2023年3月19日日曜日

公立高校の合格発表からのスケジュールがキツキツな問題について

鹿児島では、3月16日に公立高校の合否発表があった。うちでは受験生はいないが、これに関してちょっと思うことがあるので書いておきたい。

さて、鹿児島県での公立高校の合格発表がどのように行われるか知らない人向けに、最初に流れを書いておく。

1.公立高校の合格発表の前日に中学校の卒業式がある。
2.発表当日、受験生とその親(保護者)は自宅で待機する。不合格の場合、中学校の先生から午前中に電話で連絡がある。(合格の場合は電話はない)
3.不合格の場合、その日のうちに三者面談が行われて今後どうするか決める(私立高校に2校受かっている場合はどちらに行くか決めるなど。場合によっては浪人する)。
4.合格の場合、保護者とともに後日(通常翌日)行われる入学説明会に出て手続きを行う。

私はこの合格発表とその後の手続きの流れは、とにかく時間の余裕がなさ過ぎてよくないと思う。

ハッキリ言えば、「1週間、合格発表の日程を前倒しすることもできるでしょ!」と思う(卒業式も1週間早めたらよい。この時期の授業はどうせ形ばかりのもののことが多いし)。公立高校入試の日程に先んじて私立高校の入試が順次行われるので、単に1週間ずらすのは難しいかもしれない。それでも入試日程全体を1週間前倒しにするのは不可能ではないだろう。

なぜ1週間前倒しした方がいいかというと、合格発表から入学までの準備期間が少なく、手続きがすごく忙しいのである。例えば、公立高校合格の場合、普通は発表翌日に入学説明会があり、その日の午後に制服の採寸が行われる。鹿児島市内の高校の場合は山形屋などが会場になり何日間かかけて採寸する。これ自体慌ただしいが、制服を納品する方はもっと慌ただしいと思う。見込で製造しているだろうから、採寸してイチから造るわけではないと思うがそれにしても入学式前に間に合わせるのは綱渡り的だと思う。

それはともかく、逆に公立高校が不合格だった場合は、私立高校への入学金の振込があり、やはり入学説明会出席、制服採寸…となる。入学式までの短い間に手続きが詰め込まれているのだ。合格発表の翌日に入学説明会を行うという強行日程になっているのも、とにかく大急ぎであらゆる手続きをする必要があるためだ。

それでも、まだ親が専業主婦・主夫などで時間の融通がきく場合はいい。しかし共働きの場合は、少なくとも合格発表の日と、入学説明会の日の2日は保護者が休みを取る必要がある(卒業式も含めれば3日になる)。これは鹿児島では必要な休みとみなされているため、この休みに難色を示す職場は少ないと思われるが、それでも近接して2、3日休みを取るのは気が引ける。

さらに大変なのは保護者も人事異動で引っ越す場合である(単身赴任などで)。特に県職員(教職員含む)の場合は人事異動の告示が合格発表の数日後となっている。こうなると、子どもの入学手続き一切をしつつ、引っ越しの手配と準備に追われることになる。スケジュール帳は毎日To Doで埋め尽くされ、一つでも用事がバッティングすると調整が大変だ。

もし、合格発表の日程が1週間早まって、諸手続に数日間の余裕ができれば、保護者の負担はかなり軽減されはずだ。しかもそれは多くの県立高校にとってそれほど困難なことではない。特に鹿児島市以外の高校の場合、受験者数があまり多くないから、実際の採点は数日で終わっている(らしい)。入試の日程をずらさなくても、合格発表の日を前倒しにするのは容易なことだ。

では、なぜその容易なことができないのか。一番大きい理由は、これが人生で何度もあることではないから、保護者からの「日程がきつすぎる!」との声があんまり大きくないためだ。でもそれにしても、こういうキツキツの日程で苦労している人は結構多いのだ。そして学校側も、そういう事情は十分に理解していると思われる。なぜなら、高校の教職員にもわが子の高校入試を経験している人は多いからだ。

それなのに、こういう無理なスケジュールがいつまでもまかり通っているのは何故か。

結局のところ、それは県教育委員会(事務局)に人の心がないからだ、と私は思う。人の心があれば、「こういうスケジュールを組んだら苦労する人がいるだろうな」と思うだろうし、そう思えば少しでも楽できるように工夫するだろう。合格発表の日程だけでなく、教職員の人事異動も次年度の直前まで勤務地が明らかにされないことは多い。それどころか非常勤の場合は新年度3日前まで雇用が継続されるのか自体が不確定だったりする。こういうのも人の心があれば到底できないことだろう。

「人の心がない」なんて大げさな言い方かもしれない。だが少なくとも、現状のやり方を見る限り、県教委は、末端の人々の負担については気にも留めていないことは確かだ。気安く仕事を休めるような人、時間の自由がきくような人には別に問題なくても、休みが自由にとれない人、やるべきことで追われているような人にとって、合格発表の日程はほとんど「試練」なのだ。こういう弱い立場の人々に寄り添わないで、何が教育行政か、と思う。

鹿児島県の教育行政の筆頭に掲げられているのが、「お互いの人格を尊重し、豊かな心と健やかな体を育む教育の推進」である。であれば、合格発表からの手続きで忙殺される人の人格も尊重してしかるべきだ。

もちろん、教育行政には早急に取り組むべきもっと重要な課題は多い。しかしこういうところを変えようとする姿勢を見せることそのものが、未だに遅れた社会の仕組みが温存されている鹿児島に生きる若者に対する、最良の教育になるのではないかと思っている。

2023年3月17日金曜日

パブコメは事実上黙殺。鹿児島県公文書管理条例の最大の問題は…

今度の鹿児島県議会で「鹿児島県公文書管理条例」が制定された。

このブログでは昨年10月、この条例の骨子案のパブリックコメント(パブコメ)が行われたときに記事を書いた。

【参考】「鹿児島県公文書等管理条例(仮称)」に熱意はあるのか?(意見募集中)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

この記事では、この骨子案に「公文書館」の設置が含まれていないこと、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」ことを条例制定の趣旨としているにもかかわらず骨子案の政策形成過程が一切説明されていないこと、これまでの公文書管理に対する課題や反省が見られないことなどを指摘した。

この骨子案は素人の私が問題を感じるくらいだったので、専門家から見ると不足な点が多かったらしく、このパブコメには複数の専門家から厳しい意見が寄せられた。

なんでそんなことを知っているのかというと、私がいつもお世話になっている九大名誉教授の折田悦郎先生(川辺在住)が、本件について積極的に情報収集していて、折田先生の知る範囲での専門家の意見提出状況について教えてくださったのである。

ともかく、私が言っているだけではなく、この骨子案は専門家から見て不十分なものだったのは間違いない。では、この度の県議会に提出された「鹿児島県公文書管理条例」には、パブコメの意見がどのように反映されているのか?

