2012年10月7日日曜日

笠沙美術館——日本一眺めのいい美術館

南さつま市笠沙町のリアス式海岸を走る国道沿いに、「笠沙美術館(黒瀬展望ミュージアム)」がある。

展示品は笠沙町出身の画家 黒瀬道則氏の寄贈作品がほとんどで、その好き嫌いは分かれるところだと思うが、この美術館からの眺望は文句なく素晴らしい

エントランスからパティオに向かうと、東シナ海に浮かぶ沖秋目島(ビロウ島)が望め、それがさながら一幅の絵画のように建物で切り取られる。赤茶けた直線的な建物と、青い空と海が鋭く対比された風景は、むしろ南欧風ですらある。

聞くところでは、もともとこの美術館は展望所として計画されたものであるということで、絶景なのは当然だ。その建物も作品の展示というより、そこから望む風景を主体として設計されているように見える。ちなみに、建物のデザインは「つばめ」や「指宿のたまて箱」など、JR九州の多くの車両をデザインしたことで著名な水戸岡鋭治氏によるものらしい。そのデザインにただ者でないセンスを感じたが、納得である。

笠沙美術館は南さつま市にとって大きな財産だと思うが、来客もまばらであまり利用されていないのは残念だ。黒瀬氏の絵は、ミステリーの表紙になるような絵で面白味はあると思うが、正直なところ、何度も見たくなるようなものではないし、一般受けするものではない。せっかくの素晴らしい美術館が、郷土出身の画家の紹介だけに終わってしまってはもったいない。

そういうことから、私としては、ここをギャラリースペースとして積極的に活用し、多くの人に来てもらえるようにしたらいいと思う。小さなグループの個展などでも家族友人等でそれなりに人が来るので、この風景の素晴らしさを体感してくれれば口コミによる波及効果も期待できる。

ちなみに、今でもそういう利用ができないわけではないが、WEBサイトにも何も書いていないし、そもそも美術館の存在自体が積極的に広報されていない。なお、賃借料はギャラリーのみだと2100円/日で、全体を借りると5250円/日、展望所と駐車場は無料である。せっかくの素晴らしい資源なのだから、前向きに活用してもらいたいものだ。きっとここは、MOA美術館(熱海)や神奈川県立近代美術館(葉山)を越えて、日本一眺めのいい美術館といえるだろうから。

2012年10月5日金曜日

南さつま市定住化促進委員会(その3)

南さつま市定住化促進委員会も第3回である。

今回は、事務局がこれまで出された意見に基づき施策体系案を出してくれた。私が出した「起業家支援」も一応入っていてよかった。ただ、施策をバラバラに並べた感じがして焦点がぼやけているので、これをどんな風にまとめるか? どんなキャッチフレーズで推進するか? という話の流れになった。

そして会議の最後に、委員のI氏から大変いい意見が出た。要約すると、
(1)「あなたの移住トコトン応援!」をキャッチフレーズにし、
(2)役所には「南さつまコンシェルジュ」を置き移住者の種々の相談に対応、
(3)それぞれの分野に知識と人脈を持つ市民による「移住応援団」を作り、移住者の問題解決を支援。
という感じになる。 南さつまの売りは何なのか、という意見が前回にもあったが、これは移住者へのケア体制を充実させること自体を売りにしてはどうかという意見だと思う。補助金など金銭面の支援が中心になると、どうしても同種の補助を行う自治体との価格競争になるが、お金より熱意の支援体制であれば差別化ができる。

「あなたの移住トコトン応援!」、これは大変よいキャッチフレーズと思ったが、一方では、移住してくる人にとって移住はあくまでも手段で、南さつま市でどういう暮らし(仕事、生活、子育て等)をするか、ということが目的だ。

そう考えると、キャッチフレーズはさらに大風呂敷を広げた方がよく、「夢の実現をお手伝いします」くらいの方がいいのではないだろうか。里帰りも含めて、移住してくる人はそれぞれこんな暮らしをしたいという夢があると思う。自然が豊かなところで子育てしたいとか、古民家で暮らしたいとか、家庭菜園付きの家に住みたいとか。また、私が提案した起業家も、こんな店を持ちたいといった夢があるはずだ。移住はその夢を実現するための手段にすぎない。とすれば、夢の実現まで支援をしてみてはどうか。

