2016年12月29日木曜日

鹿児島でのポンカン栽培のはじまり

鹿児島の人は「ポンカン」というとなじみ深い果物だと思うが、全国的にみたらどうだろう。「知らないわけじゃないが、あまりイメージはない」くらいではないかと思う。

今は甘みの強い柑橘が品種改良によってたくさん生みだされているので、ポンカンの肩身が狭くなるのも当然であるが、実はこのポンカンという果実、かつては「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたくらい、美味しい柑橘として名を馳せたらしい。

ポンカンが日本に紹介されたのは明治29年(1896年)のことである。鹿児島出身の軍人で台湾の初代総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)が赴任先の台湾から郷里鹿児島にポンカンの苗木を送ったのを嚆矢とする。ポンカンはインド原産とされるが、日本には台湾を通じてまず鹿児島に入ってきた。これには、台湾併合という国際関係と、初代台湾総督が鹿児島出身だったという偶然が絡んでいるわけだ。

しかしながら、樺山が送った苗木からポンカン栽培が広がったかというと、そうでもなさそうである。当時の鹿児島は「勧業知事」と後に讃えられる加納久宣(かのう・ひさよし)が知事を務めていた時代。現在の鹿児島の柑橘産業の原型をつくったのが加納その人であった。ところが加納の事績を調べてみても、樺山が送ったポンカンの苗木についての言及は全くなく、少なくともこの苗木が大々的に増殖されたり頒布されたりということはなかったようだ。

では、このころ鹿児島の柑橘産業はどういう状態にあったかというと、和歌山などの主要産地から大きく後れを取っていて、まだまだ自家消費的な段階に留まっていた。加納はこれを産業的なものにしていこうと、私財をなげうって苗木の頒布や模範果樹園の創設などに取り組んで栽培を拡大していこうとしていたが、加納が奨励していた品種は「薩摩ミカン」「クネンボ」「金柑」「夏ダイダイ」であり、後に「温州ミカン」がこれらに置き換わっていく。要するにこの段階ではポンカンは眼中になかった。他産地に追いつくことを主眼としていたこの時代、新品種で未知数な部分があったポンカンを組織的に推進していくのはリスクが大きいと判断されたのかもしれない。

しかしながら、「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたほどの果物である。その評判はいつのまにか広がっていった。台湾を植民地にしていた時代であり、台湾との人の行き来がかなりあったことも影響しているのだろう、大正中期から昭和初期にかけて、鹿児島各地の多くの篤農家が直接台湾から苗木を取り寄せている。だが組織的に苗木を導入したわけではないため、この頃台湾からやってきた苗木は十分に吟味されずにいろいろなものが混ざっていた。

果樹の苗木には「系統」というものがあって、同じポンカンといっても樹ごとに様々な個性がある。新品種の導入にあたっては、収量が多く、病害虫に強く、美味しい実をつける樹を選んで、それを接ぎ木で増殖させることがポイントだ。この頃来た苗木は、おそらく農家がツテを頼って台湾から送ってもらったものであるから、系統も不明なものが多く玉石混淆の状態であった。

こういう状態が整理されたのが昭和9年(1934年)、鹿児島県農業試験場 垂水柑橘分場長の池田基と県議会副議長の奥亀一が、系統のはっきりした優良な苗木を導入してからのことで、これで栽培が徐々に広がっていくことになる。このころ、ポンカンは温州ミカンの4〜5倍の値段がしたというから、よほど珍重されたものだと思う。

ところが、それでも栽培は一気には広がっていかなかったようである。各地のポンカン栽培の歴史を概観してみると、導入が散発的であることが見て取れる。考えてみると、この頃は戦争が近づいていたこともあり美味しさよりも食糧増産が叫ばれる時代であったし、結果が不透明な新参者の果樹にあえて取り組んでみようという普通の農家は少なく、あくまでも篤農家の試みに留まっていたのだろう。

というわけで、鹿児島でポンカンが広く普及するのは戦後になってからである。

我が大浦町にポンカンが導入されたのも戦後のことで、太平洋戦争で台湾に派兵されていた人たちが、「台湾にすごく美味しいミカンがあった」といって引き上げてからポンカンの栽培に取り組んだと言う。隣の坊津町では、昭和4年に台湾から苗木を取り寄せて栽培が始まり、昭和10年には中野三太郎という篤農家が優良系統のポンカン苗木を取り寄せて品質向上にまで取り組んでいたというのに、坊津からの情報ではなく台湾での見聞がきっかけになっているあたり、意外な感じがするがリアリティがある話である。

当時、大浦で町長をしていたのが、実は私の祖父である窪 精造。祖父はポンカン栽培の振興を企図し、町民に苗木を頒布するため自分の田んぼをつぶしてたくさんのポンカン苗木を育成したたという話である。これが昭和30年代の後半だ。この頃の苗木は、少なくとも大浦では系統が不明で一括して「在来」と呼ばれている。

ちなみに昭和34年〜35年に鹿児島県も大々的なポンカン栽培振興を行ったが、この時に頒布した苗木はなぜか福岡などから導入していて、しかも系統が優良なものばかりでなかった。そのために産地間の収量や品質の差が甚だしかったという。坊津町の「中野」(この頃は、系統をその園主の名で呼んでいた)などは優良な系統で、後に皇室に献上されることになる「大里ポンカン」もこの「中野」から生まれている。どうしてそういう優良品種を選定しなかったのか謎である。

ともかく、鹿児島県のポンカン栽培のはじまりにおいては、昭和も中頃まで品種・系統がはっきりしない苗木が多くそのために混乱があったようだ。しかし品種・系統がはっきりしない苗木が多かったということは、多くの人がわざわざ台湾から苗木を取り寄せて自然発生的にポンカン栽培に取り組んだことの証左でもある。それくらい、ポンカンという果物には魅力があったのだ。

