2013年5月7日火曜日

ソラマメとイタリア

家庭菜園で作っているソラマメが収穫を迎え、連日こればかり食べている。旬だからとてもうまい。

やはり一番はそのままグリルすることなのだが、IHクッキングヒーターの場合は火力が足りないのかやや焼きが不十分のようだ。強い火力で一気に焼くのが美味しいと思う。

ところで、私にとってはソラマメというと鹿児島のイメージが濃い。事実、鹿児島はソラマメの生産量が日本一で、国内生産量の約30%を占める。特に晩冬から春先の出だしは市場に出回るソラマメのほとんどは鹿児島県産であり、また県内産地の中心が南薩であることから(そういうイメージは浸透していないが)南薩の特産品といえるだろう。

というわけで私にはソラマメ=鹿児島の田舎、という先入観があったのだが、 最近、ソラマメは北アフリカもしくは西アジア原産の、地中海沿岸が産地の野菜であることを知った。世界的な産地はアルジェリア、中国、モロッコ、スペイン、ペルー、ボリビア、イタリアと続く。中でもソラマメに対するイタリア人の思い入れはひとしおと思われるので、少し紹介したい。

ローマでは5月1日にペコリーノ・ロマーノという羊乳のチーズとともにソラマメを食べる習慣があるし(大変美味しそうである)、イタリアではソラマメの播種は伝統的に万霊節(11月2日)に行われるが、この日にはソラマメを模したお菓子である「Fave dei morti(死者のソラマメ)」をわざわざ作る。

「死者のソラマメ」という珍妙な名前を敢えてつけているのは、いわゆる「memento mori(死を思え)」を意識しているのかもしれない。 古代ローマ時代から、どうしてかソラマメは死者を追悼する食べ物でもあったらしく、日本でいうとお盆にあたる万霊節でソラマメ型の菓子がお供えされるのはその象徴だろう。

また、かつてシチリアで大飢饉があったとき、ソラマメだけは収穫できて人々が命を繋いだことから、シチリアではソラマメに大いに感謝してサン・ジュゼッペの日(聖ヨセフの日=3月19日、日本で言う父の日に当たる)の飾り付けには、ソラマメを模したパンも登場するとか。

おそらくソラマメが飢饉から人々をたびたび救ったということから、イタリアではソラマメは幸運のシンボルと見なされているらしく、ソラマメをモチーフにした飾り付けやアクセサリーなどもあると聞く。

さらに、眉唾ものではあるが、ローマ時代、人々はソラマメを主食にしていたともいう。人類史において、ソラマメ栽培の歴史は4000年以上もあるようで、主食だったというのは大げさにしても、栄養豊富なこの野菜は古来重要な食物だったことは間違いない。

ところで、私はソラマメのような痛みの早い食べ物が主食になるわけがないと思っていたのだが、確認してみると、イタリアなどでも短い旬の時期以外は乾燥ソラマメが食べられている。いわば、大豆のようにカラカラに乾燥させたソラマメを保存食としていたのであって、昔はこれが年中食べられていたのだろう。「Fave dei morti」も乾燥ソラマメに似せてあるように見える。

日本でこの乾燥ソラマメがほとんど消費されていない理由はよく分からないが、せっかくなので家庭菜園のソラマメも一部乾燥させて、乾燥ソラマメを作ってみたいと思う。だいたいのものは新鮮なうちに食べた方がうまいし、そもそもイタリアと日本で栽培されている空豆は品種が違うようなのでうまくできるか分からないが、今夏は地中海風ソラマメを食べてみよう。

【参考】
"Celebrating Fava Beans" イタリアにおけるソラマメの扱いがよく纏まっている。最後に出てくるソラマメのピューレが美味しそう。

2013年5月1日水曜日

大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。

なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。

このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。

ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。

では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?

実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。

では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。

問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?

古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。

では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。

中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。

というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。

※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。

【参考】
薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島

【参考文献】
史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他

2013年4月30日火曜日

高校時代の同級生が立ち上げた会社

南っこ
高校時代の同級生が、昨年12月に「南っこ」という変わった名前の会社を立ち上げた。彼は本名もかなり変わっていて、芋高虎男という。芸名みたいである。

この会社は、農産物などの生鮮食料品の加工・販売をやっていくということで、特に鹿児島・宮崎を中心とした南日本の農産物を中心に取り扱っていくと意気込んでいる。それで社名に「南」がついているわけだ(「っこ」が何なのかは知らない)。

