2013年1月3日木曜日

2013年、正月。

謹賀新年。

この写真は残念ながら元旦ではないが、1月2日の朝焼けの写真。大浦の顔の一つである磯間嶽にかかる曙光である。

一年の計は元旦にあり、というのは随分平凡な言葉だが、ここに移住してきてちょうど一年ということでもあるので、昨年の反省と今年の抱負めいたものを述べておきたいと思う。

まず昨年の反省であるが、
  1. 農業倉庫建築、機械購入など農業基盤整備があまりできなかった。
  2. 山の整備と利用が進まなかった。
  3. 栽培した作物の管理もあまりよくなかった。
  4. 農業に関して、いろいろな記録をちゃんとやっていなかった。
というところかと思う。それから仕事には関係ないが、自宅の庭の管理がおざなりだったことと、墓参りや墓地の掃除があまりできなかったことも挙げられる。それから、農産物販売サイトを開設の予定であったが、なぜかInternet Explorerで正常に表示されないという問題があってそれも延びているのも気になるところ。

次に新年の抱負であるが、上記反省点を改善するのは当然のこととして、次のことに取り組んでみたい。

第1に作付体系の検討。農業経営の要諦は作付体系にあると思うが、これは一度構築してしまうと(機械や資材などへの投資が必要なので)なかなか変えられない。しかも出荷体制や気候、借りられる土地の条件など制約は多く、効率的な体系を主体的に構築していくことは難しい。当面は果樹と園芸作物(かぼちゃなど)を考えているが、より効率的な体系を(やや長期的な意味で)検討したいと思う。

第2に農産加工所の開設。ここは大消費地から遠く隔たった本土の端っこなので、農産加工は必須だと感じている。最初は普通のキッチンみたいな規模からスタートして、経験を積みたい。ただ、これに関しては自分よりも家内の活躍に期待するところ大である。

第3に有機栽培への挑戦。実際成り立つものなのか、やってみなくてはわからないので、限られた範囲で実験してみる。とりあえずポンカン・タンカンは有機栽培とし、園芸作物についても出来そうなものがあれば取り組んでみたい。

ともかく、昨年の仕事や暮らしを思い返せば、いろいろな場面で先輩農家や周りの人たちが助けてくれ、それでなんとか成り立ったというところかと思う。まだまだ私自身わからないことだらけではあるが、今年は、あまり迷惑にならない程度の仕事ぶり・暮らしぶりができるように努力したい。本年もよろしくお願い致します。

2012年12月31日月曜日

サメと取違伝説——南薩と神話(5)

南薩の神話もついに最後のエピソードである。

山幸彦は海神の宮で、海神の娘トヨタマ(豊玉)姫と結ばれたのであるが、海幸への仕返しを果たした後にトヨタマ姫がやってきて、「子どもが産まれるのでやってきました」という。彼女は海辺に産屋を作り、鵜の羽で屋根を葺いていたところ急に産気づいた。そして言うには「異郷の人間は、産む時は本当の姿になります。私も本当の姿で産もうと思いますので、お願いですから覗かないように」として産屋に閉じこもった。

山幸彦はその言葉を訝しんで産屋を覗いてしまい、そこに大きなサメがのたうっているのを見て仰天。そのためトヨタマ姫は正体を見られたことを恥じ、産まれた子どもにウガヤフキアエズ(鵜の屋根を葺き終えないうちに、という意味)という不思議な名前を付け、子どもの養育を妹のタマヨリ(玉依)姫に任せて海神の宮に帰ってしまった。

このウガヤフキアエズは、長じて叔母に当たるタマヨリ姫を娶り、4人の子をもうけるが、そのうちの1人が後の神武天皇である。この神武の誕生で記紀神話の幕が閉じることになる。

ところで、タマヨリ姫の正体もまたサメであったとは記紀には書いていないが、姉妹である以上タマヨリ姫もサメと考えるのが自然だ。とすると、神武天皇は母(タマヨリ姫)と祖母(トヨタマ姫)がサメということになり、血統的には3/4がサメということになる。天皇家というのは、祭祀的には稲に関係する農耕的性格が強いが、その起源は多分に海洋的な性格を持っている。サメを祖神とする考え方は南洋に多いと聞くが、ここにも隼人が持ち込んだ海洋性が見えるようである。

