう秘密主義を辞めて胸襟を開いて地域に入ってきて欲しいし、そして対話していきたいというのなら、もっと情報をオープンにし、勉強会の模様をYoutubeにアップするくらいのことはして欲しいものだ。せめて、吹上浜沖洋上風力発電合同会社のWEBサイトには現地赴任の社員の挨拶でも掲載したらどうか。

そういったことが全くないまま、「地域の発展」「対話したい」などというから、却って白々しい感じがするのである。言っていることとやっていることが全く逆なのだ。

正直言えば、私は今回の勉強会におけるインフラックス社の説明や応答については、それほどおかしいと思った部分はない(全くないわけではない)。しかし、それであっても録音・撮影禁止を求めた彼らの姿勢には、重大な疑義を抱いている。私はこの事業で最初から問題にしているのは内容というより「進め方」なのだ(もちろん内容も問題大ありだが)。

ちなみに、先方(インフラックス社)は私のことを認識していて「できれば会いたい」みたいに言っていたと主催者から伺った。こんな好き勝手なブログ記事を書いているからだろう(笑)早々に撤収してしまったようなので会うことが出来なかったが、こっちは名前を明かして質問もしていたので声を掛けて欲しかった。オープンな場で対話するのは大歓迎である。

インフラックス社の皆さんも、もしかしたらこの記事をご覧になるかもしれない。もし間違っていることや補足・反論があったら遠慮なくコメント欄で指摘して欲しい。御社が「対話したい」というなら、ぜひそうしていただきたいのである。

2020年8月9日日曜日

インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由

先日、「吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)」という記事を書いた。

その後、いろいろ知恵を下さる方がいて、私もこの事業についての理解が深まり、この密かに進んでいるかに見える巨大事業計画の本当の意味がわかってきた。

まず、この途方もない巨大事業に不安になっている地元の人たちを少し安心させることを書くと、この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない

なぜ9割方ポシャるのか、というと、この事業は国が定める洋上風力発電の建設プロセスに全く則っていないからである。

再エネ海域利用法

洋上風力発電は、いうまでもなく海上に建設される。しかし海は、誰のものでもない。海洋の土地は私有できないことになっており、市町村の境も明確ではなく、基本的には国の管轄ということになっている。警察権も、県警の担当ではなく、鹿児島県の場合は「第十管区海上保安本部」(海上保安庁)が受け持つ。

そういう、誰のものでもない海に、風車を建てるわけだから、これは公共的なものに限られる。「私は吹上浜に風力発電の風車を作りたい」と考えても、県に書類一枚出して許可される…というような単純な話でない。

元々、日本では発電のための海上利用の権利・方法が明確に規定されておらず、そのせいで洋上風力発電の普及が進まなかった。ヨーロッパでは洋上風力の利用はかなり進んでいて、再エネの主軸の一つとなっているのに、日本では後れを取っていたのである。

そこで昨年(2019年)4月に出来たのが、「再エネ海域利用法」だ。

これによって、日本でも法の規定に則って洋上風力発電を建設することができるようになった。そのプロセスは大雑把には次の通りである。


まず、経産大臣および国交大臣が、「促進区域」を指定する。要するに、「この海域は洋上風力発電に適している」という地域が国によって指定される。もちろん一方的に指定されるのではなく、漁業権や航路・港湾の利用に差し障りがない地域が検討されるし、県知事や市町村長を交えた協議会が設立されて話し合って決める。

次に、「促進区域」における洋上風力発電事業の事業者が公募される。つまり、洋上風力発電事業は国が主体となって行う半公共事業(国がお金を出すわけではないから公共事業そのものではない)である。事業者は、具体的な建設・売電計画(公募占用計画)を立案し公募に応じる。また、売電価格についても、屋根についている太陽光パネルとは違って最初から決まっているのではなく、事業者が「この価格で売電できます」という価格を提示し、それが評価される。もちろん売電価格は安い方がよい。

そして公募に応じた事業者の中で最も優れた計画のものが選ばれ、経産大臣によって売電のFIT(固定価格買取)が認定される。こうしたプロセスを経て、ようやく洋上に風車を建てることができるのである。

※正確には、この方法の他に、港湾法に基づいて港湾管理者が風力発電事業者を公募するやり方があるが長くなるので割愛する。

それなのに、吹上浜沖の巨大風力発電計画は、こうしたプロセスを全く無視しているのである!