すなわち、
(1)「南さつま市はあなたの夢の実現をお手伝いします」をキャッチフレーズとし、
(2)役所には「夢実現コンシェルジュ」を置き市民や移住者からの相談に対応、
(3)それぞれの分野に知識と人脈を持つ市民による「夢実現応援団」を作り、市民や移住者の問題解決を支援。
としてはどうか。そしてそれを支えるものとして、起業家支援や生活支援の具体的施策を位置づける。

単に移住を支援している自治体はたくさんあると思うが、そこでの理想の暮らしを実現するための支援をしている自治体などないと思う。「夢実現コンシェルジュ」を置くだけで、NHKが取材に来るレベルだろう。そしてこれは、移住者だけでなく現に今住んでいる人にとっても有意義なものだ。この仕組みがあったら、例えば私なら農産物加工所の開設のノウハウを聞いてみたい。

南さつま市は自然も豊かで、今若者に人気が出始めている一次産業も農林漁業が揃っている。一次産業は実は参入ハードルが高いので、役所が積極的に参入を支援してくれれば、首都圏から若者も移住してくるかもしれない。もちろん、「私の夢はフェラーリに乗ること」みたいな人もいるわけだが、さすがにそんな人は役所に来ないと思うので、「夢というと範囲が広すぎる」という心配は無用と思う。

少なくとも私は、こんな取り組みをしている自治体があったら、そこの住民を羨ましいと思うのだが、どうだろうか。

【参考リンク】
南さつま市定住化促進委員会(第1回)
南さつま市定住化促進委員会(第2回)

2012年10月2日火曜日

最高に美味しい枕崎の紅茶「姫ふうき」

枕崎に「手摘み 姫ふうき」というかなり高価な紅茶がある。

この紅茶はGreat Taste Awardsというイギリスの食品国際コンテストで2009年に日本からの出品として初めて三つ星金賞を取得している。飲んでみると、非常に上品で爽やかであり、芳醇な香りも素晴らしい。特に味や香りに際だった特徴があるというものではなく、全ての面でクオリティが高いという王道の紅茶である。

Great Taste Awardsというのは、1994年開始のどちらかというとイギリスローカルなコンテスト。人口に膾炙しているモンドセレクションは味のコンテストではなくて品質管理の認証だが、こちらは正真正銘の味のコンテストで、Webサイトの説明によると「イギリスの美味しいものをお知らせ」するためにイギリスの食品組合(The Guild of Fine Food)によって行われている。俗に「食のオスカー賞」と呼ばれ、三つ星金賞を5回獲ったら英国王室御用達になると言われるほど権威があるらしい(多分噂だろうが)。

私はアルコールがあまり飲めないので茶、紅茶、コーヒーなどは高価なものを飲んできた方だと思うが、確かにこの紅茶はこれまでで一番美味しいと思った。銀座の紅茶専門店で飲んだものよりも上だ。だが、実は価格も一番高かった。40gで1500円というのはかなり特別な紅茶なのは間違いない(まあ、10杯飲めると思えば一杯あたり150円だが…)。

とはいっても、この高価格には訳があり、有機栽培でしかも手摘みらしい。このため年間生産量は100〜150kgとかなり貴重だ。お茶と言えば機械化が当たり前の時代、手摘みの紅茶を作るなんてかなり異端と思うが、紅茶の本場であるイギリスで三つ星金賞を獲るくらいだから、異端も極めれば王道になるということだろうか。

ところで、日本にはこのGreat Taste Awardsの三つ星金賞を獲った紅茶がもう一つある。それは、知覧にある薩摩英国館の「夢ふうき」である。「夢ふうき」は「姫ふうき」に先立って2007年から金賞を連続受賞していたが、今年9月に発表されたGreat Taste Awards 2012において念願の三つ星金賞を受賞。これは薩摩英国館Webサイトにもまだ出ていない情報で、さっき検索していたら偶然知ったものだ。ちなみにこちらも有機栽培、手摘みである。