さて、サメが正体のトヨタマ姫だが、これを祀っているのが、水車からくりで有名な知覧の豊玉姫神社だ。知覧はトヨタマ姫と縁が深く、その陵(墓)が残っていることを始めとしてその伝説が多く残っている。特に有名なのが「取違伝説」だ。

なんでも、海神からそれぞれ川辺と知覧を治めるように使わされたトヨタマ姫とタマヨリ姫であったが、頴娃から知覧に着いて一泊したところで、犀利なタマヨリ姫は土地の豊かな川辺の方が有利であることに気づき、トヨタマ姫がのんびりしている隙に川辺に行ってそこを治めたということである。本来行くべき所と逆に取り違えて行ったということで、その一泊した場所を取違(とりちがい)というようになり、今でもそこには取違さんという変わった苗字の人が住んでいる。ちなみに川辺側でタマヨリ姫を祀っているのは、かつて川辺の総鎮守であった飯倉神社である。

これは記紀神話にはないエピソードだし、ストーリー的にも記紀神話に接続する箇所もなく、かなりローカル色が濃い。もともとの取違伝説では、取り違える対象が天智天皇の第一皇女と第二皇女だったという話もあり、後世に改編されたものという可能性も大きいが、ともかくトヨタマ姫は知覧の地元の神だという意識があったことを示唆している。南薩における記紀神話は、天孫ニニギがコノハナサクヤ姫と出会ったのが笠沙、海幸と山幸がケンカしたのが笠沙〜枕崎の西南海岸というように巡って、トヨタマ姫の出産で知覧に至って終わるわけである。

このように、南薩は記紀神話の舞台として重要な地域であるにも関わらず、それがあまり認知されていない。その理由としては、このあたりには立派な古社・大社がないことが考えられる。仮に出雲大社のようなモニュメンタルな神社があれば、それが崇敬の対象としてわかりやすいし、なによりそこを中心に観光業が栄えて経済的にも潤う。結果的に神話伝説への関心も増し、対外的なアピールも盛んになる。

しかし、現実の加世田〜知覧の地域には、観光客が大勢訪れるような大規模な神社はなく、いくら神話の舞台とはいえ、そこに広がるのは縹渺とした風景だけだ。それが逆に本物っぽいという通もいるだろうが、一般的には面白味に欠ける。そう考えると、南薩の神話が注目を浴びることは今後もあまりなさそうだが、ここにはかつて阿多隼人たちが山海を舞台に活躍してつくり上げた日本の源流の一つがあると言えるだろう。

【参考文献】
『知覧町郷土誌』1982年、知覧町郷土誌編さん委員会
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月26日水曜日

隼人の南洋的神話=海幸・山幸——南薩と神話(4)

黒瀬海岸(撮影:向江新一さん)
南さつま市笠沙に「黒瀬海岸」という海岸があり、ここは一風変わった伝説を持つ。

なんでも、天孫ニニギは高千穂峰に降臨した後、舟で南下し、たどり着いたのがここ黒瀬海岸だということで、うら寂しい漁港に神代聖蹟「瓊瓊杵尊御上陸之地」という仰々しい石碑も建っている。またこの故事に因み、ここは別名「神渡海岸」ともいう。

正統派の記紀神話では舟で南下したというエピソードはないわけで、これはローカルな神話なのだが、だからこそ面白い。というのも、神さまが海の向こうからやってくる、という神話はポリネシアなど南洋の神話に多く、古代の隼人たちの海人的性格を示唆しているように思われるからだ(ちなみに遊牧民系だと、神さまは天から降りてくる場合が多い)。

ニニギの息子たちの海幸彦・山幸彦の神話は、そういう海人たる隼人が記紀へ持ち込んだ神話だろう。話の筋はこうである。山幸は海幸に「仕事道具を交換しよう」と持ちかけ釣針を借りるが、海に釣針を落としてしまう。その弁償に1000個の釣針を新たに作ったが海幸は「元の釣針を返せ」と納得しない。山幸が途方に暮れていると、塩椎神(シオツチのカミ)が来て「この”間なし勝間の小舟”に乗ってワタツミ(海神)の宮へ行きなさい」と言う。その通りにいくと海神の宮に着き、そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結ばれ3年を過ごす。