【参考】鹿児島県公文書管理条例(鹿児島県公文書等の管理に関する条例)
https://www.pref.kagoshima.jp/ha01/gikai/teireikai/tyokkinn/r5_1kai/documents/104285_20230215113503-1.pdf

条例案を見たところ、少なくとも私の出した意見は反映されていない。そして専門家から提出された意見も、ほとんど容れられていないことは確実だ。なぜなら内容が基本的に骨子案から変更されていないからである。

はっきり言って、これではパブコメは黙殺されたに等しい。私の知る限り、専門家から出た意見は、至極まっとうで拒否する理由を考えるのが難しいようなものばかりだ。にも拘わらず県はそれをほとんど採用しなかった。なぜか。それはあのパブコメが形ばかりのもので、最初から県民の意見を聞く気はなかったからだろう。

そして、パブコメの結果を公表しないままに今回の県議会へ条例案を提出したのが一番失望した点である。本来なら、パブコメの結果をもって県議会への条例案提出に至るはずだ。県議としても、どのような意見が寄せられたかを知ることは審議にあたって重要な情報のはずである。ところが、パブコメで寄せられた意見が黙殺されただけでなく、それが県議会での審議にも生かされないまま、採決が行われてしまった。これでは何のためのパブコメだったのかと思わざるを得ない。

とはいえ、県としては次のような言い訳があるかもしれない。鹿児島県のパブリック・コメント制度では、「提出された意見の概要、提出された意見に対する県の考え方」を「計画等の決定後」に公表する、となっているのだから、条例が公布されてからパブコメ結果を公表するのが当然なのだ、と。

【参考】鹿児島県パブリック・コメント制度の概要
https://www.pref.kagoshima.jp/ab02/kohokocho/public/gaiyo/gaiyouindex.html

しかしそれは、パブコメにかけたものを議会に提出することを想定していない規定であり、その本質は「パブコメの結果を公表し、意見を不採用とした場合はその理由を説明すること」だと思う。本来なら県議会に条例案を提出するにあたって、「提出された意見の概要、提出された意見に対する県の考え方」が公表されることが至当だろう。

それはともかく、県が公文書管理条例に対するパブコメ結果を軽視したことだけは間違いない。パブコメで寄せられた意見を仮に全く受け入れなかったとしても、「これこれこういうわけでご意見は採用できませんでした」という説明が公表され、その上で県議会に条例案が提出されればずいぶんと印象は違ったと思う。それだったら、少なくともちゃんと言葉のキャッチボールが成立しているからだ。

今回はそういうやり取り自体が成立しなかった。これは意見が通らなかった以前の問題だ。鹿児島県は、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」つもりは本当にあるのだろうか。

そもそも、この条例の制定目的は第1条にこう書いてある。「(前略)県の有するその諸活動を現在及び将来の県民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。」だそうだ。だが、パブコメで提出された意見への対応すらマトモに説明しようともしないのに、将来の県民に説明する気があるようにはとても思えない。

私はパブコメの際には、この条例案の最大の問題は「公文書館」の設置が規定されていないことだと認識していた。しかし今は、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」とか「現在及び将来の県民に説明する責務が全うされるように」とか言葉では謳いながら、それをちっともやる気のない人が制定していることが最大の問題だと思えてならない。

鹿児島県庁には、県民との意思疎通を図りながら政策形成を行うという当然のことが行われる場所になってもらいたい。

【参考】徹底解説!公文書管理条例の意義と課題は?|NHK 鹿児島 WEB NEWS
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20230316/5050022348.html

2023年1月31日火曜日

読み聞かせ10年

毎晩の「読み聞かせ」をして10年以上になる。

しかし、下の子ももうすぐ小学校5年生。そろそろ「読み聞かせ」の終わりが見えてきた。

ここ何年かは、絵本ではなくて児童書の読み聞かせを行っている。世の中には、絵本の読み聞かせについての記事はいくらでもあり、おすすめの絵本の情報も氾濫しているが、児童書の読み聞かせについての記事は見たことがない。

そこで、誰かの参考になるとも思えないが、私が読み聞かせをしてきた本、特に児童書(絵本でない、字が中心の子どもの本)についてまとめてみたい。

さて、下の子が初めて絵本に興味を持ったのが、当時流行っていた「妖怪ウォッチ」の『オラ コマさんズラ』という絵本。毎晩、こればかり読んでいた。しかも何回も!

いろいろ名作絵本を読み聞かせしてはいたのに、こういう商業的なキャラクター絵本に惹かれるとは、子どもは思い通りにいかないものである。私も内心、「こんな下らない本じゃなくて、もっといい本に興味を持ってくれないかなあ」と思っていた。しかし、読み聞かせはあくまでも子どものためにやるものだ。名作だとか内容がいいとか関係なく、子どもがもう一度聞きたいと思う本を読んだらいいと思う。親にとっては苦痛もあるが、子どもはどんどん成長するのでほんの一時のことである。

実際、娘が『オラ コマさんズラ』に熱中していたのもふた月くらいのものではなかろうか。その後は普通の絵本を読むようになった。うちは「童話館ぶっくくらぶ」という毎月絵本が送られてくるサービスを使っていたので、基本的にはその定期便の絵本を読みつつ、親が気に入った絵本を追加するような感じで選書していた。

【参考】絵本の定期便 親と子の童話館ぶっくくらぶ
https://douwakan.co.jp/bookclub/

だが、先述の通り、オススメ絵本についてはいくらでも情報があるのでそれらの絵本についての話は全て割愛する。

そして、下の子の場合は割合早く(卒園くらいのタイミング)に絵のない児童書へ移行した。というのは、その時は親が気づいていなかったのだが、下の子は生まれつき遠視であまり絵本の絵が見えていなかったらしい(小学校に入って教科書の文字が読めない、ということで気づいた!)。もちろんお姉ちゃんのために児童書を読み聞かせしていた事情もあるが、遠視のため絵のない本の方がかえってわかりやすかったのだろうと今になってみると思う(悪いことをした…)。

児童書として最初に読み聞かせたのが、おざわとしお再話『日本の昔話 全5巻』(福音館書店)。

これは、日本各地に残る代表的な昔話を301話選び、脚色や文学的修辞を加えない原型のまま、シンプルでクリアーな(=子どもが聞いてわかる)現代の標準語によって表現(=再話)したものである。