「夢ふうき」「姫ふうき」と名前が似ているが、この二つの紅茶は同じ「べにふうき」という品種の紅茶用茶樹から作られている。「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種であり、本品種を擁した枕崎は「日本紅茶発祥の地」としてこれを誇っているのであるが、このことについてはまた稿を改めて書きたいと思う。


【長い蛇足】
Great Taste Awardsについて日本語ではちゃんとした(雰囲気が伝わる)紹介がなかったので、備忘のためにここに書いておきたい。

Webサイトや公表された審査風景などを見ると、このコンテストは「権威ある」という言葉から想像されるようなものではなく、もっと気軽な、お祭り気分のものだ。ヨーロッパでは、イギリス料理はまずいものの代表のように思われているが、そういう風潮に対して「イギリスにだってうまいものはあるんだからね!」という主張をするためにやっているようなところがあり、そもそもコンテストの趣旨の一つが「イギリスで一番うまいものを決めよう」なのである。

星ごとの評価も、一つ星「だいたい完璧」、二つ星「欠点なし」、三つ星「わお、これは是非食べるべき!」となっており、随分気楽な表現になっている。

こうした気楽なコンテストであるが、というかだからこそ審査はやたらと気合いが入っており、 一流シェフ、料理研究家などが大勢あつまってガチンコの審査をするわけである。その模様はBBCがレポートしているが、雰囲気としてはかつての「TVチャンピオン」に近い。

結果公表も、イギリスの地域ごとで三つ星を紹介するようなかたちになっており、「お住まいの近くにも美味しいものがあるから是非行ってください!」みたいな感じである。こんなガチンコのうまいもん発掘コンテストだからこそ、基本的にはイギリスローカルにも関わらず各国から食品が出品されているというわけで、海外からの食品は「TVチャンピオン」に譬えるなら「今回はアメリカから刺客が登場!」みたいな感じで扱われることになる。

というわけで、基本的にはイギリスのうまいもんを発掘・認定するためのコンテストにおいて、まさにイギリスのお家芸ともいうべき紅茶部門で日本からの出品が三つ星金賞を獲ったということは驚異的なことだと思う。このあたりのことが、日本のWEBサイトにはどこにも書いておらず、その意味があまり正確に理解されていないようなのは残念なことだ。

2012年9月29日土曜日

地方と首都圏の図書館格差

ある稀少な本をどうしても参照したくなって、国立国会図書館の本を取り寄せた。

あまり知られていないが、図書館間には「相互貸借」という制度があって、図書館同士で本を貸し借りすることができる。この制度を使うと、地元の小さな図書館を窓口にして、(理論的には)全国の図書館の本を借りられるのである。

というわけで、地元の大浦図書館で「国会図書館の本を借りたいんですが…」と気軽に申し込んだら、これがなかなか大変な事態を招いた。国会図書館の本の取り寄せは南さつま市で初めてのことらしく、まず国会図書館から相互貸借の承認を得るところからスタートしなくてはならない。

国会図書館の本は基本的に個人が持ち出すことは出来ないので、館内での閲覧になるのだが、そのためには館内の環境が整備されている必要がある。具体的には、専任職員の監視の目が行き届いていることや、施設設備が要件に合致していることなどが求められる。図書館の方は、それらの要件を満たしていることを証明するため、図書館の図面まで国会図書館に提出したらしい。大変なご迷惑をかけたと思う。

結果として、加世田の中央図書館が相互貸借の承認を受け、私はめでたく資料を閲覧することができた(大浦図書館は常時監視の専任職員がいないのでダメだった)。申し込んでから約3ヶ月もかかったのには正直辟易した部分もあったが、市役所の方々の努力には本当に感謝したい。