そして山幸はふと海幸とのケンカを思い出し、海神に相談すると、海神はいろいろな魚を集めて釣針の行方を問う。そこで鯛の喉に例の釣針が引っかかっていることが判明。山幸は海神から「塩盈珠(しおみつたま)」「塩乾珠(しおふるたま)」という水を自在に操る宝物をもらい、釣針とともに帰還。この道具を使い海幸を懲らしめ、その結果海幸は山幸に服従を誓って物語が終わる。

この神話は南薩に残る神話でも最も中心的、かつローカル性が確実なものだろう。例えば、金峰町の双子池はコノハナサクヤ姫が海幸たち兄弟を産んだところというし、笠沙町の仁王崎は「二王の崎」の意であって、海幸山幸が兄弟ゲンカをしたところという。また枕崎は山幸が”間なし勝間の小舟”に乗って最初に付いた場所といい、枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はこれに由来するという。ついでに、指宿には「指宿のたまて箱」の由来でもある竜宮伝説が伝えられているが、竜宮伝説=浦島太郎物語は海幸・山幸の神話の変形なのだろうと考える人もいる。もちろん海幸・山幸の神話は南薩だけに伝えられているものではなく、安曇氏の海神信仰も混淆しているようだが、物語の原型は隼人たちのものだっただろう。

ところで、海幸山幸の話は神話学的には「釣針喪失譚」と呼ばれ、南洋に多く分布しており、特にミクロネシアのパラオ島、インドネシアのケイ諸島、スラウェシ島にはこれと酷似した神話がある。どうも、隼人族はこうした南洋系の人々と近い関係にあったようだ。

ちなみに、前の記事で紹介した「天皇が短命なのは醜いイワナガ姫を拒否したため」という神話も、類似のそれがインドネシアからニューギニアの南洋に分布しており、中でもスラウェシ島のある部族が伝えている神話とは非常に共通点が多い。

このような事実から推測すると、隼人たちは黒潮に乗って南洋から来たか、あるいは南洋の人々と共通の祖先を持つ人々だったのだろう。事実、金峰町の高橋貝塚からは南洋でしか採れないゴホウラという貝の腕輪の半加工品が日本で唯一発見されているし、吹上浜の伝統的な漁具のカタギテゴという魚籠(びく)は日本では南九州にしか存在しないが、東南アジアには広く分布している。

ぼくの鹿児島案内。』の著者、岡本 仁さんは「鹿児島は東南アジアの最北端と言っているが、これは案外的外れではなく、鹿児島は文化的には東南アジアと共通項が多いのである。

それはさておき、神話に話を戻すと、この山幸彦が天皇家の祖先であり、海幸彦が隼人阿多の君の祖先ということになっている。つまり、阿多隼人は天孫から分かれた天皇家の親戚ということになっているのである。記紀神話は各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるので、天皇家と親戚ということ自体は特筆大書すべきものではないが、天孫から分かれた子孫という設定は格が高いので、隼人たちの朝廷における重要性を示しているとも考えられる。

ただし、正統派の記紀神話解釈では、この神話は、隼人の祖(海幸)が天皇家(山幸)に服属を誓うということで、隼人族が朝廷に服属すべき由来を説明したものとされている。南薩の神話の中心である海幸・山幸の神話が、朝廷への服属の神話にさせられているというのも、なんとも皮肉なものだ。そもそも、海に生きる海幸彦が、海神を味方につけた山幸彦にやっつけられるという話自体、皮肉な展開なのだけれど。

【参考文献】
『日本神話の源流』1975年、吉田敦彦
『海の古代史 ー東アジア地中海考ー』2002年、千田 稔 編著
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月24日月曜日

薄倖だった秋かぼちゃ

先々週、初の「加世田かぼちゃ」の収穫・出荷を行った。

その結果は、すでに予見されていた通り、あまり芳しいものではない。約2000粒の種を植えて、出荷できたのがコンテナ約70箱分。小さかったりキズがひどかったりで出荷できなかった規格外品が約20箱分。収量も少ないし、規格外品の割合が非常に高かったのが痛い。