再話者のおざわとしお(=小澤俊夫)さんは独文学者でグリム童話の専門家であり、日本各地で「昔話大学」を主宰してきた、まさに昔話の第一人者。読み聞かせをする日本の昔話の大系としては決定版的な存在だ。

これを毎晩、1~2話ずつ読んだ。全部で301話なので、1年弱で全5巻が読み終わる。これを2周半くらいしたと思う。日本の昔話なんて退屈だ、と思う人もいるかもしれないが、長い間、多くの人に語り継がれてきただけあって読み飽きるということはなく、特にこのシリーズは日本語の表現が非常に素直で、読んでいて気持ちがいい。これまで様々な絵本・児童書を読んできたが、言葉でひっかからない、ということにかけてはこれが一番である。

こうして日本の昔話に親しんでみると、今度は世界の昔話に興味が出てくる。そこで読んでみたのが矢崎源九郎編『子どもに聞かせる 世界の民話』。日本の昔話に親しんだ後で世界の昔話を読んでみると、一気に多様性が広がってとても面白かった。また、この本の日本語も読みやすく「子どもに聞かせる」と銘打っているだけはある。

なお、児童書の読み聞かせは「耳で聞いてわかる」ということが一番大事で、文学的な表現が使われていると急に理解度が下がる。かといって、「子どもは説明しないとわからないから」と思って説明的すぎるのもよくない。子どもは雰囲気で理解していくので説明するのは下策である。よい児童書は、飾らない素直な日本語で書いてあると思う。

さて、『子どもに聞かせる 世界の民話』は面白かったが、各地域の代表的な話だけでは少し物足りなかった。日本の昔話だって非常に多様であり、各国の昔話をもう少しいろいろ知りたくなってきた。

そこで手に取ったのが、「世界民話の旅」シリーズである。

これは『ギリシア・ペルシアの民話』『ドイツ・北欧の民話』『インド・南方アジアの民話』といった感じで、国よりは大きな広がりで世界の民話をまとめたものである。小澤俊夫さんがまとめた「世界の民話」(ぎょうせい)というシリーズもあるが、これは国ごとにまとめていて全部で30巻以上あるからとてもじゃないが読み聞かせはできない。ちょうどよい分量で読み聞かせられるのがこのシリーズである(でも絶版で入手が困難なのが難点)。

このシリーズの中で一番面白かったのが『ギリシア・ペルシアの民話』に収録された豪傑ロスタムの話!  フェルドウースィー『王書(シャー・ナーメ)』と言えば高校の世界史で習った人も多いだろうが、豪傑ロスタムの話がまさにこの『王書』なのである。もちろん子ども向けに簡略化されているところも多いものの、話の原型はかなりの程度保っている(岩波文庫版の『王書』と比べた)。

豪傑ロスタムの話といえば、本国イランでは誰しもいくらかは暗誦でき、お気に入りの場面があるほどの国民的口誦文学だそうだ。私もすっかりロスタムのファンになってしまった。日本では、桃太郎とか金太郎のような誰でも知る昔話の主人公はいても、こういう大叙事詩に謳われた国民的英雄はいない。

次に面白かったのが、インドネシアの昔話「カンチルの冒険」。これもいくつもの話がまとまったもので、福音館書店から『まめじかカンチルの冒険』として出版されている。マメジカとは、体重2キロくらいしかない偶蹄目の仲間だそうだ。この小さくか弱い鹿のカンチルが、持ち前の知恵と勇気で困難を乗り越えていく。しかも「弱いものが強いものを倒す」という一寸法師式のお話ばかりではなく、最後の方ではカンチルが自分のうぬぼれに気づくなど、長い話ならではの深みがある。どうやら私は長い話を何日もかけて読み聞かせするのが好きらしい。

なおこのシリーズは図書館の除籍本で手に入れたが、『中国・東南アジアの民話』『ソ連・東欧の民話』が手に入らなかったのが残念である。

こうして、昔話や伝説の読み聞かせを相当行ったのだが、実はグリム童話がまだ手つかずだった。そこで、同じく図書館の除籍本で手に入れていた「岩波 世界児童文学集」(の一部)を読み聞かせることにした。

グリム童話については、先述の小澤俊夫さんの専門なので「語るためのグリム童話 全7巻」という非常によいシリーズがある。しかしグリム童話だけで全7巻の読み聞かせをするのはさすがに骨が折れると感じ、「岩波 世界児童文学集」に入っていた相良守峰訳『グリム童話選』を読み聞かせた(これも図書館の除籍本)。

このシリーズで他に読んだのは、大畑末吉訳『アンデルセン童話選』、サカリアス・トペリウス作・永沢まき訳『星のひとみ』、イタロ・カルヴィーノ作・河島英昭訳『みどりの小鳥—イタリア民話選—』だったかと思う。

『アンデルセン童話選』『星のひとみ』は創作童話。昔話と創作童話では読み聞かせの調子がかなり違うと思う。読み聞かせには昔話が適していて、創作童話は子どもが自分で読むのがいいかもしれない。

ちなみに『星のひとみ』の作者トペリウスはフィンランドの作家であるが、この人はヘルシンキ大学の学長も務めた学者でもある。学長職を退いた後に子どものための物語を書くことに専心して、できあがったのが「トペリウス童話」である。トペリウス童話は日本ではあまり知られていないが結構面白い。

『みどりの小鳥』は、現代文学で有名なカルヴィーノが編纂したもの。「ドイツのグリム童話に匹敵するイタリアの民話集」をつくるため、すでに『まっぷたつの子爵』などを発表して新進の作家であったカルヴィーノに出版社から白羽の矢が立ったのだ。カルヴィーノは他の一切の作家活動を中止して2年間この仕事に没頭し、出来上がったのが200話からなる『イタリア民話集』。これは第二次世界大戦の敗戦後における、イタリアのアイデンティティを見直す運動の一つとして位置づけられる。『みどりの小鳥』はこれから34話を選んだものである。

この「岩波 世界児童文学集」は大人が読んでも面白い、というか大人こそ読んで面白い本もたくさん入っているので子どものためでなく自分用に手に入れるのもオススメである。

私も「世界民話の旅」を読んでいたころから、「読み聞かせはあくまでも子どものためにやるものだ」という原則はどこかへ飛んでいき、いつしか自分自身が面白いから読み聞かせをするようになっていた。

