6月4日に南九州は梅雨入りし、雨模様の天気である。というわけで『新版 農業の基礎 (農学基礎セミナー)』で農業の基本についてお勉強。
本来は、もっと早くに(就農前に)こういう本を読んでいるべきなのだが、とりあえず動いてから考えるという性分なので今になってしまった。
内容は、まず栽培・飼育技術の基礎となる環境や管理法の総論から始め(第1章)、主要植物の栽培法を概説し(第2章)、家畜の飼育の総説を述べ、イヌ、ニワトリ、マウスの飼育法を概説する(第3章)。最後に「農業・農村と私たちの暮らし」と題し農業を巡る趨勢や農業に期待されている役割を述べて終わる(第4章)。
書名に「基礎」と銘打っているだけあって、具体的な栽培技術などはあまり書かれておらず、第2章の栽培法の概説も、農業の考え方を説明するために具体例を引いているという位置づけに思える。つまり本書は栽培技術の基盤となる基本的考え方を学ぶ本なのだが、その大きなメッセージは「科学的な農業を行うためにはどうすればよいか」ということに尽きる。
それを要約すれば、「栽培植物の特性をよく理解して環境を整え、収量の目標を定めて適切な施肥を行い、生育をつぶさに観察して記録し、収穫時には栽培の結果をまとめて評価と反省を行い、次年度の課題を設定する」ということになるだろう。それ自体は、ずっと昔から行われてきたこととは思うが、例えば生育の観察を厳密に行うには科学実験のような記録が必要なように、なんでも厳密に実践しようと思えば科学的にならざるを得ない。
本書では、特に「科学的な農業」という言葉は出てこないが、最小の労力で最大の効果を挙げようとすれば、自然に科学的になっていくのだということが、行間に読み取れる。例えば、限られた紙幅の中であえて一般的でない「マウス」の飼育法を説明しているあたりに著者の科学性へのこだわりを感じることが出来るだろう。
よく「これからの農業は知識集約産業」というようなことが言われるが、本書で当然のように説明されているこのような農業は、農家全員ができるものではないような気がする。というか、私自身、ここまで厳密な管理に基づく農業をする自信が持てないのであった。
2012年6月5日火曜日
蘖(ひこばえ)の森
放置山林となりはてた自家林を整理し、新たに利用しようとしているところだが、この山には、写真のように根元から分岐している雑木がたくさんある。
ここは、少なくとも30年くらい放置されているが、このような木は、かつてはここが里山として利用されていたしるしである。薪などを採るために伐採した木の根元から蘖(ひこばえ)が生え、それが大きく生長することによって、このように王冠状に広がった幹が形成される。
この写真の木は、それぞれの幹は直径20cmもないが、その根元は、直径が1mくらいある。伸びては切られを何度も繰り返しながら、100年以上人間に利用されてきたのかもしれない。この山は明治か大正のころに、私の曾祖父が果樹園として切り拓いたもののようだが、おそらくそれ以前も里山として長く利用されてきたのだろう。
ところで、里山というと、「日本人の原風景」「心のふるさと」などと言われるように、なぜかとてもいいものという暗黙の前提があるような気がするが、私は里山がそんないいものだったとは思わない。利用可能な資源が限られている環境において、小規模の山林を最大限に活用するための山林管理が里山を生んだのであり、多少厳しい言い方をすれば、閉鎖的で貧しい農山村の象徴であるといえなくもない。
しかし、小規模山林を持続的に利用していくという発想は、今になって、最先端の考え方のような気がする。エネルギー・食糧価格の高騰が予想される中、身近な山から継続的に資源を得ることは、今後合理的になっていくと思われるからだ。
