コノハナサクヤの銅像 |
ニニギが笠沙の御崎で出会った「麗しき美人(おとめ)」がカムアタツ姫、又の名をコノハナのサクヤ姫という。古事記ではこれ以前には女性の形容に「美しい」が使われていないということで、コノハナサクヤは神話上での我が国初の美人、ということになっている。ちなみにカムアタツ姫というのは「神阿多都(姫)」と書き、「阿多の姫」という意味である。
ニニギはコノハナサクヤに早速求婚し、父であるオオヤマツミ(大山祇神)によって承認される。だがこの岳父はコノハナだけではなく、その姉イワナガ(石長)姫も添えて二人をニニギの元に送った。しかしイワナガ姫は大変醜かったため、これを厭ったニニギはすぐにイワナガ姫を実家に送り返す。
これを恥じたオオヤマツミが嘆じて言うには、「岩のごとくいつまでも変わらないようにイワナガ姫を、 木花のごとく栄えるようにコノハナサクヤ姫を嫁がせたのに、イワナガ姫を送り返したからには、天孫の子どもたちは木花のようにもろくはかないだろう」と。これは天皇が短命な原因とされ、神話学的にはバナナ型神話の短命起源と分類される。
この神話の背景として、当時は姉妹が同じ男性に嫁ぐ一夫多妻制があった、というまことしやかな解説もあるが、疑問もある。というのも、姉妹が同時に嫁ぐ「姉妹型一夫多妻」というのは、通常は妻方居住、つまり男性が妻の実家に迎え入れられるという風習とセットであり、二人して夫の元に送られるというのは奇妙である。ニニギがたじろいでイワナガ姫を送り返したのも無理はない。
ともあれ、めでたく天孫ニニギは日本史上初の美女コノハナサクヤと結ばれた。そしてコノハナサクヤは一夜にして身籠もり、やがて臨月となる。だがいざ産もうという時に、さすがに一夜の契りでは妊娠しないだろうということでニニギはコノハナサクヤを疑い、「私の子どもではなくて国つ神(地元のやつ)の子どもに違いない」と言う。
ところで、この話の展開を考えると、どうもニニギはコノハナサクヤと一度しか寝ていないようで奇妙だ。別居でもしていたのだろうか。それとも、実際は妻方居住の習慣があったために、イワナガ姫を拒絶したニニギは二度とオオヤマツミの家に入れてもらえなかったのだろうか(※1)。それにしてもニニギというのは、譲られたはずの出雲ではなく日向に来たり、奥さんの姉を見た目重視で拒絶してお義父さんに怒られたり、出産の間際に「俺の子じゃないだろう」などと言ったり、なんだかおっちょこちょいな性格のようである。
ニニギに疑われたことを怒ったコノハナサクヤは、「もし貴方の子どもだったら無事に産まれるでしょう」と言って、大きな家を作り、その中に入って入り口を塞いで火を放った。そして燃えさかる火の中で3柱の神を無事出産して無実の罪を晴らしたのである。この神、美女にしては壮絶な性格だったようだ。ちなみにこういう証明方法を「うけい」という。そしてこの時産まれた3兄弟が、ホデリ、ホスセリ、ホオリであり、このうちホデリ=海幸彦とホオリ=山幸彦が次の神話の主人公になる。
さて、長々とコノハナサクヤの神話を辿ったが、実は通説ではカムアタツ姫とコノハナサクヤ姫は別人で、アタツ姫は阿多の土着の神であるが、コノハナサクヤは宮崎県にいた別の神なんじゃないかと言われている。つまり、カムアタツとコノハナサクヤの話が混じっているらしい。どこからどこまでが宮崎での話なのか、どこが阿多の話なのか今となってはわからない(※2)。
だが、3兄弟出産の伝説は阿多土着のもののようで、これに因む旧跡は南薩に多い。コノハナサクヤが出産したのが加世田の内山田にある竹屋ヶ尾で、ここには3兄弟の臍の緒を切った竹刀に由来する竹林(※3)、彦火火出見(ホオリ)尊誕生碑、竹屋(たかや)神社などがあり(※4)、竹屋ヶ尾自体が昭和15年には「神代聖跡」に指定されている。
だが、これらの旧跡は人気がないのか、あまり注目されることはないし、そもそもアピールもされていない。一方で、本当はあまりゆかりがないのかもしれないコノハナサクヤが「きんぽう木花館」の名前の元になったり、彫刻家の中村晋也氏(「若き薩摩の群像」の方)によりその銅像がつくられたりということで、やはり美人というのはキラーコンテンツなんだなあと思う。
※1 日本書記本文によると、ニニギがコノハナサクヤの方に「幸(め)す」=「行った」ということになっていて、つまり通い婚であったと受け取れる。こちらの方がそれっぽいストーリーである。
※2 宮崎県西都市には、コノハナサクヤを祭る都萬(つま)神社があり、西都原古墳群にはニニギとコノハナサクヤの墓と言われている古墳もある。ついでにオオヤマツミの墓とされる古墳もある。ただ、コノハナサクヤの神話のほとんどは実はカムアタツ姫の神話を元にしたもの、という可能性もあるので、本記事のタイトルに「本当は南薩に縁がないかもしれない」とつけたが、縁がある可能性もあるわけである。
※3 加世田と川辺の堺にある竹山。コノハナサクヤが捨てた竹刀が根付いたのが竹林のいわれというが、一度伐採されており、現在の竹叢は1984年に加世田市によって復活させられたもの。
※4 竹屋神社は今は加世田の宮原にあるが、1161年以前は竹屋ヶ尾にあったらしい。ちなみに、明治以前は鷹屋大明神といったようだ。また、南九州市にも同名で同様の由緒を持つ神社が存在する。
【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
これも面白かったです。
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阿多は、阿多古であって、今は愛宕に変化しています。
そして、福岡市西区に愛宕という場所があって、伊弉諾が禊をした小戸のすぐ近くです。
コノハナサクヤヒメは、この愛宕近くに住んでいたように思います。これなら、日向峠と徒歩圏距離で、ニニギが姫と出会うのに、いちいち鹿児島まで行く必要ありません。
姫も親の近くに住んでいたことになります。舟で1日ほどでいけるんじゃないかなと思います。