まず、吹上浜沖は「促進区域」にすら指定されていない。現在「促進区域」になっているのは長崎県の五島沖のみで、他に「促進地域」の指定に向けて検討されているのが10区域ほどである。だから、いくら吹上浜沖に風力発電所を作ろうとしても、「促進区域」にもなっていないわけで、当然国による公募もなく、事業の実現は不可能である。

「でも、実際、環境影響評価の「配慮書」への意見照会があったじゃないですか! 事業は進んでいるんですよ!」と思う人もいるかもしれない。でも、環境影響評価(環境アセス)というのは、「仮にこういう事業を行うとしたら、どのような影響があるか?」を事前評価するものであって、事業の許可関係・実現性とは全く関係がない。完全に仮定の事業でも環境アセスのプロセスは行える。例えば、私が「吹上浜にディズニーランドを作ります!」という内容で環境アセスをやることも可能だ(実際にディズニーランドが誘致できるかどうかとは関係なく、という意味)。

だから、環境影響評価の「配慮書」があったことで、あたかも事業が動き出したかのような錯覚(私も最初そう思った)を与えたが、実はまだ事業は完全に「仮定」の段階である。

私は何人かとこの事業を話したが「もう決まっちゃったんでしょ? 反対しても無駄かもね?」というような人も少数ながらいた。しかし以上の話で明確になった通り、この事業は、まだまだそんな確定的なものではないどころか、今の段階では実現不可能なものだと断言したい。

仮定の巨大事業計画をぶち上げる理由

では、事業者はどうして、そんな実現不可能なものを、さも計画が決定しているものかのようにぶち上げたのだろうか? どうしてそんな無駄なことをするのだろうか?

私もそこのところがよくわからなかったのである。法の規定を考えると、こんな計画は立てるだけお金の無駄だ。環境アセスの「配慮書」を作製するだけで、1千万円くらいかかるだろうが、どうして実現不可能な事業の環境アセスに金をかけるのか?

そんな折、某風力発電会社の方と知人を通じて知り合うことができたので、その疑問をぶつけてみた。

するとその方は、「多分、事業を売却することを念頭に置いて、この地域にツバをつけているんだと思います」と回答してくれた。

「なるほど!」と思った。

私自身、この計画を初めて見た時に感じたのは、「計画地域が考え得る最大の広さで、風車の大きさも最大、本数もめいっぱいすぎる。あり得る最大の計画を提示していて、”切りしろ”が大きすぎる!」ということだった。

私は、「きっと、地元のご意見を受けて規模を半分に縮小しました。だからこの計画で納得して下さい」というように、規模の縮小を交渉のカードに使うために、最大の計画をぶち上げているのだと思っていた。

しかし「売却を念頭に置く」ということだと、この大きすぎる計画の意味合いがもっと明確になってくる。ちょっとややこしい話になるが順を追って説明したい。

さて、前の記事にも書いたように、この事業を計画しているのは「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」、実態は「INFLUX(インフラックス)」という会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/
 
このインフラックスという会社は、日本各地で洋上風力発電事業計画を立ち上げていて、WEBサイトをみる限り、吹上浜沖の他に、唐津、平戸沖、鰺ヶ沢(青森県)、石狩・厚田(北海道)の計画があるようだ。特に石狩・厚田の計画は、吹上浜沖をさらに上回る規模の計画である。

そして驚くべきことに、これらの地域は全て、「促進区域」にすら指定されていないのである。実現可能性を無視して巨大計画を次々と立案するインフラックスという会社は、一体何を考えているのだろうか?

