縁あって、加世田を拠点とするNPO法人エコ・リンク・アソシエーションの下津代表理事にお会いした。
エコ・リンク・アソシエーションは、地域興し活動でもある野外アート展「万之瀬川アートプロジェクト」の実施を発端として生まれ、環境を軸とした農山漁村の活性化や青少年育成事業等に取り組んでいる団体である。
恒常的な活動の中心は、中高生の民泊(民家への宿泊)のコーディネートと南九州市森林馬事公苑の運営(指定管理者)のようだ。特に、南薩地域から始まった民泊は、鹿児島県全土に対象範囲を拡大するということで、鹿児島県全体を見据えた活動に育ちつつある。
アートプロジェクトを契機として始まった活動をNPO法人として形にし、それを徐々に発展させていったということで、大変興味深い話が聞けた。
下津さんは、以前は画廊(!)をやっておられたということで、芸術への造詣が深いのであろう。作られた資料の数々が、どれもセンスよくまとめられており、田舎のNPOが作った資料という感じが全くしない。また、アートプロジェクトの内容は未詳であるが、自然豊かな環境を生かしてアート展をしようという構想自体が素敵である。
手前勝手であるが、アートに深い関心を持つ一人として、このような活動には、ぜひ何らかの形で関与したいなあと思った次第である。
また、下津さん自身も非常に魅力的な方なので、今後、NPOの活動に協力する中で、いろいろと勉強させていただきたいと思う。とりあえず、民泊の受入をやってみることにして、説明会に出てみることにした。
2012年2月28日火曜日
2012年2月27日月曜日
台木の勢いに負けているポンカン

樹勢が弱い樹のほとんどは、いわゆる「台勝り」の状態にある。
「台勝り」というのは、写真のように、根元が盛り上がっているのでわかるのだが、一言で言えば、台木の樹勢に接ぎ木(穂木)が負けているのである。
柑橘類は一般的に接ぎ木で生育されている。つまり、根の方は地上部の木とは全く違う木(の根)になっていて、いわば2種類の木のキメラなのである。
接ぎ木する最も大きな目的は、収獲までの時間短縮である。「桃栗三年柿八年」という言葉があるように、一般に果樹は発芽から収穫までの時間が非常に長いのであるが、接ぎ木することによって早いものでは接ぎ木の翌年には収穫できるようになる。
他にも、接ぎ木は病害虫に強くなったり、痩せた土壌でも良果を収穫できたりするというメリットもあるが、デメリットもある。それは、別の樹種を人工的に繋ぎ合わせているため、樹種間の相性や樹勢の違いによって、地上部(穂木)と地下部(台木)のバランスが崩れやすくなることである。
「台勝り」とは、台木の樹勢が穂木の樹勢を上回っていることで、必要以上に根からの養分が吸収されることになる(と思う)。果樹は、「根から得た養分」と「葉で行う光合成による養分」の2つのバランスで実るものであるため、このバランスが崩れるのはマズイ。
しかし、よく分からないのは、台勝りが起こる原因である。(穂木の)樹勢が弱っているから台勝りになっているのか、それとも台勝りになっているから樹勢が弱っているのか、因果関係はどちらなのだろう。台勝りとは、穂木と台木の相性で起こると言われるが、相性だけの問題だけではなく、そこの環境(光量、気温、降水量など)にもよるのではないだろうか。
因果関係の方向が分からないということは、実際的な面だけで言えば、「うちのポンカン、台勝りになっているんだけど、どうすればいいんだろう?」というのが分からない。というわけで、もしいい方法をご存じの方がいたら教えて頂けたら有り難い。
【参考】キトロロギストXの記録
カンキツ研究者のブログですが、非常にためになります。以下の記事に接ぎ木のことが詳しく掲載されていました。
「カンキツは接ぎ木が基本です」
2012年2月26日日曜日
加世田にあるおしゃれなイタリアン「伊太利亜」
南さつま市加世田にある人気のイタリアン、「伊太利亜」へ行った。
「伊太利亜」は、いつもたくさんのお客さんで賑わっている人気店である。高い天井の洋風の建物は、とてもおしゃれで居心地がよく(正直、イタリア風なのかはよくわからないが…)、薪ストーブもサマになっている。
料理は、絶品! というわけではないけれど、セットメニューについてくるビュッフェが種類も豊富で気前がいいし、普通のビュッフェにはないドリアや自家製パンもあって、これだけでも来店する価値があると思う。もちろん、イタリアンのメニューは充実していて、店内の黒板にあるオススメはどれも食指が動くものだ。
