2016年8月27日土曜日

自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街へ

南さつま市が、旧加世田市から受け継いだ「自転車によるまちづくり」を再びてこ入れするということで、地域おこし協力隊を募集している、という記事を先日書いた。

【参考】南さつま市が「サイクルツーリズムの実現」で地域おこし協力隊を募集中

実は、その記事にコメントしてくれた方が実際に応募するということがあり、惜しくも採用にはならなかったものの、こうしてブログを通じてご縁を頂けたのはとても有り難いことである。

そういう縁もあり、サイクルツーリズムというのには未だにピンと来ていないのだが(というのは、私自身は自転車に乗って観光したことがないので)、「自転車によるまちづくり」について、しばらくいろいろ考えていた。

市役所の思惑としては、イベントなどにサイクリストたちにたくさん来てもらって、南さつま市を売り込みたい! ということにあるだろう。でも自分としては、「自転車によるまちづくり」を標榜するのであれば、まずは市内にいる自転車に頼らざるを得ない人たち、というのに注目する。つまり、中高生である。

それでいつも思っているのが、自転車通学の中学生のあのみっともないヘルメット! 旧日本軍の鉄兜か! と思うようなダサいデザインの! あれを普通の、かっこいいヘルメットに変えたらどうか、ということだ。

←南さつま市内の中学校では、こういうやつ(画像はこちらのサイトからお借りしました)を共通で使っているが、中学生自身からも大変評判が悪く、このヘルメットを被りたくないから自転車通学はしたくない、というレベルである。たぶん日本の多くの中学校で同じ現象が生じていると思う(都会ではどうなんでしょうか)。

こういう前時代的なヘルメットを使っているから、「ヘルメットはダサい→ヘルメットつけたくない→自転車も乗りたくない」となっているような気がする。中学を卒業するときに、「ようやくこのダサいヘルメットとお別れできる」とホッとした気になる子どもも多そうである。実際、高校に上がってこういうヘルメットをつけて自転車に乗っている子を見たことがない。高校になるとノーヘルが基本になっていないか。

しかし、実際には自転車に乗る上ではヘルメットは大事である。というか安全性が最優先である。こんな、つけたくもないヘルメットをつけさせて、逆教育(ヘルメットはできればつけたくないもの、ということを教えている)している場合ではない。このヘルメット、頭が蒸れるし重いし、機能性もよくない。こんな時代遅れのヘルメットを被らせるより、むしろ、中学校を卒業してもつけたくなるような格好いいヘルメットを支給するべきだ(もちろんデザインも選べるようにすべき)。

だいたい、思春期の若者に、こういうダサいものを強制的に身につけさせるというのは、大げさに言えば一種の虐待であると私は思う。(自分の娘には絶対つけさせたくない!)

というわけで、南さつま市が「自転車によるまちづくり」を掲げるのであれば、まず、自転車に頼らざるを得ない中学生が、気持ちよく自転車通学できるよう、学校指定のヘルメットを機能的でカッコイイものに変えるべきだ。そして、自転車に乗るときはヘルメットをつける方がクールである、ということを認知させるべきだ(中学校の先生自体が分かっていないような気がする)。

しかも実は、ダサい鉄兜のヘルメットと、今ドキの普通にクールなヘルメットは、(エントリーモデルなら)価格的にもほとんど変わらないし、やらない理由がない。これをやれば、「自転車によるまちづくり」が本当に実のあるものになるし、全国的にも注目されるのではなかろうか。ぜひ検討して欲しい。

それから、自分が自転車でどこかへ出かけて行く時のことを考えると、結局キモになるのは自転車の運搬である。今南さつま市がやろうとしている「サイクルツーリズム」だとこれがとても重要になるだろう。つまり、結局は車で観光地まで自転車を運んでこなくてはならず、車が拠点になる。でもそれでいいんだろうか。

私は、一度野間池まで自転車で行ってみたいなあと思っているが、行きはいいとしても帰りは疲れるからイヤである。だから自転車で行って、バスで帰って来られたら便利だ。でも、バスに自転車を乗せられるのかがよくわからない。

中学生や高校生なんかも、バスで南さつま中心部(加世田)に行くときに、自転車をバスに乗せられたら行動範囲が広がるので喜ぶと思う。

というわけで、南さつま市内を走るバス(路線バスとコミュニティバス(つわちゃんバス))は、全部自転車と一緒に乗っても構わないです! ということにしたらとてもいいと思う。全路線ほぼ利用者が低迷しているので、特に設備をいれなくてもできることだ。

ついでに言うと、路線バスもコミュニティバスも、詳細な時刻表が市のWEBサイトには掲載されているが、バス路線というのは地元住民以外にはかなりわかりにくいもので、観光にはほぼ使えないものである。こういう詳細な時刻表も、地元民でないと読み解けない。それにそもそも便数が少ないので、実際観光客が利用できるかというと怪しい。でも時々は使いたい人というのがいる。

例えば、昨年私が開催したイベント「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に来てくれたあるお客さんは、鹿児島市内からバスで来たそうで、5時間もかかったそうである(加世田まではすぐ来られるが、そこから会場の美術館までが便数がない)。

田舎にいると「自家用車を持っている人以外は相手にしなくてよろしい」みたいな態度になりがちだが、観光をする上ではやっぱり公共の交通機関が基本だ。電車が通っていない南さつま市は、タダでさえそこに負い目があるわけだから、せめてバスくらいわかりやすく使えるようにして欲しい。

具体的には、(私も詳しくないので見当外れかもしれないが)ナビタイムのような時刻表検索サイトにコミュニティバスの時刻表をちゃんと提出し、スマホで検索できるようにするくらいのことはしたらいい。しかもそれが、先述のように自転車も積めるということだったら、これで喜ぶ人がいるんじゃないかと思う。「サイクルツーリズム」で南さつまに来るような人は、自転車で長距離を移動するのでバスなんか使わないと思うかもしれないが、自転車がパンクしたり、自分が負傷した時にはバスで帰りたくなるはずなので、やっぱり公共の交通機関を使えるという安心感は欲しいはずだ。