実は、これらは実現可能性が低いからこそ、巨大な計画が立案されていると考えられる。というのは、今後「促進区域」はどんどん指定されていくわけだから、これらの地域が指定されるという可能性もあるわけだ。その時に、どんな範囲で指定されるか分からないから、事業計画では考え得る最大の区域を想定して環境アセスを進めていると思われるのである。こうしておけば、どのように「促進区域」が指定されたとしても、それが事業計画区域内に収まるであろう。めいっぱい大きな投網を投げておけば、魚はどこかに入る、というわけだ。

また、日本各地で巨大計画を立ち上げているのも、計画に必要な書類は似たようなものだから、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式でやっていると考えられる。どこが「促進区域」に指定されるかわからないからこそ、いろんなところで立案しているのだろう。宝くじと一緒で、たくさん買えば、当たる確率も大きくなるのである。

そして日本各地で計画を立ち上げているもう一つの理由は、反対運動が弱いところを見極めているという側面もあるかもしれない。住民の反対運動は、どこの地域でも同様に起こるわけではない。特に、反対運動のリーダーがどんな人かによってかなり変わってくる。たくさん立ち上げた計画の中で、特に反対運動が弱いようなところは、今は「促進区域」になっていなくても将来有望である。国交省や経産省も、住民の反対運動が弱い地域を「促進地域」に指定したいに違いないからである。

そして、瓢箪から駒で、インフラックス社が事業計画を立ち上げている海域の一つが「促進区域」に指定されたとしよう。その後はどういうことが起こるのだろうか?

インフラックス社は、他の事業者に比べて有利な立場で公募に臨むことができる。環境アセスのプロセスのいくらかを既にクリアしているからである。環境アセスは、結構時間がかかる。各段階で縦覧をする必要があるし、なにより調査自体に時間がかかる。そういうのを、抜け駆けしてやっているからかなり時間が短縮できる。

しかも洋上発電は、投資マネーの奪い合いみたいな状況になってきている。洋上発電は、太陽光パネルに比べ、一般論として事業規模がかなり大きい。1000億円単位の事業だって珍しくない。そういう規模のお金を集めるには、速さも大事である。なぜなら、一度どこかに投資されたお金は、それよりよい条件のところにしか動かないからである。後発者は、「よりよい条件」を準備しないといけないから先発者の方が有利だ。

だから、インフラックス社が抜け駆けして各地で環境アセスを進めていることは意味がある。もしそのうち一つの地域でも運良く「促進地域」に指定されれば、他の地域の計画がポシャったとしてお釣りが来るのかもしれない。まさに「時は金なり」である。

そしてインフラックス社としては、その有利な立場(事業計画)自体を、国が公募する洋上発電事業へ応募しようとしている会社に売ることも出来る。実現可能性がなかった、仮定の事業の環境アセスが、時間短縮ツールとして有用なものとなるのである。ありえないほどの巨大計画で環境アセスを進めているのは、事業売却を考えた時に、売却先の会社による事業計画がどのような規模でもそれを包含するように、ということなのであろう。言うまでもなく、環境アセスの手続きとしては、計画を縮小するのは全くたやすいのである。巨大計画の環境アセスは、小さな計画の環境アセスにも使えるわけだ。

なお、環境アセスは、「配慮書」から次の「方法書」の段階の間は、継承できるという規定になっているが、それ以後のことは法には規定がないので不明である。だが、少なくとも「配慮書」提出後の段階で、事業継承(売却)することは可能だし、なんなら「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」のような、会社ごと売却すればいかようにもできる。そのためにわざわざ子会社を作って事業を計画しているのかもしれない。

ちなみに、事業を売却することのメリットは、すぐに儲けを手にすることができる、ということである。おそらくは、事業を売却せずに自ら発電事業を手がけた方が、利益は大きいと期待できる。しかしそのためには、20〜30年間事業を運営し続けなくてはならない。もしかすると、台風で風車が壊れるなどして、結局赤字ということだってありえる。だから、事業売却によってその時にキャッシュが手に入るということに意味がある。

これまで、「インフラックス社は、事業売却を念頭に置いて、日本各地で巨大計画を立案している」という想定の下で書いてきた。でも、もちろん、邪推と言われれば邪推である。インフラックス社に問い合わせたら「そんなことはありません。計画通り実施することを考えております」と回答するであろう。

しかし、 間違いなく言えることは、インフラックス社は「再エネ海域利用法」に定められたプロセスを無視して事業を立案し、地元はそのせいで混乱しているということである。

これは、洋上風力発電の健全な発展を阻害することであり、その意味では、国交省や経産省といった洋上風力発電の推進行政に対する挑戦と言える。

いいかげんな再エネ事業者は、再エネ推進に有害

そもそも、九州では太陽光発電がかなり普及したこともあって、電源が不安定な状況にある。太陽光発電は天気次第でかなり発電量が上下するからだ。脱原発を考えても、安定的な再エネ電源の需要は大きく、発電量が安定しているという洋上風力は有望である。今回の吹上浜の風力発電計画のように、海岸から5kmというような近さだととても「洋上」とは言えないが、もっとずっと沖合の人の活動が少ないところで、しかも風の安定している場所ならば、洋上風力発電は悪くないと思う。

