中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。
頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコトの陵墓の位置について考証した。言うまでもなく、この考証を行ったことが天皇への神代三陵遙拝の建白に繋がり、引いては後の明治7年の神代三陵の裁可へと結実していく。頼庸が鹿児島で行った神道国教化政策の仕上げにあたる部分が、この調査・考証であったといえる。
この調査がどような意図に行われたのか理解するため、それまでの神代三陵の考証の経緯を概観してみよう。
既に述べたように、神代三陵について初めてまとまった考察を行ったのは、薩摩藩の国学者の嚆矢白尾国柱であった。彼は寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵が全て薩摩に存在することを主張した。この主張は本居宣長の注目するところとなり、宣長はその著書『古事記伝(十七之巻)』において国柱の見解を引用、当時影響力があった松下見林の『前王廟陵記』の見解も合わせて考証し、結論として「かかれば神代の三ノ御陵は、大隅と薩摩とに在リて、日向ノ国にはあらず」とした。
ところが宣長にしても、神代三陵の細かい位置については国柱の説には全面的には賛成していない。例えば国柱は可愛山陵を「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」にあるとしたが、これに対し宣長は「なほ疑ヒなきにあらず」としている。さらに、高屋山上陵についても、国柱の説「大隅国肝属郡、内浦郷北方村国見岳」に対し、『日本書紀』の方角の記述と合わないことを挙げて「彼地(ソノトコロ)、霧島山より西ノ方にあたれりや、なほ尋ぬべし」とさらなる検討を催している。疑義を差し挟まなかったのは、「大隅国肝属郡、姤良郷上名村鵜戸の窟」にあるとされた吾平山上陵だけである。
ちなみに松下見林の『前王廟陵記』では、可愛(エ)と頴娃(エ)という地名の類似から可愛山陵は薩摩国頴娃郡にあったとし、鹿児島の地理に若干混乱があるものの、高屋山上陵については阿多郡(現・加世田)と肝属郡に共に「鷹屋郷」があることを紹介して位置を推測している。ともかくこの頃の神代三陵の位置については、盤根錯節としていて諸説が入り乱れていた。これが明治に向かって徐々に整理されていく。
継いで神代三陵の考証を行ったのが後醍院真柱である。真柱は文政10年(1827年)に20代で『神代山陵志』を著した。本書中、先に成った可愛山陵の考証を人づてに平田篤胤へ送ったところ、篤胤は真柱の説を大いに評価した。その説とは、可愛山陵は白尾国柱が主張する「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」ではなく、同じ水引郷の新田神宮がある「八幡山」であるとするものである。議論の細かい点は省くが、「八幡山」と「中山の巓(中の陵ともいう)」は同じ「亀山」という山塊の別の峰であり、真柱は白尾国柱の説に概ね賛同しつつ、その修正を図ったといえる。
篤胤はその著書『古史伝(第三十一巻)』において真柱の説を詳しく紹介し、国柱の説と比較考量した上で「三陵考(※白尾国柱著)には謂ゆる中の陵を御陵となしたるを三陵志(※後醍院真柱著)にはそを否(しからず)として直にその八幡山を御陵と定めたる是れも決めて然るべし」と述べて賛意を表した。真柱は、後日篤胤の門人となるが、この『神代三陵志』が業績として高く評価されていたため、信頼や待遇が殊の外厚かったという。
幕末以前の鹿児島の国学者を代表する二人である白尾国柱と後醍院真柱が共に神代三陵の考証を行い、またそれぞれ本居宣長と平田篤胤に認められたというのは決して偶然ではない。というのは、山陵の考証というものは、地方の国学者にとって中央の権威に認められるためのステップ的な役割を果たしていたからである。
明治に入ると、早くも明治元年(慶応4年)4月、神祇事務局は三雲藤一郎と三島通庸(みちつね)等に神代三陵の取り調べを命じ、二人は後醍院真柱を伴って巡察を行った。このことで真柱は、20代から執筆し準備してきた『神代山陵志』を改めて完成させ、明治2年10月には神祇官に提出している。
ところで先に述べたように、この段階では政府は神代三陵を治定しようとはしていなかったようである。しかし三雲と三島に調査を命じたのはどういう事情によるものだろうか。
実は、三雲藤一郎は鹿児島神宮の神職であり、三島通庸はいわゆる誠忠組の一員で西郷や大久保と近く、さらに鹿児島の廃仏毀釈運動を会計奉行として支え、島津忠義夫人の「神葬祭」を執り行った人物でもある。これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言った方がよさそうである。
このような経緯から、この段階で神代三陵の位置はほぼ次の通りに定説化した。
可愛山陵=新田神社のある八幡山——現・薩摩川内市