そもそも、公共政策である以上、たとえ観光であったとしても、ごく一部の「サイクリスト」を相手にすべきではなく、最も弱い立場にある人に裨益する形で政策を考えなければならないと私は思う。もちろん観光客向けの、打ち上げ花火的なイベントもあっていい。でも街はまずは住民のものである。住民が、自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街になることが、「自転車によるまちづくり」の目標ではないだろうか。そしてそれは結局、観光で南さつま市を訪れた「サイクリスト」の利益にもなるはずだ。

【情報】
秋に行われる南さつま市の自転車の一大イベント「ツール・ド・南さつま」が現在参加者を募集中。受付は8月31日まで。

2016年8月20日土曜日

マングローブふたたび

7月に行われた「大浦 ”ZIRA ZIRA" FES 2016」では、昨年に引き続きポスターとタオルのデザインを担当させてもらったのだが、実は、隠れた(?)オフィシャルグッズとしてサンダルがあり、そのデザインも担当した。

このサンダル、あんまり広くお知らせしなかったようで、購入したのはほぼ関係者のみだったみたいだ。別に広報に手を抜いたわけではなくて、元々関係者グッズの位置づけだったみたいである。

でも、これは原価が高いだけあって結構丈夫で、履き心地もよく、(デザインのことはともかくとして、)よいノベルティグッズになったように思う。

ところで、私がここにドギツいピンクのベースでデザインしたのは、大浦のマングローブ、メヒルギ群落である。メヒルギというのは、マングローブ(汽水域に成立する森林の総称)を構成する代表的な樹種だ。

大浦には、このメヒルギの群落が河口付近に何カ所かあり、これは世界的に見てマングロブ自生の北限なのかもしれない。鹿児島では、喜入(きいれ)というところにあるメヒルギ群落が国の天然記念物になっているが、喜入の群落はどうやら人工的なものであり、大浦の方は自生の可能性が非常に高い。サンダルには思い切って「the northernmost wild mangrove in the world=世界最北端の自生マングローブ」の文字を入れてみた。

【参考】大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

というわけで、大浦町はかつてこのメヒルギを町の宝(たぶん、今の言葉でいえば「地域資源」)として、いろいろな場面であしらっていた。例えば、随分古い話で申し訳ないが、1960年代くらいに大浦町には市民文芸誌があって、その題名が「めひるぎ」だった、といったようなものである。

もちろん、保護の活動もやられていて、枯れそうになったら心配して増殖したりといったことをしていた。護岸工事や干拓のためにメヒルギ群落が破壊されるということもあったようだが、そのたびに移植して保全するという活動もわき起こったそうだ。

だが、いつの頃からかメヒルギはさして注目を浴びなくなり、保護らしい活動もされなくなった。おそらく、喜入の方に特別天然記念物のメヒルギがあるため、それに比べると行政的に打ち出しづらいものであることや、メヒルギを見に来る観光客なども想定されなかったためではないかと思う。一応、「市」の天然記念物になっているので、完全に忘れられているというわけではないと思うものの、南さつま市内にこれに関心がある人はごく僅かだろう。

私が、サンダルにメヒルギをあしらったのは、もう一度、この忘れられている存在に注目してもいいんじゃないかと思ったからである。今、蛭子島(えびす島)というところにあるメヒルギの群落は、ゴミが散乱して雰囲気も悪く、外から来た人にはとてもじゃないが案内できない。ここがもう一度きれいになり、誇るべき風景が甦って欲しいと密かに希望する。

…と思っていたら、「鹿児島&沖縄マングローブ探検」というWEBサイトで、大浦のマングローブがしっかり紹介されているではないか。

【参考】 鹿児島&沖縄マングローブ探検|鹿児島

しかも、大浦川越路川榊川蛭子島と、ちゃんと4箇所のメヒルギが地図と写真つきで公開されている。地元なのに越路川のメヒルギは知らなかったので今後見に行ってみたい。

実はこのサイト、自力で見つけたのではなくて、私が大浦町のメヒルギについてブログで紹介しているのを読んで、運営組織(マングローバル)の代表の方が、わざわざ電話してきて教えてくれたのである。この組織は沖縄にあるが、ちゃんと大浦まで調査に来て写真や地図をまとめており、その熱意には頭が下がるばかりである。

でも、こうした地域にある珍奇なものは、まずは地域住民が大切にしないかぎりそれが活かされることはない。活きるといっても、もちろんそれで観光客がたくさん来るとか、関連グッズが売れるとか、そういうことは考えられない。でも、町の象徴、町の顔、というようなものは住民のアイデンティティの形成などに意外に大きな影響を及ぼしていて、最近の大浦町でいうとそういう存在に「くじら」があるが、こうしたものは心の奥底で人々を結わえ付けるような力を持っているから侮れない。

大浦には「くじら」だけでなく、「亀ヶ丘」「磯間岳」「干拓」など他にもいろいろな象徴があり、あえてそこに「メヒルギ」を追加しなければならない必然性はない。しかしその南国的なムードや、外から見た時の価値のわかりやすさなどから、私としては「メヒルギ」には可能性があるんじゃないかと思っている。

というわけで、「メヒルギ」が、古くて新しい、大浦の象徴的な植物として再び注目される日を期待して、このサンダルを履いているこの夏である。

2016年8月12日金曜日

最初のアボカドの実

これは、我が農園で初めて着果した「アボカド」の実である。

以前からの「南薩日乗」の読者はご存じのように、私は(一応)アボカド農家を目指していて、これまで約150本のアボカドを植えている。
【参考記事】
アボカドの栽培にチャレンジします(2013年)
アボカド栽培も3年目(2015年)
アボカドを植えました。が…(2015年)
それが、今年、ついに1個実をつけたのである。「フェルテ」という品種のアボカドだ。

これは2013年に約50本植えた最初のアボカドの1本なのだが、他の樹はどんな状況かというと、正直いうとあまりうまく生育していない。その半分が枯れかかっている感じである。

何がその要因かというと、特に、昨年の記録的長雨での被害が大きかった。アボカドはとにかく排水が悪いところが嫌いで、大雨の時に少しでも水が溜まるようなところはすぐに根腐れしてしまう。そして、一度根腐れすると回復が難しい。その上、昨年は台風が直撃してほとんど全てのアボカドが倒伏し、さらに今年始めには数十年ぶりの寒波で大雪が降ったため相当弱った。今後回復するのか、このまま枯れてしまうのか、観察を続けたいが感覚的にはおそらく枯れると思われる。残念!

