何を隠そう、私は以前文部科学省、その旧科学技術庁系で働いていたので、今年も日本人がノーベル賞を受賞できたことを大変嬉しく思っている。ノーベル賞の受賞者数を指標化することはよくないが、過去の日本の科学技術政策の成果の一つであるといえるだろう。
今「過去の」とつけたのは、日本の科学技術を取り巻く環境が急速に悪化しているからで、特に国立大学は運営費交付金が減らされ、その分競争的資金(申請型の資金)が増えたのはまだいいとしても、競争的資金がどんどん花形の大型プロジェクトに集中して地味な基礎研究がやりにくくなり、さらに資金の申請・消化・報告に厖大な事務作業が付帯して研究・教育に集中できなくなってきているのである。
諸外国が、高等教育や科学技術政策をどんどん充実させていく趨勢にある中、先進国ではほぼ日本だけがこういった分野を縮小させており、非常に憂慮すべき状況にある。
要するに、科学技術立国を謳ったのは過去のことで、今や日本の科学技術は立ち後れつつあるというのが実際ではないか。科学技術は軽視されつつある、と言わざるをえない。
今も、私の元同僚はこうした状況と戦っているだろうと思う。文科省は科学技術関連予算を減らしている張本人でもあるので世間の風当たりは厳しいが、もちろん本心では充実させたいと思っている。しかし日本の厳しい財政状況の中では予算を取るのが非常に難しく、あんまり老獪ではない文科省は割を食いやすい役所である。でも年金・福祉・医療だけを考えていては将来はない。ノーベル賞の連続受賞を口実に、是非財務省とやりあっていただきたいと思う。
ところで、軽視されているのは科学技術だけではないことを、身近なところでひしひしと感じている。話が急に現場のことになって申し訳ないが、それは、「農業技術」である(もちろん科学技術の一分野でもある)。
農業技術というのは、要するに植物を栽培したり動物を飼育したりする生産技術のことで、農業というのは、自然のエネルギーを技術によって生産物に変える産業なわけだから、農業においてその技術は最も重要な鍵である。
実は、農業は長い歴史があるにも関わらず分かっていないことが多い。どうしたらうまく収穫できるのか、未だに人間は試行錯誤の途上にある。少なく見積もっても9000年は歴史ある農業なのに、なぜこんなに基本的なことすら分かっていないのだろうと思うこともしばしばである。
「儲かる農業」という言葉は嫌いだが(というのは、暗に農業は儲からないということが含意されているから)、 儲かる農業をするためには、絶対に確立が必要なのが農業技術で、「篤農家」と呼ばれる人たちは要するにそういう技術の高い人たちなのである。
その農業技術が、今とても軽視されているのだ。
農業を巡るトレンドを見てみても、「質の高い日本の農産物をもっと輸出しよう」と農水省も言っているが、農産物を生みだす農業技術の方はほとんど閑却されているような気がする。本当に日本の農産物は質が高いのかどうかも疑問だが、それはさておいても、他国に高品質のものを輸出していこうとするなら、まずは高度な技術を確立するのが先なはずなのに、今の議論を見ていると、「日本の農業技術は高い」というのを前提として、マーケティングやらブランディングやらの方向からばかり攻めていこうとしているようだ。
でも日本の農業技術は他国と比べ優れているんだろうか? 確かにある種の果物は宝石みたいに美しいものが生産されているし、農業機械なども特に水田関係はかなり発達している。「和牛」は霜降り肉という新ジャンルを開拓したと言ってもいいかもしれない。優れた技術は確かにある。が、日本の農業全体を見てみるとどうだろう。未だに中心は昔ながらの努力と根性の零細農業で、技術の発達は遅々として進んでいないようにみえる。
農政では、「改良普及員」という制度が昔からあって、要するにこれは農業技術を普及・指導していくための人材であり、都道府県の職員として農家に技術指導をしていた。「普及員」という言葉は、「すでにある技術を普及していくだけ」というイメージがあってよくないと思うが、実際は各地でどうしたら生産性を上げられるのかという試験・研究をしてきた歴史があって、かつての農政の一つの要だったと思う。
これが、最近どんどん人員を削られてきている。政策的にも日陰の方に追いやられている。ひどく減少しているというわけではないものの、都道府県の出先機関の合理化・定員の削減などで地味に減ってきているのである。これは本当にゆゆしいことだ。普及員のポストが減らされるということは、地方国立大学の農学部の卒業生の、重要な就職先が減らされるということと同義だからである。