そして、童話だけではなく、科学的な読み物にもトライしたいと感じ、「科学発見シリーズ」を手に取った。

これは、日本ではSF作家として有名な科学作家アイザック・アシモフが子ども向けに書いたもの。原題の直訳は「…はいかにして発見されたか」で、科学の世界の重要な事項について、その発見の過程を描いた、いわば児童向け科学史のシリーズである。

実はこのシリーズは私の小学生の時の蔵書だ。でも自分が小学生の時は全20冊中3分の1くらいしか読めなかったと思う。小学生が自分で読むのはちょっと難しいシリーズかもしれない。しかし今回は読み聞かせなので全20巻を読破した。

40年前の本なので、さすがに古くなっているところがあるが(特に『恐竜ってなに?』は物足りない)、これは科学そのものではなく「科学史」を語るものなので普遍的な価値がある。そして科学にあまり関心がなくても、人間ドラマとして面白い。

ところで、最近の児童書では科学の本はあまり重厚なものが見当たらない。面白い図鑑や雑学的なもの(例えば『ざんねんないきもの事典』のような)はたくさんあるが、科学の基礎を体系的に取り上げたものは皆無といっていい。科学をテーマにした子どもの本として「たくさんのふしぎ傑作選」は優れたシリーズだが(これは絵本)、これも単発的な作品の集成だ。

科学の世界へのよい導入となるような、体系的な児童書、例えば「科学のアルバム」(天文・地学編、植物編、虫編、動物・鳥編などがある)とか、「カラー自然シリーズ」のような優れたシリーズを、今の時代にもつくってもらいたいものである。

【参考】科学のアルバム
http://bookage.main.jp/album.htm

というわけで、読み聞かせについては一般的な親より多く読んできた。でもその経験から言っても、読み聞かせをすると頭がよくなるとか、物知りになるとか、本を読むようになるとか、勉強が好きになるとか、そういうのはちょっとはあるとしても、たぶんあんまり関係ないと思う。そういうことを期待するのではなく、純粋に親子の楽しみとしてするのが一番だ。

私自身、読み聞かせを通じていろんな世界を知ることができた。10年以上続いてきた習慣なので、もうずっと続けたいくらいだが、子どもが大きくなったら読み聞かせはできない(実際、中学生の娘に読み聞かせをする…というのはナシだ)。わが子に読み聞かせできるのは思いのほか短い間なのだ。

残り少ない読み聞かせの時間を楽しみたい。


2023年1月25日水曜日

鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか

ボロクソに否定した会議のメンバーに。「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」という記事でお知らせしたように、私は鹿児島県文化協会の「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」に参加している。これまでに2回会合があった。

その会合では、鹿児島県文化協会を今後どうしていくか、どうあるべきかということを話し合うのだが、多くの委員から「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という発言があった。

これはなかなか特徴的なことで、その構成員自らが「我々って本当に必要なの?」と疑義を突き付ける組織はそうそうない。

しかしこうした問いかけがあるたびに、「やっぱり必要だよね」という論調に返っていくのもこの会議の特徴かもしれない。その理由は「交流や連携のためには広域組織が必要だから」と集約できる。しかし本当にそうなんだろうか。私が文化協会のメンバーではないからか、どうもここが腑に落ちない。

以下、前回の記事と重なる点もあるが改めて考えてみたい。

まず、市町村の文化協会(以下これを「単位文化協会」と呼ぶことにする)は、そもそも何のためにあるのかというと、最大の存在理由は地域の「文化祭」の開催である。

例えば、南さつま市の加世田では「加世田地域文化祭」が文化の日付近に開催される。単位文化協会の構成メンバーは、短歌の会、演劇団体、コーラスグループ、お茶やお花のグループ、伝統芸能継承グループ、日本舞踊の会などなどであるが、こうしたグループは単独での発表会を行って多くの観客を集めるのは難しいため、合同発表会として「文化祭」を開催するのである。

しかしここでポイントなのは、この「文化祭」は必ずしも単位文化協会の構成メンバーのみが出演するのではない、ということだ。例えば「加世田地域文化祭」では、地域の高校の書道部や吹奏楽部も出演する。また本部は地域外にある文化団体でも、参加を希望すればそれが受け入れられることが普通だ。単位文化協会は「文化祭」の実行委員会である、と考えたらいいかもしれない。

こうした単位文化協会が集まってできているのが、鹿児島県文化協会である。ただしここでも一つ注意が必要である。鹿児島県の各市町村に単位文化協会があるが、鹿児島市には単位文化協会は存在しない、ということだ(ただし合併前の旧町域にはある。吉田と郡山)。

なぜ鹿児島市にはないのか。私にはよくわからない。だが鹿児島市の場合は、同種の団体が割合に多いので、わざわざ異分野の文化団体と合同発表会を行う必要があまりなかった、ということなのかもしれない。発表会をしたいなら、異分野ではなく同分野でまとまればよいからだ。

例えば各地にあるコーラスサークルや少年少女コーラスのグループは「鹿児島県合唱連盟」を構成していて、年に一度宝山ホールで合同の「合唱祭」がある。鹿児島市の場合はこういう「文化団体連盟」の行う発表会が、他の市町村で単位文化協会が行う「文化祭」の代わりになっているのだろう。

なお、鹿児島市にも年に一度の「鹿児島市民文化祭」があるが、これは単一のイベントではなくていろいろな団体がそれぞれに行う発表(日程・場所もバラバラ)を便宜的に「鹿児島市民文化祭」と呼んでいるだけである。

さて、鹿児島市以外の市町村の文化団体は「文化団体連盟」に加入していないかというとそうでもなく、宝山ホールでの「合唱祭」には南さつま市少年少女合唱団も出演している。つまり鹿児島市以外の市町村の文化団体は、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入しているということになる。もちろん、どちらにも加入している団体、どちらかにしか加入していいない団体、そしてどちらにも加入せずに活動している団体もある。

そしてこの「文化団体連盟」も、鹿児島県文化協会の構成メンバーなのだ。県文化協会は、単位文化協会と文化団体連盟による連携協力のための互助組織である、といえる。

さらには、これらとは別に、単一の文化団体も若干ではあるが県文化協会に加入している。例えば、劇団「夢飛行プロジェクト」、郷土芸能中之町鉦踊り保存会、田の神を守る会といったものだ。

ややこしくなったのでこの状況を図示すると次の通りである。ただしこの図では、文化団体連盟・単位文化協会に加入している団体のみを描いているが、実際には加入していない団体は多い。

これまでの話をまとめると次のようになる。

<鹿児島県文化協会のメンバー>

  • 鹿児島県文化協会は(1)単位文化協会と(2)文化団体連盟(3)単一文化団体の3種のメンバーで構成されている。
  • 「単位文化協会」は各市町村の文化団体で構成されるが、鹿児島市にはない(旧町域を除く)。
  • 鹿児島市以外の市町村の文化団体では、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入している場合がある。