こうして、かつての篤農家が熱望したポンカンという果物は、鹿児島での栽培開始から100年以上経ち、もはや台湾からやってきた果物であるというイメージすらなくなるほど、鹿児島に根を下ろしている。その人気はかつてほどはないが、ポンカンには柑橘の品種改良がなされる以前の野性的な美味しさがあり、爽やかな香りは柑橘類の中でも独特である。決して時代遅れの果物ではないと思う。

で、ここからは宣伝であるが、私はこちらに移住してきてから、昭和30年代に植えられたであろう「在来」の野性味溢れる樹の園を引き継いで、ポンカン栽培をスタートした。2014年からは無農薬・無化学肥料の管理に切り替えて、最初はうまく出来なかったが、最近では虫害も病害もほとんど出ないようになり、今年は栽培開始以来の豊作が見込まれている。

これはいいことではあるものの、私のように個人販売しているものにとっては、通常よりもたくさんの収穫があるということは、通常より多くのお客さんを見つけなければならないということだから、これはこれで大変である。営業の苦手な私にとってはなおさらだ。

というわけで、インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」では私がつくった「無農薬・無化学肥料のポンカン」を販売中なので、ぜひお買い求めいただけますようお願いします!

なお、業者の方への卸販売もいたしておりますので、ご要望があれば「南薩の田舎暮らし」問い合わせページにてご連絡ください。

↓ご購入はこちらから。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン
9kg@3500円/4.5kg@1750円/3kg@1350円
送料別(400円〜)、クレジットカード利用可

【参考文献】
「鹿児島県主産地におけるポンカンの導入経路調査と優良系統の探索について」1985年、岩堀 修一・桑波田 竜沢・大畑 徳輔

2016年12月19日月曜日

「砂の祭典」を一緒にかき混ぜませんか?

以前書いたように、私は「吹上浜 砂の祭典」の実施推進本部というののメンバーになった。それで最初の会議で強く主張したことがいくつかあるが、そのうち一つが主催者側のメンバー公募である。

何しろ、ごく僅かの例外を除いて、「砂の祭典」に関わっている人たち(=各部会の部員)は、ほとんど当て職的にメンバーにさせられていて、「やりたくてやっている人」というのがものすごく少ない。こう言っては何だが、「毎年のことだからしょうがないよねー」というような気持ちでやむなく席に着いている人が多いような気がしている。

でも、そんなので面白いイベントができるわけがない。主催者側が楽しんでやっていないものを、お客さんが楽しむわけがないのである。

そしてもう一つ大事なことは、イベントでも何でも、やっている人が同じである以上、結果も同じにしかならないということである。今までの「砂の祭典」がまるでダメというつもりはないが、数々の課題を抱えているのも事実である。次回は第30回の記念大会ということで改革の道を踏み出すいい機会である。ここらで、新メンバーを入れることには意味があると思う。

そういうことで、メンバー公募をやるべきという主張をしたら、それがすんなりと通って、私も最近気づいたが「砂の祭典」のWEBサイトに下のように掲示されていた。

2017吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう! 

吹上浜砂の祭典実行委員会から南さつま市に関連する団体・会社若しくは南さつま市民の方へお知らせいたします。
吹上浜砂の祭典は2017年に30回の節目の年を迎えます。この機会に砂の祭典に携わってみたい方を募集いたします。業務内容については別添資料(6部会の業務内容)をご覧ください。申込期限については12月28日締め切りといたします。
詳しくは吹上浜砂の祭典実行委員会事務局へお尋ねください。積極的な参加をお待ちしております。

連絡先→吹上浜砂の祭典実行委員会
〒897-8501 鹿児島県南さつま市加世田川畑2648番地
(南さつま市役所観光交流課内)
 TEL:0993-53-2111←市役所の代表電話
 FAX:0993-53-5465
砂の祭典WEBサイトより引用

ちなみに、ここの別添資料(xls)に掲げられた部会は以下の通り。(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会。このうち、私自身は(2)広報部会に在席することになった。

それで、先日広報部会が開催されたので出席してきたが、「基本的に例年通りのことをやりましょう」という話だったので呆れてしまった。前年までの反省も、今回の目標も、何もない。驚くべきことに、予算書すら出てこない。広報に、一体いくらの予算をかけられるのかも分からない。そんな中で、どうやって広報の実施計画を立てればよいというのだろう。

例えば、広報の予算が200万円あって、それをどう使えば効果的に広報できるだろうか? と考えるのが企画ではないのか。逆に、誰に訴えたいのか、どれくらいの人に届けたいのか、そのためにはいくら予算が必要なのか? それを考えるのが企画ではないのか。どちらからでもいいが、目的と予算があって、目的を達成するために何をすべきなのか考えるのが我々の仕事なのではないかと思う。

それなのに、「前年通りやりましょう」以外のこともなく、いきなりチラシ配りに行く人員の話などするからおかしくなる。これまでの反省を踏まえ、課題を抽出し、目標を設定し、限られた予算をどう使うかと頭をひねる。そういう当たり前のことがこのイベントには全く欠けている。私は、イベントを盛り上げるアイデアは全然湧いてこないつまらない人間であるが、こういう当たり前のことを当たり前にするだけで、物事というのはどんどんよくなっていくという信念がある。

だから、会議の場でも一人でギャーギャーわめいてきたところである。正直、そのわめきがどれだけ受け止められていたかは自信がない。でも、必要以上の「熱量」をもって主張したつもりである。というのは、こういうマンネリズムに陥った場を変えるのは、グッドアイデアでもなければ、非の打ち所がない正論でもないからだ。 いくら「なるほどなー」という的確な意見を述べても納得されるのはその場限りで、いつのまにか「前年通りやりましょう」の波に押されてしまうものである。

つまるところ、こういう場を変えられるのは、一人の人間の「熱意」しかないのである。主張が完全には理解されなくても、「○○さんがあそこまで言ってるんだから、ちょっとはやんなきゃな」という気持ちにさせたら勝ちである。

そして、そんな人が二人三人といたら、場が変わっていかないわけがない。というわけで、このメンバー公募も既に期限が迫っている状態であるが、我こそはと思う人はぜひ砂の祭典事務局へと申し出てほしい。

私としては、むしろ「アンチ砂の祭典派」の人にこそ入ってもらったらいいのではないかと思う。思う存分、場をかき乱していただきたい。といっても、「砂の祭典大好き」な人だったらなおさら歓迎なのは言うまでもない。よろしくお願いいたします!