ところで、この芋高氏、鹿児島県島嶼部では有名な大農園「芋高農園」のご令息なのである。これは、沖永良部島で80ヘクタール以上も耕作しているという桁外れの農園。鹿児島県でも有数の篤農家出身であるため、農業に関しては彼もスケールが桁外れで、私のような零細農からすると、少し頭のネジが吹っ飛んでいるのではないかと訝しむほどだ。

私の経営規模からすると、彼が私を相手にする必要は全然ないような感じがするが、高校時代のよしみからか私と取引をしたいともちかけてくれた。とりあえずは今作っているカボチャを取り扱ってくれるようなので、失望させることがないようにちゃんとしたものを作りたい。

この会社、まだ立ち上げたばかりで今の所は業者向けの卸しが中心のようだが、今後小売りにも注力していくとのこと。それに先立って、TwitterFacebookでの情報発信も開始しているので、気になる方は見てみて欲しい。

たびたび書いていることだが、日本の農業が抱えている最大の問題は流通であり、こうして同級生がそれに参入したことは心強い。日本の農産物流通にはまだ手つかずの沃野が広がっていると信じており、面白い取り組みがいろいろできるのではないかと思う。とはいえ、確実にペイする事業を考えると、結局月並みなものになりがちという現実もある。変わっているのは名前だけ…とならないように、農産物流通の新しいカタチをつくり上げて欲しい。

2013年4月26日金曜日

「南薩のオリーブ」ができるかもしれません

南さつま市では、今後オリーブの栽培振興が始まる(かもしれない)。これは私にとってはとても有り難いことである。

4月25日、南さつま市は「農業生産法人寺田農園株式会社とのオリーブの共同栽培及び技術提携に関する連携協定」を締結したのだが、要は寺田農園さんに市の土地(70aほどの砂地)を貸してオリーブを共同栽培するようだ。

最初、「どうして南さつま市がオリーブ栽培に手を出すんだろう?」と思っていたが、こういう経緯らしい。南さつまの特産に各種のカンキツがあるが、これの先行きは消費の先細りが顕在化しつつありかなり危うい。また、農家の高齢化や人口減により、手間のかかるカンキツよりも省力的な栽培可能な作物が求められているということもある。そのため市では有望な作物としてオリーブに着目していたところ、本坊市長が20数年来の付き合いがある寺田農園の寺田信義さんから南さつま市でオリーブ栽培をしたいと声を掛けられたことをきっかけとする。

ちなみに、寺田さんは加世田のご出身で、何かふるさとに残したいという思いもあって、加世田は本拠地の農園からは遠いがここにオリーブ園を設けることにしたそうだ。寺田農園では、香川県の小豆島を視察した際にオリーブに興味を持ち、3年前から谷山にオリーブを植栽しているという。

日本におけるオリーブの栽培振興は明治時代に導入された小豆島を嚆矢とし、最近では熊本県の天草市における九電工の取り組みがよく知られている。南さつま市では、これらの2匹目のドジョウを目論んで、将来的には日置市などとも連携して吹上浜沿岸でオリーブ産地を形成し、6次産業化を行うのだという。

私も昨年からオリーブの栽培を検討していたので、こうした市の方針は追い風になる。特に、オリーブは収穫後24時間以内に搾油しなくてはならないのだが、個人で搾油機を買うのはバカバカしいため、もし市の方で搾油設備が整うのであれば願ったり適ったりだ。

ついでに言うと、私がオリーブに注目しているのは、地中海の食文化に興味があり個人的にも好きだということの他に、食用油に興味があるということもある。必ずしもオリーブでなくともよかったが、食用油関係の農業にも取り組みたいなあと思っていた。というのも、新興国における生活水準の向上に伴って食用油はグローバルな価格上昇が予見されており、現在は国産のオリーブ油は地場特産品、有り体に言えばもの好きのための嗜好品でしかないが、将来は輸入食用油と比べても競争力を持つ可能性がある。

というわけで、一人でも収穫可能な面積がどれくらいなのかまだ不明なのだが、10〜20aくらいを工面して、今年の秋か来年の春にはオリーブの栽培を開始してみたい。本当に「南薩のオリーブ」が実現したら、とても面白いと思っている。

