2016年7月31日日曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その2)

鹿児島で杜氏と言えば、黒瀬杜氏の他に「阿多(あた)杜氏」がある。

かつて黒瀬杜氏と阿多杜氏は、鹿児島の二大杜氏集団であった。阿多杜氏の規模(人数)は、黒瀬杜氏の3分の1程度だったようだが、それでも焼酎杜氏の代表的な勢力であった。杜氏集団は鹿児島には黒瀬と阿多の2つしかなく、あとの杜氏は「地杜氏(じとうじ)」と言って、蔵元の人間が焼酎造りの技術を習得して杜氏になる(平たく言えば社内育成)というものだった。

阿多は、黒瀬のある笠沙と同じ南さつま市、黒瀬から約30キロ離れた、金峰にある。こちらの方が黒瀬よりも先に杜氏集団が形成されてきたようで、阿多の人から「杜氏はよい仕事になる」と聞いた黒瀬の人たちが焼酎造りを学ぶようになった、という話もあるので、鹿児島の焼酎産業の源流の、そのまた源流は、実はこの阿多にあると言える。南さつまはまさに、焼酎の源流の地なのだ。

なお1924年(大正13年)には、阿多と黒瀬の人たちは共同して「加世田杜氏組合」を作っている。そして昭和5年にこの組合から「阿多杜氏組合」が独立、追って「黒瀬杜氏組合」も出来、やがて「阿多杜氏」「黒瀬杜氏」はそれぞれ独自の道を歩んでいく。後に2つに分かれたとはいえ、最初は共同して組合をつくっていることを見ても、この2つの杜氏集団はもとは同じ起源を持つのだろう。

では、阿多や黒瀬の人たちは、焼酎づくりの技を誰から教わったのだろうか? この問いを考えるために、今回は焼酎の製造技術について振り返ってみたい。

前回述べたように、明治後期は焼酎業界の激動の時期であった。国家の政策によって小規模な酒造所が廃業させられ、鹿児島でにわかに焼酎の大量生産をする必要が出てきた頃である。この時期、酒造所の平均造石数(※)は10石程度から150石ほどへと急増する。ここに阿多杜氏や黒瀬杜氏が勃興してくるということは、彼らが「焼酎の大量生産」の技術を習得していたということだろう。

さて、この「焼酎の大量生産」の技術とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

ここに興味深い資料がある。村尾焼酎兄弟商會(現・村尾酒造)が残した、明治35年から大正にかけての焼酎の製造帳である。明治から大正の頃の焼酎造りがどんなものであったかが分かる、貴重な資料だ。

ちなみにこの頃は、鹿児島の焼酎も芋焼酎一辺倒というわけではなくて、米焼酎もあれば粟焼酎もあった。それでも一番普通に飲まれていたのは芋焼酎で、大体7割くらいが芋焼酎だったみたいである。

で、村尾焼酎兄弟商會の資料によると、米焼酎の仕込み法はこの時代を通じてほとんど全く変化がないのに対して、芋焼酎の方は毎年仕込み法が変わっていて、材料の分量から、仕込みのやり方まで製造方法が一定していない(なお、粟焼酎についてはどんどん廃れていった)。焼酎の大量生産、もっと正確に言うならば「芋焼酎の大量生産」のためには、実際にさまざまな試行錯誤があって、技術が変転していったのである。

その技術の変転の内容はどんなものだったかというと、主に2点が挙げられる。第1に「どんぶり仕込み」から「二次仕込み法」への変化。第2に黒麹(くろこうじ)の使用である。

「どんぶり仕込み」というのは、米麹(すなわち蒸し米に麹菌を混ぜ、麹菌を大量に繁殖させたもの)、サツマイモ、酵母、水を一度に甕や桶に投入して仕込むやり方だ。かつて鹿児島の焼酎は、全てこの作り方だったようである。しかし、この方法では腐敗などの失敗が多く、大量生産には向いていなかった。特に、芋焼酎においてである。

というのは、サツマイモはデンプンと共に糖分もかなり含まれる。醸造というのは大雑把に言えば、デンプンを麹で分解して糖にして、さらに糖を酵母で分解してアルコールにする技術と言えるが、デンプンと糖が両方存在していると、その2つのフェーズ(生化学的反応)が同時並行的に行われることになる。

例えば、米焼酎とか麦焼酎だったら、米・麦には糖分は含まれていないので、デンプン→糖→アルコール、という化学反応は直線的に進ませることができるが、芋焼酎はそれが無理なのである。そして、麹菌が十分に繁殖していない中で多くの糖分が存在することは、雑菌の繁殖を招き腐敗の原因にもなるわけで、サツマイモでの焼酎造りは大変難しい。サツマイモを栽培している国はたくさんあるのに、サツマイモでつくったお酒が定着したのが日本だけだということはこのあたりに理由があるだろう。