2016年12月15日木曜日

農業と「人文知」

先日、「石蔵古本市」というイベントを開催した。

これについての詳細はいずれ書くオフィシャルブログの記事に任せることにして、今日はちょっと言い訳を書いてみようと思う。

というのは、私の本業は言うまでもなく農業である。そして12月は、南薩の農家は忙しい。かぼちゃの収穫はしなくてはならないし、柑橘類の収穫準備もある、すぐそこまで来ている霜の季節に備える作業もしなくてはならない。読書のような「道楽」に興じている暇はないのだ。それも、役に立つ実用書ではなくて、思想や文学や歴史といった人文の本に!

が、農業にとって、こういう「人文知」がただの道楽かというと、実はそうでもない。それどころか、農業にとっては必要不可欠だとすら言えるのである。

それをわきまえていたのが、「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラークだ。

クラークは、明治9年の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の開校にあたりアメリカから招聘された。それまでは「開拓使仮学校」というのが東京に設けられ、開校準備にあたる教育を行っていたがどうもうまくいかない。実地の経験が不足して教育が学理に傾き、「農学校」であるにも関わらず専門的教育があまり行われていなかったのである。その反省に基づいて農学校の形を作っていくことが、教頭兼農場長に任命されたクラークの使命だった。

クラークの赴任期間は僅か8ヶ月という短いものだったが、その間に彼は同校の事実上の統率者としてアメリカ流の開拓者教育を行った。

ちなみに明治政府はこの頃、イギリスやドイツから次々と農学者を招聘するが、何百年も耕してきた土地の生産性をさらに上げるための農業と、森林を切り拓いて畑にしていく農業は自ずから異なるのは当然で、北海道開拓にはイギリスやドイツの進んだ農学は役に立たなかった。北海道に必要とそれたのは、まだまだ未開の沃野に溢れていたアメリカの、どんどん開拓していく農学だったのである。であるから、当時の日本は全体としてはヨーロッパ農学の輸入に努めながらも、北海道だけはアメリカ農学を基準として農業振興・開拓が進められていくことになる。これは後々まで続く北海道農業の特異性の基礎になった。

さて、そのクラークの教育を一言で言えば、「キリスト教に依拠する開拓者精神の鼓吹」ということになる。彼の教育は常に具体的・実践的であり、しかも教育の主眼は「心田(しんでん)」の耕耘にあった。同じ頃東京で、駒場農学校(東京大学農学部の前身)が現実の課題と遊離した象牙の塔的な農学を構築しつつあったのとは対蹠的に、札幌農学校では北海道の実地調査を行って開拓の課題を探り、それを教育に活かして行くという取り組みをしていた。要するに、クラークは学生たちに現実を変えていくための精神力とそれに見合う技能・知識をつけようとしていたのである。

といっても、クラークが「何が何でも根性で乗り切れ」的な根性論の開拓者精神を植え付けようとしていたと誤解してはならない。むしろ彼はそういう精神論はよくないと考えていたフシがある。例えば、クラークは学生の農業実習には労働時間に応じて賃金を与えた。農業実習といえば勉強であるから無給は当然と考えられていたが、これは学生たちに固着していた古い観念を大いに払拭したという。労働を精神の面からのみ見るのではなく、しっかり実利とセットで見せようとしたクラーク流のやり方だった。

クラークに期待されていたのは、こうした実用的な教育であったが、意外なことに彼は英文学史や心理学といった人文関係の諸科目に大きなウエイトを置いた。具体的・実践的な技能や知識の教授とあわせて、こうした人文教育はクラークの「全人教育」の要諦でもあった。

ところで、「農学栄えて、農業滅ぶ」という有名な言葉がある。これは、いろんな人がいろんな解説をしているが、要するに、「現実の農業が抱えている課題は切実なものなのに、農学者はそんなことをお構いなしに自分の研究に邁進するばかりだから、どんどん研究成果は出るかもしれないが実際には役に立たずに農業は衰退していく」というようなことを短い警句にまとめたものである。

【参考】やまひこブログ
↑「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉について徹底的な調査をしているブログ

例えば、現在の農業の抱えている課題というと高齢化とか人手不足であるが、農学はそれに対してどのようなアプローチをしているだろうか。この課題に対し、高齢者でも農作業が楽に出来るように、ということでパワースーツのようなものの開発が進められているようだが、モノを持ち上げるだけのことに何十万円もするパワースーツを買わなければならないとしたら、そんな農業はやっていけないのは自明である。必要なのはパワースーツの開発よりも、省力的に栽培できる作物なのかもしれないし、新規参入者を促す農業のやり方なのかもしれない。とにかく、普通の農家が現実的に導入できるものでないと役に立たないのである。

これが、実学としての農学がいつも対峙しなくてはならない視点であって、どんなに学理が進んでも、普通の農家に応用出来ない限り、どんな高度な技術も知識も役に立たない。ところが実際には、研究をしているうちに目的が(悪い意味で)「真理の探究」とか「限りない品質向上」とかになり、現実と遊離していくというのが、これまでの農学が辿ってきたお決まりのパターンなのである。それを戒めたのが「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉である。