ところで、鹿児島の図書館は蔵書、管理、サービス全ての面で貧弱だ。そもそも国会図書館所蔵の本を求めたのも、鹿児島の図書館にあまりに本がないので仕方なくしたことだ。首都圏の図書館が充実しすぎているということもあるかもしれないが、地方と首都圏との図書館格差は非常に大きい。どれくらいの格差があるかというと、鹿児島県立図書館は、首都圏における小さめの区立図書館くらいの規模しかないのである。これは、移住してきて受けた(数少ない)カルチャーショックの一つだ。

田舎の人は都会の人に比べて本を読まないということはあるので、ある程度の格差はしょうがない。都会では長い電車通勤の暇つぶしのために本が消費されている面があるが、車社会の田舎では意識して時間を作らないと読書ができないから本はどうしても縁遠い存在になる。それに、あまり図書館を充実させてしまうと、ただでさえ経営が苦しい地方の零細書店を圧迫する可能性もあるのだろう。そして、いい意味でも悪い意味でも悠久の時間が流れる農村では、本からの知識は役に立たないことも多い。

しかし、やはり本は重要な情報源だと思うし、図書館で読む本とお金を出して買う本は性質が異なると思うので、田舎であっても図書館は充実させるべきだと思う。都市と地方の情報格差を図書館が拡大しているようでは仕方ない。情報の少ない田舎だからこそ、図書館を充実させて新しい情報をどんどん取り入れるべきだ。これには、予算も比較的かからない。

蛇足だが、鹿児島で一番大きな図書館である鹿児島大学の図書館からも、先日ある本を取り寄せた。これも南さつま市で初めてのことだったらしいが、鹿児島大学から郵送料をなんと960円も取られた。郵送料が必要とは事前に聞いていたが、せいぜい300円くらいのものかと思っていた。鹿児島大学図書館は、第一義的には学生のためのものとはいえ、鹿児島県民の最後の砦となる図書館なのだから、もう少し利用しやすくなってもらいたいと思う。

2012年9月26日水曜日

島津家と修験道——大浦の宇留島家

宇留島家の看経所
我が家から歩いて2分もしないところに、(今は空き屋だが)宇留島(うるしま)家という家があり、そこは久志地権現と言われ、看経所(かんきんじょ)が残っている。

この宇留島家というのは、この大浦の地で代々島津家に仕えた修験者(山伏)の家であった。鹿児島はかつて修験道が盛んであり、特に南薩は金峰山を中心に修験の文化が色濃かったと考えられる。

鹿児島で修験道が盛んだった理由の一つに、藩主である島津家が山伏を重く用いたことがある。戦国期の島津家では政策や軍事の戦略を立てるのにクジ(御鬮)を使っていたが、クジを引くのは偶然に任せるのではなく神慮を得るためであり、宗教的な力が必要だった。そこでクジを引いたのが、その作法を心得ていた山伏だった。

戦の進退をクジで決めるというと、現代的観点からは非合理的に見えるが、私はそうでもないと思う。最適な戦略・戦術は事後的にしかわからないし、戦において冷静な判断は元より難しい。ましてや撤退の決定は非常に困難だ。また異論の出やすい戦場において、神慮の判断ならば反対派も黙らざるを得ない。そう考えると、重要な判断をクジに任すというのは、一見迷信的に見えて実は理に適っているのかもしれない。

しかも、山伏を軍事に活用するというのには実利もあっただろう。というのも、修験者は山林を跋渉して各国を渡っていたので、他国の事情にも詳しく人脈もあり、いわば一種のスパイとして活躍していたらしい。戦国期の関所とは国境であって、普通の人は自由に往来できなかったが、山伏はこれを自由に通行できた。『勧進帳』で源義経が山伏に偽装するのも、山伏は関所を通行できるという特権があったからである。しかも山伏は山中の行者道によって人知れず他国に移動することが可能で、密書一つ届けるにしても圧倒的に有利だ。

島津家が山伏を家老や老中として迎えたのは、戦勝祈願の霊験を得るためということ以上に、そういう山伏の持つネットワークを活用するためだったのではないかという気がする。宇留島家も土着の人間ではなく、千葉から南薩まで下向してきたらしい。