そして、県文化協会の主要な事業は何かというと、「県民文化フェスタ」の主催と、会誌「文化かごしま」の発行の2つ。「県民文化フェスタ」は県内全域を対象とした文化祭(場所は持ち回り)であり、「文化かごしま」は情報共有のための機関紙である。

なお、念のためいうが県文化協会は公的機関ではなく、県からのわずかな補助は受けているものの、基本的には互助団体である。

こうした状況を踏まえて、「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という質問を再考してみると、その答えは明らかである。それは「県文化協会は、加盟団体、つまり単位文化協会と文化団体連盟のために存在しており、それらが必要と思えば必要なのだ」ということになる。

「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」のメンバーは、基本的に加盟団体の代表で構成されている(私のような例外もいる)。よってその代表たちが必要と思うなら必要なんだろう。

が! では彼らはなぜ「県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という疑問を抱いたのだろか。その点をちょっと考えてみたい。

前回も書いたように、県文化協会は様々な課題を抱えている。加盟団体の減少、それに伴う収支の悪化、役員の高齢化といったことだ。しかしこうした課題があったとしても、加盟団体が必要と思うならば、「県文化協会を存続させていくためにどうすればいいのか」という議論になるはずで、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」という論調にはならないはずだ。

そのような発言が出るということは、結局は加盟団体自身が「県文化協会の存在意義がない」と感じていると思わざるをえない。それはおそらく、現在の県文化協会の実態が、会則に掲げられた「県民文化の振興に寄与することを目的とする」との理想と乖離しているためだ。

辛辣な言い方になるが、今の県文化協会は、高齢化した加盟団体の「生きがいづくり」のために存在しているようなところがあり、交流や連携というのもごく一部の関係者間にとどまる。これで県民文化の振興に寄与できているのか、そこが会議のメンバーが突き付けた本当の問いではないか。

とはいっても先述のように、組織の成り立ちから考えれば、県文化協会は広く社会にサービスを提供しなければならない団体ではなく、極端に言えばメンバーが満足すればそれでよい互助団体だ。

しかしこれまでは加盟団体も多く、活動がそれなりに盛り上がって社会になんらかの価値を提供できていた実感があったのだろう。それが、団体数の減少や高齢化によって活動が自己目的化し、何のためにやっているのかわからなくなってきた……といったところかと思う。いくら「県民文化の振興のため」といっても、自分たちの活動が実感として文化振興につながっていると思えなければ、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と思うようになってもしょうがない。

そしてその実感のなさの理由をさらに突き詰めていけば、単位文化協会はなんのためにあるのか、というところにまで行きつかざるを得ない。もちろん単位文化協会はたくさんあり、そのおかれた状況は様々だ。我が大浦町の文化協会が2021年、加盟団体数の減少から解散したように解散間際のところもあれば、市町村合併で大きくなり新たな活動を開始しているようなところもある。しかし総じていえば、やはり加盟団体数の減少、役員・メンバーの高齢化、収支の悪化、といったことが共通の課題となっており、活動が低調になっているのが現状だ。

では、単位文化協会の衰退によって県民文化は退潮にあるのだろうか? 

これは簡単に判断ができるようなことではないが、私の実感としては「県民文化」すなわち県民の文化的な活動は、郷土芸能を除いて決して退潮にはない。

というのは、今はインターネットを通じて文化的な活動をしている人がとてもたくさんいるからだ。YouTubeによってかつてないほど学びの敷居は低くなり、特に楽器の練習は容易となった(うまくなるかは別として)。文芸(短歌・俳句・詩・小説・エッセイ)は気軽に発表できるようになったし、発表というほどでなくても、絵・写真・書道などの作品をFacebookなどで見せている人は多い。手芸についても、アクセサリーや小物づくりなどは今多くの人がプロ並みのものを作り、Instagramを使って集客するマルシェなどで盛んに販売されている。そして生涯学習の面でも、多くの人が通信講座やインターネットを介した勉強で資格試験に果敢にトライし、キャリアアップにつなげている。

一方、単位文化協会を構成する団体は、かつての公民館講座を母体にしたものが多く、書道・華道・茶道・陶芸・踊り・伝統文芸など「旧来型の文化」に属するものがほとんどだ。こういう「旧来型の文化」が退潮にあるからといって、県民の文化活動自体が低調だとはとうてい言えない。

むしろ、県民の文化活動の中心とずれたところに単位文化協会があるから、自然と衰退していった、というのが本当のところではないだろうか。結論的にいうならば、単位文化協会はもはや県民文化を支える存在ではないのである。

そもそも、先ほど述べたように鹿児島市には単位文化協会は最初から存在しない。それでも、鹿児島市民が文化活動をするのに苦労しているという話は聞いたことがない。それだけでも、単位文化協会の存在価値に疑義を抱かせるのに十分だろう。もちろん地域の「文化祭」の実施は大切であるが、逆にいえば「文化祭」の実行委員会の機能さえあればよい。単位文化協会はなくてもいいのである。

だからこそ、その互助団体である県文化協会が「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と疑問を突き付けられるのだろう。県民文化を支えているわけでもないのに、自分たちは何のためにやっているのか、と感じてしまうのではないのか。

今回の会議=「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」は、あくまでも県文化協会の今後を考えるもので、単位文化協会をどうする、ということを話し合うためのものではない。しかし県文化協会の在り方を考えていくと、単位文化協会の在り方にまで踏み込んでいかざるを得ないと私は思う。この意見に対して、おそらく会議のメンバーは「そんなことを議論すると収拾がつかなくなる」というだろう。しかし課題の根幹はそこにあるのではないか。

私は、単位文化協会などなくしてしまえ! と言いたいわけではない。彼らも互助団体なのだから、私のような外野がとやかくいう権利はない。だが彼ら自身から存在意義の根幹にかかわる疑問が提出されている以上、「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」はそれに真正面から向き合うべきだと思うのだ。

根幹に触れずに価値ある議論ができるのか、私には疑問である。

(つづく)

2023年1月6日金曜日

耕作放棄地の増加は、それ自体は何の問題もない。真の問題は…

以前も書いたことがあるが、私は「農地利用最適化推進委員」というのをしている。農業委員会の下請けのような仕事である。

【参考記事】「農地利用最適化推進委員」になりました
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_18.html