ところが、インフラックス社のような会社が、沿岸の人々に甚大な影響を与える巨大洋上風力発電事業を、何の説明もなく、法も無視し、あたかもカネのためだけのように見える形で立案するとなると、洋上風力発電自体が、なんだか怪しいものだと思えてくるのである。

いや、既に、「洋上風力発電は15兆円産業になる」とか言われ、バスに乗り遅れるな式でたくさんの有象無象な計画が立案され、バブル的な様相を呈しているのを見ると、「洋上風力発電も結局はマネーゲームの一つなのか」と思わざるを得ない。

しかし、地域に入って地道に合意形成に取り組んでいこうとする真面目な再エネ会社もあるし、再エネの普及を進めて、脱原発やゼロカーボンに向かって進んでいきたいという人々の声もあるのである。インフラックス社のようなやり方が横行することで、一番割を食うのは、そういう真面目な人々なのである

私はこの記事の冒頭に「この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない」と書いた。でもそれは、だからといってこの事業計画を無視しておればよい、ということではないのである。

逆だ。インフラックス社のやり方は、再エネの推進を希望する人々こそ反対しなくてはならないと私は思う。彼らが進めてきた再エネ推進の気運は、洋上風力が胡散臭くみえることによって、しぼんでしまうかもしれないからだ。

それに、こういう仮定の計画を平然とぶち上げて、住民の間に混乱をもたらすことを屁とも思っていない会社には、断固として反対の意志を表示しなくてはならない。しかも日本全国でこのような混乱が生まれていることを考えると、単に吹上浜の計画がポシャるだけでは十分ではなく、この会社は社会的制裁を受けるべきだと思う。

「法を無視して巨大計画を立ち上げ、住民に不安を与え、健全な洋上風力発電の発展を阻害した」ということで、県知事(か経産大臣)から「遺憾の意」を表明するくらいのことがあってもいいのではないだろうか。ぜひそういう形での制裁をやっていただきたい。

また、吹上浜沖(沿岸の近く)が、万が一にも「促進区域」に指定されないよう、沿岸の自治体では共同して「景観保全条例」などを作ったらよい。「吹上浜の景観は我々にとって大事なものだから、このまま未来に引き継いでいきましょうね」というような内容だ。自治体の権限は法的には遠い沿岸には及ばないかもしれないが、住民の意思が条例というはっきりとした形で表明されていれば、仮に国がここを「促進区域」に指定しようとしても撥ね付けることが出来るだろう。

ともかく、吹上浜沖の巨大風力発電事業の計画は、私が最初に思っていたよりも、もっといいかげんで、斟酌の余地のない、ひどいものだ。そしてそのような計画が日本中で立案されていることに悄然たる思いがする。

私は、再エネの推進に賛成である。だからこそ、適正なプロセスによって住民との合意形成を行い、環境と調和した形で再エネを導入していくことが必要だと思っている。そういう気が全くないような事業者は、正直、再エネに関わってほしくないのである。

再エネは、みんなを黙らせる「錦の御旗」ではないのだ。

2020年7月24日金曜日

吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)

「吹上浜沖洋上風力発電事業 計画段階環境配慮書」より引用
とんでもない巨大プロジェクトが南薩で進行中である。

吹上浜沖洋上風力発電事業」という。

吹上浜の沖合に、洋上風力発電の風車を102基も設置するというのだ。この風車がバカでかくて、なんと1基の高さが250mもある。この巨人のような風車が洋上にずらっとならび、その合計出力は約97万kWに上る。

これがどれだけ巨大な出力かというと、例えば川内原発の出力は1、2号機がそれぞれ89万kWだから、原発1機分よりも大きい。そして九州電力の九州全体のベース電力がだいたい1000万kwだから、その約1割分にもあたる。

これは、もちろん、風力発電所としてはダントツで日本最大である。それどころか、洋上風力発電所としては、現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」(65万9000kW)を抜いて、世界最大になるという規模である。