この難点をクリアするために開発されたのが「二次仕込み法」である。それは、まずサツマイモを除く「米麹、酵母、水」だけを仕込んで一次醪(もろみ)を作る。そして一次醪に蒸し芋と水を加えて二次醪を作り、これを蒸留して焼酎を得るのである。要するにこれは、一次醪でまずデンプンだけの世界で麹と酵母の生態系を確立して雑菌の繁殖を抑止し、そこにサツマイモの糖(とデンプン)を加えることで微生物の繁殖を安定的に行うやり方なのだ。

と言ってしまえば簡単なのであるが、この二次仕込み法に到達するまでに様々な仕込み法や分量の変転があり、この技術が確立するのがだいたい大正の初め頃である。この仕込み方法が開発されたことによって、芋焼酎の大量生産の道が開けたといえよう。

そして、二次仕込み法の開発とともに広まったのが、2点目の黒麹の使用である。芋焼酎は、かつては日本酒を造る時に使う麹と同じ「黄麹」を使って作られていた。しかし黄麹を使うと二次仕込み法によったとしても腐敗が起こりやすかった。黄麹は元来温度の低いところで本領を発揮するものであるから、冬でも暖かい鹿児島には向いていなかったのである。

しかし、鹿児島よりもさらに暖かい沖縄では立派に泡盛(米麹のみで作る焼酎)が出来ていることから、泡盛につかう麹、すなわち黒麹が注目され、明治20年代から徐々に使われ始め、これが大正2〜4年頃に県下に急速に普及していくのである。

この黒麹には、鹿児島の焼酎造りに極めて適した性質があった。まずは、クエン酸を大量に生成するという能力である。つまり黒麹菌によって米麹を作ると、強酸性となって酸っぱい米麹ができるのだ。このクエン酸により雑菌の繁殖が抑えられるため腐敗が防止される。

さらに、普通の麹菌の糖化酵素(デンプンを糖に変える酵素)は、酸性溶液中ではほとんど作用しないが、黒麹菌の糖化酵素はpH2.8の強酸性になっても作用する。このためクエン酸による強酸性という、普通には殺菌に使われるような環境の中でも糖化を進ませることができるのである。ちなみにクエン酸に揮発性はないので、蒸留して焼酎になる時にはこれは味にはほとんど影響しない。

この黒麹菌の使用を勧めたのは、明治43年(1910年)に税務監督局鑑定官として鹿児島に赴任してきた河内源一郎という技師である。河内は泡盛につかう黒麹菌を取り寄せ、鹿児島の焼酎造りに適した種麹菌を分離して「泡盛黒麹菌」と名付けてこれの普及に努めた。黒麹菌の使用は河内赴任の少し前から始まっていたようだが、河内の前には種麹ではなく友麹を使っていた(前に作った麹に継ぎ足してつくる)ので失敗も多かったという。焼酎造りに適した黒麹菌の分離とその種麹の確立によって、これを広めたのは「麹の父」とも呼ばれる河内の功績だ。

ただし黒麹には大きな欠点があった。それは、まさに黒いカビであるため、使っていると作業場や服やなんでもかんでもがススで真っ黒になってしまうということである。「肺の中まで黒くなる」と言われたくらいで、肺病の原因になるのではないかと恐れられた。そういう難点はあったが、黒瀬杜氏は早くから積極的に黒麹菌を使って勢力を拡大したと言われる。逆に阿多杜氏は、何でも黒くなるのを嫌ってか黄麹の使用にこだわり、それが結果的に黒瀬杜氏よりも小さな集団になってしまった一因だったという。

さて河内は、黒麹菌の研究を進めるうち、大正12年(1923年)に黒麹菌の中から黒くない麹菌を発見し、それを分離して「河内白麹菌」を開発した。黒麹菌の突然変異で生まれた新しい麹菌だった。この白麹菌は黒麹菌の便利な性質はそのままに、何でも真っ黒くしてしまわないというさらに便利なものだった。しかも白麹を使用した焼酎は品質(風味)もよかった。河内は昭和6年(1931年)の退官後、河内源一郎商店を設立して種麹菌の販売を事業化して大成功を収め、河内が発見した白麹菌はその後九州のほとんどの酒造所で使用されることになる。河内源一郎商店は、その後、焼酎の技術革新を彩っていく存在に成長していく。

(つづく)

※酒造業界では、製造量を石高で表す習慣がある。1石=10斗=100升≒180リットルである。

【参考文献】
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その1)」1989年、鮫島 吉廣
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その2)」1989年、鮫島 吉廣
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『焼酎』1976年、福満 武雄
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二

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