里山に「心のふるさと」のような価値がないとは言わないが、私にとってはそれはセンチメンタル過ぎてピンとこないものだ。むしろ、細く長く自然を活用する技術としての価値の方に興味を持つ。しかし、その技術はもう失われたと言ってもよい。どのように木を切り、植え、育て、何を収穫したのか…。何となくは分かっても、細かい管理技術はぼんやりとした彼方にある。残っているのは、物言わぬ蘖の森だけである。
ここは、少なくとも30年くらい放置されているが、このような木は、かつてはここが里山として利用されていたしるしである。薪などを採るために伐採した木の根元から蘖(ひこばえ)が生え、それが大きく生長することによって、このように王冠状に広がった幹が形成される。
この写真の木は、それぞれの幹は直径20cmもないが、その根元は、直径が1mくらいある。伸びては切られを何度も繰り返しながら、100年以上人間に利用されてきたのかもしれない。この山は明治か大正のころに、私の曾祖父が果樹園として切り拓いたもののようだが、おそらくそれ以前も里山として長く利用されてきたのだろう。
ところで、里山というと、「日本人の原風景」「心のふるさと」などと言われるように、なぜかとてもいいものという暗黙の前提があるような気がするが、私は里山がそんないいものだったとは思わない。利用可能な資源が限られている環境において、小規模の山林を最大限に活用するための山林管理が里山を生んだのであり、多少厳しい言い方をすれば、閉鎖的で貧しい農山村の象徴であるといえなくもない。
しかし、小規模山林を持続的に利用していくという発想は、今になって、最先端の考え方のような気がする。エネルギー・食糧価格の高騰が予想される中、身近な山から継続的に資源を得ることは、今後合理的になっていくと思われるからだ。
里山に「心のふるさと」のような価値がないとは言わないが、私にとってはそれはセンチメンタル過ぎてピンとこないものだ。むしろ、細く長く自然を活用する技術としての価値の方に興味を持つ。しかし、その技術はもう失われたと言ってもよい。どのように木を切り、植え、育て、何を収穫したのか…。何となくは分かっても、細かい管理技術はぼんやりとした彼方にある。残っているのは、物言わぬ蘖の森だけである。
2012年6月1日金曜日
南薩一のパティスリー「菓子工房 だるまや」
家内の誕生日ということで、日本最南端の終着駅・枕崎駅の近くにある「菓子工房 だるまや」に行った。
「だるまや」は本格的フランス菓子店。2階には優雅な雰囲気の、広いイートインスペースもある。ここはイートインなどという安っぽい名前は使うべきでなく、フランス風に「Salon de the(サロン・ド・テ=茶館)」と言いたくなるほどの空間だ。
ショーケースに並ぶケーキも非常に美しく、見ただけで美味しいことが分かる。お店の方に「一番人気は?」と聞くと、シュー・ア・ラ・クレーム(シュークリーム)とのこと。これを買うために遠方からわざわざ訪れる客もいるという。
実は私、あまりシュークリームが好きではない。コッテリとしたクリームが大量に入っているお菓子なので、胃がもたれたり、単調な味に飽きたりする。繊細なものが多いフランス菓子の中で、アメリカ風の大味さがある無粋な菓子だと思っている。
しかしこのシュー・ア・ラ・クレーム、まさに極上のおいしさである。クリームはコッテリというよりはさっぱりとしていて、たっぷりと入っているが最後まで爽やかに食べられる。もちろん皮の部分はサクッとした食感で、廉価品によくあるべたべたした感じは微塵もない。しかも1個200円。これは遠方からわざわざ買いに来るのも納得である。
家内と娘が頼んだケーキもちょっと味見させてもらったが、長い修行の果てにしか出せない(と思われる)複雑で深い味わいのおいしさだった。
東京でも、こんなに美味しい洋菓子店はそんなに多くはないと思うし、ましてやこの田舎には場違いなほどの素敵なイートインスペースもあるわけで、この店に来るためだけに枕崎に来ても損はないと思う。こちらに移住してきてからそんなに洋菓子店に行ったわけではいのだが、おそらく、ここは南薩一のパティスリーだろう。