【参考】マンハッタンの2倍、世界最大の洋上風力発電所が稼働|BUSINESS INSIDER
https://www.businessinsider.jp/post-175246

設置面積も度外れている。いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市にかかる吹上浜全体の洋上に風車が設置される計画で、その面積は約22,000ha=220k㎡に上る。日置市の面積が約250k㎡なので、ほぼ日置市くらいの面積(!)に風車が並ぶのである。

私は、再生可能エネルギーの導入を進めていくのは賛成である。しかし、いかんせん規模がでかすぎる! こういう巨大プロジェクトは、慎重になりすぎるということはないのである。

「配慮書」はお手盛り

私がこのプロジェクトに気づいたのは、ちょうど今、このプロジェクトの「計画段階環境影響配慮書」(以下「配慮書」)というものがひっそりと公開されていたからだ(2020年6月23日〜7月31日)。
 ↓
(仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html

この「配慮書」とは、要するに環境評価の事前段階で「配慮しなくてはならないのはこういうのが考えられますよ」というのをまとめたもので、内容的にはほとんどが文献による事前調査である。例えば、自然保護区を調べたり、生息している生物を調べたりといったものである。そして文献調査の結果に基づき、今のところの環境評価をまとめている。(本格的な評価は次のステップで行う。)

全部で300ページくらいあるので全部を熟読したわけではないが、この「配慮書」自体はなかなか面白く、いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市の情報が(環境に直接関わらない情報も含め)網羅的に掲載されて、しかも地図上にビジュアルに表現されているから、交通網の整備やまちづくりなんかを考える際にはちょうどよい参考資料になっていると思った。

ところが、肝心の評価となると、当たり前だが「お手盛り」と言わざるを得ない。いろいろ問題があると思うが、私が一番おかしいと思った「景観」について見てみよう。

「重大な影響を回避している」わけない

吹上浜は日本三大砂丘の一つとされ、白砂青松の砂浜と縹渺とした東シナ海の眺めは最高である。特に南さつま市では、海岸沿いの景観のよいところを「南さつま海道八景」に定めて観光の目玉として整備してきた。洋上にこのような巨大風車が並ぶとなれば、景観面への悪影響が当然心配されるところである。

ところが、この「配慮書」における「総合的な評価」では「景観」はこのように述べられている(強調引用者)。
①主要な眺望点および主要な景観資源への影響
 主要な眺望点および主要な景観資源への影響については、いずれも直接的な改変は生じないことから、眺望点および景観資源に係る重大な影響を回避していると評価する。

②主要な眺望景観への影響
 高崎山展望所では垂直見込角が4.9度、谷山展望所では同3.8度となっており、圧迫感は受けないものの、比較的細部まで良く見えるようになり、眺望景観への影響が予測される。
 事業実施想定区域は海岸から約5km程度の離隔を取っていることから、多くの主要な眺望点からの垂直見込角は3度程度以下となっている。したがって、風力発電機の機種、塗色統を工夫することにより景観への影響を低減するとともに、風力発電機の配置について、主要な眺望点からの眺望において山の稜線を乱さないように配置する計画である。以上のことより、重大な環境影響を回避又は低減することが可能と評価する。(後略)
これについては誰もが「は?」と思うに違いない。「直接的な改変は生じない」というが、海に巨大な風車がずらずらならんでいたら、眺望が大きく変わってしまうことは明らかだ。少なくとも「南さつま海道八景」の意味合いは全然変わってくる。それなのに、「直接的な改変は生じ」ないから「重大な影響を回避している」という評価はお手盛り以外のなにものでもない。要するに「眺望点に風車を建てるわけじゃないから直接的な改変はない」と言いたいらしいが、どう屁理屈を捏ねてみても、景観が改変されることは否定しようのない事実である。

また、②の方で、「山の稜線を乱さないように配置する」というのは、洋上風力発電なのになぜ山?と思ったが、おそらくはこれは山に設置する風力発電所の「配慮書」をコピペして作った資料だからで、馬脚を現したというか、語るに落ちたというか、まるで検討していないのが丸わかりなのである。

この巨大事業の実施主体は「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」という会社。だが実際の実施主体は「INFLUX INC」というところで、各地で多数の風力発電所の建設を手がけている。本当にコピペであるかどうかはわからないにしても、そうであってもおかしくないほど多数の風力発電案件を同時並行的に進めている風雲児的な会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/