原因としては、(1)定植が若干遅れたこと、(2)定植時に雨が異常に多かったこと、(3)台風が2回来たこと、(4)生長期に逆に日照りが続いたこと、などが挙げられる。天候に翻弄された部分以外の管理は、先輩農家Kさん兄弟の全面的な支援・指導を受けたおかげでそこまで悪くはなかったと思うが、まあはっきり言って結果が伴わなかった…。

「加世田かぼちゃ」として出荷できない小さなかぼちゃは、いつもの「大浦ふるさと館」で売ることにしたが、こちらの売れ行きも正直いまいちである。初夏から続くかぼちゃのシーズンの最後であり、新かぼちゃといっても一般消費者からすると新鮮さが感じられないのだろう。先日は冬至で、「冬至かぼちゃ」の需要があるかと期待したが、売れ行きにはあまり関係なかったようだ…。

とはいっても、一応完熟かぼちゃというだけあって、そこら辺のスーパーで売っている一般的なかぼちゃよりは少し美味しいのではないかと思うし、規格外品とは言え調理を考えると便利なサイズであり、さらにかなり安くお買い得でもある。私は800g〜1kgくらいのやつを150円で売っているが、スーパーのカットかぼちゃの半額程度ではないかと思う。

「大浦ふるさと館」ではポンカンの販売が始まってカンキツの季節も到来したので、お立寄りの際には隅に追いやられている薄倖なかぼちゃコーナーも見てみて欲しい。

2012年12月16日日曜日

嘘みたいな話ですが、SoftBankのアンテナが立ちました

ちょっと書くのが遅くなったが、11月に家の近所にSoftBankの中継基地(電波塔みたいなもの、以下「アンテナ」)ができて、我が家が圏外でなくなった。

以前書いたSoftBankへの悪口(?)が未だに結構アクセスがあるので、公平を期するため今回はSoftBankを褒めておきたい。 というのも、どう考えてもこの過疎地にアンテナを建ててペイできるとは思えないからだ。

事実アンテナが立つまで「もし自分がSoftBankの社長だったら絶対ここにはアンテナは立てないなあ」と思っていた。今後人口が増えることは見込めないから新規加入者の増加はないだろうし、現在の利用者も極めて少ないからサービス向上にもあまり繋がらない。

「極めて少ない」というか、もしかしたらこの付近でSoftBankのユーザーは我が家だけなのかもしれない。このアンテナが立つ前は、我が家を含めて行動範囲のほとんどが圏外だったので、こんなところでSoftBankを使うマヌケが私たち以外にいるとは思えなかった。

だから、ちょっと誇張して言えば、今回新しく立ったアンテナは、ほとんど我が家のために立ててくれたようなものである。有り難く使わせていただく。

ところで、現在SoftBankはLTE(高速データ通信)のエリアを拡大していることをテレビCMで訴えているが、我が家では当然LTEは使えない。というか、WEBサイトで確認してみるとLTEのサービスエリア(とその拡大予定地域)はとても地方まで広がっているとは言えない状況で、CMの中の主張とかなり相違がある。ただ、地方の中でも鹿児島(薩摩半島)はかなりマシな方で、加世田までは来ているので頑張って大浦まで拡大させてほしい。

ともかく、このアンテナ設置が(予想通り)大損だったということになると、SoftBankのサービスは今後の向上が見込めないので、周りに少しでもSoftBankユーザーが増えて欲しいと願っている。少なくとも今回、SoftBankは大損する可能性のあるところまでアンテナを立てる愚直な会社であることが判明したので、悪い会社ではないと思う。というか思いたい。

2012年12月14日金曜日

田舎における農産加工へのハードル

鹿児島県立農業大学校が主催する「農産加工基礎研修」という一泊二日の研修を受けた。

内容は、農産加工の入門編の位置づけで、業務用機器の取扱の説明と実習、農産物加工の基礎知識の講義である。雰囲気的には、農産加工グループなどで活動を始めようという女性を対象とした研修で、私以外の受講者は全員女性であった。ただ、最近ではビジネス的に農産加工に参入したいという男性の参加も少なくないのだという。