【参考】
なぜか北海道の会社が「だるまや」のお菓子を通販している(しかし、一番人気のシュー・ア・ラ・クレームは売っていない!)。だるまやさん自体の紹介も丁寧で、どうしてこの本格的なフランス菓子店が枕崎にあるのか、ということも分かる。
「どーげん > 菓子工房だるまや」
「だるまや」は本格的フランス菓子店。2階には優雅な雰囲気の、広いイートインスペースもある。ここはイートインなどという安っぽい名前は使うべきでなく、フランス風に「Salon de the(サロン・ド・テ=茶館)」と言いたくなるほどの空間だ。
ショーケースに並ぶケーキも非常に美しく、見ただけで美味しいことが分かる。お店の方に「一番人気は?」と聞くと、シュー・ア・ラ・クレーム(シュークリーム)とのこと。これを買うために遠方からわざわざ訪れる客もいるという。
実は私、あまりシュークリームが好きではない。コッテリとしたクリームが大量に入っているお菓子なので、胃がもたれたり、単調な味に飽きたりする。繊細なものが多いフランス菓子の中で、アメリカ風の大味さがある無粋な菓子だと思っている。
しかしこのシュー・ア・ラ・クレーム、まさに極上のおいしさである。クリームはコッテリというよりはさっぱりとしていて、たっぷりと入っているが最後まで爽やかに食べられる。もちろん皮の部分はサクッとした食感で、廉価品によくあるべたべたした感じは微塵もない。しかも1個200円。これは遠方からわざわざ買いに来るのも納得である。
家内と娘が頼んだケーキもちょっと味見させてもらったが、長い修行の果てにしか出せない(と思われる)複雑で深い味わいのおいしさだった。
東京でも、こんなに美味しい洋菓子店はそんなに多くはないと思うし、ましてやこの田舎には場違いなほどの素敵なイートインスペースもあるわけで、この店に来るためだけに枕崎に来ても損はないと思う。こちらに移住してきてからそんなに洋菓子店に行ったわけではいのだが、おそらく、ここは南薩一のパティスリーだろう。
【参考】
なぜか北海道の会社が「だるまや」のお菓子を通販している(しかし、一番人気のシュー・ア・ラ・クレームは売っていない!)。だるまやさん自体の紹介も丁寧で、どうしてこの本格的なフランス菓子店が枕崎にあるのか、ということも分かる。
「どーげん > 菓子工房だるまや」
2012年5月31日木曜日
ハスクバーナのチェンソーが実は安い
ヤフオクでハスクバーナのチェンソーを購入した。
といっても、チェンソーになじみがない人にとってはよく分からないだろう。ハスクバーナは、スウェーデンに本社を持つ世界的チェンソーメーカーで、いわば、チェンソーの世界での「憧れのメーカー」である。
要は、素人の私が持つのはおこがましいような一流メーカー品なのだが、予算とスペックを考慮して比較検討した結果、この「Husqvarna 445」に行き着いた。
本当は、整備のしやすさなどを考えて新ダイワやゼノアあたりのプロ機を買いたかったのだが、中古でも結構な値段がして必要な排気量の機種だと予算オーバーだった。
一方これは、ハスクバーナ社のセミプロ機の位置づけなのだが、日本メーカーのプロ機並みの排気量と馬力がある。体格のよい欧米人向けだからなのだろうか…? また、メーカーによるリファビッシュ品で、中古ではあるがほぼ新品状態なので、中古品に心配されるような機械の疲労はない(と思う)。
3万2000円ということで凄く安いわけでもないが、命に関わる機械なのでジャンク品を買うより確かなものを買った方がいいし、元値の約8万円を考えるとお得であることは間違いない。それに、
これまでも家には父が買ったチェンソーがあったが、パワー不足で伐木の最中にエンストすることもあり、本格的な山の整備にはパワーのあるチェンソーが必須だった。専業で使うわけではないので安価なものを探していたが、比較検討の結果、ハスクバーナに行き着いたのは自分でも意外だ。他にも、円高のうちに高い外国製品を買っておいた方がいいかもしれない。BOSCHの工具とか。