景観への影響評価は真面目にする気がない

ちなみに、ちょっと補足すると、この評価では「垂直見込角が3度程度以下」だから工夫すれば気にならないだろう、とされているのだか、この「垂直見込角」についても説明が必要だろう。

見込角とは、その対象物がどのくらいの大きさで見えるかを角度で表したものだ(この場合は風車の高さを問題にしているので「垂直」とついている)。では「垂直見込角」が3度というと、風車は海岸からどのくらいの大きさに見えるのだろうか? 5km離れているのだから、ごく小さく見るのか?

実は、満月の見込角は0.5度である。ということは、風車が3度で見えるとは、満月の6倍の大きさ(正確には高さ)で見えるということになる。かなり大きい! 影響の予測では、多くの眺望点で「3度以下だから 気にならない」と言いたいらしいが、例えば白シャツに黒いシミがあったら、譬えそれが大きなものでなくても気になるように、気になるかどうかは大きさだけでなく、それが置かれた景観の心理的な価値を考慮する必要がある。

それから、シミが一つだったらまだしも、連続的にそれが並んでいるとまた違った見え方になってくる。景観への影響評価は、全く真面目にする気がないらしい。

だいたい、「3度程度以下」を基準にしているが、これは公に認められた基準でもなんでもない。環境省の「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」では、「垂直見込角が0.5°を超えると景観的に気になり出す可能性がある」とされている(p.25)。単純に見た目の大きさで風景への影響を評価するというのも一面的であるが、見た目の大きさの評価ですら「お手盛り」と言わざるを得ない。

【参考】「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」について|環境省
https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=13643

「配慮書」より引用
そもそも、鹿児島県が定めた「鹿児島県風力発電施設の建設等に関する景観形成ガイドライン」では、風車の建設では「主要な眺望景観を阻害しないこと」「地域固有の景観を阻害しないこと」が定められている。吹上浜の洋上に巨大風車を並べることは、まさにこの条件に抵触するといえる。

というのは、吹上浜の海岸線のほぼ全体が「吹上浜県立自然公園」に指定されており、「配慮書」で問題があるかもとされている高崎山展望所・谷山展望所がある沿岸地域も、「坊野間県立自然公園」である。自然公園からの景観は、「主要な眺望景観」「地域固有の景観」に当たると考えられる。

計画地域には久多島もある

さらに、「配慮書」では全く触れられていないが、この地域にはもう一つ考慮すべき事項がある。それは「久多島」である。久多島とは、吹上浜の洋上12kmほどのところに浮かぶ無人島であって、鳥の繁殖地となっている。鳥の糞で白く見えることから「トイノクソ島(鳥の糞島)」とも呼ばれている。

この久多島は、古くから、信仰の対象となってきた。日置市の永吉川河口に久多島神社があり、この島を遙拝(遠くから拝む)し、またかつては久多島まで行って神事をしていたようである。南さつま市の万世にも久太嶋権現という同様の神社があり、小山の上から久多島を遙拝してきた。

もし風力発電施設ができると、久多島は巨大風車に取り囲まれる格好になる。ちなみに久多島は29mの高さである。この9倍もの高さの風車に取り囲まれるというのは、久多島信仰に大きな影響を与えると言わざるを得ない。これに関しては、氏子の意見をしっかり聴取してもらいたいと思う。

【参考】 二つのクタジマ神社と大宮姫伝説|南薩日乗
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/04/blog-post.html

ちなみに、久多島は鹿児島のダイバーであれば知らぬものはいないという超一級のボートスポットでもあるそうである。風力発電所ができたら、ダイビングができるかどうかもわからない。

この他、長くなるので詳細は割愛するが、漁業や環境への影響も甚大なものがあるだろう。工事中は豊かな海の環境がかなり攪乱されるのは間違いない。さらに、操業開始後は、渡り鳥への影響(バードストライク)も考えられるし、海中の騒音も問題だ。吹上浜海岸はウミガメの産卵地であり、クジラ類も多く回遊している。ウミガメやクジラへの影響は未知数である。「配慮書」では「これから調査する」とされているが、ウミガメやクジラの回遊を解明できたらそれだけで博士論文になるくらいだから、簡単に調査できるわけもない。