クラークが人文教育を重視したのも、この言葉の戒めるものと同根であろう。農業に必要となる技術・知識、それはもちろん身につけなくてはならない。しかしそれを一歩下がった立場で冷静に見つめる目、それがなかったら、人間は技術や知識を絶対のものとして、それを使うことに疑問を持たなくなる。言い換えると、進むことしか知らない人間になってしまう。時には、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすることが必要だ。そうでないと、普段の仕事では見落としがちな、別のやり方、別の目的、別の生き方を選択することができなくなる。

そもそも農業というのはサラリーマン仕事とは違って、生活と一体化しているところがある。農業をよくしていくというのは、農家の生活を良くしていくこととほとんど同義である。農業の生産性の向上というのは、ただ農作業のうまいやり方を開発することではなくて、農家の生き方そのものをよくしていくものでなければならない。そういう視点で農業を改善していこうと思ったら、農学だけをいくら学んでいてもダメで、農業そのもののあり方に疑問を突きつけ、人間の生き方を再考し、自分の在り方に再検討を加えていかなくてはならない。そのためには、思想や文学や歴史——「人文知」が必要なのである。

しかし、クラークの後継者たちはこれを十分に理解しなかった。クラークが充実させた人文系の学科は、彼の転籍後には徐々に縮小されていく。例えば、「心理学」と「倫理学」は廃されて「歴史哲学」となり、後にこれは「欧州史」となって、明治24年には遂に「農業史」となってしまった。人文系の学科は非実用的な「形而上学」と見なされ、そうしたものを難ずる世間の風潮に押されて消えていったのであった。

だがその後の歴史、太平洋戦争まで進んでいく我が国の突撃と玉砕の歴史を見れば、クラークが重視した非実用的な「形而上学」こそが必要なものだったことは明瞭である。時代が大正、昭和と進むと、「人文知」のような「平和的」な学問はどんどん立場が弱くなり、「歩兵術」のような「実用的」なカリキュラムに置き換わっていった。哲学や文学の学徒は「穀潰し」と難ぜられ、白い目で見られるようになった。そして誰も、立ち止まって物事の本質を考えるということをしない社会になっていた。その場しのぎで「実用的」なことをやるだけで、無駄なものは何一つ出さないように社会が切り詰められていった。

でも、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、それができなくなったら、農学のみならず社会の発展は望めない。それが人間の営為そのものだからである。ひたすらに進んでいく農業、ひたすらに進んでいく社会、ひたすらに進んでいく国というのは、もはや衰退の一途を辿るしかない。

一日一日働くこと、それは素敵なことだ、と私は思う。私は仕事が好きである。しかしふとその手を休めて、本当にそれでよいのか自省する自分をいつも持っていたい。そのためには、「人文知」が必要なのだ。時には哲人皇帝マルクス=アウレリーウスの独白に耳を傾けたり、道元の禅へ思いを馳せたり、バルザックの描く人間模様に浸ってみたりしなくてはならない。そういう、普段の生活では絶対に味わえない人間性の高みへと出かけていって、自分の暮らしを俯瞰してみないことには、一体自分たちが今どこへ向かっているのかも分からなくなってしまうからだ。

だから私は、農業にも「人文知」は絶対不可欠だと思うのだ。クラークがそう確信していたように。そして道楽も、時々は必要である。立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、そのためのきっかけをくれるのが、道楽なのである。

【参考文献】
『日本農学史—近代農学形成期の研究—』1968年、斎藤之男 

2016年11月29日火曜日

「本で町を豊かにする」

今、すっごく行ってみたい古本屋がある。

長野県上田市にある「NABO(ネイボ)」というブックカフェである。

ここは、古本業界の風雲児「バリューブックス」が経営する古本屋だ。Amazonで本を買う人なら、「Vaboo」という古本(やCDとか)の買取サービスを一度は見たことがあると思う。この「Vaboo」をやっているのが「バリューブックス」という会社である。

この会社、基本的にはAmazonで古本を売る、ということに特化した古本屋で、2007年の設立以来、急速に成長を遂げてきた。本の在庫は約180万冊もある(2016年11月現在)。これは、ちょっとやそっとの図書館では太刀打ちできないような量である。もちろん図書館とは違って重複資料がほとんどだろうから、単純には比べられないが、蔵書数だけでいったら、国内最大の公立図書館である東京都立図書館と同じ規模なのだ。

「バリューブックス」は、長野県上田市にある。でも実は、設立当初には確か東京が拠点だったはずである。 でも商売がどんどん拡大するにつれて、倉庫費用の安い長野に完全に移っていった。ドデカい倉庫が必要だからである。それに、インターネットを通じて商売をする以上、どこの街で商売をするかは関係がなく、東京に拠点がある意味もほとんどない。

古本屋は、基本的には儲からない商売である。恥ずかしながら、私も若い頃に古本屋(正確に言えばブックカフェ)を経営することを考えたことがある。でもどう考えても利益がでない。当時は古本業界のことをよく分かっていなかったから、今になって考えてみると随分間違った計算だったけれど、「死なない程度の暮らし」しかできないような商売だ、と思ってその考えは有耶無耶になってしまった。

ところが、「バリューブックス」はかなりの利益を現実に出している。社員15人、アルバイト300人、といった(古本屋としては度外れた)雇用を生んでいるし、何より、その大量の蔵書のほとんど(記憶では95%)が、1年以内に売れていくというのである。この蔵書の回転率は驚異的だ。私の知っているリアルの古本屋では、こんなどんどん変わっていく書棚は見たことがない。

……とまあ、この「バリューブックス」の風雲児っぷりは、インターネットでちょっと調べればどんどん出てくるはずなのでこのあたりで辞めることにしよう。とにかく、ここはインターネット(特にAmazon)専門の非リアル古書店として、大成功している会社なのである。

この波は、既存の古書店も避けることはできない。聞くところによると、鹿児島の古書店も9割(!)は、実店舗を廃業させ、インターネット専業の形態へと移行してしまったそうである。実際、リアルの古書店を開いているより、インターネットに出品する方がコンスタントに売れるのだから、そこに比重が移っていくのは無理からぬことである。正直言って、私も本の半分くらいはインターネットで買っているし(地元の本屋さんすいません)、ある面ではリアル書店(新刊・古書店共に)はインターネットに太刀打ちできない。