その仕事の中に、農地の利用調査がある。これはなかなか大変な調査で、年に一度、担当地区内の全農地を一筆ごとに実見し、農地が利用されているか、それとも耕作放棄地になっているかを調査するものである。もちろん、この調査は全国で行われている。一筆ごとに日本の全農地の現況を調査するなんて大変なことだ。

しかしながら、この調査には何の意味もないと思う。

政策の基礎として統計データが重要なのは言うをまたない。それは確かだ。だが、農地の現況、特に耕作放棄の状況という情報にどんな意味があるのか、ということである。

「耕作放棄地の増加は日本の農業の大問題じゃないか!」という人もいるかもしれない。そんな人にとって、耕作放棄の現況は確かに知りたい情報だろう。

ところが、田畑が耕作放棄地になること自体は、全然問題でもなんでもないのである。

というのは、農地が放棄されて荒れてしまうのには、相応の理由があるからだ。うちの地域だとその理由は、(1)山奥にある・孤立している・傾斜が激しい(2)狭小・不整形・道路に面していない(3)湿地・排水が悪い・石がごろごろしている(4)土地の名義人が地元にいない・持ち主がわからない、といったところだ。

このうち、(4)はともかくとして、(1)~(3)のような農地は、今の時代はもはや耕作しない方が合理的なのだ。これは私の意見ではなくて、当の農水省の方針である。農水省は、日本の農業を大規模化・機械化・効率化したものに変えようと何十年も取り組んできた。それは、(1)~(3)のような効率の悪い農地ではなく、アクセスがよく、広大で真四角の、土壌改良された農地で農業をやるように誘導することに他ならなかった。

なにしろ、(1)~(3)のような農地は、人手がかかる割には生産性は低く、補助金を投入してもまともな利潤が生まれない。結局そういう場所は専業農家にとって足手まといであり、高度成長期には「3ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんによって行われる農業)」で維持されたものの、平成に入るくらいで徐々に放棄された。(2)(3)のような場所は、基盤整備事業によって広く四角く排水がちゃんとした農地に造成できるためある程度生まれ変わったが、(1)の土地はほとんど放棄されたと考えていい。もちろんそれは耕作放棄地の増加をもたらしたが、日本の農業全体としてみれば、確かに生産効率は上昇したのである。

こうしたことは何も農業に限らず商売でも同じことだ。例えば駅前やバスターミナルの前は商店街の一等地であったが、車社会になるとそうした場所はシャッター街となり、バイパス沿いの駐車場の広い店が繁盛するようになった。あるいは住宅街の中の小さな精肉店や八百屋はいつの間にかなくなって、大きなディスカウントスーパーが幅を利かせるようになった。もちろん、駅前がシャッター街になったり、個人商店が消えてしまったのは寂しいことではある。だが商売の適地や効率的な規模が変わってしまったのだからしょうがない。商売をやめてしまった人たちも、やっていけないから辞めただけのことなのだ。

これと同じように、農地にも時代ごとに適地や適正規模がある。農地は何が何でも維持すべきものではなく、移ろってよいものである。だいたい、今の日本の基幹産業は農業ではない。

だが農水省は、耕作放棄地=遊休農地(利用されていない農地)・荒廃農地(荒れた農地)の調査をかなりのコストをかけて実施してきた。それは、耕作放棄地が増えるのは問題であるという意識の下、耕作放棄率を減らす政策を行ってきたからである。

その結果どうなったか。

実は、耕作放棄率が減るような、登記上の手続きが行われるようになった。

具体的には、我々が行う農地の利用調査で耕作放棄地だと明らかになった場所の地目(土地の種類)を、「農地(田・畑)」から「山林」などに変更するという手続きが取られるようになったのである。

土地というのは、地目によって利用形態が決まっている。「田」「畑」「宅地」「山林」などだ。耕作放棄地というのは、このうち「田」「畑」など農地であるにもかかわらず、農地として利用されていない土地のことである。ということは、その土地の地目を例えば「山林」に変えてしまえば、現状を一切変更することなく、耕作放棄地が一筆減る、というわけなのだ。そこはもう、登記上は「農地」ではないのだから。

この方法を使って、利用されていない農地を全部「山林」に変えてしまえば、耕作放棄地は全国から一つもなくなってしまう。もちろん農地の除外はそんなに簡単ではなく、また実際にはそこまでのことはできない。しかしながら、実際に現場ではそのようなことが行われている。とはいっても、ここで農地から除外される土地は、少なくとも(1)〜(3)のような場所なので耕作したい人もおらず、この操作によって実態として農地が減るわけではない。つまり現に農地として扱われていないところを実態にあわせて除外しているだけだから、むしろ望ましいとさえいえる。

問題は、だったら、農地の利用調査には何の意味があるのか? ということだ。

農地の実態を知るのには確かに役立つ。でも知ってどうするのか? 地目を変えるだけならば、5年おきくらいにすれば十分なことだ。毎年やる必要はない。耕作放棄地があることを認識しても、そこを農地から除外するくらいしか打つ手立てがないなら、現況を知ってもしょうがないのだ。

しかし、これから耕作放棄地はもっとずっと増えると予想される。それは、いよいよ農家の数が少なくなってくるからで、きっと今後は(1)〜(4)ではなく、優良な農地なのにもかかわらず利用されない、という真の耕作放棄地が増えてくる。その時にどうするか。今のところ全く打つ手はない。農水省も新規就農者を増やそうとはしているが、その対策は焼け石に水のような規模だ。

農水省は、農家が法人化して大規模化し、土地を集約して機械化・合理化を進めれば農地の利用が可能であるかのようなことを言っているが(「人・農地プラン」→「地域計画」をつくれとの指示)、ものには限度というものがある。アメリカのように広大な土地があるわけではないのだから、新規就農者の増加が絶対的に必要だ、と現場の人間として思う。

もし田畑が耕作放棄地になることが問題だとしたら、それが耕作者の減少・担い手の不足を表しているからであり、真の問題は結局「後継者問題」なのである。

しかし農地調査には熱心だが、そういう真の対策には及び腰なのが、今の農政である。調査をやるなとはいわないが、やるならしっかりとした対策とセットでやるべきだ。

これは何も、私が言っているだけではない。少なくとも南さつま市の農業委員や農地最適化推進委員は、全員思っていることだと思う。

2022年12月31日土曜日

チラシくらい自由における場所が街には必要だ

今年もいろいろイベントを開催した。

10月に「儒学・国学・廃仏毀釈」というトークイベントを天文館図書館で、12月には「鹿児島磨崖仏巡礼 vol.5」を名山町のレトロフトで開催した。このほか「books & cafe そらまど」では不定期に「そらまどアカデミア」という講演会を始め、今年は3回開催した。