ともかく海岸から近すぎる

だいたい、洋上風力発電所は、沿岸の生態系や人間の活動から遠いところに設置できるのがメリットなのに、今回の計画は洋上5kmということで、あまりに沿岸に近すぎる。最初に例を出した現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」でも、陸地から20kmくらい離れている。一体、陸地のこんな近くに世界最大の風力発電所を作るとは、どういう考えなんだろうか。

そして、この風力発電所の建設には、別の面からもいろいろ疑問がある。まず、共同体の共有財産である海洋を、一民間業者が占有するということの是非である。「再エネ海域利用法」というのがあって、洋上発電などでは最大30年間の占用許可を得ることができる。しかし日置市の面積と匹敵する広大な海域、しかも吹上浜に近い人間の生活に深く関わっている場所を占有するとなれば、よほどの公共性が必要である。この事業はそんなに公共性が高いものなのか。

【参考】洋上風力発電関連制度|資源エネルギー庁
https://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/yojo_furyoku/index.html

確かに、この風力発電所があれば川内原発は不要になるのかもしれない。でも、この風力発電所を作るから川内原発は廃炉にしますという話があるわけでもない(そもそも事業者が別だから繋がりはない)。これから、石炭やLNGの火力発電を減らして、再エネ(再生可能エネルギー)の割合を増やしていく方向性はあるだろう。特に九州では電力の不安定な太陽光発電が他の地域に比べて多く普及しているので、安定的なベース電力として使える再エネは求められている。

しかしこのような巨大発電プラントによってそれをまかなうというのは、どうも時代が違うというような気がして仕方がない。これは原発に替わる巨大な事業であって、原発と同様に、人々の暮らしを蹂躙するものであるという予感がするのだ。

カネの問題

そして、気になるのは、この巨大事業にかかるカネの問題である。

既に、我々は「再エネ賦課金」という電気料金の上乗せ分を払っている。2020年7月現在、九州電力では2.98円/kWhである。もしこの風力発電所が出来ると、九電のベース電力の1割が固定価格買取制度(FIT)で購入されたものになるので、どうやっても電気料金は上がらざるを得ない。この巨大な風車たちを建設するには莫大なお金がかかるが、結局それは我々の電気料金に転化されることになるのである。

得をするのは誰かというと、この風力発電所を運営する会社であり、もっと言えば、このプロジェクトに投資した投資家なのだ。

実施主体の「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」にしろ、その母体の「INFLUX INC」にしろ、この巨大事業をまかなうだけの手持ち資金があるわけではない。当然、投資を募って事業を行う。風力発電は、当然リスクはあるにしても、固定価格買取制度に支えられた手堅い投資案件だから、マネーの行き場がなくなっている現在、魅力的な投資先と言える。それどころか、今は「洋上発電バブル」とでもいうような状況があるのだという。電力需要が間に合っている九電管内でこれほどまでに巨大なプロジェクトが計画されているのは、再エネ電力の需要云々ではなく、投資を集めるのが真の目的なのではないかと邪推してしまう。

そして、その投資の配当を支えるのは、我々の電気料金なのだ。

元々、固定価格買取制度というものは、貧乏人から金持ちへの配分政策であって、金持ち優遇政策の一環である。マイホーム減税やエコカー減税なんかもそういう金持ち優遇政策なのだから、だから悪い! というわけではないが(いや、心情的には反対の政策だが)、ことにこの巨大風力発電プロジェクトの場合、地域に住む我々は、景観を破壊され、割高な電気料金を甘受せねばならないのに、投資家は一度も風車を見ることすらもなく、毎月の配当を受けるだけだと考えると、ちょっと不平等すぎると思う。

「配慮書」が我々が意見を言える最後のチャンス

こういう、いろいろ問題をかかえた事業なのであるが、「配慮書」に話を戻すと、この公開方法自体にもかなり問題がある。

これは「環境影響評価法」に基づいて公開されたものであるが、実は「公開」といっても随分手が込んでいる。というのは、これが公開されているWEBサイトでは、ダウンロードすることもできず、印刷はおろかコピーすらできないように工夫されているのだ。おそらく縦覧期間が終了したらすぐに見られなくなるだろう。