2013年4月23日火曜日

ビロウという奥深い植物

南薩に越してきてから、ビロウの木をよく見かけるので気になっていた。田中一村の「ビロウとアカショウビン」で有名な、あのビロウ(蒲葵)である。

ヤシ科の植物というのは大体が不思議な形をしているが、ビロウは細かく切り込まれた長い葉が垂れ下がっている様子が魁偉であり、見た目のインパクトが大きい。

笠沙美術館の前には沖秋目島という無人島が横たわっているが、これも別名枇榔島(ビロウ島)という。おそらくビロウが繁茂していたからそういう名前がついたのだろう。枇榔島という島は鹿児島では志布志佐多にもあるし、宮崎にもある。ビロウ島という地名が各地にあることは、昔の人が、これの繁茂していることを捨てておけない特徴として見た証左に感じられる。

このビロウという植物、調べてみるとなかなか奥深い。

古代、ビロウは神聖視されたと考えられていて、現在でも沖縄では多くの御嶽(ウタキ)の神木となっているし、天皇即位に伴う神事である大嘗祭では、ビロウで葺いた屋根の仮屋(百子帳)が重要な役割を果たす。当然天皇の身近にはビロウは存在していなかったわけで、わざわざ南方からビロウの葉を取り寄せて大嘗祭に使ったのであるが、どうしてこの重要な神事でビロウを使わなくてはならなかったのか、非常に気になるところである。

また、このビロウは古代日本が誇る発明品である「扇」の起源であるとも考えられている。能、舞踊、落語など多くの日本芸能において扇が重要な役割を果たす淵源には、かつてビロウが神聖視された名残では、という説もある。

ところが、今の鹿児島ではこれを神聖視するような姿勢は感じられないし、魁偉な見た目は神聖というより不気味な感じで受け取られているように思う。ありふれていることもあり、特に大事にしなくてはならないものという意識もないだろう。しかし上述のように、少なくともかつては神聖で重要な植物であったのは間違いなく、昔の人がビロウにどのように接したのか、というのは興味深い問題だ。そして同時に、それがいつのまにか特別でない木に零落してしまったのはどうしてか、というのも気になるところである。

先日、「南薩の田舎暮らし」では新たな取り組みとして千日紅のアクセサリーの販売を開始したが、私としてはこのビロウの葉もアクセサリーなどに加工してもらいたいと思っている。とても南っぽさを感じるものであるし、かつては神聖なものであったわけで、もし作れたら言われも面白く、ユニークなものになるはずだ。

【参考文献】
扇―性と古代信仰』1970年、吉野 裕子

2013年4月18日木曜日

「ワイン箱」は田舎にはありません

家内からお願いされて、DIYで引き出し式の野菜ストッカーを作った。

制作期間は延べ12時間くらい。費用は6000円くらいだった(木材費用だけなら4000円弱。塗料が高い)。

最初はワイン箱を利用して作る計画だったのだが、田舎にはワイン箱自体が存在していないことが判明して、箱から自作した。

ワイン箱は白木を使っていて頑丈だし、ワインの銘柄の焼き印がしゃれているのでDIYではおなじみの素材(なはず)だ。こういうまとめもあった。昨年、うちは大量のカビに悩まされたことから家具に合板は決して使わないことを心に決めていたので、ワイン箱は素材的にも見た目的にもぴったりだった。

そして、以前東京に住んでいた頃にこれが近くの酒屋でタダでもらえたため、ワイン箱=酒屋に余っていてタダでもらえるものという先入観があった。だからワイン箱を使えば安く簡単におしゃれな野菜ストッカーが作れるな、と簡単に考えていたのだが、いざ探してみるとこのあたりには見当たらない。というか、酒屋でワイン箱ありませんかと聞いてみたところ「ワイン箱って何?」と聞き返された時に、既に心は折れていたと言えよう…。

改めて考えてみると、ワイン箱とは高級ワインの輸出(輸入)のために使われる化粧木箱なわけだから、このあたりで見当たらないのも当然である。もちろんもっと隈なく探せば少しはあったのかもしれないが、その手間を考えると自作した方が早い。

それに、箱から自作したおかげで目的のサイズぴったりに作ることができたのはよかった。使い勝手上とても大事なところでちょっとした設計ミスをしたのが心残りだが、わりとうまくできたと思う。野菜の在庫管理に一役買って欲しい。

2013年4月13日土曜日

硫黄貿易が結んだ南薩と硫黄島

知りたいことがあって、中世の硫黄貿易について調べている。

近年、日宋貿易における重要な輸出品として硫黄へ注目が集まりつつあるのだが、これの重要な舞台として、南薩の坊津、そして硫黄島(※1)が登場する。

硫黄島は、島の大部分が硫黄岳という火山によって占められており、中世においては東アジア最大の硫黄鉱山であったと言われる。 そして採掘された硫黄は、11世紀後半から日宋貿易により宋へ輸出されたと見られている。