そして、昨年から今年にかけて植えた約100本については、生育のバラツキがかなり大きい。そして、そのバラツキが何に起因するのか私はまだよく分析できないでいる。なんとなく、問題は根なんじゃないかと推測しているが、じゃあなんで根の生育に差があったのかというのがよくわからない。排水性はよいところだと思うし…。

というわけで、まだまだアボカド生育の技術は未熟ではあるが、後進の参考にならないとも限らないので、これまで得た教訓について備忘のため書いておくことにする。
  • 定植場所は排水性が最も重要。
  • 日当たりはちょっとくらい悪くても生育には影響しない。
  • 定植1年目に安定して生育させるのがもの凄く大事。支柱への結束をしっかりして、夏場には水やりをすること。
  • ある程度芽欠きをして単純な樹形に整えることは意味があるが、やりすぎると風に弱くなるので、ほどほどにする。放置でもかまわない。
  • 元肥は不要。ただし有機質に富む土壌を好むのは間違いない。
という感じ。

150本のアボカドというと、その苗木の代金が60万円以上。我ながら結構な投資を行ったと思う。うまくいくかどうかもわからないものに…。で、その60万円の投資の最初の成果が、この1個のアボカドというわけだ。 これから台風などで落果しなければ、10月か11月頃に収穫できるようになる。ぜひこの最初の1個を収穫したいと思う。どんな味がするのか楽しみだ。

【参考】
国内のアボカド栽培の第一人者といえるのが米本 仁巳さんという人で、この人の書いた『アボカド―露地でつくれる熱帯果樹の栽培と利用』という本が一番参考になった。でも本を読んだだけではできるようにならないのが農業である。ちなみに米本さんは近年鹿児島の開聞に移住してきて、アボカドの露地栽培の実証をやっているそうだ。

2016年8月6日土曜日

「無農薬・無化学肥料のお米」販売中

8月6日、「南薩の田舎暮らし」で販売している「無農薬・無化学肥料のお米」の稲刈りだった。

と、いっても、自分がやるわけではなくて刈り取り委託している(他にもたくさんのことにお世話になっている)狩集農園さんが稲刈りをしてくれた。

ちなみに、お米の収穫は秋じゃないの? と思うかもしれないが、こちら南薩では早期米といって夏に収穫するお米を作っているので、一番暑い時期に稲刈りなのだ。

で、今年は豊作かと踏んでいたのだが、実際は小米が多かったり、そもそも見た目ほど米が実っていなかったりということで、不作な感じである。いや、過去最高に不作だった昨年に続く不作みたいである…!

どのくらい不作かというと、5反(50a)作っているのに、モミ換算で60俵しか穫れなかった。この面積であれば普通だったら100俵くらい穫れる。つまり今年は普通の6割くらいの収穫しかなかった。

もちろん、私は無農薬・無化学肥料で作っているので「普通」ではない。「無化学肥料」だけでなくて、肥料自体をほとんどいれていないので、「普通」に穫れたらそっちの方がおかしい。でも経験上、お米の場合は無肥料にしても普通の8割くらいは穫れるように思う。

今年は、さほど天候も悪くなく、さして不作になる要素もなかったのに、なんだか不思議だ。むしろ豊作なくらいかと思っていた。こんなに不作というのはやっぱりジャンボタニシの被害が大きかったんだろうか。来年はまた工夫しないと。

というわけで、無農薬・無化学肥料なのにも関わらずお求めやすい価格で販売しておりますので、このお米を通じて、今年もまたよいご縁をいただけますことをお待ちしております!

↓ご注文はこちらから
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のお米(5kg/10kg)
(5kg:2300円、10kg:4500円、+送料)
※ご注文の受付期間は8月末までを予定しています。

2016年8月4日木曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その3)

黒瀬杜氏がどうやって始まったのか、はっきりとは分からない。

ただし、黒瀬杜氏の系譜は3人の初代杜氏へと遡れる。黒瀬常一、黒瀬巳之助、片平一(はじめ)の3人である。この3人がどのように焼酎造りを学んだのかということは確たる記録がないものの、様々な証言を突き合わせてみると次のように推測できる。

まず、黒瀬から一番最初に酒造りの出稼ぎへ行ったのは、片平一らしい。おそらく、焼酎の自家製造が禁止された明治30年前後のことと思われる。片平は、阿多の人から杜氏はよい稼ぎになると聞いて酒造りを志したそうだ。彼は最初に宮崎の小林本庄に行って、清酒と米焼酎造りを学んだ。

その少し後、黒瀬常一は加世田の村原にあった「タハラデンゴロウ」の焼酎屋に行って下働きをした。さらに、3人(あるいは、黒瀬巳之助を除く2人)は、一緒に鹿児島の中馬殿(チュウマドン)の焼酎屋で下働きしたが、そこでは沖縄の焼酎造りの技術者も雇っていた。そのうち、加世田の下野焼酎屋というところがその技術者を引き抜いたので、彼らは一緒に中馬殿から暇をもらって加世田に行き、その技術者の下で5〜8年修行して杜氏になったという。3人が杜氏として独り立ちしたのは、明治35年〜38年くらいまでの間のようだ。

ここでのポイントは、中馬殿の焼酎屋にいたという「沖縄の焼酎造りの技術者」の存在だ。明治30年代から大正時代の始めまでは、焼酎業界の激動の時代である。需要に応えられるだけの焼酎産業がまだ成立しておらず、技術的にも確立していなかった。そんな時代、鹿児島には沖縄から泡盛造りの技術者が出稼ぎに来ていて、実際泡盛もたくさん売られていたらしい(当時の新聞に泡盛の広告が結構出てくるし、戦前は沖縄から本土へ泡盛が1万8000石ほど輸出されていた)。

前回述べたように、この時代の芋焼酎造りの技術的変革は主に2点あって、それは「二次仕込み法の確立」と「黒麹(くろこうじ)の使用」であるが、実はこれはどちらも沖縄の泡盛造りの影響を強く受けたものだ。