また、ケーキのメニューが豊富で、今回は頼んでいないので伝聞だが、デザートも充実しているという。価格は、このあたりの相場としては安くはないが、都市部の基準からすればかなりリーズナブルである。
要は、手頃な価格で楽しめる、居心地のよいおしゃれなイタリアンなのだ。そういうわけで、店は連日女性客で賑わっている。田舎にはめずらしいおしゃれな店、なのかもしれないが、クオリティは決して都会の流行の店に引けを取らない。仮に、この店が東京にあったとしても、繁盛することは間違いないだろう。
特に女性にはオススメの店である。
ちなみに、セットメニューのドリンクで「ウインナコーヒー」が選択できるのが個人的にはかなり嬉しかった。
「伊太利亜」は、いつもたくさんのお客さんで賑わっている人気店である。高い天井の洋風の建物は、とてもおしゃれで居心地がよく(正直、イタリア風なのかはよくわからないが…)、薪ストーブもサマになっている。
料理は、絶品! というわけではないけれど、セットメニューについてくるビュッフェが種類も豊富で気前がいいし、普通のビュッフェにはないドリアや自家製パンもあって、これだけでも来店する価値があると思う。もちろん、イタリアンのメニューは充実していて、店内の黒板にあるオススメはどれも食指が動くものだ。
また、ケーキのメニューが豊富で、今回は頼んでいないので伝聞だが、デザートも充実しているという。価格は、このあたりの相場としては安くはないが、都市部の基準からすればかなりリーズナブルである。
要は、手頃な価格で楽しめる、居心地のよいおしゃれなイタリアンなのだ。そういうわけで、店は連日女性客で賑わっている。田舎にはめずらしいおしゃれな店、なのかもしれないが、クオリティは決して都会の流行の店に引けを取らない。仮に、この店が東京にあったとしても、繁盛することは間違いないだろう。
特に女性にはオススメの店である。
ちなみに、セットメニューのドリンクで「ウインナコーヒー」が選択できるのが個人的にはかなり嬉しかった。
2012年2月25日土曜日
ポンカンの剪定をしています

「なぜ切るのか、そのまま素直に伸ばしてやればいいではないか」と思うのが人情であろうが、剪定は非常に重要な仕事である。ポンカンに限らず、一般的に果樹は剪定を必要とし、それは施肥とともに最も重要な作業である。
剪定の第一目的は、樹を管理できる形に維持することにある。せっかく実が成っても、収獲できない高所にあっては意味がない。脚立で届く範囲に樹形を留めることは、商品として作物を作る場合には必須である。また、摘果の際のみならず、防虫剤等の散布においても、枝葉が高所まであれば散布が大変だし、また大量の薬品を必要とする。最低限の薬剤使用に留めるためにも、樹形を必要十分なものとすることは重要である。
第二の目的は、混みすぎた枝葉を空き、樹全体に光が当たるようにすることである。自然の木では、剪定されることがないにもかかわらず、効率的に日光を吸収する樹形になっているはずだが、なぜ栽培樹ではこのような作業が必要なのだろう。その最大の理由は、我々が収獲したい果実が、自然には存在しないほど大きく甘いものだからではないだろうか。つまり、自然状態では、小粒の数多くの果実を作るのに効率的な枝葉の構造となっているために、1つひとつの枝葉が必要とする光量が小さい。一方、大きく甘い果実を成らせるには、葉に多くの日光を必要とするために、枝葉を適当に除いてやるという行為が必要になってくる。また、原産地と栽培地の環境の違いというのもこの作業を必要とする理由の1つだと思う(ちなみに、ポンカンの原産地はインドである)。
第三の目的は、収穫量や樹勢の調整である。詳細は説明しないが、枝には役割分担があるので、それぞれの役割の数量バランスを変えることによって、いろいろな調整ができるのである。
剪定が必要な理由は上記のとおりだが、当然ながら剪定はしすぎるとよくない。なぜなら、果実は「根から得た養分」と「葉で行う光合成による養分」の2つのバランスで実るものだからである。剪定では、葉の数は減らせるが、根の方は不変なので、そのバランスが崩れてしまうのだ。だから、必要最低限の剪定に留めなくてはらない。剪定しすぎると、養分が樹の成長により使われることになるので、収穫量が減って樹が余計に成長することになる(この性質を利用して、ちょっと弱った樹などはたくさん剪定を行う)。