【参考】Hasqvarna 445
排気量:45.7cc
出力 :2.1kw(2.8馬力)
ガイドバーサイズ:45cm(18インチ)/72コマ
チェーン:21BP・21VP
チェンピッチ:0.325”
重量 :5.1kg
といっても、チェンソーになじみがない人にとってはよく分からないだろう。ハスクバーナは、スウェーデンに本社を持つ世界的チェンソーメーカーで、いわば、チェンソーの世界での「憧れのメーカー」である。
要は、素人の私が持つのはおこがましいような一流メーカー品なのだが、予算とスペックを考慮して比較検討した結果、この「Husqvarna 445」に行き着いた。
本当は、整備のしやすさなどを考えて新ダイワやゼノアあたりのプロ機を買いたかったのだが、中古でも結構な値段がして必要な排気量の機種だと予算オーバーだった。
一方これは、ハスクバーナ社のセミプロ機の位置づけなのだが、日本メーカーのプロ機並みの排気量と馬力がある。体格のよい欧米人向けだからなのだろうか…? また、メーカーによるリファビッシュ品で、中古ではあるがほぼ新品状態なので、中古品に心配されるような機械の疲労はない(と思う)。
3万2000円ということで凄く安いわけでもないが、命に関わる機械なのでジャンク品を買うより確かなものを買った方がいいし、元値の約8万円を考えるとお得であることは間違いない。それに、
- 欧米のセミプロ機はパワーの割に安い。
- 直輸入品なので、円高効果で安くなっている(はず…というかこれが大きい)。
- 直輸入品なので、日本でのサポートが受けられず、取扱説明書も英語しかない。
- ゼノアなどでは標準装備のイージースタート(エンジンをかけるのが楽)でない。
これまでも家には父が買ったチェンソーがあったが、パワー不足で伐木の最中にエンストすることもあり、本格的な山の整備にはパワーのあるチェンソーが必須だった。専業で使うわけではないので安価なものを探していたが、比較検討の結果、ハスクバーナに行き着いたのは自分でも意外だ。他にも、円高のうちに高い外国製品を買っておいた方がいいかもしれない。BOSCHの工具とか。
【参考】Hasqvarna 445
排気量:45.7cc
出力 :2.1kw(2.8馬力)
ガイドバーサイズ:45cm(18インチ)/72コマ
チェーン:21BP・21VP
チェンピッチ:0.325”
重量 :5.1kg
2012年5月30日水曜日
洋画家・佳月 優さんに会う。
![]() |
ギャラリー併設のサロンスペース |
Gallery 野月舎(とアトリエ)は昭和60年に廃校になった野首小学校の校舎が利用されており、まるで時間が止まったような古い木造校舎が郷愁を誘う。ちなみにこの校舎、保存状態が元々よかったのではない。ギャラリーになる前は電子部品の会社がここを工場として利用していたためいろいろな手が入っていた上、廃屋同然になっていたという。それを、佳月さんが様々な人の協力を借りながら元来の姿に近づけ、魅力を引き出したのである。画家が廃校をギャラリーとして甦らせるというこの稀有な取組は、鹿児島県で唯一、文部科学省による「廃校リニューアル50選」に選ばれている。ともかく、ここは一見しただけで心臓を射貫かれるような素敵な場所だ。
佳月さんは、私とは初対面であるにもかかわらず、率直に、温和に、さまざまなことを語ってくれた。地域のこと、この校舎のこと、人との出会いのこと…。まるで、人の世の有様を静かに描いてくれるかのように。その話は非常に勉強になったのだけど、その話の内容をここに書くのは辞めておこうと思う。また、佳月さんについての下手な紹介もしないでおきたい。ちょっとWEBを検索すれば、こんな田舎で一人静かに絵を描いているのが不思議なほどの画才の人だということが分かるだろう。