泡盛というのは、黒麹による米麹のみから出来る焼酎のことで、芋焼酎造りに使う黒麹が泡盛由来であることは明白である。また「黒麹による米麹」で作った泡盛の醪(もろみ)は、芋焼酎の二次仕込み法における一次醪に他ならないのである。つまり鹿児島の芋焼酎というのは、まずは泡盛風の醪(=焼酎の元)を作っておいて、そこにさらに蒸した芋を追加投入して作られる焼酎ということなのである。

黒瀬の3人の男は、おそらくは泡盛造りの技術者から焼酎造りを学んだのだろう。それが、鹿児島の焼酎産業の原型を作った。泡盛造りを応用した焼酎造りによって、芋焼酎の大量生産が可能になったのである。

ところで、ここで一つの疑問が湧く。どうして、泡盛造りが大量生産の技術になりえたのだろうか、ということだ。

実は、泡盛と芋焼酎は、その歴史的位置づけが全く異なる。鹿児島の芋焼酎は、かなり古くから庶民に愛されたお酒であり、自家製造も盛んだった。対して泡盛は、ずっと権力者によって管理されてきた。薩摩藩が琉球を征服した時、泡盛を貢納品として指定したことから、琉球は薩摩藩を通じて幕府に泡盛を毎年献上する必要があった。さらに、泡盛は中国への貢納品としても使われたという。

このように、泡盛は重要な貢納品であったため、琉球では泡盛造りは限られた人にしか許可されなかった。首里の王家のための泡盛造りを行う「焼酎職」が置かれ、その焼酎職となった40の家にしか泡盛造りは認められていなかったのである。焼酎職でないものが泡盛をつくれば、死罪または流罪となったという。泡盛は歴史的に、王家が独占していたものだ。これが自由化されるのは、鹿児島の焼酎と同じく明治の頃である。

つまり、泡盛は鹿児島の焼酎とは違って、自家製造・自家消費の地場産品ではなかった。最初から輸出(貢納)を念頭に置いた、組織的に製造される商品だったのである。しかも貢納品であったために、かなり厳しい品質管理がなされていたのではないかと想像される。おそらくそのために、泡盛造りには大量生産に適した技術が育っていた。大量に、品質が安定した商品を作る技術、それがまさに明治後期の鹿児島の芋焼酎造りに求められていたものだった。沖縄の泡盛と鹿児島の芋が出会って、現代の芋焼酎が生まれたのは歴史的必然とすらいえるかもしれない。

沖縄の、泡盛造りの技術者から焼酎造りの技を学んだ3人の男は、自分たちが杜氏として出稼ぎに出て行くときは、親類縁故の若者を同行させた。これは蔵子(くらこ)といって、要するに焼酎造りのスタッフである。蔵元へは、杜氏一人で出向くのではなくてチームとして働きに行ったわけだ。だが杜氏は、蔵子にはほとんど教えるということをしなかったらしい。それでも蔵子は数年共に働くうちに焼酎造りの技を盗んで、やがて杜氏として独り立ちしていった。

初代の3人の男は、2代目として12人の杜氏を育てた。次の3代目は34人になった。こうして黒瀬には、明治後期から大正にかけて杜氏の技術者集団が急速に形成されてきた。なにしろ、杜氏というのはいい仕事だった。確かに、出稼ぎのつらさはあった。何ヶ月も家族と離れて、夜も寝られない作業が続いた。杜氏は麹や酵母という生き物を相手にする。夜中でも、ちょっとでもおかしいと思えば麹の様子を見なければならない。辛い仕事でもあったが、杜氏は焼酎業界から強く求められていたので、社会的地位も高く、また高級取りでもあった。

当時の給料は、「学校の校長クラス」であったという。昭和37年に鹿児島県が行った調査によれば、杜氏70人の平均給与が他の業種と比較されているが、その時点でも杜氏の給与は他の業種全てを上回っている。明治大正の頃を思うと、黒瀬のような僻地の集落にいれば、儲からない百姓仕事か漁師仕事しかできなかっただろう。 それが杜氏になれば、焼酎造りにおいては絶対的な発言権を持ち、蔵元には家族同然に遇され3度の食事も必ず白米が出て、しかも相当な高給が貰えるとなれば、杜氏は集落の憧れの職業になるのは自然なことだった。

だからこそ、杜氏の技は親類縁故の者以外には決して漏らさなかったという。黒瀬杜氏の系譜において、第6代までの杜氏は、ほとんどが黒瀬、片平、宿里、神渡、久保の5つの姓で占められる。黒瀬が「杜氏の里」となり得たのは、その技術を内に守り続けた、一種の閉鎖性が作用していることも否定できない。別の言葉で言えば、「強烈な同族意識」である。

もともと、黒瀬集落というところは、「強烈な同族意識」のあったところらしい。耕地面積が人口に比べて少なく貧しかったため、「無常講(ムジョコ)」といって相互扶助のためにお金を出し合うのが盛んで、人びとは助け合って生きていた。また、財産の分割を避けるためともいわれる「いとこ婚」が多く、血の結びつきはさながら編み目のようであった。

黒瀬杜氏のことが解説されるとき、「耕地面積が少ない黒瀬集落では冬は出稼ぎに出ざるを得ず、そのために焼酎造りの出稼ぎが盛んになった」などとと言われるが、これは正確とは言えない。(その1)の記事に書いたように、そのような集落は鹿児島には他にもたくさんあったし、実は黒瀬の耕地面積は少なくない。むしろ笠沙において黒瀬は最大の集落であり、人口も一番多かった。ただ、人口が多かった分、冬場に出稼ぎに行かなければならない人間もまた多く、それが大きな杜氏集団が形成できた要因でもあろう。

そして、焼酎造りの技を頑なに外に出さなかった閉鎖性が加味された。技術というのは、その黎明においてはある程度の「密度」を必要とする。J.S.バッハが音楽一族であったバッハ一族の巨星として生まれたように、技術は小さな集団の中でとぐろを巻いているときに花開くことがある。あるいは、コンピュータの黎明においてたった数人の若者が世界を変えたように。芋焼酎造りの技術が確立する過程において、黒瀬集落に生まれた杜氏たちが同族の中で切磋琢磨したことは、おそらく意味があったのではないかと思われる。