その、「必要最低限の剪定」というのがなかなか難しい。私の場合は、つい、切りすぎてしまう。樹形を整えることに気を取られているのかもしれない。 何度も遠くから樹形を見て、不要な枝はどれか、見極める。かっこよく言えば、「樹と対話する」。そのうちに、切りすぎてしまうのだ。対話がちゃんとできていないのだろう。
プロに言わせれば、剪定の作業にそんな時間をかけては商売にならない、という。私は、栽培初年度なので、熟練者の6倍くらい時間をかけてしまった…。来年からは、もっと効率化し、早く剪定できるようにならなければならない。しかし、粗雑になってしまわないように、今のうちから自戒しておこう。仮にも、命あるものの一部を切り捨てるのだから。
2012年2月24日金曜日
パワースポット金峰神社の奇木
鹿児島県の金峰山(きんぽうざん)の頂上付近に、金峰神社がある。
そして、境内には、大変不思議な木がある。社務所近くにあるその木は、根元付近で幹がぐるりと一回転している。
根元付近だけが非常に太く、大きく旋回してからは、太いけれども大木という感じではない木が普通に育っている。
残念ながら樹種は不明。どうしてこのように旋回して育ったのだろう。この異形からは、途中の様相が全く想像できない。
金峰山は、いわゆるパワースポットというものなわけだが、このような奇木も、神秘的な力でこうなったのだ、と思いたくなってしまう。
なお、金峰神社の境内には、他にも変な形の大木がたくさんあるのだが、一番の奇木といえば、この木だと思う。
ちなみに、金峰山というのは日本全国にある修験道の霊山であるが、鹿児島の金峰山も面白い歴史があるようなので、いずれ調べてみたい。
そして、境内には、大変不思議な木がある。社務所近くにあるその木は、根元付近で幹がぐるりと一回転している。
根元付近だけが非常に太く、大きく旋回してからは、太いけれども大木という感じではない木が普通に育っている。
残念ながら樹種は不明。どうしてこのように旋回して育ったのだろう。この異形からは、途中の様相が全く想像できない。
金峰山は、いわゆるパワースポットというものなわけだが、このような奇木も、神秘的な力でこうなったのだ、と思いたくなってしまう。
なお、金峰神社の境内には、他にも変な形の大木がたくさんあるのだが、一番の奇木といえば、この木だと思う。
ちなみに、金峰山というのは日本全国にある修験道の霊山であるが、鹿児島の金峰山も面白い歴史があるようなので、いずれ調べてみたい。
2012年2月22日水曜日
残してきた謎~蒲生町めぐり(その9)
約1ヶ月弱に及んだ蒲生町への滞在も遂に終わりとなった。
いろいろ見て回ったことについて、つい冗漫な文章を書いてしまったが、書き漏らしたことも多い。記事にできなかった点について、備忘として書いておきたい。
まず、「武家門」である。蒲生町は、「日本一の巨樹 蒲生の大クスと武家門の町」ということで武家門の存在を誇りとしているのであるが、私に藩政時代の建築の知識がないことで、どうもこれがよくわからない。「随分立派な門だなあ」という小学生レベルの感想しか湧かないのである。
この町にある門が、特殊なものなのか、それともありふれたものなおかすらわからない。石高によって形式が決まっていたそうだが、門の形式についても全くわからない。そういうわけで、記事にすることが出来なかった。
武士は、なぜこんな立派な門を作らなければならなかったのだろう。権威だ、見栄だ、といえばそれまでであるが、本当にそうなのだろうか? こんな基本的な疑問をも解決できずに時が過ぎてしまった。
次に、蒲生八幡神社に所蔵されている、多数の銅鏡と王面(おうめん)である。蒲生八幡神社には、百枚以上の銅鏡が奉納されているが、なぜ、銅鏡が神社に奉納されたのだろう? 何かの祈願だったのだと思うが、銅鏡を奉納することはかつて一般的だったのだろうか? そういった知識がなく、多数の銅鏡がここに存在している理由も意味もよくわからなかった。
また、王面は、もっと謎である。王面とは、伎楽面に似た大ぶりの面だが、何に使われたのか、そして蒲生八幡神社にこれが残っていることの意味はなんなのか、よく分からなかった。王面は、蒲生八幡神社だけでなく、南九州の寺社には他にも残っているものがあるので、今後機会があれば改めて調べてみたいと思う。