そして、直接詳しくは伺わなかったのだけれど、2006年に日展会員・審査員等の要職を辞し、無位無冠で活動されていると聞き、不遜ながら、官僚を辞めて南薩に移住してきた自分と重ね合わせた次第である。もちろん、キャリア官僚を辞める人間は多いが、日展の会員を辞める人間などほとんどいない。重ね合わせるのはおこがましいだろう。
しかし、当たり前のことを当たり前にやるという単純なことが、組織の枠の中で生きていると難しくなることがある。私の知る若手官僚の多くは、日本を変えたいという夢を持ち、能力もやる気もある素晴らしい人達だ。だが、組織の中で生きるうち、組織の限界を知り、人間関係に絡め取られ、個人の頑張りでは解決不能な問題に直面する。そして、自分の力ではどうしようもないのさ、とすら思わなくなり、組織の歯車になってゆくのが悲しい現実である。
さすがに、画家の世界にはこんなことはないだろうが、組織に依って生きるということに関しては、画家も官僚も似たような悩みを抱えているのかもしれない、と勝手に想像した次第である。もしかしたら、全然違うかもしれないが…。
それはさておき、吹上町の野首という辺鄙なところに、世にも素敵なギャラリーがあるということは、地域の人間としてもっと誇ってもよいと思う。「それより、コンビニやスーパーが欲しいなあ」というのは田舎に住んでいる人間としては切実な願いではあるが、世界的に見れば、こんなギャラリーが身近にある方が、よほど贅沢なのである。
2012年5月27日日曜日
天国的に美味い青菜炒めの正体

今回の作業は、
○ 個人用の畑にエンサイとツルムラサキを植える。
○ 共同の畑に長寿草(一般には長命草と言われているもの)、里芋、サツマイモ(黄金千貫)、エンサイを植える。
さて、今回植えたエンサイとツルムラサキというのは私はよく知らない野菜で、どんな収穫物があるのかわからないため、なんだか設計図のないプラモデルを作っているような変な気分になった。
そこで帰宅してからこれらの野菜について調べてみると、ツルムラサキについては、やはり見たことも食べたこともない野菜であるらしく、少しがっかり。しかし、エンサイについて調べてみると、思ってもみなかったことが判明した。
私はカタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋がなぜか大好きなのだが、昔から、そういう店で出てくる天国的に美味い青菜炒めの素材がなんなのか、いつも疑問に思っていた。ニンニク風味で塩味のシンプルな青菜炒めなのだが、これがめちゃくちゃに美味いのである。家でも作ってみたいが、その「青菜」というのが何なのか分からない。小松菜ではないし、ほうれん草でもないし、この茎の感じが他の野菜と違う…と。
それがこのエンサイだったのである。エンサイ(蓊菜)は、ヨウサイ(蕹菜)、空心菜、トンツァイなどとも呼ばれ、名称すら一定していない新参者の野菜なので、何度も店で食べながら、その素材を正確に認識していなかったのだろう。また、そもそも私が好きな寂れた中華料理屋では、素材などメニューに書いているはずもなく、それはただ「清炒青菜」みたいに(中国語で)表示されているだけなので、長い間わからなかったのである。
それにしても、都会から田舎に移住してきて不便なことは山ほどあるが、気軽に「カタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋」に行けなくなってしまったのは相当に残念だ。東京には、そういう店がどこの駅前にもあったので、特にありがたいとも思わなかったが、いざこうして行けなくなるととても淋しい。