さらに正直言うと、このド田舎に移住してきたのも、「いざとなればインターネットで大抵のものは手に入るだろう」という気安さがあってこそであって、多分、Amaonがなかったら、私はまだ首都圏で働いていただろうと思う。

では、このまま古本業界はインターネットに飲み込まれていくのか、というと、どうだろう。そこがわからないところである。理屈で言えば、凡百のリアル古本屋が生き残っていく道はなさそうだ。最近では、ブックオフですらインターネット出品の比重を大きくしてきていて、もはやリアル店舗での古本販売は余技に近い雰囲気が感じられる。

ところが、例の「バリューブックス」、2014年に初のリアル古書店「NABO」をオープンさせた。全然儲からないはずの実店舗の古書店を。そしてこの店のテーマがいい。「本で町を豊かにする」だそうだ。そうそう、それだよ! と膝を打つテーマではないか。

「バリューブックス」は、「本を通して、人の生活を豊かにする」というコンセプトを掲げていて、これはこれで素晴らしい。が、悪く言えば当たり前のことである。それこそが読書の効用そのもの、と言えるのだから。

でも、「本で町を豊かにする」は、かなり野心的な言葉である。「本で社会を豊かにする」みたいなもっと広漠とした言い方なら、逆に穏当な言葉と思えるが、ここで話題になっているのは、まさにこの会社が所在する、「長野県上田市」を豊かにしようという宣言なのだから。

そしてこの言葉、ただ言ってるだけの空文ではなくて、実際に「NABO」は町を豊かにする取り組みをしているようである。例えば、180万冊の蔵書を活かして、「NABO」では3ヶ月に一度、棚の本の全取っ替えをするそうだ。それだけで、町の知性を刺激するクリエイティブな行為だと、私は思う。その他、「NABO」は実験の場と位置づけられて本に関するイベントなどを積極的に開催しているらしい。

では、どうして、ネット専業の風雲児たる「バリューブックス」は、わざわざリアル古書店をオープンさせたんだろうか? 一つは、(つまらない考えだけれど)税金対策で、どうせ利益が税金でもって行かれるなら、損失は織り込み済みで面白い店舗をつくってみようという、経営判断があると思う。行ってみないと本当のところは分からないが、たぶん、この店舗単体で利益を出すようなビジネスモデルにはなっていないと思う。

でももう一つには、やっぱり、実際に本を読む人と、直截のつながりを持ちたい、という、人として当たり前の考えがあるのではないだろうか。

インターネット専門の古書店の仕事は、データの入力と発送作業がメインになるが、ほとんどは機械的な作業の連続で、それあたかも工場のベルトコンベア式のそれと変わるところがないと想像される。ベルトコンベアが悪いとかいうつもりはないが、こういう仕事ばかりしていると、「なんのために仕事してるんだろ」的な気持ちになってくる。

純粋に利益のために仕事をするならそれでもいいかもしれないが、(そこで働いているに違いない)本好きな人たちは、それで満足できるような人たちではない、というのもまた事実である。

本は、人生にある種の「化学反応」を起こす力がある。人に本を紹介する、ということは、その「化学反応」の発端になるかもしれない、という行為だし、そうであればその結果を見届けたいと思う。小さな「化学反応」は、ほんの少しのエネルギーを放出して、それが次の「化学反応」を起こすかもしれない。いつしか、それは「連鎖反応」になって、本当に「町を豊かに」するかもしれないのである。

実際に、私はある一冊の本が奇縁になって、一人の女性と出会い、その人と結婚したという実績(!)がある。その一冊の本がなければ、私は全然違う人生を送っていただろう。本を読むと賢くなるとか、ものしりになれるとか、感受性が豊かになる、といった煽り文句(?)はほとんど嘘だと思うが、「本は人生を豊かにする」は本当のことだ。

でもこれは、インターネットの画面を見てみても、窺い知ることはできないことである。どうしても、本は物理的な場所に置かれ、そこに誰かが訪れなくては、物語は始まらない。効率的に最安値の古本を探すならインターネットで検索すればよいが、「化学反応」を起こすような本を手に取るためには、絶対に物理的な舞台が必要なのだ。

といっても、「NABO」が実際には何のためにつくられた店なのかは知らない。私の妄想なんか、ものの数に入らないくらい高度な戦略に基づいてつくられた店かもしれないし、逆にただの勢いでつくった店なのかもしれない。でも、実際に行って見てみたら、インターネット専門古書店の先にある何かが見えそうな気がして、興味が湧くのである。

既に案内しているとおり、私は今年の12月に「石蔵古本市」という古書販売のイベントを主催する。ここに出店していただく5軒の古本屋も、営業のメインはインターネットであると思われる。そのうち1店舗、加世田の「特価書店」は、かつてはリアル店舗で営業していたが、今やインターネット専業になった店だ。

新刊書店の撤退という波と相まって、街からはどんどん本が失われていっている。インターネットで買えるからいいじゃん、と思っていたらいけないような気がする。なぜかは知らないが南薩はもともと古本屋の不毛地帯で、以前から古本屋は少ないのだが、これではつまらないと思う。

私は単純に、本がある風景、本がある街、本がある人生が好きなのだ。たぶん「本」そのものよりも。 「本」もそれなりに読むが、愛書家かといわれたら違うと思うし、それに読む本の数も読書家と言えるほどのものではない。正直、「本好き」のカテゴリには入らないと思う。でも一冊の本をポケットに忍ばせる行為が、大好きなのだ。