私は、加世田かぼちゃをつかったジャムを商品化したいと思っているので、農産加工の基礎的知識を学ぶためにこの研修に参加したのだが、実習ではジャム制作の理論的知識を教えてもらい大変参考になった。こういう研修に参加すると、「こうしなくてはいけない」という基礎の部分とともに、「これくらいで大丈夫」という妥協点というか、現実的な落としどころが分かるのもいいことだ。

南薩地域振興局の方からは、「新規就農者が農産物加工に取り組むのは危険。農業でちゃんと成り立ってから手を出すべき」というアドバイスを頂いたけれども、研修を受けてみた感触としては、小さく始めるなら必ずしも時機を待つ必要もない気がする。

ただ、問題は加工施設を一から建設しなければならないことで、ここはもう少し制度的にハードルを低めることが出来ないかと思う。例えば、大浦には「農村婦人の家」という古風な加工施設があるが、これは既存の加工グループ以外は商品販売の目的では使えない。商用利用では、事故(食中毒)等が生じた時の責任問題などがややこしいということかと思うが、一グループのみには特権的に商用目的で使わせているわけで、ここがネックになっているわけではないと思う。こうした施設を一定の基準を設けて商用目的にも使えるようにすれば、産業興しにもなると思うので市役所の方にはぜひご検討願いたい。

というのも、こうした施設が使えなければ、建屋から作らなくてはならないのが田舎のこわいところである。都会なら、適当な物件が見つかれば借りて内装をいじるだけで済むが、田舎には借りられる物件はほとんど皆無なので、ちょっとした加工所でも100万円単位のお金を使って建てなくてはならない。空き屋はたくさんあるのにバカバカしいことだ。

「産業興し」などというと抽象的だが、要は新しい事業に取り組むハードルを下げ、個人のアイデアが具現化しやすい環境をつくっていくことだと思う。それには予算も必要だが、既存の施設を商用利用できるように変えていくだけでも、随分変わってくるのではないだろうか。もちろん、商用利用を可能にするためには、そのための制度や規則、役所側の覚悟も必要になる。人口減で予算も厳しい世の中なので、県、市町村にはそういう手間のかかるややこしい仕事も面倒くさがらずにやってもらいたい。

2012年12月11日火曜日

本当は南薩に縁がないかもしれない日本史上初の美人——南薩と神話(3)

コノハナサクヤの銅像
南さつま市金峰町の物産館は「きんぽう木花館」というが、これはニニギの妻となったコノハナサクヤ姫に因む。今回は、このコノハナサクヤに関する神話の話である。

ニニギが笠沙の御崎で出会った「麗しき美人(おとめ)」がカムアタツ姫、又の名をコノハナのサクヤ姫という。古事記ではこれ以前には女性の形容に「美しい」が使われていないということで、コノハナサクヤは神話上での我が国初の美人、ということになっている。ちなみにカムアタツ姫というのは「神阿多都(姫)」と書き、「阿多の姫」という意味である。

ニニギはコノハナサクヤに早速求婚し、父であるオオヤマツミ(大山祇神)によって承認される。だがこの岳父はコノハナだけではなく、その姉イワナガ(石長)姫も添えて二人をニニギの元に送った。しかしイワナガ姫は大変醜かったため、これを厭ったニニギはすぐにイワナガ姫を実家に送り返す。

これを恥じたオオヤマツミが嘆じて言うには、「岩のごとくいつまでも変わらないようにイワナガ姫を、 木花のごとく栄えるようにコノハナサクヤ姫を嫁がせたのに、イワナガ姫を送り返したからには、天孫の子どもたちは木花のようにもろくはかないだろう」と。これは天皇が短命な原因とされ、神話学的にはバナナ型神話の短命起源と分類される。

この神話の背景として、当時は姉妹が同じ男性に嫁ぐ一夫多妻制があった、というまことしやかな解説もあるが、疑問もある。というのも、姉妹が同時に嫁ぐ「姉妹型一夫多妻」というのは、通常は妻方居住、つまり男性が妻の実家に迎え入れられるという風習とセットであり、二人して夫の元に送られるというのは奇妙である。ニニギがたじろいでイワナガ姫を送り返したのも無理はない。