その代わり、今度は自分でエンサイを栽培して、天国的にとはいかなくても美味しい青菜炒めを作ってみたいと思う。もちろん、鹿児島にも探せばそういう寂れた中華料理屋はあるのかもしれないけれど、そういう店はわざわざ行ったら面白くないのだ。そういう店には、連れ合いと「何を食べようか」という話がまとまらなくて、辺りに良さそうな店もなくて、最後の手段として、妥協の産物として、しょうがなく入る感じがサイコーにいいのである。
※ 冒頭の画像は検索したら出てきた「台湾料理 味仙」さんのサイトからの転載だが、まさに私が好きな青菜炒めのイメージぴったりなので使わせてもらった。著作権的に問題があったらゴメンナサイ。
2012年5月23日水曜日
秋目のアコウ——集落の永遠のモニュメント
鑑真上陸の地、南さつま市坊津町秋目に、「絞め殺しの木」として知られるアコウの巨樹がある。
目通り幹囲9.3m、樹高11m。容貌魁偉で堂々としたアコウである。樹齢は500年とも1000年とも言われる。その横には墓石など江戸時代の石造物も多数佇立しており、夜にこれを見たら、相当に怖ろしい姿であると思われる。
このアコウは、大きさが飛び抜けているわけではないが、際だった特徴が2つある。
1つ目は、(写真には写っていないが)藤と共生していることである。季節になると美しい藤と面妖なアコウの競演を楽しむことができるという。残念ながら今年は藤の季節は終わっていたので、来年リベンジしたい。このように藤と共生するアコウは、非常に珍しい。
2つ目は、写真左下にあるように支柱根が門状に形成されており、その下に道が通っているということである。この道は、アコウの門をくぐって階段を上り、今では廃校となった秋目小学校跡地へと続く。在りし日は、小学生たちが毎日このアコウをくぐって登下校をしていたわけだ。子供たちは、この奇妙なアコウの門をどんな気持ちで通ったのだろう。怖かっただろうか、それともよき遊び友達として、木登りやかくれんぼを楽しんだのだろうか。
ちなみに、秋目小学校は昭和46年に大浦小学校に委託統合され消滅した。秋目集落は、その地形の急峻さ、交通の不便さから人口の減少が続き、空き屋が目立つとても寂しいところになりつつある。そんな人の営みをよそに、このアコウは魁偉な姿で旺盛に葉を茂らせ、未だ樹勢が衰える気配はない。この巨樹は、寂しくなりゆくこの集落の、永遠のモニュメントであるような気がした。
目通り幹囲9.3m、樹高11m。容貌魁偉で堂々としたアコウである。樹齢は500年とも1000年とも言われる。その横には墓石など江戸時代の石造物も多数佇立しており、夜にこれを見たら、相当に怖ろしい姿であると思われる。
このアコウは、大きさが飛び抜けているわけではないが、際だった特徴が2つある。
1つ目は、(写真には写っていないが)藤と共生していることである。季節になると美しい藤と面妖なアコウの競演を楽しむことができるという。残念ながら今年は藤の季節は終わっていたので、来年リベンジしたい。このように藤と共生するアコウは、非常に珍しい。
2つ目は、写真左下にあるように支柱根が門状に形成されており、その下に道が通っているということである。この道は、アコウの門をくぐって階段を上り、今では廃校となった秋目小学校跡地へと続く。在りし日は、小学生たちが毎日このアコウをくぐって登下校をしていたわけだ。子供たちは、この奇妙なアコウの門をどんな気持ちで通ったのだろう。怖かっただろうか、それともよき遊び友達として、木登りやかくれんぼを楽しんだのだろうか。
ちなみに、秋目小学校は昭和46年に大浦小学校に委託統合され消滅した。秋目集落は、その地形の急峻さ、交通の不便さから人口の減少が続き、空き屋が目立つとても寂しいところになりつつある。そんな人の営みをよそに、このアコウは魁偉な姿で旺盛に葉を茂らせ、未だ樹勢が衰える気配はない。この巨樹は、寂しくなりゆくこの集落の、永遠のモニュメントであるような気がした。
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