次に、蒲生氏の本城であった「蒲生城」。これに関しては、思うところもあるが、中世城郭としてはよく遺跡が残っていることや整備がしっかりされていることで、実は中世城郭のマニアにはそれなりに知られているようだ。そのためネットにも多くの記事があり、敢えて専門外の私が記事を書くまでもないと思ったので遠慮した。
そして最後に「漆の庚申塔」。蒲生には県内最古という庚申塔が漆地区に残っているということで、是非一見したかったのだが、これについては機会を逸して見逃してしまった。いつか、また蒲生に来た際に見てみたいと思う。庚申塔は、路傍の石のようなつまらない石塔に思われるが、実は、いろいろな謎が詰まっていて面白い。
おそらく、蒲生町にこんな長期滞在をすることは今後ないと思うので、蒲生に残してきた謎は、ほったらかしになってしまうと思うが、いつかまた、ここに戻ってきたい。そのときは、また新たな切り口でこの町を見られたらいいと思う。
ブログでは伝わらないことは承知の上だが、約1ヶ月間お世話になった蒲生町の方々に感謝したい。快く挨拶を交わしてくれた小学生や中学生のみんなにも。また、しばしば目を楽しませてくれた多くの猫たちにも。
いろいろ見て回ったことについて、つい冗漫な文章を書いてしまったが、書き漏らしたことも多い。記事にできなかった点について、備忘として書いておきたい。
まず、「武家門」である。蒲生町は、「日本一の巨樹 蒲生の大クスと武家門の町」ということで武家門の存在を誇りとしているのであるが、私に藩政時代の建築の知識がないことで、どうもこれがよくわからない。「随分立派な門だなあ」という小学生レベルの感想しか湧かないのである。
この町にある門が、特殊なものなのか、それともありふれたものなおかすらわからない。石高によって形式が決まっていたそうだが、門の形式についても全くわからない。そういうわけで、記事にすることが出来なかった。
武士は、なぜこんな立派な門を作らなければならなかったのだろう。権威だ、見栄だ、といえばそれまでであるが、本当にそうなのだろうか? こんな基本的な疑問をも解決できずに時が過ぎてしまった。
次に、蒲生八幡神社に所蔵されている、多数の銅鏡と王面(おうめん)である。蒲生八幡神社には、百枚以上の銅鏡が奉納されているが、なぜ、銅鏡が神社に奉納されたのだろう? 何かの祈願だったのだと思うが、銅鏡を奉納することはかつて一般的だったのだろうか? そういった知識がなく、多数の銅鏡がここに存在している理由も意味もよくわからなかった。
また、王面は、もっと謎である。王面とは、伎楽面に似た大ぶりの面だが、何に使われたのか、そして蒲生八幡神社にこれが残っていることの意味はなんなのか、よく分からなかった。王面は、蒲生八幡神社だけでなく、南九州の寺社には他にも残っているものがあるので、今後機会があれば改めて調べてみたいと思う。
次に、蒲生氏の本城であった「蒲生城」。これに関しては、思うところもあるが、中世城郭としてはよく遺跡が残っていることや整備がしっかりされていることで、実は中世城郭のマニアにはそれなりに知られているようだ。そのためネットにも多くの記事があり、敢えて専門外の私が記事を書くまでもないと思ったので遠慮した。
そして最後に「漆の庚申塔」。蒲生には県内最古という庚申塔が漆地区に残っているということで、是非一見したかったのだが、これについては機会を逸して見逃してしまった。いつか、また蒲生に来た際に見てみたいと思う。庚申塔は、路傍の石のようなつまらない石塔に思われるが、実は、いろいろな謎が詰まっていて面白い。
おそらく、蒲生町にこんな長期滞在をすることは今後ないと思うので、蒲生に残してきた謎は、ほったらかしになってしまうと思うが、いつかまた、ここに戻ってきたい。そのときは、また新たな切り口でこの町を見られたらいいと思う。
ブログでは伝わらないことは承知の上だが、約1ヶ月間お世話になった蒲生町の方々に感謝したい。快く挨拶を交わしてくれた小学生や中学生のみんなにも。また、しばしば目を楽しませてくれた多くの猫たちにも。
2012年2月21日火曜日
「伝統工芸最後の職人」の気持ち~蒲生町めぐり(その8)
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和紙一年分の梶を乾燥させている様子 |
蒲生では、島津久光の殖産政策により貧窮衆中らに和紙づくりが導入され、かつてその和紙は「蒲生和紙」という特産品だった。