「NABO」の試みになぞらえるわけではないが、ド田舎で古書市を開催してみようというのは、私なりにこれからの「本と街」の姿を見たいと思う、密かな企みである。どうせ市を開催するなら、人がたくさん来る街中でやる方がいいに決まっている。でも、これは、合理的に検討して、戦略的に決定した開催地ではない。ただ、自分の街で古書市をやりたいという、もっと人として原初的な欲望に基づいた企画なのである。

だからあんまり偉そうなことは言わないようにしよう。あるべき本と街の関係とか。これからの書店業界がどうあるべきかとか。そもそも部外者なんだし。いや、古書店関係者でもなんでもない、ただの百姓である私が、古本市を主催するということ自体がおこがましい。

ただ、私としては、ほんのいっときでも、我が南さつま市に、本が集う風景を、出現させたいだけなのかもしれない。そして、ぜひ、これを読んでいるあなたにも、その風景の一部になってもらいたい。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

2016年11月24日木曜日

11月25日(金)カタルバーで、「田舎工学序説」再び

11月25日(金)、天文館のKENTA STOREで行われる「KATARU bar(カタルバー)」というイベントに出る。

実は私も行ったことがないが、カタルバーはこれまで6回開催されていて、要するに、ゲストを招いて、そのゲストを中心に集まったメンバーで一緒にゆるく語りましょう、というイベントみたいである。私は今回、そのゲストになったわけだ。

正直言うと、私はこういうのに積極的に出るタイプではない。どちらかというと事務方タイプというか、裏方で地味な作業をするのが好きである。まあ、人と会うのは嫌いではない。割と出会いを楽しむタイプだとは思う。でも実を言うと、初対面の人と内容のある話をするのが苦手で、無難な話題で終始してしまうところがある。要するに、こういう場にいても、つまらない人間かもしれない。

そんな私がなんでわざわざこのイベントに出ることになったか、というと、ぶっちゃけて言うと「営業」のためなんである。「営業」というには実際は緩すぎるかもしれないので、もう少し適切な言葉でいうと「プロモーション」である。

というのは、我が「南薩の田舎暮らし」、割と販売に苦しんでいるわけだ。

特に加工食品の中心商材である「南薩コンフィチュール」(ジャム)。自分で言うのも何だが割と評判はいい。地元ではかなり浸透してきたと思うし、物産館でも徐々に売れてきた。「とっても美味しかった!」というご感想をいただくことも多く、有り難いことである。

……が、これまで「売れる分だけ製造しよう」という安全策を取ってきたために、販路というものが未だにほとんど構築されていない。だから、評判がいい割には、売れ行きがよろしくない。当然である。売っている場所がほとんどないのだから!

インターネットでも販売しているが、送料の関係でこれはなかなか難しいので、やはりリアルの店舗で売られる必要がある。そのためには、まずは鹿児島市内では唯一、南薩の田舎暮らしの商品を置いていただいている「KENTA STORE」での販売が好成績にならなくてはいけない。闇雲に新規開拓をするより、今おつきあいある所でしっかり成功するのが大事だと思う(もちろん新規開拓も大事ですよ。卸先募集中!)。

というわけで、微力ながらKENTA STOREでの売上に貢献したいし、せめて顔見せすることで親近感を持ってもらおうという、そういう魂胆である。

でも実はこれも建前で、本当のことをいうと、自分へのプレッシャーというか、人前に出て「ちゃんとやんなきゃ」みたいな気持ちを再確認するという意味合いの方が本質かもしれない。なにしろ、普段は植物ばかり相手にしているので、なんだかちゃんとした社会生活が営めないほどにノンビリした感覚になりがちである(暇という意味では全然ないですよ)。いっちょここらで、「ビジネス」の荒波に揉まれておかないといけない。

当日は何を話すかというと、先日マルヤガーデンズで講演した「田舎工学序説」のスライドを再利用する。

再利用は手抜きかもしれないけれども、「行きたかったけど行けなかった」という声もチラホラとあったので、そういう人に向けて改めて話してみることにした。そもそも、カタルバーは何かを発表する場というよりは、雑談がメインと聞いている。酒の肴になればいいという程度に、自己紹介の代わりとしての「田舎工学序説」の説明をしたい。もちろん、(先日の講演でも言ったように)さらに突っ込んで「田舎工学」について聞きたい人が、疑問をぶつける場として捉えるのも結構である。

ということで、11月25日(金)にKENTA STOREにてお会いしましょう!

【情報】
KATARU bar #07
日時:11月25日(金) 19:00-22:00 ← ご都合のよい時間にくればOK

場所:KENTA STORE(天文館、こむらさきのちょっと先)
参加無料ですが、バーと言ってるくらいなので、たぶん飲み物をオーダーしていただくことになると思います(あやふやですいません)。 が、別にお酒を飲む必要はないです。というより私自身がノンアルコールです。あと、出来れば「南薩の田舎暮らし」の商品も買って下さいね!

2016年11月22日火曜日

「イベントを育てる」ということ

11月13日(日)、3回目となる「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を笠沙美術館で開催した。天気にも恵まれ、多くの方にお越しいただき、主催者としては大成功、と思っている。

ところで、薄々思っている方も多いと思うが、このイベント、第1回、第2回もあんまり内容が変わっておらず、今年はギター演奏が新しい取組だったものの、マルシェも昨年と全く同じメンツだし、それどころかチラシのデザインもほとんど同じである。

マンネリ、と言われたら返す言葉もないのだが、一応自分の中で思っていることがある。というか、迷っていることがある。それは、「イベントを育てていくとはどういうことか」ということである。

私も一昨年に初めてこの「珈琲を飲む会」を開催したときは、「来年はもっと盛り上げるぞ!」と意気込んだし、2回目をやった後も「どんどん発展していったら面白いなー」と思っていた。もちろん3回目が終わった直後の今でも、来年に向けたアイデアを既に考え始めている自分がいるし、来年はもっと盛り上がって欲しいと思っている。でも昨年のイベント後くらいから「お客さんをもっと増やして、マルシェの出店ももっと増やして〜」というような拡大路線はちょっと違うような気がしてきていた。

