南九州市が出している『薩南文化』という年刊の地域文化誌、この最新号の第11号(平成31年号)に私が寄稿した記事が掲載された。
それは、 「清水磨崖仏群と齋藤彦松」という記事。実は当ブログでかつて書いたものである(ただしほんのちょっとだけリライトした)。
【参考】清水磨崖仏群と齋藤彦松
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/07/blog-post.html
『薩南文化』は原稿募集型ではなくて依頼型の雑誌。つまり私が投稿したのではなくて、この記事を読まれた担当の方から、書いて欲しいという依頼があって書いたものだ。しかもなんと原稿料も出る。初めてものを書いて原稿料をもらったかもしれない。本当に有り難いことである。
詳しい内容は先ほどのリンク先を読んでいただければと思うが、簡単に言えば、それまでさほど価値があると思われていなかった清水磨崖物群の価値を見いだし、保存や研究に打ち込んだ齋藤彦松を紹介したものである。
どうして私が彼に興味を持ったのかというと、「清水磨崖仏群の価値を見いだしたのは、当時大学院生だった齋藤彦松氏である」というような簡単な紹介をどこかで読んだからだった。これを読んで、私は「どうして一介の大学院生がきっかけになったのだろう?」と疑問を抱いたのである。大学院生なんかたいして影響力がないのが普通だが、この大学院生は何者だったのか、と。
調べてみると、確かに清水磨崖物群を「発見」した齋藤彦松は、その時大学院生ではあったが、今の世の中でイメージされる大学院生とは随分違う。当時は昭和33年。大学院に進む人自体がほとんどいなかった時代だ。大学院生であっても、いっぱしの研究者として扱われていたのかもしれない。少なくとも、今の大学院生よりは権威があったろう。それに齋藤は既に40歳になっていた。そもそも大学に入ったのが36歳の時である(齋藤の若い頃には戦争があって学問どころではない時代だったから、当時はこういう人が結構いたのかも)。その頃の齋藤彦松は、一介の大学院生とはいえ、中堅の研究者の風貌をしていたのだろうと想像される。
しかし、そうは言っても、清水磨崖物群がある地元川辺町の人にとっては「もの好きなおじさん」くらいに見えたかもしれない。「○○大学教授」とかならともかく、いくら大学院生が「これは貴重なものだから保存した方がいいですよ!」と声高に叫んでも、右から左に聞き流されるのがオチではないか。
ところが実際には、齋藤が保存を進言してからたった1年後の昭和34年には、清水磨崖物群は県指定文化財になるのである。これは県が指定したわけだから川辺町の人たちがどう関わったのかはよく分からない(ちょうどその時の「川辺町報」が南九州市、鹿児島県図書館のどちらにも保存されていない)。よくはわからないのだが、少なくとも齋藤の主張を右から左に聞き流したということはないと断言できる。よそものの大学院生の言うことを「真に受けて」、保存に向けて動き出した、というのは明らかなのだ。
話を聞いてみると、川辺町の風土というか、街の雰囲気に「よそものを快く受け入れる。その代わり出て行った人には冷淡」というのがあるらしい。「出て行った人には冷淡」というのが面白いが、それはさておき川辺町には「よそものを快く受け入れる」というムードがあるのは今でも感じるところである。例えば、旧長谷小学校「かわなべ森の学校」(現「リバーバンク森の学校」)を使った「Good Neighbors Jamboree」もやっているのはよそものだが、こういう企画を受け入れる度量があるのが川辺である。
【参考】Good Neighbors Jamboree
https://goodneighborsjamboree.com/2019/
小さな町や村というのは、多かれ少なかれ「閉じた世界」を作っているものである。風景は何十年も変わらず、顔ぶれにもほとんど変化はない。「閉じた世界」になってしまうのはやむを得ない。しかしそんな場所でも、時にはそこにどこからか風来坊が現れることがある。その時に風来坊が言うことを、地元の人が「真に受ける」ことができるかどうかは、結構重要な気がする。
それは、その町や村が、ほんのちょっとでも外に向かって開いているかを示す、徴(しるし)であるのかもしれない。
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