薩摩藩では、武士の割合が他藩に比べて非常に高かったために、無禄の武士が多かった。特に郷士(城下ではなく地方に在住した下級武士)ではそうである。無禄ということは、今で言えば「給料がない」ということだから、生活の糧をなんとかして得なくてはならない。
そのため、郷士は農業をしたり、特産品を生産したりといろいろな職業を副業としたわけだが、ここ蒲生では、豊かな水と自然を生かして和紙製作が武士の副業となったわけである。
なお、蒲生和紙の特徴は、原料である。和紙の原料は、一般的には楮(コウゾ)や三椏(ミツマタ)であるが、蒲生和紙は梶(カジ)によって作られるのである。このあたりでは、梶がよく取れるらしい。
さて、小倉氏の工房を訪れたのは、「伝統工芸の最後の職人」というのはどんな気持ちで作っているのだろう、という興味からだった。
小倉氏は、10年ほど前に最後の蒲生和紙職人だった野村正二氏よりその技を引き継ぎ、ここ蒲生町で和紙製作を始めた。詳細は伺わなかったが、小倉氏は野村氏の親戚筋にあたるそうだ。
その際、やはり「自分がやらなければ蒲生和紙の伝統が途切れてしまう」という使命感のようなものがあったという。事実、小倉氏が引き継がなければ、「蒲生和紙」は歴史の中だけの存在となっていただろう。
今では、小倉氏の下に弟子入りを希望する方も多くいるらしい。しかし、全て断っているそうだ。理由は、半端な気持ちでやって欲しくないということ。もし本当に蒲生和紙の職人になるのであれば、弟子入りではなく、自分のように一から工房を開くほどの覚悟が欲しいのだという。また、チームで生産するに足る売り上げがあるか、という現実的な問題もある。
そして小倉氏は、はにかむように「私の人間性もあるんですけどね」と付け加えた。多くは語らなかったが、最後の伝統工芸の職人を受け継ぐ、というほどだから、かなり変わった人ではあるのだと思う。奇特な人がいなければ、維持できないのが今の多くの伝統工芸の実情なのではないだろうか。
小倉氏に、和紙作りで大変なことは何か、と尋ねてみた。それは、「様々な工程を一人でこなさなければならないこと」だという。蒲生和紙は10段階ほどの工程により生産されるが、かつてはそれぞれの工程に職人がいて、分業体制が出来ていた。また、分業を前提とした生産方法であるために、例えば「○○して直ちに××する」というようなことが、一人では難しいことも多い。
最後の職人であるために、小倉氏はかつては分業されていた様々な工程を一人でこなさざるを得ないのである。今、各地で「伝統工芸○○の最後の職人」となってしまった人がいるのだと思うが、同じような苦労を皆しているのかもしれない。
私の居住する南さつま市にも、「薩摩型和舟」の吉行 昭(よけ あきら)氏や「加世田鍛冶」の阿久根 丈夫氏といった、80代となった伝統工芸最後の職人がいらっしゃるのである。この2つは、あと10年もすれば歴史の中だけの存在になってしまう可能性が大きいが、地元の人間としては、なんとか残って欲しいと思う。
しかし、小倉氏は言う。「でも、なくなったらなくなったで、もうしょうがないと思ってます」。伝統工芸を残さなければ、という使命感とこの言葉は、一見矛盾する。しかし、生命維持装置で延命された「伝統工芸」に意味はないということなのかもしれない。社会の中で生かされてこそ、職人の技は生きるのである。技は、過去を思い出してもらうために、存在しているのではない。
蒲生和紙は、現代的なアレンジがほどこされ、物産館でもおしゃれに売られており、現代の社会で生かされているように見える。小倉氏は、「なくなってしまったらしょうがない」というが、私は、そういう工夫を各地の人々がするならば、長く受け継がれてきた技の価値は、今の社会でも大きいのだと信じている。
【補足】
小倉氏を「蒲生和紙の最後の職人」と書いたが、蒲生には、もう一人和紙を作っている方がいる。1994年に蒲生に移り住み和紙ギャラリーをオープンさせた北海道出身の野田和信氏である。野田氏はデザイン和紙(タペストリーなど)や版画を作っており、梶を原料とした和紙製作を行っているらしいが、伝統的な蒲生和紙の製法で製作されているが未確認で、また野田氏は職人というよりはアーティストということのようなので、一応、小倉氏を「最後の職人」とさせていただいた。野田氏が蒲生和紙職人を自称されているとしたら、上記の記事は「最後の2人」に訂正させていただくとともに、野田氏にお詫びしたい。
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