2016年12月15日木曜日

農業と「人文知」

先日、「石蔵古本市」というイベントを開催した。

これについての詳細はいずれ書くオフィシャルブログの記事に任せることにして、今日はちょっと言い訳を書いてみようと思う。

というのは、私の本業は言うまでもなく農業である。そして12月は、南薩の農家は忙しい。かぼちゃの収穫はしなくてはならないし、柑橘類の収穫準備もある、すぐそこまで来ている霜の季節に備える作業もしなくてはならない。読書のような「道楽」に興じている暇はないのだ。それも、役に立つ実用書ではなくて、思想や文学や歴史といった人文の本に!

が、農業にとって、こういう「人文知」がただの道楽かというと、実はそうでもない。それどころか、農業にとっては必要不可欠だとすら言えるのである。

それをわきまえていたのが、「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラークだ。

クラークは、明治9年の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の開校にあたりアメリカから招聘された。それまでは「開拓使仮学校」というのが東京に設けられ、開校準備にあたる教育を行っていたがどうもうまくいかない。実地の経験が不足して教育が学理に傾き、「農学校」であるにも関わらず専門的教育があまり行われていなかったのである。その反省に基づいて農学校の形を作っていくことが、教頭兼農場長に任命されたクラークの使命だった。

クラークの赴任期間は僅か8ヶ月という短いものだったが、その間に彼は同校の事実上の統率者としてアメリカ流の開拓者教育を行った。

ちなみに明治政府はこの頃、イギリスやドイツから次々と農学者を招聘するが、何百年も耕してきた土地の生産性をさらに上げるための農業と、森林を切り拓いて畑にしていく農業は自ずから異なるのは当然で、北海道開拓にはイギリスやドイツの進んだ農学は役に立たなかった。北海道に必要とそれたのは、まだまだ未開の沃野に溢れていたアメリカの、どんどん開拓していく農学だったのである。であるから、当時の日本は全体としてはヨーロッパ農学の輸入に努めながらも、北海道だけはアメリカ農学を基準として農業振興・開拓が進められていくことになる。これは後々まで続く北海道農業の特異性の基礎になった。

さて、そのクラークの教育を一言で言えば、「キリスト教に依拠する開拓者精神の鼓吹」ということになる。彼の教育は常に具体的・実践的であり、しかも教育の主眼は「心田(しんでん)」の耕耘にあった。同じ頃東京で、駒場農学校(東京大学農学部の前身)が現実の課題と遊離した象牙の塔的な農学を構築しつつあったのとは対蹠的に、札幌農学校では北海道の実地調査を行って開拓の課題を探り、それを教育に活かして行くという取り組みをしていた。要するに、クラークは学生たちに現実を変えていくための精神力とそれに見合う技能・知識をつけようとしていたのである。

といっても、クラークが「何が何でも根性で乗り切れ」的な根性論の開拓者精神を植え付けようとしていたと誤解してはならない。むしろ彼はそういう精神論はよくないと考えていたフシがある。例えば、クラークは学生の農業実習には労働時間に応じて賃金を与えた。農業実習といえば勉強であるから無給は当然と考えられていたが、これは学生たちに固着していた古い観念を大いに払拭したという。労働を精神の面からのみ見るのではなく、しっかり実利とセットで見せようとしたクラーク流のやり方だった。

クラークに期待されていたのは、こうした実用的な教育であったが、意外なことに彼は英文学史や心理学といった人文関係の諸科目に大きなウエイトを置いた。具体的・実践的な技能や知識の教授とあわせて、こうした人文教育はクラークの「全人教育」の要諦でもあった。

ところで、「農学栄えて、農業滅ぶ」という有名な言葉がある。これは、いろんな人がいろんな解説をしているが、要するに、「現実の農業が抱えている課題は切実なものなのに、農学者はそんなことをお構いなしに自分の研究に邁進するばかりだから、どんどん研究成果は出るかもしれないが実際には役に立たずに農業は衰退していく」というようなことを短い警句にまとめたものである。

【参考】やまひこブログ
↑「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉について徹底的な調査をしているブログ