(※ダウンロードは可能だと教えてもらいました → http://influx-fukiagehamaoki.com/pdf/data/f01.pdf [数字の部分:f01 ~ f08]※印刷するには、こちら→ https://www.ilovepdf.com/ja/unlock_pdf を使ってロック解除してください。以上テンダーさん @tender4472 からの情報)

このような工夫が施されていること自体、何か疚しいことがあるのではないかと感じさせるのに十分だ。(ただし、環境省は、こうした限定公開を認めているようなので、環境省の問題も大きい。)

環境アセスメントの手続きでは、各手順で意見を聞くことになっているのに、縦覧期間終了後に非公開にしたら、意見がどのように反映されたかも確認できないというのに、つくづくおかしな公開方法だと思う(そもそも、これは「公開」とは言えないだろう)。

環境影響評価情報支援ネットワークより引用

そして、今回の「配慮書」公開で留意しなければならないのは、環境影響評価法によれば、環境アセスメントの手続きにおいて、一般からの意見が自由に言えるのは、「配慮書」に対してのみだということだ。これから、「方法書」「準備書」「評価書」そして最後に「報告書」が作られるが、これらに対しては専門家が意見を述べることになっているものの、一般の意見を受け付けるものではない。つまり、この巨大すぎ、問題が満載の事業に対して市民が自由に意見を述べられるのは、今回の「配慮書」が最初にして最後のチャンスなのである(※これは言い過ぎでした。一番下の【2020.8.1追記】参照)。

それなのに、この事業は報道等でもほとんど扱われておらず、いちき串木野市、日置市、南さつま市の行政も積極的に情報を広めていない。社会問題について深い関心を有する私の友人たちも誰一人としてこれを知らなかった。どうも、何か「ひっそりと進められている感じ」「公明正大ではない感じ」、つまり「隠密感」が漂っているのである。

こういう巨大プロジェクトは、動き出したら止めるのがとても難しい。なぜなら、推進側はプロジェクトから巨大な利益を得ることができるが、 反対側は、現状維持だけが報酬だからである。また、ひとたびプロジェクトが動き出すと、補償を受けられる人と受けられない人が存在するようになり、そうでなくても人の考えはそれぞれだから、賛成派と反対派で地域が分断されてしまう。これが、私が一番心配することである。

それを防ぐ唯一の方法は、事業の全てのプロセスを透明化し、早い段階から多くの人の意見を聞き、最初から利害調整が難しいところは避けて、穏当な計画を具現化していくことである。今のやり方は、Point of No Return(後戻り出来ない点)まで来た後で、文句を言う人には「あの時、ちゃんと意見をいう機会があったじゃないですか〜!」と言って却下するつもりだと思わせる。

最後になるが、私は洋上風力発電自体には反対ではない。今回の事業も、もっとずっと洋上の沖合に、規模を数分の1に縮小して建設するなら、悪いものではないのかもしれないと思っている。今回のプロジェクトの最大の問題は、巨大であるにもかかわらずその進め方がいかにも不信感を抱かせるものだということだ。

「配慮書」への意見は、7月31日8月7日まで受け付けられている。あと1週間。意見の提出方法は、郵送、または市役所で書面提出。ネットで受け付けていないだけでも、「なるだけ意見を出してもらいたくない」という姿勢が伝わって来るではないか。

地域住民のみなさん、そしてこの地域の自然や景観が好きな人は、ぜひ意見を出して欲しい。こういう時の意見は、「数は力」である。


↓↓「配慮書」への意見はこちら
 (仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html


【2020.7.29追記】
テンダーさんもご自身のブログでこの問題を取り上げてくれた。この記事とはまた違った観点でこの事業の問題点を指摘しています。

鹿児島の洋上に世界最大の風車群建設計画が持ち上がるが、その環境配慮書がてんでダメ、という話。
https://yohoho.jp/24633


【2020.8.1追記】
上では「意見を言う最後のチャンス」と書いたが、「それは言い過ぎでは?」との意見があった。環境影響評価法を改めて読んでみると、確かに環境アセスメントの後段階で説明会があり、意見を書面で提出する機会がある。「配慮書」だけは「一般の…意見を求めるように努めなければならない」とあるので、私は「一般の」を強調して理解したが、これは文飾上のもので、今後の各機会において誰でも意見は言える模様。