鹿児島の人は「ポンカン」というとなじみ深い果物だと思うが、全国的にみたらどうだろう。「知らないわけじゃないが、あまりイメージはない」くらいではないかと思う。
今は甘みの強い柑橘が品種改良によってたくさん生みだされているので、ポンカンの肩身が狭くなるのも当然であるが、実はこのポンカンという果実、かつては「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたくらい、美味しい柑橘として名を馳せたらしい。
ポンカンが日本に紹介されたのは明治29年(1896年)のことである。鹿児島出身の軍人で台湾の初代総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)が赴任先の台湾から郷里鹿児島にポンカンの苗木を送ったのを嚆矢とする。ポンカンはインド原産とされるが、日本には台湾を通じてまず鹿児島に入ってきた。これには、台湾併合という国際関係と、初代台湾総督が鹿児島出身だったという偶然が絡んでいるわけだ。
しかしながら、樺山が送った苗木からポンカン栽培が広がったかというと、そうでもなさそうである。当時の鹿児島は「勧業知事」と後に讃えられる加納久宣(かのう・ひさよし)が知事を務めていた時代。現在の鹿児島の柑橘産業の原型をつくったのが加納その人であった。ところが加納の事績を調べてみても、樺山が送ったポンカンの苗木についての言及は全くなく、少なくともこの苗木が大々的に増殖されたり頒布されたりということはなかったようだ。
では、このころ鹿児島の柑橘産業はどういう状態にあったかというと、和歌山などの主要産地から大きく後れを取っていて、まだまだ自家消費的な段階に留まっていた。加納はこれを産業的なものにしていこうと、私財をなげうって苗木の頒布や模範果樹園の創設などに取り組んで栽培を拡大していこうとしていたが、加納が奨励していた品種は「薩摩ミカン」「クネンボ」「金柑」「夏ダイダイ」であり、後に「温州ミカン」がこれらに置き換わっていく。要するにこの段階ではポンカンは眼中になかった。他産地に追いつくことを主眼としていたこの時代、新品種で未知数な部分があったポンカンを組織的に推進していくのはリスクが大きいと判断されたのかもしれない。
しかしながら、「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたほどの果物である。その評判はいつのまにか広がっていった。台湾を植民地にしていた時代であり、台湾との人の行き来がかなりあったことも影響しているのだろう、大正中期から昭和初期にかけて、鹿児島各地の多くの篤農家が直接台湾から苗木を取り寄せている。だが組織的に苗木を導入したわけではないため、この頃台湾からやってきた苗木は十分に吟味されずにいろいろなものが混ざっていた。
果樹の苗木には「系統」というものがあって、同じポンカンといっても樹ごとに様々な個性がある。新品種の導入にあたっては、収量が多く、病害虫に強く、美味しい実をつける樹を選んで、それを接ぎ木で増殖させることがポイントだ。この頃来た苗木は、おそらく農家がツテを頼って台湾から送ってもらったものであるから、系統も不明なものが多く玉石混淆の状態であった。
こういう状態が整理されたのが昭和9年(1934年)、鹿児島県農業試験場 垂水柑橘分場長の池田基と県議会副議長の奥亀一が、系統のはっきりした優良な苗木を導入してからのことで、これで栽培が徐々に広がっていくことになる。このころ、ポンカンは温州ミカンの4〜5倍の値段がしたというから、よほど珍重されたものだと思う。
ところが、それでも栽培は一気には広がっていかなかったようである。各地のポンカン栽培の歴史を概観してみると、導入が散発的であることが見て取れる。考えてみると、この頃は戦争が近づいていたこともあり美味しさよりも食糧増産が叫ばれる時代であったし、結果が不透明な新参者の果樹にあえて取り組んでみようという普通の農家は少なく、あくまでも篤農家の試みに留まっていたのだろう。
というわけで、鹿児島でポンカンが広く普及するのは戦後になってからである。
我が大浦町にポンカンが導入されたのも戦後のことで、太平洋戦争で台湾に派兵されていた人たちが、「台湾にすごく美味しいミカンがあった」といって引き上げてからポンカンの栽培に取り組んだと言う。隣の坊津町では、昭和4年に台湾から苗木を取り寄せて栽培が始まり、昭和10年には中野三太郎という篤農家が優良系統のポンカン苗木を取り寄せて品質向上にまで取り組んでいたというのに、坊津からの情報ではなく台湾での見聞がきっかけになっているあたり、意外な感じがするがリアリティがある話である。
当時、大浦で町長をしていたのが、実は私の祖父である窪 精造。祖父はポンカン栽培の振興を企図し、町民に苗木を頒布するため自分の田んぼをつぶしてたくさんのポンカン苗木を育成したたという話である。これが昭和30年代の後半だ。この頃の苗木は、少なくとも大浦では系統が不明で一括して「在来」と呼ばれている。
ちなみに昭和34年〜35年に鹿児島県も大々的なポンカン栽培振興を行ったが、この時に頒布した苗木はなぜか福岡などから導入していて、しかも系統が優良なものばかりでなかった。そのために産地間の収量や品質の差が甚だしかったという。坊津町の「中野」(この頃は、系統をその園主の名で呼んでいた)などは優良な系統で、後に皇室に献上されることになる「大里ポンカン」もこの「中野」から生まれている。どうしてそういう優良品種を選定しなかったのか謎である。
ともかく、鹿児島県のポンカン栽培のはじまりにおいては、昭和も中頃まで品種・系統がはっきりしない苗木が多くそのために混乱があったようだ。しかし品種・系統がはっきりしない苗木が多かったということは、多くの人がわざわざ台湾から苗木を取り寄せて自然発生的にポンカン栽培に取り組んだことの証左でもある。それくらい、ポンカンという果物には魅力があったのだ。
こうして、かつての篤農家が熱望したポンカンという果物は、鹿児島での栽培開始から100年以上経ち、もはや台湾からやってきた果物であるというイメージすらなくなるほど、鹿児島に根を下ろしている。その人気はかつてほどはないが、ポンカンには柑橘の品種改良がなされる以前の野性的な美味しさがあり、爽やかな香りは柑橘類の中でも独特である。決して時代遅れの果物ではないと思う。
で、ここからは宣伝であるが、私はこちらに移住してきてから、昭和30年代に植えられたであろう「在来」の野性味溢れる樹の園を引き継いで、ポンカン栽培をスタートした。2014年からは無農薬・無化学肥料の管理に切り替えて、最初はうまく出来なかったが、最近では虫害も病害もほとんど出ないようになり、今年は栽培開始以来の豊作が見込まれている。
これはいいことではあるものの、私のように個人販売しているものにとっては、通常よりもたくさんの収穫があるということは、通常より多くのお客さんを見つけなければならないということだから、これはこれで大変である。営業の苦手な私にとってはなおさらだ。
というわけで、インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」では私がつくった「無農薬・無化学肥料のポンカン」を販売中なので、ぜひお買い求めいただけますようお願いします!
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【参考文献】
「鹿児島県主産地におけるポンカンの導入経路調査と優良系統の探索について」1985年、岩堀 修一・桑波田 竜沢・大畑 徳輔
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