しかし、杜氏という職業は、高度経済成長とともに魅力のないものになっていく。他の業種の給料も上がってきたこと。社内育成の杜氏も育ってきたこと。そして醸造学の進歩と機械化の進展。こうしたことで、杜氏の必要性がどんどん低くなっていった。特に自動製麹器の開発が大きかったようだ。これは、例の河内源一郎商店が開発したもので、手間がかかってしかも失敗が多かった製麹(麹造り)を自動化するものである。これにより、焼酎造りの失敗が随分なくなったという。経験と勘、だけに裏打ちされていた杜氏の技術は、醸造学の進展によって微生物の培養ということに還元され、それに基づいた自動化・機械化によって置き換わっていった。

もはや黒瀬杜氏たちは、我が子や親類縁者にも、杜氏を継いでもらいたいとは思わなくなった。今はそれよりも、ずっとよい職業があるはずだ、と。こうして、最盛期には350人以上いた黒瀬杜氏は、今となっては片手で収まってしまう。おそらく、あと10年で黒瀬杜氏は一人もいなくなり、歴史的存在となるであろう。

先だって行われたイベントにおいて、(黒瀬杜氏ではない)ある地元の杜氏は「黒瀬杜氏がなくなっちゃっていいのかなって思うんですよ」と言っていた。九州の焼酎産業の源流となった黒瀬杜氏、それが歴史の中の1ページに綴じられようとしている、今がその時である。

私は、黒瀬の人たちに意見を聞いてみたいと思う。「黒瀬杜氏」は社会的使命を終えたということで、もう終わりになった方がいいと思うか、それとも、例えば黒瀬に生まれた人でない杜氏にも称号を付与するなどして、別の形でも「黒瀬杜氏」という名前が消えない方がいいと思うか。やっぱり、黒瀬のことは黒瀬の人たちの意見が最優先されるべきだろう。

とはいえ、「黒瀬杜氏」というのは南さつまが誇りうる歴史なのでもあり、仮に「黒瀬杜氏」が一人もいなくなったとしても、黒瀬杜氏の系譜を受け継いでいる人や蔵が消えてなくなるわけではない。躍起になって名前だけ残すのはみっともないと思うが、そうした系譜・歴史が有耶無耶になってしまうのはいかにも惜しいことだ。

私は、今回黒瀬杜氏のことを調べてみて痛感した。我々はまだ、黒瀬杜氏が何者だったのか知らないのだと。笠沙には「焼酎づくり伝承館 杜氏の里笠沙」があって、黒瀬杜氏の資料が若干収蔵されている。しかしこれだけでは十分でない。なぜなら、黒瀬杜氏の技が、どこでどうやって花開いたのかがよくわからないからだ。黒瀬杜氏たちは九州一円に出稼ぎに行ったといわれているが、その行き先とその蔵元の製品を一つ一つ訪ねて、黒瀬杜氏がもたらしたものを検証したらいいと思う。

そういう真面目な検証の先に、九州の焼酎産業における黒瀬杜氏の意味が朧気ながらに見えてくるのだと思う。そういう検証を行える時期は、もうギリギリになっているかもしれない。そうだとしても、誰がそんな面倒な検証を行うのか? といわれると私も困る。自然なのは市役所が大学の先生に委託することかもしれないが、そんな地味な仕事は行政も大学の先生もやりたがらないだろう。やはり、「黒瀬杜氏」は歴史の霧に消えていくしかないのだろうか。

ところで最後に、黒瀬杜氏の先輩格である阿多杜氏について、私の仮説を紹介しておく。どうして阿多には、黒瀬より先に杜氏集団が形成されたのか、ということだ。阿多といえば、昔は「阿多んタンコ」が有名だった。タンコすなわち桶である。阿多は、タンコ職人がたくさんいた村だったのである。そして、焼酎造りにはバカでかい桶が必要になる。桶づくりや、桶の補修のために、焼酎屋にはタンコ職人がいつも出入りしていただろう。そういうタンコ職人の中で、「ちょっと手伝ってくれないか」と泡盛の技術者に誘われたものが、最初の阿多杜氏になったのではないかと思う。

これは、検証可能なのかすら分からない仮説である。阿多杜氏についてはわからないことが多いのだ。最後の阿多杜氏、と言われるのが、上堂園孝蔵さんという人だ。「阿多杜氏」は、黒瀬杜氏より一足先に歴史的存在となっていく。阿多杜氏が何者だったのか、よくわからないままに。

私としては、黒瀬杜氏も阿多杜氏も、その名前は消えゆくものだと思っている。黒瀬に生まれた杜氏が「黒瀬杜氏」だというのなら、消えてゆく方が潔い。だが、その歴史は誰かが受け継いでいって欲しい。坂を登り切れば素晴らしい海の景色が見える谷、黒瀬集落に、現代の焼酎産業の源流があったことは、どこかに「記憶」されていって欲しい。その歴史を受け継ぐ杜氏が、例えば「南薩杜氏」のような新しい存在として、また歴史を刻むことがあるのなら、それが一番いいような気がする。

南さつまには7つの焼酎蔵がある。偶然だとは思うが、県内の自治体の中で一番多いらしい。もちろん、黒瀬杜氏や阿多杜氏の系譜を継いだ焼酎蔵である。お隣の枕崎には薩摩酒造があって、こちらも黒瀬杜氏が腕を振るった蔵である。南薩にあるこうした焼酎蔵が、「黒瀬杜氏」や「阿多杜氏」の歴史をどのような形で受け継いで行くのか、興味を持って見ている。

【参考文献】
焼酎杜氏」1980年、志垣邦雄
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『現代焼酎考』1985年、稲垣真美
この他「杜氏の里笠沙」の一連の展示を参照しています。
また、「リレーインタビュー」という一連の記事が、杜氏の仕事ぶりについて勉強になりました。

2016年7月31日日曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その2)