宇留島家は特に島津忠良(日新斎)の頃に重く用いられたが、それもある戦を契機としてのように思われる。忠良が1538年に加世田の別府城を攻めた際、宇留島十代東福坊重綱は山中で「三洛の秘法」とよばれる祈祷を行い、また忠良自身も久志地権現に籠もって戦勝を祈願した。その甲斐あってか別府城は落城。この戦いで加世田は島津家の支配に入り、同時にここ大浦も島津家の領地に組み込まれたようだ。この祈願の功により、東福坊は久志地権現、磯間権現等の別当職に任じられるとともに神田八町と宝物を下賜されている。

戦国期が終わり江戸時代に入ると、戦がなくなり島津家と修験者との関わりは希薄になっていく。宇留島家も島津家のために祈祷することはなくなるが、戦国期に得た八町(8ha)という広大な水田を経済力の源泉として、大浦でも有数の郷士となった。そして宇留島家は山伏として修行を続け、田畑の除虫祈祷や伊勢講の指導などを行い、庶民のための山伏としての性格を強めていった。

今ではこの地域に修験道の残映は感じることができないが、戦国から江戸期にかけて、修験道文化が色濃かったことは間違いない。修験の山である磯間嶽に向かい、かつて山伏が百姓を指導していたのかと思うと興味深い。

そういえば先日地域の古老から面白い話を聞いた。電話もなかった数十年前、うちの集落では地域の人への伝達事項がある時、合図として区長さん(集落のとりまとめ役)が法螺貝を吹いて知らせたのだそうだ。 これは、山伏がこの地域をまとめていたことの名残なのかもしれない。というのも、東福坊が下賜された神田八町の一部は、うちの集落の水田のようなのである。

【参考文献】
『さつま山伏 —山と湖の民俗と歴史—』 1996年、森田清美
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2012年9月15日土曜日

西欧近代農学小史

化学肥料も農薬も、トラクターもなかった頃の農業はどんなだっただろう? そして、現代農学の原型となっている西欧近代農学の成立はどんなだったのだろう? という興味から、『西欧古典農学の研究』(岩片 磯雄 著)という本を読んだ(※1)。

その内容はかなりマニアックだが、他では得られない情報をたくさん含んでいたので、備忘も兼ねて、ポイントをまとめてみたい。

さて、本書の対象となるのは18世紀初めから19世紀半ばのイギリスとドイツの農学であるが、その頃の農業先進国はなんといってもオランダであった。オランダでは既に低地の干拓を大規模に行っており、当時の新作物であったクローバーを導入した集約的な農業が行われていた。しかし海運の商業的成功による富のおかげで穀物は輸入に頼っており、農業がより集約性の高い畜産(チーズ作りなど)にシフトしていく趨勢もあった。そうした中で新興の農業国として勇躍するのがイギリスである。

イギリスの農民的地主であったジェスロ・タル(Jethro Tull)は、病気の治療のため訪れたヨーロッパ大陸において先進的農業を見、その経験に基づいて一連の農機を発明するとともに、イギリスで農業の新体系を構築した。タルの新農法の普及によってイギリスは農業生産性の飛躍的向上、つまり「農業革命」を成し遂げ、それによる人口増は産業革命の一因となったともいう。タルはしばしば「農業の発展に最も大きな影響を与えた人物」「近代農業の父」と言われる。

タルの新農法のポイントは、作付体系から休閑をなくしたことと、条播中耕、そしてそのための機械化である。

その頃のヨーロッパでは中世以来の三圃制が行われていた。三圃制とは、圃場を3つに分け冬穀物−夏穀物−休閑のローテーションで耕作を行う体系であるが、これだと耕地の1/3は耕作をしないということで効率が悪い。そこで、この休閑をなくせないか? というのが西欧農学の発展の一つの軸になっていく。

では休閑をなぜ行うのだろうか? 歴史の教科書などには、「休耕地に放牧することで家畜の糞尿が肥料となり土地の力を回復させる」などと書いているが、これは正確ではない。元々の休閑とは、地力の回復ももちろんだが、同時に除草のためのものであった。当然除草剤などない時代なので、雑草は凄いことになっていたと思われる。しかも、当時は条播ではなく、散播(つまり畑に種をばらまく)であったため、人力による除草もしていなかったらしい。