この頃の宋は、西夏との争いに備えるため、火薬の原料である硫黄を必要としていた。その一方で遊牧民族の侵入により領土が縮小し、国内には良質の硫黄鉱山を持っていなかったという事情もあり、わざわざ日本から硫黄を輸入する必要があったというわけだ。

また、その背景として、軍馬の産地である西北を隣国に押さえられていたということもあるようだ。このため当時の主要戦力である騎兵が不足して自然と防御を重んじることになり、要塞の防衛のために火器が求められるようになったらしい。

硫黄が当時どれほどの価格で取引されたのかはわかっていないが、11世紀から16世紀に至るまで硫黄島とその隣の黒島と竹島(三島合わせて三島村を形成)が繁栄し続けたところを見ると、硫黄がかなりの富をもたらしたのは間違いない。その証左として、これらの島は小さな離島であるにも関わらず、立派な五輪塔を始めとして数多くの石造物が遺っている。

硫黄島から運び出された硫黄は、第一の寄港地として坊津を経由したようだ。もしかすると、硫黄貿易は坊津で管理されていたのかもしれない。というのも、坊津と硫黄島は当時「河辺郡」という同じ行政区画に属していたからだ。莫大な利益をもたらす資源というのは、実は統治機構にとって危険であり、その管理は重大事である。硫黄は、本土で厳重に管理されていたと考えるのが自然だ。

なぜなら、資源は適切に管理しなければ、野放図な開発や統治機構の腐敗、資源の奪い合い、そして略奪行為が誘発されるからである。それは当然といえば当然で、富をもたらす資源があるところ、「それは俺のものだ」と主張するならず者が必ず現れる。現代でも、アフリカの多くの地で、希少な資源を採掘する場所がほとんどマフィア的に占領され、現地の人をむしろ不幸にしているケースがあるのはこの罠による部分がある。資源は、適切に管理する能力を持つ統治者がいなければ、必ずしも現地の人に富をもたらすものではないのである。

そう考えると、13世紀以降に硫黄島を管理した千竈氏、そして16世紀に硫黄島の主導者となった長浜氏といった人々は硫黄貿易をうまく取り仕切ったのだろう。しかし、具体的な硫黄貿易の姿は茫洋としていて、よくわからないことだらけだ。これらの人々がどんな支配を行ったのかもよくわからない。文献もあまり残っていないため、現在の硫黄貿易研究は、いわば状況証拠に頼っているような部分がある。

また、11世紀から16世紀という500年にも及ぶ長い期間、元代には低迷期があったにしても、海外との貿易のみによって硫黄島が繁栄し続けたということはありそうもない話である。やはり国内にも安定的な硫黄の需要があったと考えるのが自然ではないか。では、その国内の需要とはどんなものだったのだろうか。

硫黄は、まずは火付けとして使われたし、少なくとも江戸時代には農薬としても使われていた。こうした用途で硫黄島の硫黄が各地に販売されていたことも考えられるが、日本では硫黄は各地で採れたはずで、敢えて硫黄島産を購入する必要もないような気がする。他方、安定的に硫黄を採掘するというシステムが各地で構築されたようにも思えず、そういう意味では硫黄島は貴重な存在だったのではないかという気もする。…というわけで、海外との硫黄貿易の実態解明も興味深いが、国内流通の方も気になるところである。

そんなわけで、一度硫黄島へ行って石造遺物や島内の様子を見てみたいと思っている。現在、硫黄島(三島村)への定期航路は鹿児島市-竹島-硫黄島-黒島というものがあり、これに加えて黒島-枕崎漁港というのが数年前から実証実験として就航している。噂では、近く枕崎からの便が定期航路化(本数が増えるということ?)するらしい(※2)。三島村には、南薩地域との結びつきを強め、観光や特産品販売などの面で協力していこうという考えがあるようだ。

中世において、硫黄貿易を通じ非常に密接な関係を持っていたと思われる南薩と硫黄島が、現代においてまた結ばれるとすればなかなか面白い展開だと思っている。いつか実際に硫黄島に上陸する日を楽しみにしたい。

※1 東京都にも、太平洋戦争で激戦地になった硫黄島があるが無関係である。
※2 伝聞なので間違っていたらすいません。

【参考文献】
日宋貿易と「硫黄の道」』2009年、山内 晋次
2013年3月に坊津の輝津館で行われた「甦る中世貴界島」という講演会の内容も参考にさせていただいた。