その気持ちが明確になったのが、(あんまり名前を出すと可哀想だけれど)今年の7月に行われた「ふるまい!宮崎」というイベントの評判を見てから。

このイベント、4500円払って九州各地の名物料理を食べ放題、というような趣旨で行われたが、7月の炎天下の中なのにテントが不十分、会場キャパを遙かに超えるお客さんでごった返して何を食べるにも長蛇の列、しかも飲み物持ち込み禁止となっていたことから熱中症で運ばれる人が続出…、という地獄のイベントだったようだ。

【参考】炎天下で行列、売り切れ続出……宮崎県の食フェスに批判殺到 実行委が謝罪

これ、主催者側の問題を挙げればキリがないが、私なりに考えると、結局「ふるまい」を標榜しながら己の利益しか考えなかった、という一点に集約されると思う。

でも自分だって、イベントをやるとなればやっぱり利益は出て欲しいと思うものだし、というか利益が出なかったら次が続かない。実際、過去2回やってみて、一人当たりコーヒー代込みで500円を徴収しないと赤字になることがわかったから、今回はちょっと値上げして参加費500円にしてみた(高いよ、という人が一人もいなかったので安心)。

そして、利益の源泉は、多くの人に来てもらうということに尽きるし(客単価を上げるという方法もあるが、これはイベントの性質上なかなか難しい)、多くの人に来てもらうことはイベントの趣旨に適う場合も多い。例えば、「珈琲を飲む会」は笠沙美術館からの素晴らしい眺めを知ってもらうということが目的の一つであるが、こういう目的だったらお客さんは多ければ多いほどいいわけだ。

でもだからと言って、見境なくお客さんを呼んでしまうと、誰にとってもよい結果にならない。

今回の体制での、会場キャパシティは1日で230人(うち子どもが1割程度)くらいだったろう。それ以上にお客さんが来てしまうと、コーヒー1杯お渡しするのにも随分お待たせする感じになってしまったのではないかと思う。今回の実際のお客さんの数は約180人だったので、そのキャパを考えるとまだまだ余裕があったが、もしネットでバズって(非常に拡散して)その倍の人が来てしまっていたらイベントが崩壊したはずである。

そもそもコーヒーは、ゆったりした気持ちで飲みたいものだ。出来るなら、座り心地のよいイスも欲しい。心地よい音楽、気の置けない仲間、暑くもなく寒くもない気候、そして見晴らしのよい景色! このイベントは、残念ながら「座り心地のよいイス」だけはないが、その他は大体揃えられる環境で、一緒にゆったりコーヒーを飲もうというものなのに、大勢の人でごった返してしまっては、その意味がなくなってしまう。

じゃあもっと体制を充実させればいいじゃん、と思うかもしれないが、コーヒーの供給能力を高めることは出来ても、会場の広さは同じなわけで、大勢のお客さんが来すぎるとゆっくりできないというのは変わらないと思う。だから「イベントがもっと盛り上がるといいなー」とは今でも思っているが、それは大勢の人が来るというよりは、質的なもの(というより「意味的なもの」)を高めるという方向性だ。

「イベントを育てる」というのは、最初に打ち立てる頃は、とにかく集客力を高めることに違いない。たくさんのお客さんに来てもらえるように、コンテンツを充実させて、広報を頑張る。これはこれでやりがいのあることだし、また難しいことである。「海の見える美術館で珈琲を飲む会」はまだこの段階だ。今年も、いろいろな要因はあったが、結局は自分たちの広報不足で、午前中はだいぶお客さんが少ない時間帯があった。

でもその段階を超えると、お客さんは多ければ多いほどいい、ということはなくなって、そのイベントが本領発揮するだけの人数が集まればいい、ということになってくる。そしてこの段階になると、そもそも「人数」そのものではなくて、「ちゃんと来るべき人が来たか」というようなことの方が重要になってくる(はずだ)。

広報は、闇雲に拡散させるよりも、「こんな人に来て欲しい」という人にこそ届くものにしなくてはならない。もっと大げさなことをいうと、「あなたの人生において、ここに来ることが必要である」というような人に届けたいと思うのである。

先日、マルヤガーデンズで「田舎工学序説」と銘打った講演会を行ったが、そこに非常に意外な人が来て下さっていて驚いた。その人とは、12年ぶりの再会だった。私の講演が、その人にとって必要なものだったとは全然思わないけれども、(ここには書けない事情から)その再会は必要なものだった。いや私にとっても、あの再会のために講演会があったのかもしれない、と思ってしまうような出来事だった。こういう「届き方」があるから、広報というのは侮れない。

そして、時にこういう再会があるものだから、一度打ち立てた「場」というのは、簡単に変えていかない方がいいのかもしれない。同じメンツが一年に一度再会して、同じイベントをする、というのも、一見マンネリに見えるが、そういうやり方でしか提供できない価値もある。でも一方で、メンバーが固定化することは閉鎖的なムードをも産む。やはり開かれた場でないと、内容的な充実は望めない部分があるのでそのあたりのバランスが難しい。基本的にはオープンにしつつ、変わらない何かを持ち続ける、というのが理想のあり方なんだろう。

というわけで、くだくだしく書いてきたけれども、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を、もっとステキな場にしていきたいと思っている。今のところ、そのアイデアは全然ないが、来年やるときも、あんまりこれまでと変わらない感じで、でも何か新しいものをちょっとだけ付け加えて。広報は、(今回はちょっとやらなさすぎたので)2倍くらいに強化して、でもやたらめったら声を大きくするんじゃなく、届けるべき人に届くように。来てくれた人が、ゆっくり景色とコーヒーを楽しめるように。

このイベントは、究極的には「自分が楽しいからやりたい」というエゴでやっている。そういう自分勝手なエゴが中心にあることを自分でも忘れないようにして、自分なりのやり方で「イベントを育てて」いきたい。