例えば、現在の農業の抱えている課題というと高齢化とか人手不足であるが、農学はそれに対してどのようなアプローチをしているだろうか。この課題に対し、高齢者でも農作業が楽に出来るように、ということでパワースーツのようなものの開発が進められているようだが、モノを持ち上げるだけのことに何十万円もするパワースーツを買わなければならないとしたら、そんな農業はやっていけないのは自明である。必要なのはパワースーツの開発よりも、省力的に栽培できる作物なのかもしれないし、新規参入者を促す農業のやり方なのかもしれない。とにかく、普通の農家が現実的に導入できるものでないと役に立たないのである。

これが、実学としての農学がいつも対峙しなくてはならない視点であって、どんなに学理が進んでも、普通の農家に応用出来ない限り、どんな高度な技術も知識も役に立たない。ところが実際には、研究をしているうちに目的が(悪い意味で)「真理の探究」とか「限りない品質向上」とかになり、現実と遊離していくというのが、これまでの農学が辿ってきたお決まりのパターンなのである。それを戒めたのが「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉である。

クラークが人文教育を重視したのも、この言葉の戒めるものと同根であろう。農業に必要となる技術・知識、それはもちろん身につけなくてはならない。しかしそれを一歩下がった立場で冷静に見つめる目、それがなかったら、人間は技術や知識を絶対のものとして、それを使うことに疑問を持たなくなる。言い換えると、進むことしか知らない人間になってしまう。時には、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすることが必要だ。そうでないと、普段の仕事では見落としがちな、別のやり方、別の目的、別の生き方を選択することができなくなる。

そもそも農業というのはサラリーマン仕事とは違って、生活と一体化しているところがある。農業をよくしていくというのは、農家の生活を良くしていくこととほとんど同義である。農業の生産性の向上というのは、ただ農作業のうまいやり方を開発することではなくて、農家の生き方そのものをよくしていくものでなければならない。そういう視点で農業を改善していこうと思ったら、農学だけをいくら学んでいてもダメで、農業そのもののあり方に疑問を突きつけ、人間の生き方を再考し、自分の在り方に再検討を加えていかなくてはならない。そのためには、思想や文学や歴史——「人文知」が必要なのである。

しかし、クラークの後継者たちはこれを十分に理解しなかった。クラークが充実させた人文系の学科は、彼の転籍後には徐々に縮小されていく。例えば、「心理学」と「倫理学」は廃されて「歴史哲学」となり、後にこれは「欧州史」となって、明治24年には遂に「農業史」となってしまった。人文系の学科は非実用的な「形而上学」と見なされ、そうしたものを難ずる世間の風潮に押されて消えていったのであった。

だがその後の歴史、太平洋戦争まで進んでいく我が国の突撃と玉砕の歴史を見れば、クラークが重視した非実用的な「形而上学」こそが必要なものだったことは明瞭である。時代が大正、昭和と進むと、「人文知」のような「平和的」な学問はどんどん立場が弱くなり、「歩兵術」のような「実用的」なカリキュラムに置き換わっていった。哲学や文学の学徒は「穀潰し」と難ぜられ、白い目で見られるようになった。そして誰も、立ち止まって物事の本質を考えるということをしない社会になっていた。その場しのぎで「実用的」なことをやるだけで、無駄なものは何一つ出さないように社会が切り詰められていった。

でも、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、それができなくなったら、農学のみならず社会の発展は望めない。それが人間の営為そのものだからである。ひたすらに進んでいく農業、ひたすらに進んでいく社会、ひたすらに進んでいく国というのは、もはや衰退の一途を辿るしかない。

一日一日働くこと、それは素敵なことだ、と私は思う。私は仕事が好きである。しかしふとその手を休めて、本当にそれでよいのか自省する自分をいつも持っていたい。そのためには、「人文知」が必要なのだ。時には哲人皇帝マルクス=アウレリーウスの独白に耳を傾けたり、道元の禅へ思いを馳せたり、バルザックの描く人間模様に浸ってみたりしなくてはならない。そういう、普段の生活では絶対に味わえない人間性の高みへと出かけていって、自分の暮らしを俯瞰してみないことには、一体自分たちが今どこへ向かっているのかも分からなくなってしまうからだ。

だから私は、農業にも「人文知」は絶対不可欠だと思うのだ。クラークがそう確信していたように。そして道楽も、時々は必要である。立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、そのためのきっかけをくれるのが、道楽なのである。

【参考文献】
『日本農学史—近代農学形成期の研究—』1968年、斎藤之男 

0 件のコメント:

コメントを投稿