となると、数年耕作すると雑草だらけになってしまいほとんど何も収穫できなくなってしまう。これを防ぐのが休閑の重要な目的なのだった。では休閑によってどのように除草するかというと、まず畑を放っておく。すると土中にある雑草の種が発芽し、やがて雑草が繁茂する。そこで乾燥した日などに草を刈ったり、棃耕(馬に棃を引かせて耕す)したりすると、雑草が枯れる。だが土中にはまだ発芽していない雑草の種があるので、また畑を放置し、雑草を敢えて生やしてから絶やし、棃耕する。これを何度か繰り返すとだんだん土中に含まれる雑草の種は減っていくわけだ。少なくとも4回、理想的には7回ほどこうしたことを繰り返すことで、雑草の種が含まれない清浄な畑になるらしいが、こうして穀作に備えたのが本来の休閑である。

つまり、本来の休閑とは何もしないのではなく、数次にわたる棃耕が必要な重労働なのだった。これをなんとかなくせないかと考えるのは当然だ。しかも、やがて人口増等によって家畜飼料等が足りなくなり、休閑地への放牧等が始まっていく。そうなると、当然棃耕も十分に行われなくなり、雑草の種が完全に排除されなくなる。この変容した休閑では本来の目的が達成できないので、その意味でも三圃制の変革が求められていたのだった。

これへのタルの解決策は、条播と中耕である。条播とは、線状に一定間隔で種を播くことで、中耕とは種を播いてからその周りを耕すことである。中世以来の散播を辞め、条播にしたことで播種後も圃場に入れるようにして中耕することで除草し、また(タルの理屈では)土を耕すことで地力を回復させた。またタルは休閑をなくすだけでなく、カブなどの根菜類やクローバーなどを導入し、冬穀物−カブ−夏穀物−クローバーというような休閑のない輪栽農法を確立させた。さらにこの農法のための畜力条播機中耕機を発明し、農業全体を新しいものにつくりあげた。

またこの際、タルは植物の生理、栄養、土壌などの理論を反省して、いろいろな実験や観察を行い、総合的理論の上にこの農法を確立したのだが、それは「近代農学の父」と呼ぶにふさわしい。何より、数百年間無批判に行われてきた在来農法である三圃制を打ち破ったことは、タルの不朽の功績と言える。

タルはこれらを『新農法論』としてまとめ公刊するが、所詮は農民である彼の発案はそのままでは世の中に広まらなかった。その流布のきっかけとなったのがアーサー・ヤング(Arthur Young)による紹介である。ヤングはいわゆるジャーナリストだったが、農園を買って農業もやっていた。だが彼自身は農業では成功せず、3度も農園を変えて破産状態だったという。しかし農業に関する著作が売れたことで農学史に名を残すことになる。

彼はタルの農法を無批判に紹介したわけではなく、例えば条播や中耕の意義は認めなかったし、さらに一連の機械化に関しても批判的だった。ヤングとしては、昔ながらの散播なら種まき後は農民は何もやることがなく暇なのに、条播・中耕作業は大変だということ、さらに複雑な機械である条播機、中耕機の維持管理は無学な農民には不可能だ、というような考えだったようだ。にもかかわらず、ヤングは大規模経営の優越を説いているなど矛盾した部分があり、彼の言説は個人的にはあまり賛同できない部分が多いが、タルを始めとしたイギリス農民の叡智を体系化し、ヨーロッパ大陸に紹介・導入の契機となった功績は大きい。

そのヤングの著作を通して学び、近代的農業を確立したのがドイツのアルブレヒト・テーア(Albrecht Thaer)だ。医者だったテーアはイギリスの新農法に学び、それを科学的観点から批判検証し、単なる農法のみならず、いかにして農業経営において最高の収益を生み出せるかを考察した。その結果まとめられたのが大著『合理的農業の原理』(全4巻(※2))だ。