ありがたいことに、こうしたイベントではだいたい定員いっぱいのお申し込みがあるので、もしかしたら私は「人集めの上手い人、情報発信が得意な人」と思われているかもしれない。

だが私が一番苦手なのが、まさに集客であり情報発信なのだ。このブログや「南薩の田舎暮らし」のブログを見ている人は、その地味な内容を知っているだろうから、納得してくれるに違いない。

しかしそもそも、こうしたブログは集客にはあまり役立たない。というのは、私のブログ記事は閲覧数が平均して100くらいしかないからだ。Facebookは以前はより広くリーチしている実感があったが、最近は直接の知り合い以外には広がりを感じない。

一方、Twitterはより拡散の可能性があるものの、こちらは地縁よりも興味で繋がっていることが多いのでリアルのイベントでの集客力はあまりないように思う。そしてInstagramでの情報発信は写真の魅力に左右されすぎるので私には難しい。要するに、SNSでの情報発信はあんまり頼りにならない。

「そんなのお前のフォロワー数が少ないからだろ」と言われればそれまでだ。しっかりとコンセプトに沿ってアカウントを運営し、良質なフォロワーを多く獲得してきた人にとってSNSは絶大な力を発揮する。しかしそんなことは、普通の人がそうできることではない。いや、得意な人でもかなりの労力を要する。それにポッと出の若者には、これまでの積み上げが必要な手法は使えない。

そもそも、イベントというのは単発的なものである。「この人が鹿児島に来る機会があるから講演してもらおう」みたいなことで企画されるのがイベントの常だ。そうなった時に、内容よりもSNSの発信力、特にこれまでの積み上げが集客にものをいう現状はハードルが高いなと思う。

もちろん、インターネットもSNSもなかった時代に比べれば、情報発信や集客は格段にやりやすくなった。でも私が言いたいのは、ちょっと前のSNSに比べて情報の拡散が難しくなってきている実感がある、ということだ。

その理由はともかく、そうだとするならリアルの情報発信が大事だ、ということになる。伝統的な手段、つまりポスター、チラシ、知り合いに声をかける……といったことに取り組まなければならない。

ところがここで一つ問題がある。それなりに人通りがあり、ポスターやチラシをある程度自由に設置できる場所が、鹿児島には少ないのだ。

その数少ない場所のひとつが、マルヤガーデンズのD & Department 店頭にあるチラシ置き場である(冒頭写真)。ここには私自身大変お世話になっている。なにしろ、奥まった場所でなくて、店の顔となるフロント部分にチラシ置き場を設置してくれている。「消費者」に少しでもモノを売りつけようと迫り出してくる店が多い中で、こういういい場所を無料のチラシ置き場にしているのは店の見識の高さを感じる。

しかしこの前、あるチラシをここに置いてもらいに行ったら、「今後は内容を精査して、お店のコンセプトに合致するチラシだけに限定するかもしれません」とのことだった。どうやらここにチラシを置きたい人が多く、チラシがあふれかかっているために制限をかける必要に迫られているらしい。

そりゃそうだ、と思う。こんなにいい場所に無審査で(といってもお店の人が内容を確認してはいると思う)チラシを置かせてもらえるのは他にない。

ところで数年前、「マークメイザン」という施設が名山町にオープンした。ここは「クリエイティブ産業の成長のため、多角的に経済成長の手助けとなるネットワークを提供し、クリエイターのためのハブ施設」になることを目指しているそうだ。そんなわけで、ここにチラシを置いてもらえないか、オープン直後に話に行ったことがある。

すると、「置くことは可能だが、審査し決裁が必要」とのことだった。これはオープン直後のことなので今は変わっているかもしれないが、「そんなのクリエイティブでもなんでもない」とあきれてそれ以来足を運んでいない。創造性の最大の敵は、そういう官僚的なしくみなのである。

しかしこれはマークメイザンだけでなく、公共の場所では普通のことである。それどころか公共の施設にチラシを置かせてもらうには、たいてい行政関係の後援を要する。そしてそういう後援は、主催団体がしっかりした組織(組織規則がありメンバーが何人以上など)であることが最低条件になっている。こうなると、私のように個人で(あるいはせいぜい友人と)やるイベントには行政の後援を得ることは不可能なので、結局知り合いのつてを頼ってお店などに置いてもらうことになる。

つまり、最も力のない(お金もない)個人が行政の支援から外れてしまうという、お決まりのあの現象がこんなところでも起きてしまうのである。日本の行政は、ある程度組織化され形式的に整った団体には比較的緩い条件で支援が可能であるが、個人の場合はどんなにその内容が世間的に評価されるものでも相手にしない。内容よりも形式を重視するという官僚制が、ここでも幅を利かせているのだ。

……少し話が発散したが、私が言いたいのは、情報発信したい人がそれをやりやすいように、せめてチラシくらい自由における場所が街には必要だ、ということだ。

かつて、街にはビラやチラシが勝手に貼られていた時代がある。電話ボックスにいろんな小さなチラシが貼られていたなんて、今の若い人には想像がつかないだろう。しかしそうしたものは次第に「浄化」された。もちろんそれはよいことの方が多かった。しかしそれと並行して、私の感覚ではビラやチラシを置いたり貼ったりしてよいところも少なくなった気がする。昔は、街にもっと掲示板のような場所があったような。

今はそういう場所はインターネットが代替しているのだから、問題はないといえばない。だが先述のとおり、最近のインターネットは使いこなすのがかえって難しくなってきている。ポスターやチラシなど、リアルの力が大事になってきているのに、それが街から締め出されている現状があるのはいただけない。

本当は、D & Departmentのチラシ置き場のような場所を行政が作ればいい。きっと若い人の挑戦を後押しできる場所になると思う。費用も労力もさほどかからない。人が集まる公共施設の畳一畳分くらいを提供すればいいだけなのだから。

でも行政がすると、すぐに後援が、審査が、と官僚的な運営になってしまう。そうなると結局、ポッと出の若者には使えない。これはむしろ民間企業や通り会(商店街振興組合)がやる方がうまくいくかもしれない。

チラシ置き場の話くらいで大げさだなあ、と読者のみなさんは思うだろう。しかしそんな簡単なことすら、実行しているのは鹿児島ではD & Departmentだけなのだ。もちろんもっと小規模な店ではやっているところは多い。しかし繁華街にある大きな店ではここだけだと思う。それは先ほど書いたように、人通りのある場所に無料でチラシを置くスペースを作るのは、この厳しい経済状況の中では高い見識のいることだからである。

講演会、展示会、即売会、演奏会……そういう小さなイベントが、個人を飛躍させる出会いやきっかけになることは多い。その小さな挑戦を応援するために、多くの人が目にする場所にチラシを置けるようにするくらいの街でありたいものである。

2022年12月11日日曜日

南さつま市民会館を建て替えるなら、薩南病院跡地の利用と絡めては?