鹿児島で杜氏と言えば、黒瀬杜氏の他に「阿多(あた)杜氏」がある。

かつて黒瀬杜氏と阿多杜氏は、鹿児島の二大杜氏集団であった。阿多杜氏の規模(人数)は、黒瀬杜氏の3分の1程度だったようだが、それでも焼酎杜氏の代表的な勢力であった。杜氏集団は鹿児島には黒瀬と阿多の2つしかなく、あとの杜氏は「地杜氏(じとうじ)」と言って、蔵元の人間が焼酎造りの技術を習得して杜氏になる(平たく言えば社内育成)というものだった。

阿多は、黒瀬のある笠沙と同じ南さつま市、黒瀬から約30キロ離れた、金峰にある。こちらの方が黒瀬よりも先に杜氏集団が形成されてきたようで、阿多の人から「杜氏はよい仕事になる」と聞いた黒瀬の人たちが焼酎造りを学ぶようになった、という話もあるので、鹿児島の焼酎産業の源流の、そのまた源流は、実はこの阿多にあると言える。南さつまはまさに、焼酎の源流の地なのだ。

なお1924年(大正13年)には、阿多と黒瀬の人たちは共同して「加世田杜氏組合」を作っている。そして昭和5年にこの組合から「阿多杜氏組合」が独立、追って「黒瀬杜氏組合」も出来、やがて「阿多杜氏」「黒瀬杜氏」はそれぞれ独自の道を歩んでいく。後に2つに分かれたとはいえ、最初は共同して組合をつくっていることを見ても、この2つの杜氏集団はもとは同じ起源を持つのだろう。

では、阿多や黒瀬の人たちは、焼酎づくりの技を誰から教わったのだろうか? この問いを考えるために、今回は焼酎の製造技術について振り返ってみたい。

前回述べたように、明治後期は焼酎業界の激動の時期であった。国家の政策によって小規模な酒造所が廃業させられ、鹿児島でにわかに焼酎の大量生産をする必要が出てきた頃である。この時期、酒造所の平均造石数(※)は10石程度から150石ほどへと急増する。ここに阿多杜氏や黒瀬杜氏が勃興してくるということは、彼らが「焼酎の大量生産」の技術を習得していたということだろう。

さて、この「焼酎の大量生産」の技術とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

ここに興味深い資料がある。村尾焼酎兄弟商會(現・村尾酒造)が残した、明治35年から大正にかけての焼酎の製造帳である。明治から大正の頃の焼酎造りがどんなものであったかが分かる、貴重な資料だ。

ちなみにこの頃は、鹿児島の焼酎も芋焼酎一辺倒というわけではなくて、米焼酎もあれば粟焼酎もあった。それでも一番普通に飲まれていたのは芋焼酎で、大体7割くらいが芋焼酎だったみたいである。

で、村尾焼酎兄弟商會の資料によると、米焼酎の仕込み法はこの時代を通じてほとんど全く変化がないのに対して、芋焼酎の方は毎年仕込み法が変わっていて、材料の分量から、仕込みのやり方まで製造方法が一定していない(なお、粟焼酎についてはどんどん廃れていった)。焼酎の大量生産、もっと正確に言うならば「芋焼酎の大量生産」のためには、実際にさまざまな試行錯誤があって、技術が変転していったのである。

その技術の変転の内容はどんなものだったかというと、主に2点が挙げられる。第1に「どんぶり仕込み」から「二次仕込み法」への変化。第2に黒麹(くろこうじ)の使用である。

「どんぶり仕込み」というのは、米麹(すなわち蒸し米に麹菌を混ぜ、麹菌を大量に繁殖させたもの)、サツマイモ、酵母、水を一度に甕や桶に投入して仕込むやり方だ。かつて鹿児島の焼酎は、全てこの作り方だったようである。しかし、この方法では腐敗などの失敗が多く、大量生産には向いていなかった。特に、芋焼酎においてである。

というのは、サツマイモはデンプンと共に糖分もかなり含まれる。醸造というのは大雑把に言えば、デンプンを麹で分解して糖にして、さらに糖を酵母で分解してアルコールにする技術と言えるが、デンプンと糖が両方存在していると、その2つのフェーズ(生化学的反応)が同時並行的に行われることになる。

例えば、米焼酎とか麦焼酎だったら、米・麦には糖分は含まれていないので、デンプン→糖→アルコール、という化学反応は直線的に進ませることができるが、芋焼酎はそれが無理なのである。そして、麹菌が十分に繁殖していない中で多くの糖分が存在することは、雑菌の繁殖を招き腐敗の原因にもなるわけで、サツマイモでの焼酎造りは大変難しい。サツマイモを栽培している国はたくさんあるのに、サツマイモでつくったお酒が定着したのが日本だけだということはこのあたりに理由があるだろう。

この難点をクリアするために開発されたのが「二次仕込み法」である。それは、まずサツマイモを除く「米麹、酵母、水」だけを仕込んで一次醪(もろみ)を作る。そして一次醪に蒸し芋と水を加えて二次醪を作り、これを蒸留して焼酎を得るのである。要するにこれは、一次醪でまずデンプンだけの世界で麹と酵母の生態系を確立して雑菌の繁殖を抑止し、そこにサツマイモの糖(とデンプン)を加えることで微生物の繁殖を安定的に行うやり方なのだ。

と言ってしまえば簡単なのであるが、この二次仕込み法に到達するまでに様々な仕込み法や分量の変転があり、この技術が確立するのがだいたい大正の初め頃である。この仕込み方法が開発されたことによって、芋焼酎の大量生産の道が開けたといえよう。

そして、二次仕込み法の開発とともに広まったのが、2点目の黒麹の使用である。芋焼酎は、かつては日本酒を造る時に使う麹と同じ「黄麹」を使って作られていた。しかし黄麹を使うと二次仕込み法によったとしても腐敗が起こりやすかった。黄麹は元来温度の低いところで本領を発揮するものであるから、冬でも暖かい鹿児島には向いていなかったのである。

しかし、鹿児島よりもさらに暖かい沖縄では立派に泡盛(米麹のみで作る焼酎)が出来ていることから、泡盛につかう麹、すなわち黒麹が注目され、明治20年代から徐々に使われ始め、これが大正2〜4年頃に県下に急速に普及していくのである。