特にテーアの業績として重要なのが地力の源泉を土中の有機物に求めたことで、実はこれがタルとの決定的違いになる。タルは地力は耕すことによって増すと考え、休閑・放牧によって家畜糞尿を投入しなくても中耕によって地力は維持しうると考えたのだが、テーアは畑に有機物を投入することが重要であると説いた。これは、後にリービッヒにより窒素・リン酸・カリの肥料の3要素説で一応否定されることになるが、むしろ現代に至って有機物の重要性が再認識されており、ここに近代的な土壌学が開始されたと言える。

これ以外にも、テーアは近代農業を成立させるための様々な前提について考察した。例えば、土地の私有権、賦役労働の禁止、生産物販売の流通、農業経営のための固定資本と流動資本、農業経営への簿記の導入などだ。テーアの考察は非常に現代的であり、約200年前の著作であるにもかかわらず、現代においてもその意義は色褪せていない。「農業と工業の間には本質的に区別されるべきなんらの相違もない」といった彼の言葉は色褪せないどころか、現代においても十分に過激である。またテーアはプロシアの農政改革に参与し、ドイツの農業を封建的農業から資本主義的農業への転換を成し遂げた立役者でもある。

なお、これまで触れていなかったが、タルから続く西欧の農業の革命の背景には、地主−小作人という封建的関係の解消と近代資本主義の成立がある。ちょうどタルの頃、封建領主による閉鎖的かつ分散的な農業社会が解体し、囲い込みなどによって農地が集約化され、共同地が解消されて私有地に分割されるといった社会の激変があった。また、次第に土地所有と経営の分離が起こり、農業の目的が地代収入ではなく、収益の最大化へと変化していく。それに伴って、かつての農書は地主が小作人管理のために読むものだったが、次第に耕作者本人が読むものへと変化していく。地主に隷属した小作人から、独立した農業経営者が出現、同時に封建的地主からは資本家が出現するのである。それが、タルから続く農学の発展の原動力ともなっている。

最後に、テーアに対する論理的批判者として現れるのがヨハン・ハインリヒ・チューネン(Johann Heinrich von Thünen)である。彼は経済学者・地理学者であったが、自ら農園を経営し、詳細な経営記録をつけた結果、テーアの理論と相違が出てくる部分があったのでそれを理論化するとともに経済学的分析を行い、『孤立国』という本にまとめて公刊した。その批判点や主張はあまりに学問的なのでここでは触れないが、これにより農業が経済学に組み込まれて分析されることになった功績は大きい。

化学肥料・農薬の登場前夜であるこの時代の農学史を通して思うのは、これらの農業改革において病害虫の被害への対応の観点がほぼ全くと言っていいほどないことだ。アイルランドのジャガイモ飢饉は1845年からで彼らの活躍した時代より少しだけ後になるが、それまでも作物の大規模な病害虫被害はあったのだと思う。ただ、それに対処する方法がなかったから彼らは考察のしようがなかったのかもしれない。

20世紀に入って、化学肥料と農薬の開発、そしてトラクター等の燃料機械の開発で農業は抜本的に変わっていく。それまでは病害虫の忌避は基本的に輪作体系によって行われていたらしいが、土壌燻蒸剤の開発によって連作が可能になり、肥料の大量投入と除草剤の使用によって休閑も必要なくなった。しかし、農学の基礎は19世紀に確立しており、それを学ぶことは現代的な意義もある。別に取り立てて化学肥料や農薬を敵視するわけではないが、それ以前の農業の基本がこの時代の農学にはあるように思う。

こうなってくると俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。だが一書一書を読むような好事家ではないので、何かいい参考資料を探したいと思っている。


※1 Amazonで検索すると古本で1万円以上する高価な本。近所の図書館の廃棄処分に出ていたのをタダでもらってきた。
※2 日本語版だと3冊になっているが、原著は4巻本。