ともあれ、めでたく天孫ニニギは日本史上初の美女コノハナサクヤと結ばれた。そしてコノハナサクヤは一夜にして身籠もり、やがて臨月となる。だがいざ産もうという時に、さすがに一夜の契りでは妊娠しないだろうということでニニギはコノハナサクヤを疑い、「私の子どもではなくて国つ神(地元のやつ)の子どもに違いない」と言う。

ところで、この話の展開を考えると、どうもニニギはコノハナサクヤと一度しか寝ていないようで奇妙だ。別居でもしていたのだろうか。それとも、実際は妻方居住の習慣があったために、イワナガ姫を拒絶したニニギは二度とオオヤマツミの家に入れてもらえなかったのだろうか(※1)。それにしてもニニギというのは、譲られたはずの出雲ではなく日向に来たり、奥さんの姉を見た目重視で拒絶してお義父さんに怒られたり、出産の間際に「俺の子じゃないだろう」などと言ったり、なんだかおっちょこちょいな性格のようである。

ニニギに疑われたことを怒ったコノハナサクヤは、「もし貴方の子どもだったら無事に産まれるでしょう」と言って、大きな家を作り、その中に入って入り口を塞いで火を放った。そして燃えさかる火の中で3柱の神を無事出産して無実の罪を晴らしたのである。この神、美女にしては壮絶な性格だったようだ。ちなみにこういう証明方法を「うけい」という。そしてこの時産まれた3兄弟が、ホデリ、ホスセリ、ホオリであり、このうちホデリ=海幸彦とホオリ=山幸彦が次の神話の主人公になる。

さて、長々とコノハナサクヤの神話を辿ったが、実は通説ではカムアタツ姫とコノハナサクヤ姫は別人で、アタツ姫は阿多の土着の神であるが、コノハナサクヤは宮崎県にいた別の神なんじゃないかと言われている。つまり、カムアタツとコノハナサクヤの話が混じっているらしい。どこからどこまでが宮崎での話なのか、どこが阿多の話なのか今となってはわからない(※2)。

だが、3兄弟出産の伝説は阿多土着のもののようで、これに因む旧跡は南薩に多い。コノハナサクヤが出産したのが加世田の内山田にある竹屋ヶ尾で、ここには3兄弟の臍の緒を切った竹刀に由来する竹林(※3)、彦火火出見(ホオリ)尊誕生碑、竹屋(たかや)神社などがあり(※4)、竹屋ヶ尾自体が昭和15年には「神代聖跡」に指定されている。

だが、これらの旧跡は人気がないのか、あまり注目されることはないし、そもそもアピールもされていない。一方で、本当はあまりゆかりがないのかもしれないコノハナサクヤが「きんぽう木花館」の名前の元になったり、彫刻家の中村晋也氏(「若き薩摩の群像」の方)によりその銅像がつくられたりということで、やはり美人というのはキラーコンテンツなんだなあと思う。

※1 日本書記本文によると、ニニギがコノハナサクヤの方に「幸(め)す」=「行った」ということになっていて、つまり通い婚であったと受け取れる。こちらの方がそれっぽいストーリーである。

※2 宮崎県西都市には、コノハナサクヤを祭る都萬(つま)神社があり、西都原古墳群にはニニギとコノハナサクヤの墓と言われている古墳もある。ついでにオオヤマツミの墓とされる古墳もある。ただ、コノハナサクヤの神話のほとんどは実はカムアタツ姫の神話を元にしたもの、という可能性もあるので、本記事のタイトルに「本当は南薩に縁がないかもしれない」とつけたが、縁がある可能性もあるわけである。

※3 加世田と川辺の堺にある竹山。コノハナサクヤが捨てた竹刀が根付いたのが竹林のいわれというが、一度伐採されており、現在の竹叢は1984年に加世田市によって復活させられたもの。

※4 竹屋神社は今は加世田の宮原にあるが、1161年以前は竹屋ヶ尾にあったらしい。ちなみに、明治以前は鷹屋大明神といったようだ。また、南九州市にも同名で同様の由緒を持つ神社が存在する。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注