高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳——現・肝付町
吾平山上陵=上名村鵜戸の窟——現・鹿屋市
可愛山陵については議論もあったが、高屋山上陵や吾平山上陵については白尾国柱と後醍院真柱の見解が一致し、江戸時代からの崇敬もあったため、誰もがこのまま治定されると思っていただろう。
そこに異論を唱えたのが田中頼庸だった。
頼庸は明治4年正月、官命を受けて山之内時習と共に神代三陵の実地調査を行った。この山之内時習は、神葬祭の推進など薩摩の神道国教化政策における頼庸のパートナーだった人物である。そして本稿冒頭に述べたように、頼庸は『高屋山陵考』を著して高屋山上陵の位置が「内之浦の国見岳」ではなく、「姶良郡溝辺村神割岡」であることを力説した。
その理由を簡単に述べれば、『古事記』によれば御陵は「高千穂の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くにはホホデミのミコトを祀る鷹屋(たかや)神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの2点である。
しかし実は『高屋山陵考』が著される前に、神割岡では奇妙な調査が行われていた。後醍院真柱が『神代三陵志』を明治政府に提出した直後の明治3年正月、鹿児島藩庁は職員数名を派遣し、溝辺郷常備隊分隊長らと神割岡の発掘調査を行ったのである。そして、この時神割岡の頂上付近を発掘したところ古代の焼物等を発見したため、恐懼してそのまま発掘を中止したという。
この調査が奇妙なのは、まず「発掘調査」をしているにも関わらず、実際に遺物が出てくると「恐懼してそのまま発掘を中止」した点だ。これでは何のために発掘したのか分からない。普通の発掘であれば、遺物が出てきたらそこからが本番のはずである。そして2点目に、政府からの命を受けた真柱が僅か3ヶ月前に「高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳」との説を神祇官へ報告しているのに、そことは違う場所を高屋山上陵と見据えて調査を行っている点だ。
これは私の推測だが、この調査は当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸が行わせた可能性が高い。廃仏毀釈運動の実働隊となった常備隊が関係したことや、1年後に彼が『高屋山陵考』を著すことを考えても、この時期に神割岡の調査を必要とする人間は頼庸以外ほとんど考えられない。そして彼は高屋山上陵=神割岡説を補強するため発掘調査を行わせたものの、思惑とは違うものが出土したために急遽取りやめたのではないかと思う。
頼庸がその新説にこだわったのは、もちろん自説を確信していたということもあったろうが、山陵の考証が中央の国学者に認められるためのステップだったことを考えると、頼庸としても神代三陵の考証で名を上げようと意気込んでいたということがあるのだろう。事実『高屋山陵考』は彼の最初の学術的業績になった。今で言えば、頼庸にとって初めてのファースト・オーサー(第一著者)論文が『高屋山陵考』だったわけである。
高屋山上陵の位置については、もう一つ重要なエピソードがある。それは、まさに明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した際に向かっていたのは、先ほど挙げた定説化していた場所であって、高屋山上陵については頼庸説の神割岡ではなく、国見岳の方だったということだ。つまり明治5年の段階で、「高屋山上陵=国見岳」は内定していたと考えられる。
にもかかわらず、明治7年の神代三陵治定の裁可では、高屋山上陵は神割岡へと変更し確定されたのである。
遙拝、つまり遠くから拝んだだけにしても、天皇が公式に国見岳を高屋山上陵として扱い、国見岳へ対し金幣を共進しているという既成事実があったのに、明治7年の裁可では頼庸説の神割岡が採択された。
このことが示唆するのは、田中頼庸が政府内でも大きな影響力を持つようになったということだ。そもそも、微臣に過ぎない頼庸の建白が容れられ、天皇が神代三陵を遙拝したということを考えてみても、頼庸にはその肩書き以上の存在感があったように思われるのである。
頼庸は栄転していった明治政府で、どんな仕事を手がけ、なぜ大きな存在となっていったのだろうか。それを考えるためには、明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。
(つづく)
【参考文献】
『後醍院真柱の略歴』1928年、後醍院 良望 編
『古事記伝 第3巻(十七之巻〜二十四之巻)』1930年、本居宣長
『古史伝(第三十一巻)』 1887年、平田篤胤
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
溝辺の高屋山稜が新しすぎるのが分かりました。
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