この黒麹には、鹿児島の焼酎造りに極めて適した性質があった。まずは、クエン酸を大量に生成するという能力である。つまり黒麹菌によって米麹を作ると、強酸性となって酸っぱい米麹ができるのだ。このクエン酸により雑菌の繁殖が抑えられるため腐敗が防止される。

さらに、普通の麹菌の糖化酵素(デンプンを糖に変える酵素)は、酸性溶液中ではほとんど作用しないが、黒麹菌の糖化酵素はpH2.8の強酸性になっても作用する。このためクエン酸による強酸性という、普通には殺菌に使われるような環境の中でも糖化を進ませることができるのである。ちなみにクエン酸に揮発性はないので、蒸留して焼酎になる時にはこれは味にはほとんど影響しない。

この黒麹菌の使用を勧めたのは、明治43年(1910年)に税務監督局鑑定官として鹿児島に赴任してきた河内源一郎という技師である。河内は泡盛につかう黒麹菌を取り寄せ、鹿児島の焼酎造りに適した種麹菌を分離して「泡盛黒麹菌」と名付けてこれの普及に努めた。黒麹菌の使用は河内赴任の少し前から始まっていたようだが、河内の前には種麹ではなく友麹を使っていた(前に作った麹に継ぎ足してつくる)ので失敗も多かったという。焼酎造りに適した黒麹菌の分離とその種麹の確立によって、これを広めたのは「麹の父」とも呼ばれる河内の功績だ。

ただし黒麹には大きな欠点があった。それは、まさに黒いカビであるため、使っていると作業場や服やなんでもかんでもがススで真っ黒になってしまうということである。「肺の中まで黒くなる」と言われたくらいで、肺病の原因になるのではないかと恐れられた。そういう難点はあったが、黒瀬杜氏は早くから積極的に黒麹菌を使って勢力を拡大したと言われる。逆に阿多杜氏は、何でも黒くなるのを嫌ってか黄麹の使用にこだわり、それが結果的に黒瀬杜氏よりも小さな集団になってしまった一因だったという。

さて河内は、黒麹菌の研究を進めるうち、大正12年(1923年)に黒麹菌の中から黒くない麹菌を発見し、それを分離して「河内白麹菌」を開発した。黒麹菌の突然変異で生まれた新しい麹菌だった。この白麹菌は黒麹菌の便利な性質はそのままに、何でも真っ黒くしてしまわないというさらに便利なものだった。しかも白麹を使用した焼酎は品質(風味)もよかった。河内は昭和6年(1931年)の退官後、河内源一郎商店を設立して種麹菌の販売を事業化して大成功を収め、河内が発見した白麹菌はその後九州のほとんどの酒造所で使用されることになる。河内源一郎商店は、その後、焼酎の技術革新を彩っていく存在に成長していく。

(つづく)

※酒造業界では、製造量を石高で表す習慣がある。1石=10斗=100升≒180リットルである。

【参考文献】
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その1)」1989年、鮫島 吉廣
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その2)」1989年、鮫島 吉廣
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『焼酎』1976年、福満 武雄
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二

2016年7月25日月曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その1)

酒造の責任者を表す「杜氏(とうじ)」という不思議な言葉の語源に、こういう説がある。

かつてお酒というものは、客人を招く際に前もって家庭で刀自(とじ:古い言葉で「奥さん」という意味)が作っておくもので購入するものではなかった。だから、その家庭のお酒の味の良し悪しが、奥さんの評価にも繋がったほどだという。そこから、酒造の任に当たる人を「とうじ」と呼ぶことになったんだとか(他の説もある)。

そういう説があるくらい、近代以前の世界においてお酒というものは家庭で醸(かも)すのが当たり前だった。清酒の方は江戸時代には産業化されて購入商品になっていくが、鹿児島の焼酎は明治に至るまであくまで家庭で作るものであり、産業的にはほぼ全く作っていなかったようである。

つまり、焼酎造りの技は、かつては鹿児島のどこにでもあったものだ。一方で、前回述べたように黒瀬杜氏こそが九州の焼酎産業の源流の一つでもある。一見これは矛盾する事実だ。焼酎造りの技が各家庭にあったのなら、黒瀬杜氏がいなくても九州の焼酎産業は成立しえたのではなかろうか。

またそもそも、なぜこの九州の端っこの黒瀬という小さな集落が焼酎産業の源流となり得たのか。耕地面積が少ない黒瀬の集落では冬期の出稼ぎが普通で、出稼ぎの仕事として焼酎造りが盛んになったというが、耕地面積が少ない貧乏集落というのは鹿児島にはたくさんあったはずだ。黒瀬集落には、焼酎造りの技が育つような特別な巡り合わせがあったのだろうか?

私には、それらの疑問を完全に解く力はないけれども、黒瀬杜氏の成り立ちを振り返って、黒瀬杜氏とは何だったのか、ということを少しでも明らかにしたいと思う。

さて、黒瀬杜氏が生まれた明治30年代、焼酎産業はかつてない激動の時代を迎えていた。それを表す統計資料がある。鹿児島の焼酎製造量と酒造所数を示すものだ。

明治31年(1898年)を境に製造量も酒造所数も激増している。これは一体どういうことなんだろうか?

まずはこの状況を理解することが黒瀬杜氏の誕生を解き明かす一歩になりそうだ。

明治31年から、いきなり鹿児島の人が焼酎をたくさん飲むようになったということは考えられないので、これには統計上のカラクリがある。製造量が激増している(ように見える)わけは、これまで当局が認知していなかった焼酎製造が把捉され、統計上に現れてくるようになった、という社会システム上の変化なのだ。実は明治32年が、焼酎の自家醸造が禁止された年なのである(明治31年から変化があったのは、制度変更を見越しての事前準備のためであろう)。 さらに時代を遡って、このあたりの事情を振り返ってみる。

先述の通り、かつて鹿児島では焼酎は各家庭で手作りする飲み物だった。江戸時代の制度では焼酎造りは鑑札制(許可制)になっていて、形式的には自由な醸造は禁止されていたが、実態としてはさほど取り締まりはなかったようである。それが名実共に自由化されたのが明治4年。廃藩置県とほぼ同時に酒造税の規則が布告されて、免許料を払いさえすれば誰でも醸造ができるようになったのである。