今、加世田にある「南さつま市民会館」を建て替える動きがあるのだという。

これは市役所周辺にある公共施設のひとつで、大きな講堂といくつかの研修室・展示スペース等で構成され、2階には教育委員会事務局が入っている。

建設された正確な年はわからないが、見た目でもわかるほど経年劣化しているため、建て替えが検討されているものと思われる。

施設の建て替えはまちづくりには大きなチャンスである。市民会館周辺を見回してみると、今けっこう問題がある。これを解決する建て替えになってもらいたいものである。

第一の問題は、駐車場が絶対的に不足していることである。市民会館の駐車場は、昔加世田川だったところを埋め立てて作った駐車場があるが、これがキャパ不足で、イベントの時などは横の車道に縦列駐車が並ぶ。市民会館の向かいには「ふれあいかせだ」があるが、こちらも駐車場は少ししかないので、両方の施設でイベントがある時は全然車が駐められない。

なにしろ南さつま市は公共交通機関が脆弱であるため、これらの施設を利用する場合はほとんど自家用車が必要だ。両施設の収容人数を考えると駐車場は今の倍くらい必要である。なお、大きなイベントの時には近くの加世田小学校横の駐車場も開放されるが、こちらは施設から600mほど離れている上、小学校の前の細い道路を通っていくため登下校時には危なくて使えない。やはり駐車場の増設は必要だ。

第二の問題は、市民会館と「ふれあいかせだ」という似たような施設が並んでいることだ。市民会館の講堂はフラットで、「ふれあいかせだ」にある「いにしへホール」はフラット+立体座席になっているという違いこそあれ、収容人数も似たようなものだし、市民会館がなくても困らないのではないかと思う。となると建て替え自体が無駄である。

この二点を考えると、市民会館は建て替えるのではなく、つぶして駐車場にするのが合理的だ、ということになる。

だがもうちょっと視野を広げてみると、別の考えが浮かぶ。というのは、今の南さつま市には薩南病院跡地の利用をどうするか、という懸案があるからだ。

県立薩南病院は、今は加世田から車で5分ちょっとの万世にある。それが老朽化のために加世田市街地に移転することになった。新薩南病院の稼働は2024年を予定しているそうだ。これで加世田中心部はさらに賑わうことになるだろう。

それはいいとして、万世の薩南病院跡はどうなるのか。南さつま市ではただでさえ加世田中心地への一極集中が進み、周辺がどんどん寂れてきている。県としてもまだ跡地利用については検討していないそうだが、昨今の県政の縮小傾向を考えると、跡地に新たな施設を県が建設することはまず考えられない。南さつま市が主体的に活用を考えていかないかぎり更地にして終わりであろう(隣接する海浜公園への編入が想定される)。

よって、市民会館を建て替えるのではなく、むしろ薩南病院跡地にそれに代わる施設を(できれば県と協力して)新たに建設する方がずっと意味があると思う。

ではどんな施設を建設するのがいいかというと、私は図書館を中心とした複合型コミュニティスペースがよいと思う。

というのは、南さつま市の図書館事情は貧弱なのだ。特に市民会館の隣にある加世田の図書館(南さつま市立図書館中央図書館)は、建物が小さすぎるという致命的な欠点がある。開架スペースと閲覧室が小さく、蔵書数は約7万5000冊しかない。これは、例えばお隣の日置市の中央図書館(伊集院)が約8万3000冊あるのと比べると見劣りする。そんなに大きな差ではないと思うかも知れないが、市全体で比べると、南さつま市は加世田以外には大きな図書館がないため総蔵書数が約13万冊なのに対し、日置市では約21万冊。総蔵書数では倍近い開きがあるのだ。ちなみに人口は日置市の方が1万人くらい多い。

しかし実際には、両市の図書館利用についてはこれ以上の差がある。なんと日置市民は、鹿児島市立図書館の本も借りることができるのである(鹿児島市が隣接自治体に図書館の広域利用を許可しているため)。鹿児島市立図書館の蔵書数は約146万冊。日置市民はこの大量の蔵書にアクセスできるのだ。南さつま市民がいかに図書館に恵まれていないかわかる。

また、最近は地方行政において図書館を中核としたまちづくりが注目されている。あの話題になったツタヤ図書館こと佐賀県武雄市の図書館は賛否両論あったが(個人的には邪道な図書館だと思う)まちづくりとしては成功事例に属する。その武雄市の人口が、日置市とほぼ同じの4万8000人だから、南さつま市にとっても参考になるだろう。

ともかく、図書館を中心として、市民がイベントやマルシェに活用できるスペースを設けた複合施設を作れば、南さつま市に新しい人の流れや活躍・挑戦の場ができるのではないかと思う。

ついでに言えば、鹿児島県としても南薩地区の施設に課題がないわけではない。まずは、加世田にある南薩地域振興局の合同庁舎が老朽化していることである。数年前の耐震化工事の実施により延命されているが、裏手にはプレハブの庁舎が存在している。さらに加世田保健所、南薩教育事務所も老朽化しており、特に加世田保健所は建物の構造上使い勝手がとても悪い(駐車場の立地など)。こうした施設のいくつかは、万世に集約させた方が維持管理コストも減り、鹿児島市から通勤してくる職員にとっては交通の便もよい。複合型施設の一部は県の庁舎にするのが一案である。

…と、いろいろ勝手なことを書いたが、実のところ市民会館の建て替えがどのような形になろうとも、ある一つの条件さえクリアすればいいと思っている。その条件とは「市民の声を聞いて決めること」である。何しろ”市民”会館である。他の行政施設だって市民の声を聞いて作って欲しいが、市民会館をどうするかについては、市民が主役であるべきだ。

市民会館の建て替えは、おそらくはまだ具体的な議論になってはいない。だが建物の老朽化を考えると早晩その必要はやってくる。さらには2024年には薩南病院移転が控えており、そのタイミングで県に有効な提案を持っていきたいものである。

南さつま市役所の腕の見せどころであろう。

【2022.12.12 追記】
上の書き方だと加世田の図書館を廃止するような印象になるが、加世田図書館は特に学習室利用を中心に需要があるので、それは残して分館にし、新たに本館を万世に建設する、という考えである。