2016年11月3日木曜日

「石蔵古本市」でぜひ「入り口の本」を。

新刊書店は大きければ大きいほどよいが、古本屋の場合はそうとは限らない。

最近では、本を買うだけならAmazonで事足りるようになったから、目的の本が決まっているなら、書店に足を運ぶ必要もない。書店に行くのは、本を買うということよりも、どんな本が並んでいるのかを見たり、店頭の本をペラペラめくったり、本の匂いを嗅いだりするためになってきた。要するに、特定の本を買うためではなくて、何かいい本ないかな、と思っていくのがリアルの書店である。

Amazonでもそういう機能は充実してきて、オススメ機能はそれなりにいい本を教えてくれるし、立ち読み機能も有り難い。でも、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」的なオススメのやり方では、自分の興味分野を深めていくことはできても、全く新しい分野への扉を開くということは難しい。

これまで読んだことのなかった分野の本を手に取ってみる、それには、古本屋に行くのが一番だ。

というのは、古本屋は、新刊書店のような本の並べ方をしていない。ブックオフのような店の棚は新刊書店と大同小異だけれども、普通の古本屋はあんなに律儀に分類していない。

味のある古本屋はまず棚の作り方がいい。目的の本を探すためではなく、本そのものが魅力的に見えるように並べてある。雑然とではなく、有機的に、本が配列されている。

ジャンル毎の分類というのはもちろんある。全くのカオスだったら、眺める方も疲れる。だが、歴史の本の隣に文学があったり、人類学の本の隣に素粒子の本があったりする。興味のある分野を眺めながら、同時にこれまで関心がなかった分野の本も目に入ってくる仕掛けになっているわけだ。

私は好奇心旺盛な方だと思うが、やっぱり新刊書店に行ったら、自分の関心ある分野の棚にしか行かない。だから、新たな分野への触手、というのはなかなか伸ばしにくい。でも、古本屋に行ったら、特にそれが小さい古本屋の場合は、端から端まで全ての棚に目を通すようにしている。だって、自分の関心ある本がどこに置かれているかわからないからだ。それで結果的に、これまで手に取る機会のなかった本にまで、触れる機会を持つ。こうして、新たな沃野へ踏み出したことが、これまで何度あっただろう。

東京の自由が丘に東京書房という小さな古本屋があって、東京に住んでいた頃、大学も近かったのでよく足を運んだ。ここがまさにそういうお店で、ほんの6畳もないような店なのに、行くたびに新たな発見があるようなところだった。今考えてみて、ここで出会った一番思い出の本というと、デズモンド・モリス著『人間動物園』だ。

この本をきっかけにして、私は人類進化と心理のあり方に興味を持ち、スティーブン・ピンカーE. O. ウィルソンジョン・メイナード=スミスジェフリー・ミラー日高敏隆、マーク・ハウザーといった社会生物学・進化心理学の諸作を読み漁ることになる。こうした読書体験があったのも、その入り口となる『人間動物園』があったからで、もしこの本と出会わなかったら、この分野に興味を持つことがあったかどうだか分からない。

こういう、「入り口の本」というのが読書人生にはとても重要で、時々「日本文学しか読みません」とか、「推理小説ばっかり読んでます」とかいう人がいるが、そういう人もその分野に強烈なこだわりがあるというよりも、単に他の分野への「入り口の本」に出会っていないだけだったりするのである。

でも「入り口の本」を買うのは、ちょっと勇気がいる。今まで手にとったことのなかった分野、著者、出版社。肌に合うか分からない。読み通せないかもしれない。頑張って読んでも、結局つまらないこともある。そんなリスクがあるものに、1000円も2000円も使いたくないのが人情だ。

だから、古本屋がなおさらいいわけだ。結果的につまらなくても、300円とか500円だったら許せる。気軽に、未知の分野に踏み出せるというものである。

つまり、私にとって古本屋は、ただ安く本が買える場所ではなくて、未知のものに出会うための場所なのである。

というわけで、だいぶ前置きが長くなったが、そういう私がこのたび古本市を企画した。リニューアルしてステキな空間に生まれ変わった丁子屋石蔵(登録有形文化財)をお借りして、鹿児島の古書店5軒に集まってもらい、12月に4日間だけ古本市を開催する。

出張販売だからなおさら棚数は限られる。隅から隅まで棚の本を眺めて欲しい。お気に入りの作家の本を探すのももちろん結構。でもその中で、あなたにとっての「入り口の本」との出会いがあれば、企画者冥利に尽きるというものである。

出版物販売額の実態2016』(日販)によれば、南さつま市の一人あたりの年間出版購入額は5,362円。全国平均は14,260円で、鹿児島県平均は11,136円だそうである(いずれも推計)。つまり南さつま市の人は、全国平均と比べたら1/3しか本を買っていないし、鹿児島県平均と比べてもたったの1/2程度(!)なのだ。

南さつまの将来を考えてみると、これはとても不安な傾向と言わざるをえない。本をことさら素晴らしいものという気はないが、本を通じてしか得られないものは多い。南さつまはタダでさえ僻地で遅れたところなのに、本すら読まないのでは時代に取り残されてしまうのではないか。

でも南さつまの人が、本に関心がないというわけではないと思う。書店の少なさ、図書館の貧弱さ、そうしたものが「入り口の本」との出会いを減らしているだけではないだろうか? 南さつまの人だって、本と出会いたがっているのではないだろうか?

私はそう思っている。だから、古本市の企画に意味があるんじゃないかと考えた。こんなの、本好きの酔狂な道楽なのかもしれない。でも、来てくれた人がたった一人でも、「入り口の本」と出会ったら、すごいことだと思う。その人の人生が変わってしまうかもしれないのだから。

「読書は私たちにまだ見ぬ友人を連れてくる」——バルザック

その友人は、「新しい自分」かもしれないのだ。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。