といっても、鹿児島では西南戦争の前で、この頃は明治政府の言うことはあまり聞いていなかったので、この規則変更は鹿児島の社会にあまり影響を与えていなかったと思われる。それどころか、鹿児島では西南戦争前には地租改正もまともに行っていなかった。明治政府にとって、地租(固定資産税)と酒税は国税の2大柱であるが、その徴税システムが確立するのが鹿児島では明治10年代の後半からであろう。

このグラフは、鹿児島県が徴収した国税額であり、酒税の割合は明治44年(1911年)にはほぼ半分にも上っている。この頃、日本は日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)と厖大な戦費を用する対外事業のため増税に継ぐ増税を行っていて、その中心はまさに酒税にあったのである。これは鹿児島県だけでなく全国的な傾向であった。

こうした酒税徴収システムを構築するためには、自家醸造はいかにも都合が悪い。お酒(焼酎)を作っても家族や親戚で消費するから帳簿上に製造・消費の記録が残らず、酒税を徴収することができないのである。そのため明治政府は、明治4年に一度は自由化した醸造を、明治32年に禁止することにしたわけだ。徴税を確実にするため、というのが主な理由であった。

このため、醸造免許の仕組みも劇的に変わっていく。

これは鹿児島県内の醸造免許人員の明治24年から昭和2年までのグラフであるが、大正年間に大きなピークがある。明治24年には販売を目的として醸造免許を持っているのは県内にたったの100人程度しかいなかったが、明治34年には3600人に達している。

この劇的な増加のわけは、自家醸造が禁止されたために、多くの人が醸造免許を取得したことによる。つまりこの時代、実際に焼酎造りが大ブームになったというよりも、それまで自家醸造で家族や親戚のために焼酎造りを行っていた人が、自家醸造禁止を受けて販売目的という名目で醸造免許を取ったのであった。

しかしもちろん、その実態はほとんど自家消費であった。いくら販売目的としていても、おそらく帳簿も不完全で、徴税の面では甚だ不十分であったろう。これでは、自家醸造を禁止した意味がないのである。また、これまで家庭で製造・消費していたものがいきなり禁止されても、その需要が減るわけではなく、すぐに製造体制(産業)が育つわけでもない。焼酎を飲みたい人はいるのに、売っているところはないという状況だ。そのため税務監督局は集落での共同醸造を認めていた。実態的には自家製造・自家消費であるものを、集落での共同事業ということで許可したわけだ。これが醸造免許と酒造所の激増(最初に出したグラフ)の理由である。

そこで、明治42年(1909年)に鹿児島税務監督局に局長として赴任してきたのが、勝 正憲というやり手の男だった(勝は後に政治家に転身して逓信大臣まで務める)。勝はこの登録免許・酒造所が乱立する状況を打破するため、その整理を断行する。その主目的は徴税を確実にするためということもあったが、未熟な酒造所が乱立したことによる業界の混乱を収拾するという意味もあったようである。小規模酒造所が品質の悪い製品を売ったり、過当競争で価格が低下したりしており、勝の赴任前から酒造所の淘汰が兆していたのは確かだ。

勝は、将来の発展が望めない小規模な酒造所を中心に免許を取り消し、本当に販売目的でやっていけるところのみを残すことにした。鹿児島に3500以上もあった酒造所は、勝の改革によってほぼ10分の1の300程度まで整理されることになる。この勝がやった改革が、鹿児島の家庭での焼酎造りが終わり、「焼酎産業」が始まったきっかけである。

もちろんこの改革は鹿児島県民に大反発を招くことになった。鹿児島の焼酎造りはこの時点でもおよそ400年の歴史がある。これまで各家庭で醸していたものが急に禁止され、どこかから焼酎を買ってこなければならなくなったわけで、しかもそれが増税のためであったのだから、これはいわば国家による文化の破壊であった。この改革に反対するため、1912年には鹿児島で「酷吏排斥苛税反対大演説会」が行われ、その聴衆は5000人に及んだという。地元紙「鹿児島新聞」や「鹿児島実業新聞」もこの増税には反対し、新聞紙上でも当局糾弾の運動は繰り広げられたが、それも結局は挫折し、酒造所数の整理は断行されていった。

さて、勝の改革により、酒造所の数がこれまでの10分の1になったということは、需要の方が不変とすれば、1つの酒造所あたりの製造量は10倍にならなければならない。これは大変なことである。製造能力を10倍にするということは、ただ甕の数を増やすとか、雇用者の数を増やすということだけでなく、本質的な技術の転換を必要とする。

例えば、お米を炊く、というような単純なことを考えても、3合炊くのと5合炊くのでは火加減が違うし、1升を鍋で炊くとなるとかなりコツがいる。1斗(18リットル)炊くのは普通の人にはほぼ不可能で、大量の米を処理しようとすると炊くのではなく蒸さなければならない。米を蒸すには炊くのとは違った技術と設備がいるわけで、お米を炊くだけでも大規模化は一筋縄ではいかない。

ましてや、焼酎造りは微生物(麹・酵母)を扱う。焼酎を大規模に造ろうとすれば、家庭の味噌・醤油置き場のようなところで細々と作っていた時の技術とは、自ずから違う技術が必要となってくるのである。温度管理一つとっても、大量に作るのは、少量作るのに比べて格段に難しい。何しろ、大量のものというのは、温度をすぐに上げたり下げたりすることが難しいのである。

そして、この頃の焼酎造りというのは、今に比べて失敗が多く、腐ってしまうことが多かったようである。となると、大量に仕込むと腐敗した時の損失も大きいわけだ。家庭で少量ずつ作っていた頃は、焼酎造りに失敗しても「今回は残念だったね」で済むが、産業として作るようになると仕込みの失敗は経営破綻にも通じる。急激な規模の拡大を求められた酒造所は、こうしたリスクとも戦わなくてはならなかった。そのために、焼酎の大量生産のノウハウを持つ技術者の必要性が高まってくるのである。

そしてそのノウハウを確立しつつあったのが、ちょうどこの頃に杜氏集団として形をなしてきた、黒瀬杜氏だったのである。

(つづく)

【参考資料】
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二
※掲示したグラフは、全て本書より引用しました。
『焼酎』1976年、福満 武雄