農学部を出てもその知識を活かせる職場が少ないのなら、農学部へ行く学生も減り、農学部の定員自体も削られていくだろう。需要がないのだから。そして農学部が縮小していけば、その地域の農学のレベルはどんどん下がっていかざるをえない。
農学なんかなくったって、農業は出来る、と思っているとしたら甘い。確かに篤農家は農学を知らなかった。農学を知らなくても、植物を観察し、管理と肥料を調節し、比較対照し、結果を吟味し、次第によりよい生産方法を探っていった。でもそれ自体がほとんど農学的な歩みでもあった。誰も彼もが、こういうことはできない。やはり広く利用出来る形で、よりよい生産技術が生みだされる体制を作る方が全体の底上げになる。
そして、篤農家であってもできないのが、農業の「基礎研究」だ。例えば、植物はどうやって水を吸い上げるのか。植物が水を吸い上げる圧力は、まだ完全には解明されていない。それがわかっても、農業に役立つとは限らない。それより、どれくらい水をやるのか適切かという研究課題の方が短期的には役に立つ。でも、将来的には、原理を解明する方がもっと役に立つ可能性がある。
他にも、害虫となる昆虫の生態学、植物の免疫機構、土壌微生物の生態系の解明、などなど、農業を理解する基礎となる、地味な学問はまだまだいっぱいある。こうした基礎研究を重ねていかなくては、本当の意味で革新的な技術は生まれてこないし、植物の生理を理解することそのものができない。
そもそも農業をする上では、栽培植物の特性を理解して環境を整える、というのが第一歩だ。しかし未だに「栽培植物の特性」自体に謎が多く、どうしたら最大の収量・品質を上げられるのか分かっている植物はないと思う。どうしたらうまく育つかわかっていないのに、どうやってうまく育てろというのだろう。だから、是非とも農業技術の基礎研究は必要なのである。
巷では「これからは農業の時代!」などと調子のよいことが言われている。であれば、その基盤となる技術こそ重視しなければならないのに、6次産業化とか「ものづくりよりことづくり」(ストーリーで売る)とか、悪い言葉でいえば「見方を変えれば大逆転」みたいなことばかり言われているのは軽佻浮薄だ。それよりも、質の高い農産物を生みだす技術、そのものに注目が集まって欲しい。
だが、技術の発展というのは、マーケティングとは違って一足飛びにはいかない。技術は地道な積み重ねでしか進んでいかないもので、成果の出ない時期の方が長いくらいである。そして怖ろしいことに、技術は発展しようとするエネルギーを失ったら、それは既に衰亡の途に入ってしまうものである。それは止まったら死んでしまう大きな魚のようなもので、技術は常に進んでいないと息の根が止まるのだ。
今ある農業技術で十分だ、と思った瞬間に、農業は終わるのだと私は思う。これは、かつて日本の農学の歴史で繰り返されてきた停滞のパターンでもある。こうなると、確立した理論に合わない現象は黙殺され、小さな発見の芽は簡単に摘み取られてしまう。そして農業の生産性は、いつのまにか落ちていく。なぜなら、理論の基盤になっていた自然環境や社会情勢は、どんどん変化していくからである。
このたびノーベル生理学・医学賞を受賞された大隈良典 東工大栄誉教授も、「役に立たない基礎研究が大事」とおっしゃっているようである。我々は、「技術」の上澄みを使って仕事や生活をしているが、その技術の下には、厖大な数の(直接は)役に立たない技術があり、さらにその下には原理を解明する、自然を理解するという、基礎的な学術の営みがある。
農業も同じである。我々が当たり前にやっている農業の背後には、それを成立させている様々な技術や学術があり、究極的にはその土台が上澄みのレベルを決めている。
「高品質な日本の農産物を世界に輸出しよう」というのであれば、世界一の農業技術立国を目指さなくてはならない。それにはマーケティングやブランディングも大事である。でもそれ以上に、技術は生命線だ。そのためにまず必要なものは人材であり、予算である。改良普及員を増員し、農学部を強化し、研究資金を潤沢に与えて欲しい。そういう地道な取組の先に、農業の新たな展望が開けるのだと思う。
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