2012年9月14日金曜日

農業の技術と知識をどのように身につけるか

先日の研修旅行で、ある農家から言われた言葉が引っかかっている。

「引退するまで、あと何回植え付けて収穫ができるか考えないといけないよ。30年あっても30回しかできないんだから。」それは、向上の機会は限られているという意味なんだろうと思う。 だから、1年1年の作付けをしっかりしろというメッセージだと受け取った。

ただ、それは他の仕事でも同じことだ。例えば「概算要求」は役人の(役所的に)最も重要な仕事の一つで年に1回限りだ(補正予算は除く)。しかし「役人人生であと何回概算要求できるか考えないといけない」なんて言葉はついぞ聞いたことがない。どうしてだろう? その答えは簡単で、長い役所の歴史を通じて「概算要求のやり方」が確立しているからである(それがいいか悪いかは別として。というか多分悪いやり方が確立しているのだが)。

では、なぜ農業では1年1年の作付けを向上の機会として、工夫しなくてはならないのか。別の言葉で言えば、なぜ農業には常道が確立していないのか? 数千年続いている事業なのにもかかわらず、その知識と技術はどうして普遍化しないのだろう? 地域ごとに気候が様々だから、水利や土地利用は地域ごとに違うから、毎年新しい機械や肥料や農薬が出て日進月歩だから。そういう理由は当然あると思う。

しかし最も大きな理由は、 農業が家系的に担われていたからではなかろうか。技術の継承がほとんど家系的にしか行われず、せいぜい地域内での共有に基づいているため、技術と知識は体系化・普遍化しづらく、またその必要もなかったのだろう。

だが時代は変わり、農業の担い手の確保が問題になっている。新規就農にあたってのハードルはたくさんあるが、農業の技術と知識をどのように身につけるかもその一つだ。私は他分野については本から学ぶことが多いが、農業のハウツー本にはほとんどまともな説明がない。まず、どのような道具を揃えるのかという記載がないことが多く、「○月に播種する」「○月に中耕する」といったことが羅列されるだけで、その作業をどのように行うのかに言及されていないこともよくある。つまりは、実践的ではない。同じ播種でもやり方次第でいろいろな結果になると思うのだが。

だが一番の問題は、それが基本的なやり方を教えるだけで、応用は読者に委ねられていることだ。気候や条件は様々なので、農業は基本的に全てが応用だが、そのノウハウは本には書いておらず、経験者の頭の中にしかないのである。

これは何も新規就農の時だけの話ではなく、新しい農機、種苗、農薬の導入などにあたっては各農家が頭を悩まされているところだと思う。

そこでふと思ったのだが、「Yahoo! 知恵袋」とか「OKWave」のようなQ&Aサイトで、農家同士が質問・回答し合うような仕組みはできないものだろうか。いわば同業他社にあたる他の農家にわざわざノウハウを開陳するような農家がいるかどうかはよくわからないが、例えば回答すればポイントが溜まるようにして、ポイントに特典が付くようにすれば協力してくれるかもしれない。運営費用は農機メーカーや資材メーカーからの広告費等でまかなえばよい。

新しい種類の農機なども、開発されてもすぐには普及しないことが多い。周りの農家が実際に使っている様子を見て購入を検討する、というのが一般的だと思うが、こうしたサイトがあればその農機を使った人の声を聞くことができ購入の参考となるから、農機メーカーとしても有り難いのではないだろうか。

なお、以前OKWaveは「教えて!農業」というこのようなサイトを運営していたが、今年6月に閉鎖している(理由は不明)。

農業と同様に個人で活動することが多いITエンジニアの場合、ノウハウを教え合うことが普通であり、こうした教え合いサイトも多い。だから、「教えて!農業」は成功しなかったようだが、農業も工夫すれば技術と知識の普遍化をしていくことが出来ると思うし、そうすれば新規参入のハードルを一つ取り除くことになる。そしてそれ以上に、農業を形式知化することによって、さらなる効率化と農家全体の技術の向上が図られるはずだ。

なんでも本やインターネットで学べるようになるわけはないが、農業が本当に日進月歩なら、農家のネットワークによって技術と知識を向上させていくことが必要なのではないかと感じた次第である。